※生前を捏造していますご注意ください



い事をしたら地獄に堕ちるという。こどもごころに、その悪い事というのはどのくらいのモノを指すんだろうと思った。
良い行いをすれば天国へいけるらしい。黒や赤といった暗くおどろおどろしい色彩で描かれる地の底と、白を基調とした光輝くまばゆい世界である空の上。分かりやすく善悪のイメージが分かれている。
初めてその言葉を言われた幼少のみぎり、友達とボール遊びをしていたら球体が綺麗に目測を誤って、知らない人の家の窓を割ってしまい叱られた時に言われて、もうこれで地獄いきは確定なんだろうかと思ったらそうでもないらしい。
それから十数年経っても未だに基準は謎のままだ。

知らない街で暮らしてみたくて引越したそこで、無事にこじんまりとした小売店で雇ってもらえ新たな生活にも慣れて落ちついてきた頃。初老の店長はわたしに店番を任せて、友人達とチェスをしに出掛けて行く事も多くなっていた。煙草やジュース、宝くじにお菓子、どうでもいい雑貨といったものが小さな店内に並ぶここは土地持ちの店長による暇潰しみたいな店なので、基本客もまばらだ。ショーケースのカウンターの内側で椅子に座って、雑誌を眺めていても何も問題がない。ほどほどに大きな街の片隅で、地味なそこは退屈で平和だった。
その日も夕暮れ時、いかにもヤンチャ盛りのロックな格好をした高校生くらいの男の子に、ガムとゴムを売って以降閑古鳥が鳴いていた。今日は店長ちょっと呑んでくるとか言っていたから、閉店時間の二十一時まではあと少し。適当に買っておいた夕食もカウンター内で済ませて、もうお客さん来ないだろうなとちょっと欠伸とかしていた頃に、不意に店のドアにつけられたベルがチリンと鳴った。店長が帰ってきただろうかと思って顔を上げたらお客さんだった。
いらっしゃいませを言いながら、知らないお客さんだと思った。初めての客商売で、思ったより来店する人間の顔は覚えられるものだと実感していた中で、そのコートの人物は確かに初見だった。
もう外は真っ暗なのに店内をゆるりと見渡す目元はサングラスで覆われている。そうしてコツコツと音を立てて真っ直ぐこちらへ歩んでくる。カウンター越しに立つと身長の高さが際立つようだった。

「煙草くれよ」

作り物みたいに上がった口角が開いて、言葉と一緒にわたしの背後を指差す。どこか耳殻をヤスリで撫でられたような気分になる声音だった。

「あ、はい、えっと……こちらでよろしいでしょうか?」

しなやかに長い指先の示す方を振り向いて、たぶんこれかなと思った銘柄を手にとり差し出せば「アア」短く首肯された。ほっとしながらレジを打つ。吸い込んだ空気に、甘く苦い香りがして目前の男のものなのだろうと直ぐに納得した。よく似合っている匂いだったからだ。
値段を告げれば無造作にコートのポケットから小銭が取り出されて、目視でもピッタリだと分かる。

「ありがとうございました」

慣れた店員スマイルで見送ろうとしたのに、男はわたしの顔を眺めるだけで立ち去らない。まだ何かあっただろうかと不思議がっていれば、フフ、うさんくさい口元の隙間から吐息のような笑いがこぼれた。
そうして、なんで笑われたのか意味が分からないで瞬くわたしを尻目に「ナマエは?」と問うてくるのでおとなしく名乗る。

「ンッフフ……フ、ナマエ、ナマエなぁ」

何か納得したように舌の上で転がされる名前は飴玉みたいで、なんだか自分のものなのに変な感じがした。

次の日、店長と一緒に新商品の棚を作り直している時に、昨夜の特徴的な客の事を何の気なしに語れば、それはお前ヴァレンティノだぞと慄かれた。どちらさまですかと問えばアングラのクソヤバ権力者らしい。言われてみれば確かにその辺の会社員じゃないだろうなという見目だったと思い出す。こんなボロい店に何の用だよとぶつくさ言う店長に、常連でもなければもしかして店自体に初見の客だった可能性を思った。
どれだけヤバいか散々語られた数日後に、その日も店長の留守のタイミングでするりと開いたドアをコートの長身が潜るのを見てしまった。いらっしゃいませ。何を思う前に口から滑り出るので、接客業も板についたものだ。自分で褒めていれば、やっぱりカウンターまでゆっくりと、しかし狭い店内の上に長身はコンパスも長いのであっという間に辿り着いて。

「煙草」
「はい」

二度目だというのに初見より簡略化されてけれど、インパクトは抜群だったので前回の銘柄は覚えてしまっていた。
高くも安くもないけど、あんまり見かけた事がない気がする銘柄。どんな味がするのだろう。嗜まないわたしの鼻には、目前の男から香るほろ苦いそれが煙なのだろうと認識しても、香水も入り混じっていそうで正しくはないのだろうとも思う。
お金と煙草を物々交換して、チーン、レジの音だけがどこか場違いだ。
ありがとうございました。笑顔で言うわたしを見下ろして嗤っている。嘲笑されているというのがまざまざと理解出来る口角の上げ方はいっそ器用だ。

「健康的だなぁ」
「え」
「煙草も吸わねえ、酒も呑まねえ、ヤクなんざもってのほかってツラだ」
「はあ……」

なんだろう。品定めでもされている?臓器でも売り飛ばされる?別に借金もしていないのに。お酒はちょっとだけ呑みますよと思いつつも返答に困って、へらと愛想笑いをしてしまえば、やっぱり嗤われた。

そうやって、まるで偶にだけ姿を見せる野良猫みたいに時折するりと店のドアを潜る彼はわたしにとってはすっかり常連となっていた。店長の前には現れないらしい。いつも煙草を一箱だけ買って、二、三とりとめもない会話をして去っていく。

「あ、良かったらこれどうぞ」

常連さんとか、カートンで買っていくお客さんへ渡すライターを煙草の上に乗せれば、ほんの僅か眉が上がる。綺麗に片方だけ。本当に器用だ。思って眺めていれば、フフフフフと愉しげに嗤われた。常に笑みを貼り付けたようなおもてで、口端がより吊り上がる。

「要りませんでしたか?」
「いいや、貰っておこう」

金の輪のギラつく長い指が、箱ごと攫っていった。そこでようやく、こんなチープで安っぽいライター似合わないなと気付いた。

「どうした?」
「あ、いえ、ヴァレンティノさんならちゃんとしたライター持ってますよねって、今思い至ったとこです」

すみませんと謝罪すればより嗤われた。クツクツと咽喉の奥に悪意を隠しているような、ちらと蛇の舌のように見せているような危険さがいつもそこにはあった。

「ンッフフ、水臭い。俺の事を知ってたのか?」
「前に店長から教えてもらいました」
「”オシエテモライマシタ”ねぇ……ッフフ、それで?」
「絶対近づいちゃ駄目な危険人物だと」
「ハハハハハアッ!」

真面目に答えたのに哄笑された。わたしとヴァレンティノさんしかいない店内でよく響く。いつも楽しそうで凄い。ひとしきり笑ってから「じゃあ、また来るぜ」と言って踵を返した背にありがとうございましたとお決まりの文句。店長に向こうから近づいてくるのは避けようがないんですがどうしたらいいですかねと訊いても、きっと名案は返ってこないだろう事は明白だった。
煙草一個ぶん売り上げに貢献してくれるヴァレンティノさんは流石に頭がいいので、会話は楽しい。きっとわたしの平凡に生きてきた脳では想像もつかない“悪い事”をしているんだろうと思っても、客と店員という間にあるカウンターぶんの距離は今のところ守られていた。いかにもお金持ってない店員ひとり、路傍の石くらいに興味はないのだろう。それが良いか悪いかで言えば圧倒的に前者だった。
気付けばハロウィーンが過ぎ去って、じわじわとクリスマスの季節。情緒のない店長のおかげでお店は季節の飾り付けなんてされないけど、一応仕入れてあったカボチャの玩具とかにはぺたりとセール品の値札を上から貼っていれば、背後でお客さんの来た気配。いらっしゃいませー。間延びしたわたしの声に、フフフッ、特徴的な笑声が返ってくる。

「どうした、珍しいなぁ?ちゃあんと仕事してるじゃねえか」
「いつもしてますよ」

しゃがんで作業している背後に立たれて、ちょっと視界が暗くなる。光源をバックにしていないのに、影のうちにすっぽり覆われたかのようだった。

「こんばんは、ヴァレンティノさん。ハッピーハロウィーン!トリック・オア・トリート」
「終わっただろ」
「じゃあメリークリスマスで」
「フフフッ、気の早い事だ」

手に持ったカボチャを頭上に掲げれば笑みを含みつつもすげない。ならと隣に並ぶクリスマスツリーが閉じ込められたスノードームを揺らしても、肩のすくめられる気配がするだけだった。おとなしく立ち上がってカウンターの内側へ入ると、いつもの煙草を手にとる。そこでそういえば彼以外にこの銘柄を買う人はいないと思い出した。煙草を買いにくるお客さんはみんなそれぞれ違っていて、意外と被らないのだ。

「ヴァレンティノさんは信心深くなさそうですよね」
「さあて、どうだろうなぁ」
「じゃあ、救いを求める子羊にはどうします?」
「ハハハッ、高値で薬を売りつけてやるさ」
「ほらー」

だめじゃん。思っても「なあに、手軽に天国見せてやるよ」とてもとても悪い顔で嗤っているだけだ。ハリボテで出来た手軽な天国の代償はどれだけで、その表情のまま何人を天国という名の地獄へ堕としたんだろう。薮だと判断して突くのはやめる。蛇よりもっと恐ろしいものが出る気しかしなかった。

「あ、そうだ。どのくらい悪い事したら地獄に堕ちると思います?」

代わりに謎のままの基準の答えを訊ねてみる。わたしの質問にヴァレンティノさんは珍しく即答しなかった。

「ナマエ、お前が堕ちねえ事だけは確かだろうよ」

ややあってから、ゆったりと口の両端を少しだけ緩めて、紫煙のように言葉を吐き出した。
馬鹿にされているのか褒められているのか。これもきっと前者だ。教養のある人物からの回答に、そうなのだろうかと疑問よりも納得が勝る。この地獄堕ち確定であろう極悪人の言葉は、いつも相手を煙にまいて不誠実だというのに不思議な魅力と説得力があった。こういうのをカリスマと言うのだろう。
思っている間に、カウンターに置いてあるナッツバーが煙草の上に重ねられる。珍しい。指摘せずにレジへ通して、お会計。お菓子と煙草を手にとって、カラフルなパッケージだけが差し出される。

「え」
「トリートさ」

それともイタズラしてくれんのか?と凄まれて慌てて受け取ったら、存分に揶揄われた。じゃあ大事に食べますねと言ったらより笑われた。




この街で一番どころではない悪人とは、仕事先以外では会った事はおろか姿を見かけた事もなかった。一応同じ街に住んでいてしかし、確かに別世界の住人であるという事なのだろう。彼がなんの気まぐれで店にやってきているのかは不明だし、それが終わればぷっつり糸を断つように接点がなくなる事は分かりきっていた。
他の店に買い物しに行った時につい煙草の棚を見ても、ヴァレンティノさんの買っていく銘柄はちょっとマイナーなのであったりなかったり。でも何軒かでは見かけている。もし目当てがわたしであったとしても、彼の言動からそういったようなものは感じなかった。せいぜい、ちょっと毛色の違うオモチャを気まぐれに弄んでいる程度だあれは。
そのうちに、この街に越してきてからはじめてのクリスマスシーズン。至る所に飾り付けがされていて華やかで煌びやかで、それだけで心躍るようだった。別にひとりであっても問題ないというか、普通に当日も店番の予定が入っている。店長からは色気がねえなと呆れられても、その辺にクリスマスを一緒に過ごすような都合のいい恋は落ちていないのだから仕方ない。
店長は気心知れた友人達とパーッと騒ぐらしい。わたしより余程謳歌している。なのでクリスマス当日の店番はチキン買ってシャンパン開けていいですかって訊いたら、ピザでもとっちまえとお札を握らせてくれた。やった、と喜んでそれだけでルンルンで聖人の誕生日を迎えた。
寒くなってから引っ張り出されてきたストーブの前で暖をとりつつ、いつもの二割マシでゴム売れたのでお盛んだと性夜を思う。あとはいつもより酔っ払いが多いのでちょっと面倒だった。
既に窓から見える店の外は真っ暗で、店内の光の届く範囲で粉雪がちらついている。帰り道がとても寒そうだ。余裕こいていたせいで、夕方ピザ屋に電話したらあまりに繁忙期過ぎて届くのだいぶ遅そうだったから諦めた。完全にピザの口だったのにと嘆く胃を冷めたチキンで慰めた。
後日空いている時にでも頼もうと思い直して、今日は店長遅いそうなので二十一時には黙々と店じまい。鍵を閉めて、シャッター下ろして完璧だ。明日は定休日なので、明後日鍵を忘れないようにしないといけない。
思って、冷たい夜風に鼻までマフラーへ埋めながら大通りだというのに人気のない道を歩く。きっとみんな家の中、暖かいオレンジの灯りのもとクリスマスを祝っているのだろう。帽子も被ってくればよかった。あっという間に凍てついた耳が痛い。ここ数日散々聴いたクリスマスソングを口ずさんでいれば、車通りも少ない中わたしを追い越していった背の低い高級車が、緩やかに止まる。信号でもないのにと一応ちょっと離れつつ、いざとなったらダッシュでとりあえず小道に入らなければと思っていれば、下がった窓から現れたのは見慣れた顔。

「あ」
「ンッフフ、仕事帰りかい、お嬢さん」

ヴァレンティノさん。思ったまま名を呼べばより笑われる。

「こんばんは。あ、メリークリスマス!」
「アア」

今日は当日だしと言ってもやっぱりすげない。しかし高級車似合う。つい眺めていれば「乗れよ」ドアが開く。

「こんな日まで仕事の哀れな独り身を労ってやるよ」

口調はどこまでも揶揄うもので、だけど、しかし、だがしかし、流石に戸惑われる。乗ったら駄目なやつだって絶対。そう思うのに「フフフッ、なあ、どうした?」しなやかな指が誘うように差し出されて、サングラスの奥で双眸が細められた気がして、わたしでも察してしまう。これ、返事はイエスかハイしか求められていないやつだって。絶対的強者ムーブに勝てる要素なんてなかったので、しがない凡人はノーという勇気すら持てなかったけど、これは仕方ないって言い訳しながら車へ乗り込んだ。
しかしヴァレンティノさんは普段通りのトーンの会話をしてくるだけで、それは連れられたクラブの個室に通されても特に変わらなかった。これVIPルーム的なやつではと慄いても、きっと自分だけだと一生入る事のない場所だと思い直す事にした。
絶対お高いワインだとお値段怖がっても、グラスに注がれた赤いそれは想像以上に飲みやすくて驚いた。

「すごい!美味しい!」
「飲ませがいのねえ感想だなぁ」
「すみません。でも、今まで飲んだのなんだったんだろって思ってます」

ちびちび舐めるように味わっていれば貧乏くせえとなじられる。だって庶民ですので。思っていればグラスになみなみに足されて焦る。ワイングラスにワインってこんな注ぎ方しないものでは?内心悲鳴をあげながらも溢れそうなそれをとりあえず安全な水位まで下げるしかない。ぐびぐび飲んだら、グラスの向こうで犯人は酷く楽しげに笑っていた。わたしで遊んで何がそんなに楽しいのだろう。構ってくる理由は最初からよく分からないままだ。オモチャなんてよりどりみどりだろうに。
お腹の中が今お幾らになってるんだろうともう考えるのをやめた頃合いには、わたしも程々に酔っ払っていた。楽しい気分でくすくす笑っていても咎められない。むしろより愉しげに笑みを深めて「ンッフフ、なあ、ナマエ。天国にいきたいか?」などと急にふってくる。

「天国ですかあ?あ、手軽なのはやですよ」
「ハハハアッ!安心しろ、比喩じゃねえさ」
「んー、ん、まあ、天国って楽そうですし」

地獄よりはやっぱりいいんじゃないですかね。むしろ積極的に地獄へ堕ちたがる人の方が少ないのではないだろうか。誰しも救われたい、まではいかずとも幸福で楽な方がいいはずだ。地獄はどうしても苦しそうなイメージしかないし。アルコールの回った脳でとりとめもなく考えていれば、ヴァレンティノさんがグラスをテーブルに置く。コツ、という音がまるで彼の靴音のように嫌に耳に響いた。

「フフフッ、寂しい事を言うなぁ?俺がいねえってのに」
「え、あ、そっか、行き先が別でしたね」

わたしが死んで天国へいけば、地獄にいくだろうヴァレンティノさんとはお別れだ。そもそも天国も地獄も本当にあるか定かではないし、死んだらそこで永遠の別れだっていうのに。わたしの以前こぼした妄言をヴァレンティノさんは思ったより気に入っていたのかなんなのか、懐かしい話題だ。

「ふふ、ヴァレンティノさん、別にわたしいなくてもなんにも問題なくないですか」

寂しいなんてそんな可愛らしい感情とは無縁だろうに。思って笑っていたら「いいや?」短い声には、常に含まれる嘲りが少しもない事に遅れて気付く。

「いいや、ナマエ」

グラスから顔を上げて、そこで、パリンとどこか遠くで氷を踏んだ音がする。それがわたしの足下で、持ってたグラスが落ちて割れた音だとようやく認識した頃には、座ってるのかどうかすらよく分からなかった。
あれ?思うのに、視界すら狭まってて自分の状態を正しく認識できない。でもさっきより低い気がする。床に座ってる?そちらの感覚は酷く不鮮明なのに、背中を支えるのは腰掛けてたはずの革張りのソファで、その弾力はいやに鮮明だった。シャンデリアがキラキラ虹色の輝きを幾重にも反射していて眩しいし、なんだか隅の方には長い足が映っているのをただぼんやり見ていれば、そこに後ろから覗き込むように逆さのおもて。ヴァレンティノさんが二人いる。思ってからほんの片隅に僅か残った冷静な部分が、ブレて重なって見えているだけだと指摘する。お酒だけでこんな風にはならない。何か薬物を仕込まれていた可能性を思っても、忌避感すらわかないくらい脳がバカになっている。いつの間にわたしの後ろに来たんだろうと思っても答えは内側に存在せず、外側の情報はほとんど遮断されているに等しい。
ンッフフ、ほら、見ろよ、ナマエ。
深い霧につつまれた世界で、ヴァレンティノさんの声だけがどこまでもビビットな極彩色のように鮮やかだ。声としなやかな指先に誘導された視界に、少し離れたとこにスマイルマークが見えた。紙袋だろうか、白いそこに雑に描かれている。さっきまで、なかったのに。へんなの。ぼんやり思っていれば、アレは的だと声が言う。
ただのゲームさ。上手くやればクリスマスプレゼントやるよ。
後ろから回された腕が、大きな手が、わたしの手を包み込んでいる。そこでようやく、なんだか手の内に硬い感覚がある気がした。人差し指を撫でられて。コレだ。コレを押すだけでイイ。声が誘う。白く霞んでやまない脳に、その声だけが吐き気がする程艶やかで、人差し指を押し込んだ瞬間の音も振動も、あまりにも遠かった。
なんだったのかよく分からない。よく分からない視界に、不意に赤が映り込む。サンタさんの服みたいな赤は、どんどん広がって、そうして、あれ?とまた思った。あれ?紙袋の下の、服、なんか、見た記憶、そうだ、“アレ”は、てん―――

「メリークリスマス、ナマエ」

ゆるやかに首が上げさせられて、視界いっぱいにヴァレンティノさんが嗤っている。フフフフフ、ハハハハハアッ。堪えきれないように、愉しそうに、幸せそうに、笑っている。

「俺からのクリスマスプレゼントだ。ッフフ、これで地獄でも一緒だなぁ?」

ふうと吐き出された煙で視界がより白くぼやける。瞑ってしまえば、前髪が横に流された。あれ、今の、煙管。指先の感覚があまりにも優しくてゆるく開ければ、あらわになった額にたったひとつ、まるで祝福のようにそっと触れるだけの口付けが落とされた。
わたしはただ、煙草買う必要なかったんじゃんって思った。




「と、いう感じでその後も諸々あって死んでイマココ」
「クソじゃん」
「やっぱり?エンジェルもそう思う?」

撮影終わりのエンジェルに誘われたクラブで呑みながら応える。売れっ子ポルノスターを労う意味でついてきたけど、気付けば話題はわたしの事になっていて根掘り葉掘り。別に隠すような事ではないので一通り語った反応がこれだ。わたしもずっとクソだなと思ってたけど、第三者からみてもクソだったようで安心した。

「ホントあのイカれ野郎!」
「あんまり言うとヴァレンティノさんの耳に入るよ」
「構わないって。ほら、ナマエはもっと呑んで」

俺が奢るからと気前がいい。ありがたく二杯目を注文した。

「それにしても、いやー、本当に地獄があったなんて思わなかったよね」

死んで、悪魔になって、ここは地獄ですって。反射で嘘だって言いそうになったけど本当だった。なんだかんだ地獄堕ちさせたかっただけで、もうそこで目的は達成して終わったのかというちょっとした期待は、慎ましやかに暮らしていたわたしをわざわざご丁寧にも探し出した蛾の悪魔によって簡単に砕けたし。
セールスはお断りしてますううと叫びながら閉めようとしたドアの隙間に、ガンッと挟まれた黒光りする靴先はホラーだった。アパートの部屋にあげざるを得なくなり、差し出された書面に、壺を売りつけられるより酷い!と叫んでも嗤われるだけ。
結局泣く泣く契約書にサインさせられて、わたしの魂なんてどうするんですかという嘆きには「ンッフフフ―――知りたいか?」はじめて聞くくらい心底甘ったるい声で訊かれて全力で首を横に振った。
そうして、VVVビルでポルノ映画撮影の雑用係として働かされている。指示されればなんでもやらないといけないので、今ではもうだいぶ手慣れたものだった
それでも、どういう認識をされているのかも未だに定かではないのに。変な人―――悪魔だ。

「天国いけなくて恨んでないのかよ」
「んー、どうだろう。クソだし酷いし最低だなって思うけど、なんか、納得?はしてる気がするっていうか、ヴァレンティノさんだしなっていう諦め?みたいな?」

自分でもよく分かっていない、持て余している感情の言語化は難解だ。それは確かに恨んでいる気持ちがないと言えば嘘になるだろうけど、それだけでもないのは確かだった。わたしの罪だって、あの時の出来事はあまりにも高熱でうなされた時に見る悪夢のようにぼんやりし過ぎていて、この手にあるのか実感は未だ薄いまま。クリスマス以降店長はいなくなってしまったし、街の人も触れようとしなかったけど、本当に地獄に堕ちてようやく少しだけまざまざと輪郭を取り戻しても、誰にも責罰されない罪はやっぱりどこか他人事のようだった。それを狙っての事だったのかどうかもよく分からない。あとは、ヴァレンティノさんサイテーってなじっても、フフフと鷹揚に笑われるだけなのもあった。わたしに文句言われて楽しそうですらある相手には何を言っても無駄だろう。

「でも、それに地獄に来たから今こうやってエンジェルとお喋り出来てるし、そう悪い事ばかりでもないかなって」
「そんなんだからつけ込まれンのさ、このお人好し」

別にそんな善人ではないつもりだけど。思っても常日頃どころではない鬱憤が溜まっているエンジェルは、そこから愚痴がはじまってしまった。それをおかわりを美味しくいただきつつ、聞いて労う。

「そうだ、エンジェル。勘違いされてそうだけど、わたしヴァレンティノさんと関係もった事ないよ」

エンジェル達からはヴァレンティノ被害者友の会的に同情のような憐憫のような、どこか同族意識のようなものをもたれている気がするけど、そこは違うのだと。別に全然愛欲と肉欲の三角形を四角になんてしたりしていないのだと、一応断っておかないとと思ってたそれをやっと言えてスッキリする。
エンジェルは上げた眉を戻してそのまま半眼にしながら「そっちのがホラーだろ」呆れたように呟いた声はわたしにまで届かなかったのだった。

20240513

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