オメガへと変性してから一月程経っただろうか。アローラは年中温暖な気候なので、他所の地方でいう四季みたいな感覚が薄い。わたしはまだアローラから出た事がないので、ちょっと憧れてしまう。イッシュ地方なんかは凄くお洒落で都会みたいなイメージがあるから一度くらい行ってみたい。ライモンシティの遊園地とかポケモンミュージカルとか、ナツハちゃんに話を聞いてとても楽しそうだったのもある。
ギーマさんもそんなところからアローラに来て退屈じゃないのかなと思うけど、マンタインサーフを満喫しているらしいとの噂を先日耳にしたので、ここがギーマさんにとって住みよい場所であればいいなと思った。
そんなギーマさんとはなんだか以前より会う回数や、会った時に交わす言の葉が増えたような気がする。たぶん気のせいじゃないそれに、でも浮かぶのは忠告じみた言葉ばかりで。最初の時といい、ギーマさんは優しいなと思う。オメガの自覚が薄いわたしに再三注意してくれているんだと、ネットでたまたま睛にしたオメガの不遇さとかをみている内に気付いた。
ヒートが、発情期がはじまったらアルファだけでなくベータすら誘惑するフェロモンを発してしまうオメガは、どうしたって自衛が大切なのだ。オメガの人の苦痛に満ちた経験談を読んで、それが他人事でないのだとそっと強く思うようにした。
ギーマさんはアルファだけど、でもアルファとしても今までに、アローラに来る前に色々あったんだろうか。本人が言っていた色々にどのくらいの事が含まれているのは定かでなかったけど、アルファも発情中のオメガと接触してしまえば自分の意思に関係なく発情してしまうらしいし、それを嫌がるアルファも一定数いるらしいのに、ギーマさんはオメガのわたしを気遣ってくれる。
皮肉も多いし斜に構えたみたいな部分もあるし、手持ちのポケモンがあくタイプばかりと知って、らしいなと思うくらいには善人ではない風貌をしているのに、でも優しいのだ。そういうとこ、クチナシさんにちょっと近しいなと思う。クチナシさんもとてもじゃないけど警察官にみえないのに、でもなんだかんだ頼りになるお巡りさんでしまキングなのだ。
何よりギーマさんからは全然そういった風にみられている感じがしないのが一番大きい。
先日バイト先でアルファなのだろうけど、なんだか酷く嫌な視線でみられたのを思い出してぞわっとする。呑気に生きてきたわたしでも、未だ恋人のいた事のないわたしでも分かるくらいの粘着質な眼差し。性の対象としてみられていると直感してしまえたのは、わたしにオメガの自覚が出てきたからなのかどうなのか。ただ、あまりいいものではなかったのは事実だった。
ナマコブシなげのバイトをしているハノハノリゾートは一番観光客が多いから、色んな人がいるのも当然なんだろう。


そんな事を考えていたある日、今日は休日だったのでまったりしてたところ、夕方になって晩ご飯の準備をしていた母から、足りないものがあるから買ってきてと頼まれたお使いの帰り道。ついでにアイスも買っちゃったのではやく帰らないとと思いつつ、一日だらだらしてただけなのに身体がちょっとだるくて、疲れが出たかなとやる気なく歩いていたら。

「ナマエ」

そう大きな声じゃなかったのに、呼ばれた名前がぽつんと鼓膜の海に雫として落ちる。
顔を巡らしてしまった先で、道の横から段差の下が砂浜になっているそこに此方を見上げるギーマさんの姿があった。

「ギーマさん!」

何時も見下ろされるばかりなので新鮮だなと思いながら、降りれそうだったのでそこから草と岩の斜をどうにかくだりきる。近付いてみれば、薄暮の陽を受けて薄紅色に染まる姿もなんだか珍しく映って、普段は蒼白い肌も気持ち血色がよくみえる。

「もう陽が暮れちゃいますよ?」

こんな夕暮れに浜辺で何をしていたんだろうと思ったけど、返答代わりについと外された視線の向かった先を追って、ん?と思う。斜陽によってルビーともアメジストともつかない、美しい色合いに染まった静かな海に、ザザザザザ!と場違いな程凄い勢いの飛沫が上がっているのがみえたからだ。

「今日はサメハダーが泳ぎ足りなかったみたいでね」

ギーマさんの言葉に、なるほどあの海を爆走する影はサメハダーかと納得して、それにしても本当に速いなあ〜と海のギャングの異名を思い出す。正直海水浴の時とかに追われたくないみずポケモンナンバーワンだった。
そうしみじみしながら眺めていたら、ふっと視線を感じた気がして横を見上げれば、バチッと音がしそうなくらいはっきりと合う。何時も通りの生気の薄い半眼なのに、夕焼けに染まった夜の気配がする瞳の色は、何故だかよく分からないけど普段と違うような気がして。でも、その違和感の正体に辿り着く前にそらされる。

「いや、呼び止めて悪かった……買い物帰りなのだろう?きみはもう帰った方がいい」

ギーマさんの言葉に手に持つ袋の中にアイスがあったのを思い出す。

「アイス買ってたの忘れてました…!じゃあ、ギーマさんまた!」
「ああ」

慌てて言って元来た道に戻ろうとするわたしは、その背に「―――また明日」そう小さな呟きがかけられていた事に気付かなかった。




明くる日、朝起きた時から身体がだるくて。なんでぐっすり寝たのに治ってないどころか、昨日より悪くなってるんだろうとぼんやりしながら向かったバイト先で、お昼前にはより悪化していたため同じバイトをする先輩に心配される程だった。
頭がぼーっとして、倦怠感が酷くてとこぼすと先輩はちょっと悩んだ後、そっと声を潜めてわたしに、抑制剤飲んだ?と問いかけてきて、でも熱っぽい頭では瞬時に理解できなくて。次いで、ナマエちゃんヒートなんじゃない?そう言われてやっと理解が追いついた。
ヒート、発情期、これが。思ってしまえば頭だけじゃなくて身体も熱をもっている気がする。初めての事もあり、先輩はわたしに今日はもうあがるよう勧めてくれたのでありがたくその言葉に甘える事にした。鞄にしまっていた抑制剤を飲んで、ウラウラ島行きの船に乗り込む。薬がまだ効かないのか身体は熱いままで、少しでも冷まそうと人のいないデッキに出ると海風に当たって過ごした。

ウラウラ島に戻ってきて、照らす陽の元を歩む。今日は雲が多いので、時折陰るのがありがたい。ぼんやり見上げた薄碧い天には儚げな丸い白さが、真昼の月が静かに浮かんでいる。
熱は治るどころか悪化の一途を辿るばかりで、歩いている感覚さえふわふわと地面を踏んでいるのか定かでないようで。人の多い大通りを避けて家に向かって小径を歩む。心臓がドクドクと煩くて、知らず息が上がってしまい余計苦しい。
どうしてだろう。抑制剤を飲んだのに。効いている気がしない。そんなにわたしの身体とは相性が悪かったんだろうか。分からない。分からないままただ進む。お腹の奥の方が一際熱い気がする。そんな所が熱をもつ感覚なんて知らなかった。知らなかったのに、歩いているだけなのに、その振動が伝わる度に甘く痺れるようで。自慰の経験がなくても分かってしまって、足の間に手が伸びそうになるのを耐えてぎゅっと心臓の上から服を握り締める。もう片方の手は知らず木で組まれた垣根を掴んでいた。こんなところ誰にもみられたくない。小径には人の気配がないのが救いだった。
それでもどうにか歩を進め、後もう少しとなったところで燥いた白い道の照り返しの眩しさに睛を細めてしまって、焼かれた視界に本来の明度を取り戻すのに、ほんの少しだけ目蓋を閉じた。次に開いた時にはまた陰っていたおかげで、ほっと息をつく。その直後、真昼なのに微かに薄暗い世界の先で、白い裾が風に揺らいでいるのがみえて、歩みが止まってしまう。
白昼の亡霊をみた気分のなか、ジャリ、と光の当たらない今光沢の失せた革靴が歩んでくるのが分かって、なのに前にも後ろにも進めなくて。どうしてだが頭の中が真っ白になって、何も考えられないそこに、ふっといい匂いがする。甘ったるくもなく、何処か瑞々しくも暗くスパイシーな、不思議なのに酷く魅力的な香り。この香りは、以前にも―――、
思っても、どんどん濃厚になるその芳香に気付けば全身が包まれているようで、どろどろに思考がとろけていく。

「………っは、ぁ」

熱っぽい吐息は卑猥な色に染まっていて、一拍遅れてからそれが自分の口唇から漏れたものだと認識し、羞恥に襲われる。
上げる事ができない視界で、黒に白い二本の線が入った帯があと一歩の距離まで来て。何時もなら、アローラって挨拶するのに、そんな事もできない。何時もなら、何か声をかけてくれる筈なのに、無言がどうしてだか恐ろしい。こんなみっともない姿をどんな睛でみられているのか、分からないから、怖い。

「……ギー…マ、さ…」

辛うじて紡いでも、余計あの香りが肺を犯すようで。外側にも内側にも全身に毒みたいにまわって、四肢の感覚すら奪われて失われて。これ以上嗅いだら駄目だと忌避する部分すら、侵食されて、もっと、もっと、と思ってしまう。この香りにずっと包まれていたい。

「―――ああ、酷い匂いだ」

やっと口を開いたと思ったら、耳を疑うくらい氷のように冷たい声が降ってきて、のろのろと顔を上げてしまう。みてはいけないと警鐘が鳴るのに、みてしまう。

「………ッ、」

見上げた先で、ギーマさんの、声とはまるで真逆の、熱を孕みどろりと溶けた淡青の硝子の瞳と合う。彩る濃い隈と相まってどこか狂気的にもみえるそれは、人が月に抱くものと似通っている気がして。その瞬間、ぞわりと背筋を悪寒とも甘い痺れともつかないモノが駆け巡り、胸を抑える手に力がこもってしまう。

「ああ、全く…これがそうか。なるほど、想定以上だ…本当に、酷い」
「……な…に、言って…、」

嘲笑うように口端を吊り上げたそこから淀みなく紡がれる言葉が全然理解できなくて。わたしの知っているギーマさんは物憂げながらも穏やかで、そんな何時もとは全く異なる様相に臆してしまう。

「なあ、ナマエ、私は言った筈だ……警戒心を危機感を、きみは持たなければならないと」

すっ―――と、掲げられた白く肉の薄い指先で、カラリ、今この場には似つかわしくない軽い音が鳴る。ギーマさんが持っていたそのケースは見覚えがあり過ぎるものだった。だってあれは、わたしの鞄の中に入っているべきものだったからだ。
咄嗟にどうにか鞄を漁って、でもみつけたものに睛を瞠る。恐る恐る取り出しても、それは確かに抑制剤の入ったケースだった。わたしの手の中と、ギーマさんの手の中に、ふたつのケースが存在している現状に混乱する。どうして、これは、これは、まさか。思って、ギーマさんに恐る恐る、けれど信じられないものをみる眼差しをおくってしまう。
わたしの視線を受けて、ギーマさんは嗤った。その笑みにぞっとする。

「きみのそれは、ただの栄養剤さ」

本物の抑制剤はこちらだ。言って振られるケースがカラカラと場違いな程軽快な音を立てる。

「な……んで……っ、」

何時の間にすり替えられたのか、そう思っても思い当たる節がない。というよりも、それくらいギーマさんと喋っている時に気を許し無防備でいたのだと思う。でも、だって、それは。想いは焦燥に掻き消される。だって、ギーマさんは、アルファだけど、全然そんな風じゃ、

「その睛、まだ私を信じているのか?私は勝負師だからな、ポーカーフェイスには慣れているのさ」

言って、眉を下げる独特の笑い方でギーマさんはわたしを見下ろす。
ずっと騙されていたんだろうか、分からない事だらけで、でも唯一分かる事があって。それは今直ぐ逃げないといけない、という事で。ふらつきそうになる足を叱咤して、ギーマさんに背を向け走り出そうとする。それが最悪の一手だと気付かない時点で、いや、そもそもこの人の手の届く範囲にいた時点でもう末路は決まっていたのかもしれない。

「だから、」

グッと、後ろから掴まれた肩が引かれる。あの痩躯のどこにそんな力があるのか不思議なくらいの強さに、呆気なくわたしの身体は後ろに傾いて。倒れる恐怖を感じたのは一瞬。後はもう。

「アルファに背をみせるべきではないと、言っただろう?」

支えられた背中全体から伝わるぬくもりが何かなんて、後ろから回された腕が、着流しの長い袖の白がすっぽりとわたしの身を覆い隠してしまう。決して強い力ではないのに、動けない。指の末端まで毒が回ったようにぴくりとも動かせないし、より一層濃度を増したあの香りが息苦しい程で。

「オメガがアルファにうなじを噛まれれば、どうなるか……知らないとは言わせないぜ」

はあ、と低い体温とは裏腹の酷く熱い吐息が、俯いているせいであらわになっていたそこに触れて「ひ、」本能的な恐怖と快楽に咽喉から引きつった音が漏れる。知らない訳がない。冊子にも注意事項として大きく書かれていた。それくらいにそこは、オメガにとって重要で大事な部分なのに。分かっていたつもりでいて、けれど今こうしてアルファの歯牙の気配を前にして、ようやく本当に理解する。あまりにも遅いそれに、泣きそうな気分になった。ギーマさんにも忠告されていたのに。思って、でも、まさかその本人からこんな目に合わされるだなんて、想定できる筈がないと。違う、それすらギーマさんの仕掛けた罠だったのだろう。巧妙に誘導されて、自ら何も知らず愚かにも罠へ飛び込んだようなものだ。
だけど、でも、なんで。尽きない疑問のなかで一番大きなものがあった。

「なん…で……わたし…なんです…か…?」

香りに犯され上手く働かない脳のまま、気付けば息も絶え絶えに紡いでいた。
オメガは数が少ないとはいえ一定数はいるし。ギーマさんのように整った顔立ちであれば、バース性を抜きにしても引く手数多だろうと、そう思うのに。何故、自分がターゲットにされたのか。それに、こんな今の、ヒートを迎えたわたしの傍にいれば、オメガのフェロモンに誘発されてアルファであるギーマさんも発情してしまうのに。それなのに、なんで、と。
背後で笑う気配があって、その振動すら触れ合ったところから伝わって、ぞわぞわと落ち着かない気分になる。

「……まだ分からないのか?きみが、私の運命だというのに」
「―――……ッ、」

運命。運命の番。そんな、そんなまさか。だってギーマさんは、

「い…ない…って…、」

その話題を振った時に、出会っていないって、そう。

「ああ、確かに私は出会ずじまいだと言ったが……その前に付け加えた筈だ、アローラに来る前には、と」

くつくつと、可笑しそうに言われて、固まる。
そうだ、そうだった。確かにあの時ギーマさんはそう言っていた。出会っていないという言葉に、アローラに来てからはというのがかかっていない事に今更気付いても後の祭り。袋小路に追い詰められたねずみポケモンでしかない。
でも、こんな、運命って。わたしはベータだったのが“偶々”オメガに変性しただけなのに、それなのに、そんなものでも運命となり得てしまうなんて。思っても、ギーマさんが嘘を吐いているとは思い難い。嘘を吐く理由もないし、これを冗談にするには悪質過ぎる。
こんな風に追い詰められても、ギーマさんがそんな虚言を吐く人だとは思えなかった。

「だが、きみに言った通り出会う事もなかったから運命など信じてはいなかったが…成る程、これはみつけられない訳だ。だというのに…こうして睛の前にしてみれば疑いようもない」

不思議なものだな。未だに信じているのかいないのかよく分からない口調に、誑かされているような気分に陥る。何が本当で、何が嘘で。どこまでが真実で、どこからが虚構なのか。くらくらと惑う脳が余計重く霞む心地で、なのに過敏な程火照った素肌は吐息がかすめる度に、ぴくりぴくりと反応してしまうのが嫌になる。それを理解していて、きっと言葉を紡いでいるのだろう。

「これでもフェアにしようと散々忠告はしたつもりだが…きみは私を信用し過ぎだ」

呆れた風な物言いなのに、ふわりとした優しさがあって、乏しているのか喜んでいるのか、ギーマさんが分からない。

「…ギー…マ…さ…ぁっ、」
「随分と、声まで甘くとろけたな……香りもどんどん酷くなって、ああ、本当に…耐え難い程脳髄を揺らすこの甘ったるい匂いを、けれどこんなにも渇望して止まないとは……フフフ、理性が焼き切れそうだ…」

何時しかギーマさんの低かった筈の体温はわたしの熱と混じり合って、互いの身の内を焼いて溶かしているのだとやっと理解する。ギーマさんから香るそれが、ギーマさんが酷い匂いだというそれが、互いのフェロモンだと今になって実感する。自分のは分からないのに、わたしもギーマさんも相手のそれに狂っているのだと。これが、こんな関係が、運命だなんて。思うのに、でも運命としか言いようがないくらい秘められている筈の本能を揺さぶってやまない。

「さあ……ここに、牙を突き立てれば、きみは私だけの番だ」
「……っあ、ゃ…、」

無防備であらわな、そこ。うなじを噛まれれば、オメガはそのアルファと番になる。番を得たオメガは変質しフェロモンを発さなくなるという利点はあったけど、一度番になってしまえばどちらかが死ぬまで解除はされないうえに、番のアルファと引き離された場合、オメガはそれ以降は番を作れないまま再度発情期の苦しみに苛まれる生を送らなければいけない。
恋だって、知らないのに、番だなんて。本能と肉欲にまみれたそれが、恐ろしい。怖くて、怖くて、今更オメガがどういったものなのか本当に理解した気分だったけど、もう遅い。自分がどうなってしまうのか分からない恐怖が酷いのに、期待している自分もいるのが、一番怖くて。

「震えているな…恐ろしいか?だが、逃すつもりはないよ、ナマエ―――」
「ゃ…あ、ァ、」
「―――私の運命」

瞬間、気配が変わって。ああ、と思う。噛まれる、そう思って―――ちゅ。
身構えた硬質な鋭利さも、痛みすらもなくて、そっと酷く優しく、あまりにも軽く押し当てられた熱にぞくっと身震いするのに、けれど直ぐに離れていく。え、と理解が追いつかないわたしを、ギーマさんが腕の中でグイッと反転させ振り向かせる。
驚き、ただ呆然と見上げた先で、だけどどんな顔をしているのかは、みれなかった。惚けたように開いていた口唇に、つい先刻うなじに触れたのと同じ熱と柔らかさがあって、表情は近過ぎてぼやけてしまったせいだった。

「んっ……、」

頬に手がそえられると同時に、濡れた熱さが口内に入ってきて、びくりと戦慄く。でも初めての事にどうしていいか分からずに、ただ狼狽るわたしの舌に触れた瞬間甘く麻痺するようで。思わず鼻に抜けた声すら甘ったるい。だから、気付くのに遅れた。
違和感を察した時には舌先に小さな塊が押し付けられていて、そのまま咽喉奥に混ざり合った唾液と一緒に流れ込んでくるのを、息苦しさも相まって咄嗟に嚥下してしまう。ごくり、その音が嫌に大きく響いた気がした。目的を果たしてけれど舌はそのままわたしの舌に絡みついて、ぐちゃぐちゃにされる。
舌と一緒に混ぜられる唾液は濃厚な香りの蜜でしかなく、直接粘膜に塗り込まれ、体内を侵食されてしまえばもう何も考えられなかった。
上手く息ができない、溺れる、気持ちいい、吸い込んでも、それは空気じゃなくて、どろりと、重く、肺を満たす、心地いい、香り、あぶくすら、もう吐き出せない、沈む、溶けて、とろけて、沈んで、しまう、あまりにも甘美でありながら、恐ろしく深い水底に。
意識が途切れる寸前で、ずるっと引き抜かれていき浮上する。鼻でどうにか息をしていたつもりだったのに、久しぶりに空気を吸い込んだ気がして。時間にすればほんの僅かな間だったんだろうけど、足に力が入っていなくて、ギーマさんに支えられてやっと立っているのだと気付く。そうして、くらくら、ぐらぐら、揺れる脳でどうにか思う。
何を、飲まされたんだろうと。
ぼやける視界の先で、すり、と頬を撫でるギーマさんが浮かべていたのは、けれど薄い微笑だった。

「安心するといい、今のは本物の抑制剤さ」

抑制剤。おぼつかない舌では上手く反芻できなくて、何故と、どうしてと、乱れた呼気によって疑問すら紡げない。

「……これできみも大いに自覚しただろう?明日からは口説き落とす、覚悟しておくといい」

そう言って、悪い顔をするけど。でも、どうしたって、やっぱり、わたしにはギーマさんが悪い人には思えなくて。
呼吸が整ってきた頃「……普通に、飲ませてくださいよ…」一応ここは言っておくべきだろうかと。初めてだったし。そう思ったのに「慈善活動ではないんだ、このくらいは貰っておくさ」悪い笑顔のまま、そうあっさり返されてしまい口を閉じる。上手い事負い目を感じさせられた気がするけど、まあいいかなと思ってしまうのはしょうがない。
だって、抑制剤のあるオメガと異なり、アルファにはないのに。オメガのフェロモンに誘発され、一度発情してしまえば、自然に治るのを待つしかないのに。この狂おしい程甘美な苦痛をわたしにぶつける事なく、独りで耐えるのだろうに。なのに笑っている。悪い笑顔は、でも、まるでわたしを不安がらせないようで。

「……ギーマさんって、優しいですよね」

つい思ったまま呟いてしまったら、表情はたいして変わらなかったけど、僅かに吊り上がった眉が盛大に嫌そうにしているようにみえて、笑ってしまった。
そうして、この夜の海に消えてしまいそうな、水面の月のようなこの人の底で溺死するのも、そう悪くない気がした。



20200904

- ナノ -