それにしても、ここにはこんなにいっぱいサイバートロン人がいるのに、その誰もが彼を恐れているというのに、束になって排除しようとしないのは不思議だった。
数でいえば独裁を強いるオーバーロードよりも圧倒的にその他大勢が多いと思うその疑問は、ある時物珍しさから声をかけてきたひとりのディセプティコンから解答を得た。答えは簡単で、オーバーロードが強いから、それは酷く単純だからこそ覆すのが難しいという事実だった。どうやらサイバートロン人というのは人間と違って個々の能力の差が激しいらしい。その中でもオーバーロードは圧倒的な強者過ぎるのだという。なるほどたったひとりでこの監獄を支配する暴君は、個々のパワーバランスが違い過ぎる彼等種族のあらわれなのだ。
オーバーロード本人にも、どうしてそんなに強い個体なのかと訊いてみれば、ポイント・ワン・パーセンターという希少なスパークにフェイズ・シクサーとして改良された結果だと言っていたので驚いた。オーバーロードよりも上の立場のひとがいて、こんな独裁者を作り出して御する事が出来るという事実にだった。
仮にもしオートボットの部隊がガーラス9を奪還しにやってきたとしても、オーバーロードによって返り討ちにされるだろうと笑っていたディセプティコンは、次の日首だけになって「親しげに話していただろう?お前が寂しくないよう住居のオブジェにでもするといい」居住区へ飾られてしまったので、私は今後一切他の誰かと会話する事を諦めた。

変わり映えのしないサイクルの中で、結構な月日が流れてもオーバーロードは未だに私に飽きていないのかなんなのか、一応存在は彼のブレインの片隅へあるようだった。
それでも毎日、次の日にはどうなっているか分かったものではないけどと思いながら眠る日々。伸びた髪の毛が邪魔だと、どちらかが死ぬまでのデスマッチから現実逃避のように思考をそらしてなんとか今日も心の平穏を保とうと必死な時間は終わりを告げて。ディセプティコンを殺し終えた勝者は異なるインシグニア、オートボットだというのに私にはもう両者の区別がつかなくなっていた。
みんな一様に、誰も彼もが毎日少しずつ、けれど確かに壊れていく。身体も、心も、欠けて、削られて、摩耗して。オートボットも、ディセプティコンも、私も。そうでないのはそれらを笑みを浮かべ眺め続ける青い機体だけだ。

「血の匂いがするな」

退廃的な喧騒が終わって、誰も居なくなったそのタイミングでおもむろに呟かれた言葉の意味が一瞬分からなくて、でも直ぐになんの事だか納得する。

「あー……怪我したとかじゃなくて、えー……っと、生理っていう人間の雌の生殖のためのサイクル?」

一番量の多い日に会うのはそういえば初めてだったかもしれないと思って、少々の気恥ずかしさはあってもしかし機械生命体には恐らく存在しない機能だろうからなるべく淡々と説明する。しかしそんな僅かな言いづらさを察してか、単純な興味か、結局生理だけでなく人間の増え方について説明させられた。
これは保健体育の授業だとどうにか割り切って受け答えをした私はふと、有機生殖で増えないと聞いたサイバートロン人は恋愛とかするのだろうかと思ってつい質問してしまった。

「お前達の定義と同等であるかは擦り合わせのサンプルが足らんだろうが、特別な相手の死にインナーモストエナジョンを手向けるような習慣や、それを与えた相手とコンジャンクス・エンデュラの誓いを結ぶ事を思えば近しい概念と言える可能性はあるな」
「こんじゃんくすえんでゅら……特別なパートナーって事?」
「そうだ」

へえと相槌をうつ。そもそも私という人間の基準で見れば、これまで出会ったサイバートロン人はみんな男性型のように思えるし事実雌雄は存在しないようだった。スパークをホットスポットという場所から収穫してそれを元に機体を作ったり、そのスパークから更にスパークを生み出すという、生殖が関係ない種の形態であっても人間のいだく恋愛感情のような特別な想いを寄せる事は可能なのかと思うと不思議だったけど、人間同士でも同性やそうでないモノにだっていだく事を思えばそうおかしな事ではないのかもしれない。

「じゃあ、インナーモストエナジョンって?」
「スパークケースを覆う唯一普遍の燃料の事だ。ああ、そうだな、お前にくれてやろうか」

興味深い話題につい集中して油断してたら、直ぐにこうやって爆弾を投げてくるのだから困ったものだ。さっきの話からいって、インナーモストエナジョンとは彼らの機体の内にあるオイルで、人間の感覚では体液だ。そうして唯一普遍であれば、他のエナジョン、血のように減ったら困るけど輸血も出来るようなモノとは異なる、減ったら最後増えないという事で。それを親しい者の死へ手向けたり、特別な相手へ贈るなんて、そんなのはとても大切で特殊なエナジョンだという事くらいは私にだって理解できるのに。まるで気軽に気安く言ってくるところがオーバーロードらしい。

「……遠慮しておく」
「そう言うな、可愛いペットにくれてやるのも面白いだろう?」

その言葉で、サイバートロン人にとっては大切で特殊であっても、オーバーロードにとっては特にどうでもいいモノなのだと理解できる。全然重きを置いていない。前々から思ってたけどこの暴君ちょっと情緒が足りない気がする。こればかりはちゃんと言わないと伝わらないと判断して困ったオーバーロードだと、ひとつ嘆息してから口を開いた。

「そうじゃなくて。駄目だよ、オーバーロードに今後ちゃんとそういう相手が現れる可能性とかあるかもしれないんだから、大切なものはとっておかないと」

なさそうだなとは思いながらも、宇宙にはこれだけいろんな生命が溢れていると知ったいま可能性というのはゼロではないのだ。サイバートロン人の寿命はびっくりするくらい長いし、もしかしたらこれからまだオーバーロードの“特別”になる相手が現れたってなんらおかしくはない。宇宙も無限大だし可能性も無限大。とはいえ、その相手がこんな性格が悪い独裁者を好きになってくれるかどうかはまた別問題だけど、そこには今は睛を瞑っておく。
私の言葉にオーバーロードは僅かの間の後、笑った。

「ック、クク……そうだな、お前からの貴重な諫言だ、聞いてやろうとも」

何がツボに嵌まったのか笑い続けるオーバーロードに、やっぱり考えている事がサッパリだと小首を傾げた。

そんな生活が続いたある日、闘技場で例によって見たくもない殺戮を見せられていれば不意に騒がしくなって、私は思わず支えにオーバーロードの指を掴んでしまう。どうしたのだろう。きょろきょろと周囲を見回していれば「喜べ、ナマエ。お前以来の客人だぞ」頭上からオーバーロードの喜色をふんだんに孕んだ声が降ってきて、ぞっとした。私以来の客人ってまさか。思ううちに何処かから酷い騒音が響く。砲撃や爆撃の、戦争の音に身をすくめていれば、オーバーロードの手が下がって地面へと降ろされた。
音の発生源が頭上だと気付いて見上げた先、攻撃を受けながらもこちらへ向かってくる物体へ驚く間にそれは闘技場へ落下した。風圧と衝撃に睛を閉じて、オーバーロードの巨大な足の影でどうにか耐える。地震みたいな足元の揺れがおさまった頃、瞼を開ければ墜落の衝撃で壊れ燃え盛る物体から人影。そのサイバートロン人達のインシグニアはオートボットのもので、だけどそれよりも一緒にいる小さなシルエットに睛を瞠る。人間だった。女の子だ、それも。
どう反応すればいいのか、どうすればいいのかも分からないうちに、オートボット達へ近付く青い機体へ嫌な予感がした。待ってと叫ぶ前に頭が吹き飛ばされた。
仲間をひとり呆気なく殺されても果敢に立ち向かってくるオートボット達は、だけどオーバーロードに傷を負わせる事も出来ない。その力量の差にどこか忘れかけていた絶望感が足元へ広がるようだった。
それでもけしかけられたディセプティコン達を足止めして去っていった姿に、オートボット達は何をしにきたのだろうと思う。制圧するには人数は見るからに足りないし、多対一でもオーバーロードには敵わないでいる実力差を思うと他に何か目的があるのかもしれない。何にせよ、とそこで暗い胸の内を思う。ドクドクと心臓が警鐘のようにうるさい胸元を押さえて、期待してはいけないのだと静めようとする。私がここから救出してもらえる可能性は限りなく低いのだろう。それどころかあのオートボット達が生きて帰られるのかすら怪しい。
客人、と言った声がよみがえると同時に消えゆく青い光がフラッシュバックして、久しぶりに吐きそうな気分だと思った。だから、気付くのに遅れた。

「ナマエ」

オーバーロードが私をじっと見下ろしている事に。名前を呼ばれて、一際大きく鼓動が跳ね上がったけど、それを悟られないように―――いや、きっと無駄だ既に悟られている―――そっと頭上を仰ぐ。

「俺はこれから客人をもてなさねばならん。特等席で観覧したいのであれば、連れて行ってやろう」

観覧、何を、あのオートボット達を殺すところをだ。一緒にいたあの人間の女の子を殺すところをだ。グチャリと簡単に潰すのか、ああ、いや、もしかしたら私の―――瞬間、よく焼けた肉の匂いがした気がして、口元を咄嗟に覆った。深呼吸しながら、どうにかただ首を横へ振れば、オーバーロードはその赤々としたオプティックを笑みのカタチに歪めて「そうか。ならば俺の賢いペットらしく、大人しく良い子に待っているがいい」揶揄って去っていった。
他のディセプティコン達もいなくなった無人の闘技場で、何度も深く呼吸を繰り返して、地面へへたりこむ。希望をいだくのは恐ろしい。あの赤いオプティックは、どんな些細なものであっても決して見逃さず、見透かして、つまびらかにし、丁寧に確実にその僅か灯った光を消そうとするだろうから。ずっとなるべく自分にはどうしようもない事だと諦めて、僅かでも心身の平穏を、例え仮初であったとしてもそれを保とうとしていたというのに、こんな簡単にぐらついてしまう。私にはあのオートボット達にしてあげられる事なんて何もないのに、浅慮にもここから助け出してほしいと思ってしまったのだ。
オーバーロードの言葉は言い換えれば、己の無力さを噛み締めながら俺がオートボット共を殺し終えるまで何も出来ずにいろ、と、そういう意味だ。感情の、それも負の感情の揺らぎはオーバーロードを喜ばせるだけだからあまり見せたくないのに、さっきは全然とりつくろえなかった。
思考にどれだけ時間を割いていたのか。ひとつ大きく息を吐いて、それでも立ち上がる。見たくなくても、見届けないといけない気がした。オートボットは無理でも、あの女の子の命だけならばまだ懇願の余地はあるかもしれない。その可能性の低さは見ないフリをして、そっと歩き出した。

けれど。
けれど、ようよう追いついた先で私が睛にしたのは、炎に包まれた巨体だった。

内骨格とでも言うのだろうか、あまりにも知っている外見とは異なるのに私はあれがオーバーロードなのだと見た瞬間理解した。本当にまるで骨のようだと思う。荼毘に付され、骨壷へ入れられる前の状態を思い出す。人間であれば肉が全て焼かれたようなものだろうに、そんな状態でもまだ生きているようだった。真っ赤に燃え盛る火柱は離れていても熱く、その内から地獄の亡者のような呪詛が紡がれる。あの女の子へ語りかけているのだと気付いて見れば、オーバーロードの視線の先、倒れたオートボットへ寄り添う彼女の姿があった。そうして彼女は「メガトロンは死んだわ」と真っ直ぐに燃え盛る巨人を前に強く言い放つ。メガトロン?誰だろう。初めて聞く名前を思う私とは真逆に、まるで茫然自失といった体でオーバーロードの身が崩れ落ちた。彼のそんな様子を今まで見た事がなかったし、想像した事すらなかったせいで、睛にしているものが信じられないでいれば、オーバーロードは攻撃を受けて倒れた。
戦車のような形態から二足へと変形したオートボットによって叩きのめされてけれど、オーバーロードには抵抗する気力すらないようだった。それ程までにメガトロンの死というものが彼へ大きな、大き過ぎる衝撃を与えた事が、私には衝撃だった。私の知らないオーバーロードの唯一やわらかで脆い箇所を彼らは知っているのだと思うと、言いようのない感情が溢れた。それが何かも分からないうちに、鋭利な切先がオーバーロードへ振り被られて、何故だか咄嗟にやめてと言いそうになった自分へ気付いて停止する私を他所に振り下ろされたそれは、だけど頭の横の地面を貫いていた。
殺す気はないらしい。これがオートボットとディセプティコンの違いなのだろうか。
思いながら足が動く。確かに歩いている筈なのに実感が酷く薄いまま、未だ燃え燻り続ける機体へ近付いていく私の存在にオートボットも女の子も気付いたようで「ねえ!あなた―――」声をかけられるけど、それはただ耳をすり抜けていった。
熱い。思いながら頭蓋骨のような頭部を眺める。赤いオプティックももうないのに、眼窩の奥ではそれよりも眩い炎が揺らめいている。こんな距離で、こんな角度で見るのは初めての事だとどこか現実逃避のようにぼんやり見つめてしまう。
オーバーロードはまだ喋られるだろうに何も言わなかった。あれだけ雄弁だったのに、今はただパチパチと火の弾ける音だけ。私も何を言えばいいのか、何を言いたいのかすら分からなかった。ようやく、オーバーロードが倒されたのだと実感がわいてきたようだった。
オーバーロードの、私の予想は裏切られたのだ。いだく事すら忌避していた希望が、今確かに私の手の内へあるのだと思うとなんだか不思議だった。

「……オーバーロード」

名を呼んでも、返ってくるのは燃え続ける音。

「さようなら」

面白みも捻りもない、ただの別れの挨拶。でもなんの因果か交差した彼と私を切り離す、決別の言葉だけは言っておかないといけない気がした。もう囚われない為にも。やっとオーバーロードという名の地獄から解放されたのだと実感させる為にも。
オーバーロードからの返答は、やっぱり何もなかった。

ありがたい事になんにも出来なかった私をオートボットは保護してくれて。簡単に経緯を説明すれば、女の子、ベリティに酷く驚かれ気を使われながら船へと乗せてもらった。
オーバーロードとは異なる青い機体、ウルトラマグナスと名乗った見るからに生真面目そうなオートボットからベリティと共に地球へ帰すと言われても、なんとなくふわふわしていて現実味のないままで、ありがとうとお礼を言いながらも思ったより喜んでいない自分がいた。メガトロンの事を訊ねれば、そんな事の為にあの地獄は生み出されたのかと愕然とした。怒りとかよりも理解の出来なさの方が大きかったせいだ。そうして、私はそんな事と思ったけど、オーバーロードにとってはたったひとつだけ、唯一の特別な事だったのかもしれない。思っても被害の多さを鑑みれば情状酌量の余地はない。
時間の感覚が早々に失せて考えるのを止めていたせいで、私はガーラス9へ二年近くもの間居たのだと知った時には呆然とした。そんなに時間が経っている気はしていなかったからだ。それもまた心身の自己防衛だったのかもしれない。
ベリティと共にいたオートボット達、レッカーズはその半数程が犠牲になったと知っても、地球へ向かう途中で亡くなってしまったアイアンフィストと呼ばれていた機体へと縋りついて泣くベリティにも、何も言葉をかけられなかったのは、その時になって私はオーバーロードの事が恐ろしく憎く好きではなかったけれど、嫌いでもなかったと気付いたからだった。彼の誰を鑑みる事もない傍若無人さに一種の羨ましさをいだいていたからだ。ただただ何を思えばいいのかも分からないでいた私は、暗い宇宙を映し続ける窓から写真や映像でしか見た事のなかった青い惑星を睛にして、ようやく心がガーラス9から戻ってきたような気分だった。




そうして数年の歳月が経ち、咽喉もと過ぎればなんとやらのとおりに、あんなに非現実的な事の熱さを忘れ既に夢であったような気分のなか、私はひとり暮らしでどうにか就職して会社員をしていた。
夢ではなかったのだという自戒は、変わらず祈りと悼みを忘れない事だけだ。ベリティとは地球へ着いた時点で別れたから行方は知らない。どこかで幸いに生きていてくれたらいいと、それだけを片隅で思った。
経歴へ書くわけにもいかず、無難にお茶を濁したせいで難航したのちにようやく採用されたのもありちょっと上司がパワハラ気質でも、同僚の性格が悪くとも、あの何時殺されてもおかしくない日々に比べれば遥かにマシだったので喜んでいいのか嘆けばいいのかはよく分からなかった。たぶん後者だし、そもそも最初に宇宙へと拐われなければ今頃あの時内定もらった会社で順風満帆にやっていた筈なのにという怒りを活力に変えてキーボードを叩く日々。社畜なものの毎週金曜日のランチだけお気に入りのお店でちょっと奮発して美味しいものを食べるのがささやかな楽しみだった。
その日も、天気が良かったから爽やかな風の心地良いテラス席へ座ってメニュー表とにらめっこし肉か魚か選べるランチのセットで、悩んだ末お肉の方を注文する。スープにサラダと順に運ばれてくる度に舌鼓を打ち、パンと鶏肉のトマトソース煮を味わって食べていたら不意に二人席の向かいへ男が腰を下ろして驚いた。
座っていても上背があると分かる、整った顔立ちの男。唇は少々厚みがあるがそれも世の女性はセクシーと評するのだろう。その口角を綺麗に上げたままの男に見覚えはなく。ナンパだろうかと思うも俳優かモデルのような見目の男がなぜわざわざ自分のような。ガラスを挟んだ店内の席にいる女性客がちらちら男へ熱視線をおくっているというのに。
ちょうど大きめに切ったお肉を口に入れた直後だったのもあって、口内を空にするまで喋れないでいる間にどうにか現状を把握しようとする。そんな私とは違い喋られるであろうに、男は笑みを浮かべた唇を開く気配はない。ひとの向かいへ座っておいて別に話しかけてもこないのは何故なのか。
ただ悠然と椅子に座ったまま私が食べる様子を愉快そうにじっと見つめている。そこまでで、ふっと、違うと、否定しまう。見つめているというよりもこれは、このつぶさに観察されているような感じには覚えがあった。フォークとナイフを手に肉を食べる私というこの状況といい酷い既視感だった。突然その大口を開けた悪夢へと食べられたような、あり得ないと一笑したいのにそれが許されない感覚。その答えに辿りついた途端、まさか、と、でも、が同時に脳を満たして、口内に残ってた肉の最後の一欠片をごくんと飲み込んで、結局私は何を考える前に。

「オーバーロード?」

そう、もう二度と呼ぶことがないと思っていた名を紡いでいた。

「サヨウナラには時期尚早だったようだな」

男は、オーバーロードは人間の持つ色彩の睛を細めて笑みを深める。全然違う筈なのに赤いオプティックを見た気がして、真昼だというのにお化けにでも出会した気分だった。
筋張った長い指の大きな手が二、三度ゆるく合わさり乾いた音の拍手を贈られても全く嬉しくないのは初めてだ。頭を抱える代わりにコップへ手を伸ばし、冷たい水で忘れていた熱さによって焼かれた咽喉を潤す。オートボットは一体何をしているのだろう。真っ先に非難じみた事を思う。捕らえられた彼は裁判にかけられるんじゃなかったのか。彼のやってきた事を考えれば無期懲役とか死刑とか、そういう重い判決をくだされている筈だったのではと思っても、オーバーロードが今目前に“居る”現状を鑑みればオートボットのそういった目論見が成功しなかったという答えは酷く明瞭過ぎて嫌になった。
これはこんな風に野に放っていい存在ではないと思うんだけど。でも、なにものにも囚われない様はとても“らしい”という感想しか出てこないのだから、私も大概この暴君に感化されている。なんでここに居るのという切実な問いすら彼の前ではくだらない質問へ成り下がるのだろう。

「訊きたい事はいっぱいあるけど、とりあえず、その姿はなに?」
「他種族の住む惑星においてコミュニケーションを円滑にする為に生み出されたアバター、だな。使う機会などないと思っていたが、ナマエ、俺にコレを使わせた事を誇っても構わんぞ」

クク、と途中咽喉だけで笑って吐かれた言葉の尊大さは相変わらずで。でも確かにオーバーロードにとって必要なさそうな、それこそ一生使わなさそうな機能だなと思ってしまったから、貴重といえばそうなのかもしれないと納得したあたりが我ながら解像度が高くて嫌になる。オーバーロードが人間に擬態してまでわざわざ私に会いに来たという事実自体に、なんとも言い難いおぞましさがあってぞわぞわと落ちつかない。
彼にとってそんな価値は私になかった筈だ。きっと何か他に目的があるのだろう。思っても、今や普通に一般人として生活しているだけの人間に付加価値があるとも思えなかった。そのせいで、理由を問いたいようで問いたくない。訊いてしまったが最後な気がしてならない。しかしそんな心中などお見通しなのか「なんだ、質問は終わりか?幾らでも答えてやるというのに」テーブルへ肘をついて促してくる。ほんの僅か身を乗り出しただけにも関わらず、威圧感というかプレッシャーが増す気がするその存在感の強さは変わらなくて、懐かしいと同時にもう二度と味わいたくなかった感覚へ圧される。

「そうだな、例えば、何故お前の居場所が分かったか……というのはどうだ?」
「…………」

会いに来た理由ではなくとも、彼がこうやってわざわざ口にする時点でそれが私の聞きたくない事である可能性の高さについ閉口してしまう。とはいえ、雄弁は銀、沈黙は金という言葉がオーバーロードにたいして有効な手段ではないのが辛いところで。むしろ悪手のパターンも多々あるという事を今更思い出す。そうして、居場所。確かに不思議だ。この地球上に蔓延る人間の中から狙い澄ましたかのように私という、彼からしてみれば蟻の一匹を探し出すというのはそれなりに困難が伴う事は想像に難くない。オートボットから情報が漏れたかと思えど、彼らは地球へ送り届けてくれただけで別れ、その後の所在まで把握しているとはこれも思い難い。そこまでで、そういえばと、唯一私と睛の前の男を繋げるモノを思い出して鞄をあさる。

「もしかして、これ?」

取り出し掲げたのは、うつくしいピンクのペンダントトップが輝くネックレス。
自分でもどうかと思いつつ捨てる気になれず、しかし首へ付ける気にもなれず、ハンカチに包んで鞄の中のチャック付き内ポケットへずっと仕舞い込んでいたそれを視線で捉えたオーバーロードの口角がより綺麗に上がる。ぞわ、と鳥肌がたったのは仕方ないと思った。

「発信機を付けてやった俺の麗しい飼い主心と、いじらしいペットのおかげという訳だ」
「捨てとけばよかった……」

にっこり、と、にやり、の狭間のようなうつくしい笑みの造形美へ見惚れるよりも先にテーブルへ突っ伏す気分で呻く。オーバーロードの所業は気まぐれだろうが、しかしそんな機能まで搭載する価値が私にあったのかと思う時点でやっぱり嫌になるし、なんとなくでずっと持ってしまっていた自分の愚かさにはぐうの音も出ない。
そして私はもうひとつ忘れていた。既に気分はノックアウト、見事なKO負けをしているというのにオーバーロードは相手の傷口へ塩を塗る嗜虐心と加虐さを持つ性格の悪さだという事を。機械のおもてよりも機嫌の良さが分かりやすくなった表情のまま「ああ、そうだった」さも今思い出したと言わんばかりのわざとらしい声音と物言いに、顔を上げてしまう。

「言い忘れていたが、ソレは俺のインナーモストエナジョンを加工して作られている」
「…………」

オーバーキル。言葉を理解した瞬間、盛大に苦虫を噛み潰した表情をした私に、今度こそオーバーロードは酷く愉しげな声をあげて笑う。
どうやらこの暴君は、私の感傷をゴミ屑のようにクシャクシャに丸めてポイした挙句、非現実を夢なんかにはしてくれないようだった。



20231031

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