その暗がりはぬるい泥のなかのようだった。
意識すらぼんやりと遠く自分の身体が分からないのに、泥濘が重くまとわりついているのは分かる。だというのにそれは決して不快ではなく、むしろ心地が良い。これに身を任せて微睡んでいれば良いのだと思う。
なのに、ふっとまばゆさが瞼を射した気がして、遠い、遠い、微かな光がどうしてだか無性に見たくて、睛を開けようとしてしまった。

「ぁ…………え?」

暗い天井だった。灯りで朱に染まった夜闇が広がっている。そう認識した途端、腹の奥底の焼けるような熱さに「あ、ァ……ッ」戦慄く。冷たい刃を突き立てられた熱はけれど錯覚だと一拍遅れて気付いた。
気付いてしまえば残るのは、ただただ甘い快楽。
ぼやける視界へ自身の裸体が映り、その向こうには燈影に余計薄碧く映る男の肌。確かに視線が交差しても、私を暴く男は、日光は微かに眉根を、どうしてだか苦しげに寄せるだけで、言葉を発する前にぞろりと内を擦られ嬌声へと変わる。
何故、何が、どうして。既視感に思い出そうとしても律動の波に思考は浚われる。手足の感覚はあるのに、まるで夢のなかと同じく泥の重さをまとい自由は効かない。酷く現実味が薄いにも関わらず、触れ合う肌や粘膜が焼けるようだった。
見目の麗しい刀の付喪神達に主と慕われるなかで、恋情をいだくようになるなという方が難しい事であっても、しかし審神者と刀剣男士がまぐわったところで子は出来ない。むしろ体液に含まれる神気に侵され最悪隠される可能性すらあった。
そのため基本的に政府は交際を禁じているが、禁じられればより盛り上がるという傾向もなくはなかった。
私は自分の事ながら真面目な性質であったため、刀剣男士が“審神者”を慕うのはあくまで“主”だからであるときちんと理解していたし、政府による禁は正しく刷り込まれていたので、刀とどうこうなるつもりはさらさらなかった。この本丸内でそんな様子はなかった、はずだった。
だというのに、何故、自分は今こうなっているのだろう。
緩慢な思考は現実逃避にも近く、けれど少しでも何かを考えていなければ溺れてしまいそうな恐ろしさがあったせいだった。日光にいだくものとはまた異なる、もっと根源的な恐怖心は身の内の奥深くから湧き出ては音のない悲鳴をあげる。
痛みがあればまだましだったかもしれないのに、私の虚は熱く溶け、悦んできつく締め付けてやまない。日光の身丈に合ったそれで、狭いはずのそこが雄の形に広げられている圧迫感すら心地良い。

「ひっ、あ、ぁ……あッ、ァ……ッ」

布団へ人形のように転がりただ揺すぶられるだけの主を見下ろす日光の淡い菫青に情欲の色は薄いように思えて、それが不思議で今更隔てていた硝子がない事にも気付く。
眼鏡がないと幾分おさない印象をいだくものだと、はじめて知った事をぼんやり思って、違うと否定の声が内から響く。はじめて、ではない。見た事があるはずだ。何処で。思っても解答の尾は指先からするりとすり抜けていく。まるで水面へ映った月だ。なにもかもが分かりそうで分からないもどかしさに、いつしか日光へ手を伸ばしていた。
変わらず泥のような重さの指で、なにも掴めない代わりとでも言うように。ただ無意識であっても、そこでふっとさっきこんな夢を見たような―――思う間に重なっていた。
やはり、熱い。触れた肌が焼け溶けてしまいそうだ。私の手よりも大きく、皮の厚い、しっかりとした刀を振るう手に、どうしてだかこんな状況で安心する。

「日光……っ、にっこ、ぅ」

名を呼べば、私の手を握る日光の指へ微かに力が込められるのが分かる。まるで縋るようだと思って、やはり不思議だった。物言いたげに薄く口唇を開いて、噤んで。常に堂々とはっきり物を言う日光一文字らしくない仕草に、どうしてだか迷子みたいだと思う。
恋に焦がれているような男の睛ではない。情欲も恋情もなく行われる行為の意味が理解できない。本当に理解できない事ばかりで嫌になる。
触れ合った熱だけが確かなこの夢のような世界で、快楽を従順に追った身体はやがてその果てを迎え。浅い吐息とともに胎へ注がれるのが分かった。何かが流れ込んでくる、身の内から侵食される感覚にいだいたのは恐怖ではなく安堵で。主、と呼ぶ声が聞こえた気がしたけれど、天井から降りそそぐ雨音が嫌に大きく耳朶を打ち、この褥へ帳を下ろすようだった。



しらじらと明けはじめた夜の気配にそっと睛を醒ます。意識は明瞭で、朝の空気のように冴え冴えとしていた。
上体を起こせばまるで普段と何も変わらない、乱れのない寝姿。不快感すら存在しない清められた後に、まるで悪い夢のようだと思う。本当に“あった”事なのか、それすらもう私には何も断ずる事が出来ない。
夜具から出て、何を思う前に縁側から沓石へ降りる。少し歩いたところで上着もつっかけも忘れている事に気付いたが、ひやりとした外気に熱を奪われゆくのも足裏の痛みもどうでもいい気がした。
夜のうちにやんだ雨は、照らす陽射しで既に地面は燥いていても木蔭に入れば湿った匂いが残っている。どうして、どうして、何故、何故。ぐるぐると脳では絶えず疑問が溢れてやまないにも関わらず、意識は酷く冷えきっていた。ただただ、行かなければならないと、どこから生じるものかも分からない衝動に突き動かされて水の匂いの濃い方へ辿りつく。
蓮池の汀で、ようよう糸の切れた足が立ち止まった。
視線の先にはふっくらと花開いて、しかし重たげな薄紅の花冠。うつくしく見事に咲いた蓮の花に、これが見たかったのだと思うにも関わらず、釦を掛け違えている感覚へ襲われる。そうして、まるで自然に、答えがそこにあると知っているかのように、そちらを向いてしまう。池の左手、下生えの先、木々の青々しい空間。なんの変哲もない庭の一部だというのに、なにかがおかしいような気がしてしまったそこ。そうだ、おかしいのだ。だってそこには―――パキン。

「ぁ…………、」

ひゅうと、大きく息を吸い込んだのに、心の臓がどくどくと五月蝿い。一瞬で冷えきった四肢とは真逆に、胸元だけが酷く熱く、知らず服の上からおさえてしまう。
知っている。知っている、そこに何があるのかを。私は知っている。そこにあったのは、あるべき筈のものは、そう、蔵だ。
思った瞬間、まるでチャンネルを切り替えたかのように木々の生えた青い空間だったそこには、蔵があった。それを前にただただ汀で立ちすくむ私の耳に跫音が聞こえる。振り返らなくても分かる。だって、ここに、私にはもう。

「日光」

彼しかいないのだから。

「……主」

振り返れば、そこにはやはり戦装束の隙のなさがうつくしく、だというのにどこか苦しげなおもての日光一文字がいた。
認識して、昨夜の事が夢ではないと理解しても浮かぶのは嫌悪ではなく、哀れみ。
たった一振りだけ残った私の刀剣にたいするやるせなさ。
そうだ。そうだった。折れたのだ、全て。いや、唯一、ただ一振り―――日光一文字を除いての全てが。
襲撃はなんの予兆もなかった。夜明けとともに破られた本丸を覆う結界のひずみから、夥しい数の時間遡行軍が溢れ出すのを見ていた。ここで。蓮の開花を楽しみに早起きをした私はこの汀でその様を見上げていた。
その傍らで瞬時に内番着から戦装束へと装いを変えたのは、蓮池へ向かう途中で会った数珠丸恒次。常に凪いだ水面の如く麗しいおもてに、一抹の焦りを滲ませて彼は私を直ぐさま蔵のなかへと隠した。どれだけ時の政府が結界を強固にしようが、遡行軍による本丸襲撃は度々起こる。その為、当初は審神者の自室が緊急時のシェルターとなっていたのが、刀剣の数が増え本丸の規模も大きくなるのも伴い予備を設ける事となり、私の本丸ではふたつある蔵がそうだった。
霊力遮断の隠形が施され、男士の刃すら阻む強固な守りで固められたその内へ入れば一先ず安全は保たれる。緊急時の対処のとおり幸いな事に私の、審神者の身は敵影に見つかる前に安全圏へと逃された。
夜明け前という事もあり、その日は遠征組も全員戻ってきていた。全振りが揃っていた。起きている者は数珠丸のように直ぐ様臨戦体制へ入っただろう。眠っている者も結界の破れた瞬間の霊圧の歪みを察して既に起きた筈だ。
審神者の安全は確保されている。後は彼等が敵を迎え撃つ。それは正しい対処だった。適切な対応だった。ただ一点、最善が全て報われるとは限らないという事を除けば。
その瞬間は酷く呆気なくおとずれた。まるで薄氷を割った時のような、パキン、という冷たく硬質な音が身の内から聞こえたと同時にサアと血の気が引く。
普段意識した事などなかった、自分から伸びる細い糸の先が、ふつと煙の如く消え去る鮮明な感覚。
あ、あ、やめて、
パキン。
いやだ、やだ、だめ、だめ、
パキン。
ああ、あああ、お願いだから、
パキン。
やめて、お願い、やめてやめてやめ、
パキン。パキン。パキン。パキン。パキン。パキン。パキン。パキン。パキン。パキン。パキン。パキン。パキン。パキン。パキン。パキン。パキン―――
―――覚えている。どうして忘れる事などできようか。絶望と慟哭に満ちた悪夢となって何度、何度何度何度何度何度繰り返し見たか。
ひとつ、ひとつと。一振りずつ、容赦の欠片もなく無情にこの手の内から零れ落ちて、確かにあった繋がりが消え去っていく感覚は未だ生々しく鮮明に残っている。折れないで、折らないで、お願いだからと、願って、祈って、懇請して。戸を血が滲む程叩こうが、審神者を守る為に特化したそれは決して開かず。咽喉が枯れる程叫んでも、またその声が外界へ届く事はない。戸が開いたのはやがて駆けつけた救援部隊が遡行軍を殲滅し終えた後だった。
既に乾いた涙の跡が不快な目尻を擦る事も忘れた視界で見た蔵の外は、夥しい血痕に柄と上身がバラバラな刀の数々。散らばる破片が陽の光を受けて場違いのようにきらきらと眩い、そう思った瞬間、身の内から溢れ出た獣じみた絶叫。
そこで意識が途絶えているのは、きっと狂乱する私を静める為に強制的に眠らされたからなのだろう。
起きた時には現実味の薄い白い天井の病室だった。そこで私は状況の説明を受けた。刀剣達はどのシェルターに審神者がいるのかを撹乱する為に審神者の自室とふたつの蔵の三手に別れ迎撃し、ほんの僅かもうひとつの蔵に練度の高い者を配置したおかげで遡行軍はそちらに審神者がいると判断した結果救援が間に合った事。それでもあまりに数が多く、一振りを除いて全ての刀剣が折れた事。その一振りが日光一文字である事。その日光も折れる寸前の有り様であった事。今は政府で無事に手入れが済んでいる事。
事務的でありながらも私が哀れでならないといった様子の職員は、貴方に落ち度はない。結界にも綻びはなかった。たまたま運が悪かっただけだ。刀剣達は皆奮闘した。彼等は身を賭してちゃんと主を守りきったのだ。そう励ましの言葉を述べて立ち去った。
これからどうするかは、まだ気持ちの整理がつかないだろうから追々で構わない。そう言われても、言われた言葉の全てが上滑りし、なにひとつ身の内へ入っていなかった。薄い膜の向こう側へ言葉が並んでいるのをただ眺めていた。
これから。これから?それだけは酷くおかしな言葉のように思えた。審神者になってからの歳月で得た全てを喪って、それでこれから、どうしろというのだろう。私という審神者の身ひとつだけが残って、それで、それになんの意味があるのだろう。これから、これから―――どう生きろというのだろう。
ぼんやりと薄い意識のまま、ただ時間だけが過ぎ去って、しかしふっとした瞬間、蔵の戸を閉める寸前に見た数珠丸の私を安心させるようやわく笑んだ表情や、あの生々しい刀の折れる感覚がよみがえっては泣き叫び、駆けつけた醫士に鎮静を図られる繰り返し。
身体は無傷であっても、こころはそうではないと診断されたのはきっとはやかった。
薬を打たれて眠っては悪夢を見て、泣き疲れて眠っては悪夢を見た。
どれだけの朝がきて、どれだけの夜を迎えたのかも定かでない頃、開いた病室の戸へ視線を向ける事すら出来ずにいれば「主」呼ばれて、のろのろと顔をあげる。白の清廉な装いのうつくしい、その美丈夫に遅れて日光だと思う。日光、日光一文字、たった一振り残った、私の刀。意識すれば一筋の糸が細くも確かに繋がっている。
日光はただ私を見ていた。あまり多くを語る事のない刀だ。私も日光に何も言える言葉が出てこなかった。
日光は私の刀として手元へ戻り、ただ静かに世話を焼いた。なんの前触れもなく泣き出す私の背をその大きくあたたかな手で撫でてくれた。失ったものばかりを数える主の傍に辛抱強くあり続けた。その甲斐もあってかほんの僅か、少しずつ、涙の溢れる回数は減っていたそんなある時。自分で梳る事も出来ずにいた私の髪に櫛を入れる日光が、ふっと「主、お前が生きていて良かった」そう零した。張り詰めていた息がようよう溶けたようなそんな、雪解け水にも似た春の気配のするやわらかな声音だった。
それに、私は―――凍ついた。
日光が所用で病室を後にしてから、身を横たえる事もなくただ一点を見つめて、何も見ていない私は、身の内にぐるぐると何か得体の知れないものが渦巻いている事だけを思っていた。絵の具を混ぜ過ぎて濁った色のようなそれは涙にもならず、叫びにもならず、笑みになった。
どうしてだか乾いた笑いが溢れて。何がおかしいのかも分からないのにおかしかった。
そう、おかしかった―――不思議で、おかしくて、室内を見回して、ふと気付いた。ひとり部屋のそう広くない病室は、高い位置の窓に格子がつき、真っ白だと思っていた天井には薄い染みが散っている。思い返せば出入りの際に施錠の音を聞いた気がする。ああ、と思って、シーツを裂いていた。
首を吊るのに、別に梁はいらない。ドアノブ程度の高さでも十分なのだ。
圧迫感に瞼を閉じる。まなうらに、葡萄色の髪の長い尾がちらついたが、直ぐに暗闇へ沈んだ。
覚えているのは、そこまでだ。

「日光、ここは何処ですか?」

病室でもない。新たな本丸でもない。ここは“私の本丸”だ。襲撃を受ける前の、本丸だ。現世でも、本丸のある異空の座標とも思い難い。

「俺の神域、ではあるがここに“ある”のは意識だけだ。その為俺と主、双方の記憶が影響を与え混在している」
「……私は死に損なったんですね」
「肉体は現世の病室で眠っている」

夢のようではなく、事実夢だと言われても驚きはなかったし納得した。既視感や違和感の多くは、既に経験した事だったからだ。もう存在しない私の本丸のあたたかだった日常をなぞっているだけの、張りぼての虚構じみた空間。
私の幸福な記憶の世界。
自殺が失敗に終わった事は少しばかり残念だったが、なんだ、と思っただけだった。

「怒っていますか?」
「……その質問には否と答えようが、だがそれでも、憤りを覚えなかったと言えば嘘になるのであろうな」
「……まあ、当然でしょうね。貴方からしてみれば」

自嘲の混じる声音に真面目だと思う。怒って責め苛む権利が日光にはあるというのに、それを由としない頑健さは私にはないものだ。
そこでようやく何故日光だけが恐ろしかったのか分かった。彼だけが現実で、私をうつつと繋ぐ唯一の存在だからだ。
この幸福な夢のなかであって異物は私も同じだというのに、自分の事は分からないから日光だけを恐れていたのだ。
気付いてしまえばくだらない。くだらなく、しかし切実だった。日光が死に損なった私の意識をここへ連れ去った判断のとおりに、きっと。
“今の主は現世で生きられぬと判断した。戻った折には如何様な処断も受けよう“
聞いた覚えのない声が脳に響いて、ああ、と思う。
“主の人としての生を奪うつもりはない。だが、俺に馴染ませておかねばここではさわりが出る”
そうか、と思った。

「―――日光、これを繰り返すのは何度目ですか?」
「…………」

今度は私が自嘲する番だった。日光のらしくない無言に、ひとつ息を吐く。このやりとりすらもう幾度も繰り返されているのだ。神域にただの人の意識がずっとあって耐えられる訳がなく、最悪精神が崩壊する恐れを回避する為に日光の神気を馴染ませられ、けれど度が過ぎれば今度は人ではなくなり現世へ戻れなくなる。
その微妙な塩梅のせいで、次第に神気が薄れるにつれ私は記憶を取り戻し、日光を恐ろしく覚え出し、また新たに注がれた事によって忘却し幸福な夢を生きるのだろう。
正確に思い出した訳ではなかったが、今回が初めてではない事だけは確かで、日光が言い淀むのであればそれは既に少なくない回数なのだろう事も想像に難くなかった。
だから。

「そんなに、審神者を生かしたいのですか?」

この問いももう何度もしたのだろう。

「違う。主が審神者を辞めたとしてもそれは構わぬ事である。俺は……“俺達”はただ貴女という人に生きていてほしいだけだ」

何度も受けて、日光はその度に傷を抉られて血を溢れさして、それでも伝えようと言葉を紡いだのだろう。
酷い主だと思う。日光の言葉に、分かっていると思う。
日光のそれは歴史を守ろうとする人間に手を貸すやさしさであって、だけどそれだけではない。日光以外の刀剣、その全てが私を生かす為に戦って、剣花を散らして、そうして折れたのだ。今生きている私の“生”の裏側にはそれだけの命の重みと想いがあるのだ。そうして日光は、たった一振り生き残って、その想いの全てを未だ継いでいる。
日光にとって私の死は、共に主を守る為に命を賭した刀達のその全てを無為に帰す行為に等しい。だから生かされて、死のうとした主を、生かそうとしているのだ。
守られて生き残った命を自ら手放そうとする事を、日光は許す事が出来ないのだ。主にとっての幸福を考えて手放す事もきっとこの真摯な刀は選択肢のひとつとしてもう片方の手に乗せて、それでもどうしてもそちらを選ぶ事が出来ない。当然の事だろうと思う。
私と違って手放す事の出来ないでいる日光は、哀れで、愛おしく、どこまでも眩しかった。

「……私は簡単に、たった一振り残った貴方も手放したのに」

いつの間にかぼんやりと、意識が霞む。足の感覚がなくなって、倒れ込む身体がけれど支えられる。衣服越しであっても、あたたかく厚みのある身体だった。
酷い眠気は、きっと瞼を閉じてしまえば、次に起きた時、また全てを忘れ幸福な夢を生きるのだろう。何度も、何度も、繰り返し、やがて私がつらい記憶を全て忘却するまで。ああ、だってほら、もうあの時私を蔵へ逃した刀剣が誰だったかを思い出せなくなっている。そうか、つらい記憶だけじゃない。

「……最後には……日光の、事も……忘れる、の?」

身に回された日光の腕に、僅か力がこもったのちに「それで主が生きてゆけるのであれば」いつものように淡々とした物言いのようで、そうではない声音をただ想う。
願いと呪いの違いはなんだろうか。ひとりと一振りで、生きなければいけないという呪いにかかっているのだ。
生の定義すら疑ってしまうような現状であっても、これが日光のやさしさであり悔恨であるのだと納得してしまえばもうそれ以上はなかった。たった一振りで全てを負った背へ、両の手をまわし縋りつく事すら出来ずに、ただただその心音を聞きながら瞼を閉じた。

20230928

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