昼だというにも関わらず、白い蛍光灯で照らされてなおどこか薄暗さを感じる廊下を男は歩んでいた。
リノリウムの床は清掃が行き届いているのだろう、不安を煽る程静謐な空間に、きゅっと場違いな靴裏と擦れる音だけが響く。白い壁に等間隔で並ぶ扉と名札を見ずとも醫士である男の目的地は明瞭であった。一番奥の左側へある扉の前で歩みは止まり、慣れた様子で戸を横にスライドさせる。その途端、ふわりと風が頬を撫で白衣の裾を揺らした。閉めても気付けば開いている窓から入り込む風がカーテンをなびかせ、淡い影が波のように寄せては引いている。
個室のたったひとつのベッドへ近付く。入った瞬間から耳にしている一定の音によって既に今日も変化はないのだろうと予想した通りに、ベッドにはひとりの女が眠っていた。
閉じられた瞼を縁取る睫毛が、ぴくりとも動く様子のないのをつい見つめてしまう。最後にその眼裏の奥へ秘められた瞳を見たのはいつだっただろうか、思っても正確な日付は醫士の脳裏に浮かばなかった。
開いたばかりの蓮を彷彿とさせる白いおもてのなか、頬は薄紅に染まっており血色の良さが分かる。そばだてれば微かな呼吸音もまるで乱れなく。ただ眠っているだけ、ただ目醒めないだけ、昏睡状態という診断結果をくだされたそれを覆す気配は未だないようだった。
首元の包帯もとれて久しい。本来ならばもっと厳重な部屋へ移されておかしくないにも関わらず、この一般的な病室に配されているのは偏にこれのおかげだと、ベッドの横へ視線を移す。わざわざ置かれた台の上には一振りの刀があった。鞘へおさめられ静けさを湛えたその刀身を見た事はなかったが、価値に相応しいうつくしさなのだろう。触れる事は醫士には許されていなかったし、触れようとも思わなかったが、この刀を前にするといつも同じ事をいだいていた。
どちらも、今日も何も変わりない。
それを確認した醫士は踵を返し、夢寐の部屋を後にした。



不意に意識へ滑り込んできた軽やかな跫音と、金平糖の瓶を揺らした時のような声が聞こえて顔をあげた。
書き物に集中していたらしい。視界にうつり込む時計は記憶にあるものより長針を一回り半させていて、そっと洋筆を置く。凝り固まった筋をほぐすために背をそらしてから、ふう、と一息ついた。
開け放している戸からは短刀達の楽しげに駆ける気配は既に遠く、ゆるやかな風にのって梔子の香りが室内を通り抜けていく。彼等にとっては音もなく歩み走る事は容易だというのに、私が突然気配も音もなく話しかけられたりする事に何度も驚いてしまった結果、わざと生活音を立ててくれている。やさしい付喪神達だ。
数多ある本丸のなかで、きっと大多数がそうであるように日々彼等を戦場へ送り出しても、ここには平穏な日常じみた空気が既にあった。それなりの大所帯は、誰もが役割や好む事をみつけ循環する流れが淀みないものとなって久しい。厨では夕食の支度をもうはじめているのだろうし、離れから遠い道場では手合わせをしている刀もいるのだろう。自室で読書をしたり、縁側でお茶を飲みながら語らっている様子も簡単に浮かぶようだった。
ぬるくなったお茶で咽喉を潤しながら、ぼんやりと廊下の向こうを眺めれば庭に茂る葉もだいぶ色濃くなり、陽射しに早緑の蔭をつくっている。燥いた白い地面には既に夏の気配があった。じきに海辺や花火のうつくしい景趣へ変える日を設けてもいいかもしれない。思いながら、後少しだとまた洋筆を手にとろうとした時「主」呼ばれて指先が凍てつく。
一呼吸ののちに顔を向ければ、戸の傍らに内番着の日光が立っていた。

「菓子だ」

端的に言って音もなく入室するその手には小さな盆のうえ、確かに練り切りだろう、華やかな色合いがあった。慣れた手付きで涼しげな切り細工の施された硝子の小皿が、ことりと書面の横に置かれる。紫と青の組み合わせは直ぐに朝顔を模したものだろう事が分かり、市販ではなく菓子作りを好むものの手製の様子も嬉しくなる要因だった。けれど同時にふっと何かを忘れているような心持ちになったが、それも刹那の間にゆるく消え去り戸惑いながらも、ありがとうございます、礼と笑顔を日光へ向ける。うまく口角を上げられているかは分からなかったけれど、日光はひとつ黙礼すると静かな跫音とともに去っていった。それに自分が気付いていなかっただけだったのだろうと納得させて、そっと吐き出した息は思った以上に重苦しくて驚く。
どうしてだろう。胸の内だけでそっとつぶやきながら、黒文字でちいさく切り分ける。口にすれば程良い餡の甘みにほっとする。それなのに、私はどうしても紙に垂れた墨のように残り続ける一抹の感覚を消し去る事ができなかった。

どうしてだろう、私はあの刀が恐ろしい―――

そう思う度に、暗澹としたものが胸を満たす。それは根源の分からないえもいわれぬ恐怖心と、自分の刀にたいしてそんな事をいだくなどという自責の念の入り混じったものだった。

本丸での生活のなか、ふとした瞬間視界の隅に入る、前のきっちり閉められた白く長いコートを、尾のように揺れる葡萄色の髪を見る度に、絶対に視線をそちらへ向けようとしなくなったのはいつだろう。やや伏せた眼差しで別の刀剣と喋っていても、主の控えめな性質のせいだと気に留められないのは私にとって幸いな事だった。
それなりに数の増えた大所帯では一日のうちに会話をする機会のない刀があってもなんらおかしくはなかったけれど、それ以上にたった一振りのある刀を敢えて避け続けている事を知られないようにするのは酷く気を使った。
日光自体普段から口数も少なく、審神者に纏わりつく間柄ではない事も幸いした。常から長の傍に控えているという特徴は、以前であれば少々の寂しさも覚えさせたが、今となってはありがたい事このうえない。
けれど、とそこで思う。
視線を向けずとも、その伶俐な眼差しがこちらに向けられているような気がしてならないのは、果たして気のせいだろうかと。
あの淡い菫青の双眸が真っ直ぐに私を捉えている気がして、ただただ恐ろしかった。
何を、されたという事もないのだ。
他と変わらない主と臣下の距離だったはずだ。
だというのに、いつからか私は恐れるようになっていた。
具体的な理由の見当たらない、得体の知れない恐怖心はまるで怪談噺を聞いた後、鏡に映る己の背後へ見えざるモノの姿を探してしまうような、そんな日常に潜むささやかさとして精神を蝕んでいくようだった。



翌る日のよく晴れた気持ちの良い気候のなか、本丸内を歩む。本丸といえども私にあてがわれたのは広大な屋敷といった風情の住まいだった。
庭に面した廊下はともかく、部屋と部屋の間の廊下は日中であっても陽が遠いせいで灯りをともさなければ薄暗い。そろそろ総出で簾戸へ変えてもいいかもしれない、思いながら出陣に遠征にと出払っているからか静けさで満ちた黒々と照る木床を歩む。
一階建のなか廊下のところどころにある天井の戸は、開いて階段を降ろせば物置に繋がっている。はじめの頃はがらんどうだったのに刀が増えるにつれ物が置かれるようになっていった。敷地内にあるふたつの蔵もそうだ。
真っ直ぐではない廊下のちょっとした角には歌仙ら、風流を愛する刀が生けた花が花器に飾られ静謐な空間を彩っている。庭もだけど、今時期は色とりどり咲き誇っていて華やかだ。福島光忠もそういったものを好むらしいも、私の本丸ではまだ迎えられていない一振りだった。
厨のなかにある床下の戸を開ければ、綺麗に収納されているのは乾物や日持ちのする食品に、使われるラップといった日用品で、そのなかへ紛れて大きな密栓された壜が並んでいる。陽射しが熱を帯びてきた時分に収穫した梅の実が飴色の液体に浸って静かに沈澱しているそれを、壜を傾け流れを作ればまだ溶けきっていない氷砂糖がちらちらと光を受けてゆるく舞う。その度に陽炎のように揺らぐのをつい眺めながら、角度を変えては液体を馴染ませる。
まだ全然皺のない果実はそれでも産毛で水を弾いていた頃よりはまろい曲線を描いていて、日向を筆頭にみんなで丁寧に竹串で蔕を取った甲斐があったものだと自然くちびるがほころぶ。
ほとんどは梅干しになったが、私の願いで一瓶だけ梅酒として漬け込んだそれを定期的に揺するのはちょっとした楽しみだった。
とはいえ飲めるようになるにはまだ程遠い。酒呑みの刀達に振る舞う約束は遥か未来の日程だったけれど、そのささやかさの積み重ねは愛おしいものでもあった。

「どうした?」

厨から出たところで声をかけられ思わず肩が大袈裟に跳ねる。振り返れば日光がいて、廊下の薄暗さとあいまってその肌はどこか幽霊のような仄白さをたたえていた。
上背もあり、私の肉と骨と皮だけの身体とは違い全身くまなく均整のとれた筋肉の造形美を保つその人の身は存在感が大きいにも関わらず、ふっとした瞬間雨の日の水烟のように気配が薄くなるようで。日光のこの不思議な静けさは、どの日光一文字にも共通なのだろうかと思わせるものだった。

「梅酒の様子を見にきたんです。氷砂糖が溶けるまで定期的に揺すらないといけないから」
「そうか……そうであったな」

こうしていてもやはり見え苦しい。得体の知れない恐怖心がぞろぞろと這う感覚は耐え難く、逃げ出したいという訴えが身の内から急かす。
しかしそこでふと「……あれ、日光は今日は出陣では……?」朧げな記憶が首をもたげたまま口に出してしまう。

「……否、今日は俺ではない」
「そ、うでしたっけ……すみません、間違えました」

何気ない質問はしかし静かに否定され、記憶違いだったかと慌てて謝罪する。
軽く頭を下げて日光の隣を抜け去った私は、その背を淡い菫青が見つめている事になど気付くはずもなかった。

夕食と湯浴みも済ませ、敷いた夜具に潜り込んで読みかけの本の頁をめくっていればやがて瞼が重くなってくる。部屋の電気を消した今、枕元の洋燈のやわらかな灯りもともない、緩慢に意識が散漫となるのをどうにか持ち直す事を数度ののちに、足掻くのを諦めてそっと本を閉じた。
内容が面白くないという訳ではないのに、最近どうも眠くなるのがはやい。
燈を消し、うつ伏せだった体勢を仰向けになおしてぼんやりと暗い天井を眺めれば、暗がりに灯りの残像がちらつく。夜闇に満ちた室内はけれど月が満ちていく周期のおかげで、月見窓の障子が傍らの楓の影で彩られているのが分かる程には明るい。明日は雨の予報だったろうかととりとめもなく思ううちに瞼が閉じる。
あの後確認したが、確かに日光は今日は非番だった。彼の言うとおり私の記憶違いだったという証明にけれど、じわりと紙に落ちた墨の一滴のような違和がやはり拭いきれないのはどうしてだろう。
探ろうと手を伸ばしても何も指に掴めない。本当はそこに何もないのかもしれないのに、決してそうは思えない。虫の知らせとでもいうのだろうか、なまじなものを相手にする職業であるのだからこういった勘は大切にしなければならないと研修生の頃に教わった記憶がある。
虫の聲が遠く聞こえる。じきに蛙も鳴き出すだろう。意識の細い糸をどうしてだか手放すのが躊躇われる。ここ最近ずっとそうだ。
眠くて堪らないというのに、何故だか眠りたくないという意思が邪魔をする。
それが身の内のどこから生じるのかも分からぬまま、ただ、それでもそれを気のせいにしては駄目だと叫ぶ私がいるのも事実なのだ。
これもまた何故なのか分からない。分からないうちに、いつしか布団は泥のようにぬかるみ、身体が沈んでいく錯覚。冷たくもありぬるくもある暗闇のなか意識は途絶えた。



日の出は既にはやく、障子を透かす陽光に自然睛が醒める。時計へ視線をおくれば予定の起床時刻よりは幾分も前だ。二度寝をしようかと思って、そこで、そうだと浮かんだ事柄に身を起こした。
薄手の上着を羽織って戸を開ければ、室内よりもしんと冴えた空気が頬を冷やす。朝日にぬくめられる前の、まだ夜の気配の残るそれにほうと息を吐いて、そのまま縁側につっかけをおろして外へ出た。
雲はあるがまだ雨の気配は遠いように思う。朝露に濡れた木々が瑞枝を伸ばしているのを横目に、庭を歩んでいく。朝食の当番の者や、山伏や数珠丸といった朝のはやい男士であれば既に起床しているだろうが、そういった気配も遠く、未だしんと寝静まった本丸はどこか新鮮でもある。
既に花の枯れた紫陽花が物寂しい建物の裏を抜けて、更に進んだ私室から程遠いそこには蓮池が広がっていた。
ほとりで立ち止まれば、人の気配を察した蛙の水隠る音が聞こえ、小さく笑ってしまう。しかし左右に眺めてそっと嘆息する。
池のおもてにはすらりと伸び、丸い葉を存分に広げる葉が所狭しと茂り、その合間を薄紅や白、新芽のような緑の雫が彩っているが、それだけだった。私の望み描いた花開いているものはまだひとつもない。
この本丸へ来てから毎年楽しみにしている蓮の花の開花だが、今年はまだのようだった。残念がっていると少し離れたところにあるそれが睛にはいる。汀を歩んで近づけば、ふうわりとした丸みのやわらかさが際立つ。この蕾の様子であれば明日にでも咲くかもしれない、途端気分が上向くのだから単純だ。
楽しみだと思いながら池を後にしようとしたところで、けれど立ち止まってしまう。池の左手、下生えの先、木々の青々しい空間からどうしてだか視線がそらせない。何故だろう、思う私の違和感が足を地面に縫い付ける。なんの変哲もない庭の一部だというのに、なにかがおかしいような気がしてしまう。だというのにその感覚がどこからくるものなのかが分からない。
一歩、そちらへ向けて進もうとする、その意思だけが不思議とはたらく。
けれど。

「主」

鋭い声へ弾かれたように顔を向ければ、思ったよりも近い距離に日光がいた。驚きがまさったせいか、恐ろしさよりも、私は何故だか日光の常と変わらぬ涼やかなおもてに、それでもどこか焦りのようなものを見出した気がした。それが不思議で、返事を忘れていると日光はひとつ息を吐き出した後「直に朝餉の時間だ、その前に身支度を終えた方が良いであろう」そう続ける。
そこにはもう私の感じたものは存在せず、硬骨とした日光一文字らしさだけがあった。

「えっと、はい、そうですね……」

そういえばまだ寝衣に上着を羽織っただけの状態だったと、途端自分の格好へ羞恥が働き慌てて元来た道へ歩み出す。
日光はきっちり支度を終えている清廉とした佇まいだから余計だ。緩みの少ない類である日光を前にすると自然こちらの気も引き締められ、彼のようにしっかりしないとと思わせてくれるそれは私にとってはありがたかった。どちらかといえば審神者に甘い性質のものの方が多いなかで、主として相応しいかどうかを見定める眼差しを隠そうとしない日光はある種貴重な存在と言える。
だから私はそんな日光の距離感をありがたく思っていた―――そうだ、日光にたいして抱いていたものはそれだった筈なのだ。だというのに、いつの間にか恐怖心に覆われて、忘れてしまっていた。
どうして、忘れてしまっていたのだろう。
思っても、それも分からなかった。
分からない事だらけの背に、遠雷が聞こえた。

気付けば雲は黒く天を隙間なく覆い、本丸内の端々はいっそう暗がりへ沈むようだった。風も出てきたのもあって、早々に雨戸が閉め切られたせいもある。これは思っていたよりも嵐のような雨になるのかもしれない、灯りに照らされた執務室もいつもより薄暗くすみの影が濃い。
静かな空間に戸を雨粒が叩く音と時折雷鼓が響く。机仕事に専念しようと思っても気付けば日光の事を考えていて、とうとう諦めるように洋筆を置いた。
日光。日光一文字。私の元へ顕現した順で言えば新しい方から数えた方がはやく、そう長い付き合いではない。
練度はそれなりだがまだ上限に達してもいない彼は部隊へ組み込んでいる方が多いのに、よく会うとふと思う。たまたまなのか、そうではないのか、後者だとしても私にその理由は分からない。分かっている事といえば、彼が親しみをいだきづらい刀であっても、長の左腕としての責任に満ちた誠実な刀であるという事だ。
南泉などは分かりやすく日光を恐れている様子があるけれど、それは彼がその立ち位置を担っているからなのだろう。きっと本気で怒らせると怖いのは山鳥毛や一文字則宗の方だ。自分よりも上の立場の者の手を煩わせる前に律する事が役割のひとつでもあるのだろうと思っているそれは、きっとそう間違ってはいない。
距離を縮めてこなくとも審神者としてそのくらいは見ている。
怜悧な佇まいの内にその刀身を形作った炎の熱の如き苛烈さを確かに秘めているのは、合戦場帰り稀にその薄紫の双眸が硝子越しであっても爛々とした輝きを残しているから分かる。戦場で敵を斬るという、刀として真っ当に使用される事を好む性質だと気付いた時は少々驚いたものだった。
日光にとって審神者とはなんなのか。分かりづらいが主であると尊重はしてくれている。気安くはなく、ともすれば明確に線を引いていようが日光なりに気にかけてくれているのだろう。いずれ極となった暁にはどういった自身を見出すのか、楽しみな刀の一振りでもあった。
あらためて思い起こせば心の整理が出来て落ちつきを取り戻す一方で、燈に照らされ畳へ伸びる私の影がざわざわと背を這う感覚。どうあっても消え去らない恐ろしさに、これはもういっそ誰かに相談してみるのがいいのかもしれないと結論づける。
初期刀や初短刀、一文字の長に御隠居、他言せず冷静に両者を鑑みて言をくれそうなのはこのあたりか。今の時分なら自室に居る可能性も高い。思ってそっと立ち上がると灯りを消して執務室を後にする。
湿気を吸い込んだ木床はどこか足裏をじわりと濡らすような錯覚。流石に燈の灯っている明るい廊下を歩んで、目的の部屋へ辿りついて、けれどそこは無人だった。
留守だろうか、今日は内番の担当でもなかったから他に親しい刀の元へ行っているのかもしれない。初期刀、初短刀の姿はなく、ぽつんと心許ないまま一文字の部屋を目指す。広い屋敷のなかである程度刀派ごとに部屋の場所はまとまっていたため、日光と顔を合わせる可能性もあり少々複雑な心持ちのまま歩んで、そうして、やはりそこも無人だった。

「…………」

偶然なのか、それとも。いや、きっとそうだと思い直したところで、ふっと瞬間霧が晴れたように気付く。
“ここに来るまでに、誰にも会わなかった”と―――
ひゅっ、と咽喉から漏れた息が雨音に掻き消される。いつの間にか雨はつんざくような大きな音となり、耳鳴りのように脳へ直接響いていた。礫の如く屋根瓦を打ちつけ、軒から滝のように流れている様が睛の奥へ浮かぶ。どうして、と暗闇に雨の白い線が絶えずザアザアと五月蝿い頭で、それでも思考しようとする。何故、どうして、そんな、そんなものはもう偶然でもたまたまでもない。
そう―――居ない、のだ。
思った瞬間、四肢の感覚は消え去り、全てが暗い底へ沈むようだった。





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