※花吐き病パロディなのでご注意ください


の時、最期まで恋を叫んで砕け散った刀をうつくしいと思ってしまった。

庭に面した回り廊下を歩めば、ふっと瑞々しく甘い香りが漂っている事に気がつく。立ち止まって視線を巡らせた審神者の双眸に、濃い緑の中紅の混ざる白く小さな花が映り春の訪れを思う。
稀に固定された景趣へと変える事はあれど基本的には現世と同じ季節を刻む本丸では、これから気温が長閑さを帯びるとともに花々も咲き乱れる事になるのだろう。
晝間もあいまって抱く明るい予感に反し審神者の心中に沈鬱なものが広がっていると、沈丁花の茂みの向こうを刀が数振り歩んで行くのが見えた。内番の男士であろう、面子はすぐに脳内に浮かんだ今日の編成と重なる。人間の持たない色彩を持つ彼等は花に負けず劣らず色鮮やかだ。
やや距離はあったが審神者に気づいた面々が、各々会釈をしたり手を振ったりと反応を向けてくる事に笑むと、手を振りかえす。まだ用事の途中なのか寄って来る事なく去っていったのを見送り、そっと視線を伏せ歩みを再開しようとして、できなかった。
唐突に咽喉の奥に違和感を覚え、咄嗟に口元を着物の裾で隠す。抑えようとしてもどうしてもごほごほと音の出てしまう咳漱は、それだけではないのを理解していた。
違和感の鎮まった頃、そっと離した袖口の中を見ればまるで咲いたばかりのようにうつくしい花が散らばっている。それに眉を顰めながら、一旦部屋に戻らなければならないと審神者は音もなく嘆息した。
こんな遠目にその姿を見ただけでと、症状が重くなっている気がする事もより溜息に暗い影を落とす。会釈も手も降らず、硝子越しにただこちらを一瞥した薄い青紫の瞳を思い出してまた胸が苦しむのをそっとやり過ごすと、審神者は静かに踵を返したのだった。



由来よりもつい字面のままに拂曉を照らす様を彷彿とさせる号とは異なり、月光の方が似つかわしい涼やかな風貌の、あの刀にたいする恋情を自覚したのは一体いつだったか。
はじめは酷くとっつき難い刀のようだというのが第一印象であった。審神者への挨拶よりも既に顕現していた一文字の長に向けてのものの方が余程恭しく、上背のある体躯といい一切の着崩しを許していない清廉な白の装いといい、隙のない頑なさを審神者に与えた。
暫し接していてもよりその印象を深めるばかりであったが、そう気にしていても仕方あるまいと短く最低限の返答にも慣れてきた頃、得るものはないぞ、そう曰った刀が審神者にはおかしかった。
笑んだ主に思っていた反応と違ったのだろう、不可解そうに微かに眉根が寄るのを見て「それを決めるのは私だと思うんだけど」違うかなと問えば、僅かな逡巡の後に確かにそうであるなと納得の声が返ってきて審神者は余計笑ってしまった。堅物でとっつき難いようでいて素直な刀なのだろうと。
なにより誠実である。愛想も、長に向けるような恭しさも足りずとも、審神者を蔑ろにしている訳ではないと理解できたためそれ以降はもう他の刀と同じように接する事ができていた。これも己の刀だった。
刀だった、筈だったのだ。思い返そうとしてもやはり審神者には明確なきっかけなど浮かばなかった。
美丈夫という言葉が酷く似合う、うつくしいのに男らしい顔立ちを見つめる瞬間が増えたからだろうか。立ったまま書類を手に会話をした際、長身の上体を屈めあちらから距離を縮めてくれる優しさに触れたからだろうか。その際に目前で揺れた、馬の尾にも似た葡萄の色をした髪の艶やかさに睛を奪われたからだろうか。低く静かな声音が耳に心地良く響くようになったからだろうか。黒革に包まれている事の多いその大きな手のぬくもりが知りたいと思ってしまったからだろうか。桔梗を彷彿とさせる寒色の双眸に映してほしいとも見ないでほしいとも、矛盾を抱えるようになったからだろうか。
審神者には、分からなかった。
いつから自分がこの刀を―――日光一文字を、男として見るようになったのか、分かりたくもなかったが事実を認めない愚を犯す事もなかった審神者は、ただそれを隠す選択肢をとった。
戦争をしているのだ、刀は戦争の道具であるのだ。道具の、それも量産品に恋などしてなんになるというのか。この閉じられた箱庭であっては唯一であろうとも、演練や万屋に向かえば同じ顔は幾らでもいる。それでも審神者は顕現した刀達を自分の刀であると大切に扱ってきた。それでいい筈であった、それだけでいい筈であったというのに、欲が出たのだろうか、理解は未だできなかったがそれでも確かに審神者は恋をしていた。
一時の気の迷いかも知れぬと、人のこころは所詮うつろうものであると、時間が経てば咲くこともなく枯れ萎むと信じてけれど、咽喉から溢れ出そうになる恋心はそっと何度も飲み込むその度に、胃の腑でぐるぐると渦巻いては審神者を苦しめた。
そうして、無情にも審神者はその刻すら奪われる事となった。

その日審神者は近侍であった平野藤四郎を共に万屋の店を巡っていた。本丸に必要な買い物を先に済ませ、従順に付き添ってくれる平野に甘え自身の趣味の店を幾つか覗いた頃、土産に菓子を買っていこうかと新しくできた菓子店を思い出し小径を歩んでいた。その傍らを風のように駆けていく刀があり、すれ違った審神者は下げた手へ何かが当たる感覚に足を止め振り返っていた。燥いた地面にはまるで今摘んだばかりのように艶しい花が零ちていた。
点々と続くその先で、刀はしかし不意に足をもつれさせ地に膝をつく。刀剣男士の運動神経にあるまじき様に映り審神者は驚いたが、それよりも立ち上がる事のないまま顔だけをあげたその横顔に見入ってしまった。
見開いた双眸から玉の雫をあらんかぎりこぼれさせているというのに、そのくちびるは笑みを形取っているのが審神者には酷くうつくしくも奇異に映る。
けれどその間にも薄く開いていた口唇から、泣き叫ぶように、哄笑するように、恋焦がれるように、花が溢れいでて、そして―――パキン、音は嫌に鮮明に耳に響いた。
審神者は刀の折れる様をその日はじめて睛の前で見る事となった。

騒ぎになるなか、審神者は近寄る事も去る事もできずにただ突っ立ったままでいたが不意に手をやわらかなぬくもりに包まれて我にかえる。
視線を下げれば平野の小さなてのひらが審神者のものと繋がっていた。主さま。静かだが芯のある呼び声にも見上げてくるおもてにも、安心させるような落ち着きを湛えていたが、その桜鼠の瞳の奥に隠しきれなかった心配げな色を見つけて、審神者は色を失ってなお咄嗟に笑みを返す。それでも既に菓子を買う気分にはなれず、そのまま平野と手を繋いで帰宅した。
その数日後であった、審神者が花を吐いたのは。

花吐き病、正式名称は嘔吐中枢花被性疾患。片想いを拗らせた者が自然に発症する事もあれば、罹患者の吐き出した花に触れ感染する事もある。想い人がいた場合、触れた際の発症率は百パーセントを誇り、花を吐く度に衰弱しやがて死に至るうえ、その恋を成就させる以外の完治方法が存在しない。
自室のパソコンで調べた内容に審神者の脳にあの刀の姿がまざまざと甦り、確かにと納得する。あの時、手に触れてしまっていたのだろう。厄介な奇病を感染されたものだと忌々しさよりもしかし、最期まで恋を叫んで砕け散ったあの刀を、審神者はうつくしいと思ってしまったその事実の方が大きかったのだからどうしようもない。はは、知らず漏れた乾いた笑いだけが無音の室内に虚しく響いた。
恋が成就しなければ死ぬ病などお笑い種であったが、致死率で言えばあまりにも高い。治療法があるとは言えど謂わば不治の病だ。この戦争の半ばに命を落とすか、幸福に天寿を全うするか、病であっても歳を経て罹患するもので亡くなるかだとばかり思っていた審神者にとっては青天の霹靂にも近い。
履歴を消し、電源を落としながら瞼を閉じ深く息を吐く。同時に、そんな病に罹患する程に、自分は日光に恋焦がれていたのかと、胸を強く打たれる心地だったからだ。育てたつもりはなくとも無意識に無自覚に深く深く心の臓まで根を這っていた事実が疎ましくも、どこか喜びを生じさせるままならさ。成程、これがこころだったかと改めて抱く。
自覚をしてしまえばそれは、審神者の身にばっさりと斬りつけられた創がいつまでも塞がらぬまま血を流しているような、そんなものであった。自分では止血もできずに事切れるのを待つだけ。何れ溢れ出た己の想いで死ぬというのは酷く滑稽な末路であり、相応しいような気もした。
審神者の思考は死へと傾き、自然己の居なくなった後の本丸の事を考えるようになる。生への執着は人並みにあったが、しかし審神者には刀に想いを告げるという選択肢がやはり存在しなかったせいであった。

まだ病に侵される前、芽生えたばかりの淡いそれの行く末を未だ決めかねていた頃。おかしくないよう偶々近侍である時に、買い忘れていたものがあったのだと万屋に行く旨を告げれば勤めとして共となるのは当然の事だった。
そのたった一度きり、審神者は日光だけとの時間を過ごした。
一人と一振り、道すがら日光は一家の長にするよう常に審神者の後ろを歩んでいた。歩幅も歩調も審神者に合わせており、山鳥毛よりもコンパスの短い審神者は自分の歩みに合わせる日光の様子にどこか借りてきた猫の如く存在が静かだと感想を抱いた。
普段その長い足を存分に生かして歩く姿とはあまりに異なったせいだった。
大半が無言であったが、間に流れる空気は自然なものであり苦ではなく審神者を浮き足立たせ。ふと立ち寄った雑貨屋で白緑の髪紐が睛にとまった時も気づいたら手に取っていた。
店内のそう幅のある通路ではない為隣に並んでいた日光に一寸良いかと伺いを立て、了承に前へ垂らされた髪の束へと触れる。審神者の手が髪紐を己のものと合わせたところでようよう察したのだろう「……着飾らせるのならば、もっと適した者がいるであろう」突き放すようでいて、呆れとも不可思議ともとれる声音で言う。それに素直に受けとられると思っていなかった審神者はからからと笑いながら「貴方は強請るようなタイプではないから、こういう機会でもないと贈らせてくれないだろう?それに自分の所有物を飾り立てたいと思うのは主人の特権だよ」そう強引に説き伏せ、贈り物として包ませたのだった。
そうしてしまえば上を立てる事にも長けた刀はやや慇懃に有り難くと、恭しくも両の手で受けとるのだからやはり審神者にとってはおかしかった。主面をし半ば明かせない恋心の代わりとでもいうように自己満足を押し付けて、けれど拒絶されなかった事に心底安堵しているなど決して知られてはならなかった。
ただ、帰り際にそれが睛に入った瞬間、ぞろりと身の内を蛇が這う心地のまま日光はあれをどう思うと、恋仲であろう審神者と刀剣男士の姿を眺めながらなんてことのないように平静を装って問うてしまったのは、ぐらぐらと喜びと切なさで揺れるこころに差した魔だったのだろう。
主の言葉に日光は僅か、考える間の後に表情を一切変える事なく口唇を開いた。「所詮我らは刀である。肉の身を得て血を流そうとも本質は鋼、付喪の神であり化生であっても、人間には成れぬ」長いようで簡潔な物言いに続くものはない。それが答えなのだというのは雄弁であった。そうして審神者は日光の言葉を正しく理解した。
理解して、嗚呼と―――そっとくちびるを噛む。この刀は、人間に恋をする事などないのだろう、と。

そんな幸福と絶望の記憶を甘く味わっているうちに、また咳漱とともに花を吐く。花は決して男士に見られる事も触れられる事もないよう神経を尖らせているおかげで未だ気づかれてはいない。
知られたくない以上に己の刀にこんな病を感染してはならないという重責によるものだった。
中身の見えない黒い塵袋に入れては、ある程度量が溜まる度に自室に面した庭でそっと焼き捨てる繰り返しをもう幾度こなしただろうか。吐き出される花はその都度違う。意味があるのだろうと思っても、審神者は到底調べる気にはなれなかった。知る花の名も、知らぬ花の名も、すべからくただの臆病で身勝手な恋でしかないと理解していたからだった。
胸の苦しさをそっとやり過ごした頃にふと思い出す。それなりに数が増えた大所帯であり、出陣に遠征にと忙しないおかげで日光と顔を合わせる機会がある日もあったりなかったりだが、あの白緑が艶しい長髪を束ねている様を見た事がないと。
審神者は似合うと思ったが結局あの刀の好みではなかったのかと結論づけたところで、捨てられてはいないだろうが日光の部屋のどこか奥底で仕舞われたままのそれは正しく己の恋心の行方に相応しい気がした。
そこまでで審神者はどこか、いつの間にか日光を人間くさい刀と思っていたのだと悟る。
その刀身のように酷く硬質なようでいて、あの刀は命や死といった言葉を使う。折れるとは言わぬのだ。男という物言いにこだわっているのもそうだ。
戦場での普段とあまりに異なる様に、審神者は最初こそ驚いたが同時にこの刀を知りたいという思いも増した。審神者を心配させるような言動をしておいてしかし、心配はいらぬと拒む事もまた身勝手に映った。ならばその言動をどうにかするべきではという反発は、折れては困るのだと強引に下賜した守袋を手になお心配無用と断じられて、不意にしぼんだ。
これは、この刀は命を捨てる覚悟で戦場に行ってけれど、死なずに必ず戻ってくると大言を吐いているのではなかろうかと、審神者はそう思ってしまったのだ。思ってからあまりに前向きな解釈だったかと頭を抱えるも、未だに折れず審神者のもとへ帰ってくる事実に結局今も明確に判別できてはいない
しかしそれでも審神者には予感があった。だからといって戦場で力を奮い刀として正しく折れる事は、日光の望む死に場所であるのだろうと。
いつかあの刀も恋を知るのだろうか。
あの時は日光が人間にたいして恋情を抱かないと思ったが、もし抱いたとしても自身で引いた線を決して越える事もないのだろう。
思ってから審神者は、刹那脳裏に過ぎった願望に気づく。日光の、恋に苦しむ姿が見てみたいと。瞼を閉じれば暗闇に、砕け散ったあの姿が恋しい刀にすり替わる。それはとても狂おしくうつくしかった。



次第に咳漱の頻度が隠し切れないものとなってきたと自覚のあったとおりに、ある日初期刀に体調不良なのかと問われた。こんのすけも気づいていたようで一振りと一匹に強く勧められては断る理由もなく政府の医療機関へ足を向ける事となった。
しかし醫士の診断の結果は疲労によるものだろうという如何せん不明瞭なものでしかなく、付き添った初期刀は納得のいかぬ様子であったが審神者にとっては分かっていた結果だったため素知らぬ顔をしていた。花吐き病の厄介な部分に、花を吐くという申告がなければその症状が判別出来ないというものがあるのを知っていたからだった。
どれだけ最先端の機械で精密に検査したところで衰弱している事以外が分からない、レントゲンに写る臓器に花の影すら見えぬ奇病。
とはいえ何処まで隠し通せるものか。審神者としてはできればギリギリまで伏せておきたかった。
当然、努力をするべきだと思いはした。しかし思いはすれど、病を知ってなおその恋心に応える事がかなわないと分かれば、それは日光をも無為に苦しめる事になるだけだ。主の命を救う手立てをもっていてけれどそれを成すことができなければ本刃のみならず、この本丸内の刀達から大なり小なり責めを負う事になるのではなかろうかと思えば、何一つ知らぬままの方が余程後の軋轢を生まないだろうと結論づける。
この手で顕現させた全ての刀達が審神者の生きてきた証であるのだ、正しく戦力として引き継がれてほしいという願望もあったが、ただ日光に想いを告げ恋情を抱いて貰うための努力をして、それでもなお報われなかった時の絶望に満ちた死を味わいたくないだけなのだと、審神者は自身の卑怯さに自嘲した。

やがて審神者は部屋に籠るようになった。以前は本丸内の散歩を日課としていたがもうそれも止めて久しい。
どうしても運動不足になりがちな生活で、初期の頃からずっと続けていたものだったが、日光が顕現してからはその意味を多分に変えていたせいもある。日々の野菜を収穫する畑よりも奥まった箇所に作られた葡萄畑は、例に漏れず日光の望みによるものだ。
桑名江を筆頭に畑仕事や植物の世話の苦手でない刀も気にかけているとはいえ、其処はある種日光一文字だけの空間と言えた。そのため下手に探し回るよりも遭遇率が高かったのもあり、審神者は散歩のコースに葡萄畑を自然加えていた。散歩の体であれば話しかけるのに何もやましい事はないという打算にまみれたそれでもって、藤棚の如く頭上に葉の生い茂る緑の中に白のジャージ姿を見つけた際には必ず一言二言会話をしていたのだ。
動機が葡萄酒であったために審神者は当初、西洋の葡萄畑のように木を均一に並べたものが出来上がるのだとばかり思っていたが、完成したのは葡萄狩りを思わせるものであった。しかし天を覆うように茂る葉の隙間から射す木漏れ日に彩られた日光の姿は、いつもうつくしく審神者の睛に映ったのでありがたく堪能していた。
ある時思うままに「うつくしいね」と呟けば「そうであろう」実の選別を行いながら言うので「ふふ、葡萄もだけど日光がだよ」笑って返せば手を止め審神者を見下ろす。真っ直ぐな視線を寄越したまま「そう作られたのだ、当然である」文らない、ただ事実を述べた迄と言わんばかりの平坦な声音の後にけれど、俺にとっては、と日光が言葉を続けた。「主の方が余程うつくしい。人間の生き様の方が俺には好ましく映る」淡々と紡がれたせいで反応が遅れたがもしやこれは日光から最上級の賛辞を頂いたのではと審神者は気づき、途端相好を崩せば「そのような顔では撤回するぞ」と直ぐに釘をさされ真面目に姿勢を正したものだ。

仕事の合間に疲れた睛を閉じれば、まだ色付く事の程遠い小さな実の房をやさしく見つめる横顔が眼裏へくきやかに思い出され、愛おしさが胸を満たすと同時に咳漱込むのだからどうしようもない。まるで咽喉から直に出てきたのではと思うくらいには、吐き出した花は瑞々しくも濡れていないのがまた不可思議であった。
苦しげに呼吸を繰り返しながら淡く綺麗な色をした花弁をしかし、ぐしゃりと握り潰す。恋心が枯れるよりもはやく、花に蝕まれ命を落とす事は既に明白だった。
死ぬと理解していても、枯らす事も捨てる事も殺す事もできない、ある種恋という病の具現がこの花なのだ。もっとはやく日光に想いを告げ振られていればこんな事にはなっていなかっただろうか。思って詮無い事だと切り捨てる。
たらればよりも、苦しみながら花を吐いてなお、日光が好きだと想える事の方が審神者にとっては幸福だったからだ。

そんな誤魔化し続けた日々もとうとう破綻する。
病に蝕まれ衰弱した肉体では正しく働かなかった脳のせいで、久しくなかった重傷者を出したのだ。手入れ部屋の準備を整え出陣から戻った部隊を迎え、自己嫌悪に苛まれながら無事に手入れを済ませ気が緩んだのか、立ちあがろうとしてできなかった審神者は床に倒れ込んだ。ぐらりと霞む頭でどこか遠く目眩だと判断するが身はままならない。慌てたような男士達の声も膜を張った向こう側のようであったが、そんな審神者に追い討ちをかけるように突如きつく苦しんだ胸のままに息を吐き出す。息を、吐き出したつもりであった。霞む視覚に場違いな程可愛らしい色を、花をみとめた瞬間、ひゅっと咽喉が空虚な音を立ててより血の気が引く。
触れるなと辛うじて言霊で縛れた事だけが幸いだったか。手を伸ばし、花をその内に封じたそこまでで審神者の記憶は途絶えた。
次に睛を覚ました時は阿鼻叫喚の様相、というよりも半ば通夜のように重い空気の中であった。自室の天井の次に、枕元で正座のまま暗い顔をする初期刀の姿が映って察する。
こんのすけにより本丸内の男士全員に状況説明の行き渡った後であった。審神者の症状が花吐き病という病によるもので、醫士に掛かったところでどうしようもないものであるという事実により病院に運ばれず自室に寝かされたのだと。
審神者の手からなくなっていた花はこんのすけが、わたくしは触れても問題ありませぬゆえと処分したらしく安堵した。
そうして、当然の事ながら初期刀にもこんのすけにも何故と嘆かれた。申し訳なく思いながらも審神者は自分で考え決めた事であり、この病を治す術がないのもよく理解しているからだと説いたが、納得して貰えた様子はなかった。これも当然であろうと致し方なさを思っていれば相手は誰なのかと問われ、審神者は笑顔で口を閉じた。言うつもりはないという意思表示に、初期刀の握り締めたこぶしがより軋んだのを見て謝罪すればそんな言葉が聞きたいのではないと一蹴され審神者は困ってしまったが、しかしどれだけ申し訳なくともそれだけは言えないのだ。頑固な主の気質を思い出したのだろう、顔を歪め、けれど涙を見せたくないと言わんばかりに審神者の部屋を後にした初期刀を見送って、外の廊下から心配げに顔を覗かせた他の刀達に少々こんのすけとだけ話させて欲しいと言えば渋々ながらも了承され、閉じられた戸の内で審神者はこんのすけに直に己が死ぬ事と引き継ぎを頼む旨を伝えた。
政府からの用向きを伝える管狐はけれどこの本丸の審神者に十分に情を傾けている個体であったせいで、諦めないでくださいと悲しげに鳴いたが、審神者の認識が正しく、であれば己が成すのは頼まれた事を完遂するのみであるともまた理解していた。
この本丸が引き継がれず解体されるのは政府にとって避けたいのも事実であったため、今一度きゅうと切なく鳴いた後にその姿を消した。

それからの数日間、患える審神者の身を気遣いながらも、入れ替わり立ち替わり様々な男士達が自室を訪れた。
説得しようとするもの、嘆き悲しむもの、呆れるもの、ただ静かに審神者の話を聞くもの、憐れむもの、心配するもの、叱るもの、励まそうと明るく接するもの、怒りを露わにするもの、その全てがけれど審神者の死を望んではいなかった。そんな当たり前の事がどこか嬉しく。審神者は始終落ちついて応対できた。
初期刀もまた不承不承ながらも主の意思を尊重するため、審神者が穏やかに過ごせるよう気遣い続けてくれていた。
その時も、もう隠さずともよいのだと緊張の糸が切れたからか床を出るのも億劫で、布団の中のまま夕食の米粥汁を食し終わりぼんやりと茶を飲んでいた時分、訪う声に了承すれば入ってきたのは一文字の面々であった。個刃に対応していては審神者の負担になるだろうと、刀派によってはこうして纏めて訪れる事もあったが、全員が白の戦装束に身を包んだその様は感嘆の息を吐く程に見応えがあった。
長である山鳥毛を先頭に、一文字則宗、日光一文字、南泉一文字がその後ろに座す。姫鶴一文字だけは未だ縁がなく迎えられていないのが惜しい事をしたなと、どこか現実逃避をしてしまうのはできうる限り意識を向けたくなかったからだ。
顔を見ないよう咄嗟に眼差しを伏せても、視界の隅で揺れた、白を彩る鮮やかな紫の襟にかかる髪の尾に瞬間泣きそうになったのを無理矢理律し、平らかでない心中を隠そうと審神者は笑顔を作る。
山鳥毛も一文字則宗も、真剣なおもてで、けれど負担にならぬよう穏やかに、軽口も交えながら審神者を説いた。心遣いが嬉しく、審神者もまたやわらかく返したが、その奥底に頑なさを見出したのかややあって嘆息されてしまった。
物言いたげに時折唸る南泉一文字の傍らを意識しないようにと思う程、五感が僅かでもと日光を求めるのを止められない。浅はかさを自嘲するよりもはやく胸中がきつく痛んで咄嗟に抑える。苦しさは咽喉を這い上がり、花となって口唇からこぼれ落ちた。酷く咳漱込む審神者へ咄嗟に寄ろうとする気配を察し、駄目だと強く制すれば歯痒そうに命に従う。ごほごほと濁った音とともに色も形も様々な種類の花が溢れてやまない。今までは一度に一種類であったというのにおぞましくもうつくしいその変化は、審神者にもう幾許も猶予がないのだと知らしめた。
花を吐きながら、不意に綺麗だとどこか場違いな事を思う。この綺麗なものを見ながら死ねるのならばそれでもういい気がした。瑞々しく咲き誇る花の全てが審神者の恋心だったからだ。身勝手で醜く臆病であってもこんなにもうつくしかったのかと思えば、もうそれでよかった。

まだ話の途中ではあったが、審神者を慮り退室していった刀達を見送っておとなしく臥ながら深く息をする。体力を消耗するため疲労感が酷く、ややもすれば眠気が瞼を重くさせた。
そういえば、とそこで審神者は気づく。日光は結局なにも言わなかったと。小言や叱責のひとつでも貰う覚悟でいたというのに、いつもと変わらない静かなおもては一文字の長の後ろに控えたままだった。
苦言を呈する事すらない程に呆れられてしまったのか、そもそも何か告げる程の仲ですらなかっただろうかと、思えば審神者の胸中にただ暗澹とした堪らなさが広がったが、それももうどうでもいい気がした。
自分に執着のない方が引き継ぎも問題なく済むだろう。ただ、ひとつだけ心残りは、結局あの刀の恋に苦しむ姿を見られなかった事だが、審神者の勝手な願望でしかなかったのだ、未練は思っていたよりも薄かった。

翌朝、睛の冴えた審神者は部屋の薄暗い事を察する。緩慢に起き上がれば、既に春だというのに季節を戻したかのようなひやりとした空気が熱を持った寝衣を冷やすため、枕元の上着を羽織る。その傍らには長さの異なる刀が二振在った。大典太光世と物吉貞宗の本体である。審神者が臥して以降、治癒と幸運をと恭しく置いていったものであった。それらの想いに心内があたたまるまま丁寧に撫ぜ、そっと夜具を抜け出す。
音もなく戸を開ければ拂曉前の天に広がる雲の縁が茜に染まっていた。もう幾許もなく陽が顔を覗かせ、今日もこの本丸をあたたかく照らすのだろう。思って、ほうと息を吐く。庭を彩る、未だ静けさを保っている草木も既に睛を覚ましている気配がし、桜の巨木の淡い紅の蕾が今にも綻びそうな様相に今年は満開に咲き乱れる光景を見る事が叶わなさそうだと寂しさも、既にどこか愛おしい。
恐らく隣の間に不寝番の男士が控えているのだろうが、審神者をひとりにしてくれているこの瞬間がありがたかった。
陽の光を見てから室内に戻ろうと思っていた審神者はしかし、そこから眺められる廊下に白を見つけてしまった途端、吐胸を突かれ世界の刻が止まった気分だった。
同様に審神者の姿を目視済みであろうその刀は、迷いなく、決して足速ではないのに長いコンパスを存分に生かした静かでありながら堂々たる歩みで近付いてくる。
そこでようよう審神者は未だ夢の内であったろうかと現実逃避をしたが、太陽よりもはやく審神者の前に姿を現した刀に、正しくこれは己の日光であると眩く照らされた心地だった。

「起きていて、構わぬのか」
「え……ああ、うん、今は調子が良いから」

常と変わらぬ平坦な物言いにどこか安堵を抱く。おはようとも、はやいねとも、どうしたのかとも問い難いのは日光が一振りで審神者の元を訪ねてくる事などまるで想定していなかったせいであったが、取り敢えず話があるのだろうから突っ立ったままではいくまいと室内に招き入れる。
言葉通り調子は良いのだ、しかし坐具に座そうとするのを制され布団へと戻された。
臥るのは憚られたので上体を起こし日光を見やれば、本体を前にまるで周年の言祝ぎの際の如き凛とした跪坐の姿勢に驚きよりも先に見惚れる。未明から既に一部の隙なく整えられた戦装束は変わらずうつくしい。静謐な硬質さにやはりこれは刀であるのだなと今更な事を抱いた。
そうして、刀であると、人ではないと、理解してもなお審神者はただただ日光が恋しかった。

「昨夜―――お頭達と見舞いに来た際、臣下としてお前を諌め説得するつもりであった」

感情の読めぬ眼差しで審神者を見つめていた刀がおもむろに口を開く。前置きも軽い応酬もないまま簡潔に物事を並べたてる様すら、今の審神者にとっては好ましいのだから仕様がない。

「日光の説得は、どちらかというとお説教で怖そうだからやだな」
「…………」

からからと笑って口を挟む審神者に、呆れとも自覚があったための無言ともとれる沈黙が返ってくるが、ほんの僅か身にまとう圧が和らぐ。それと、昨夜と違い思っていたよりも普通に喋られている事実に気をよくし「聡明な貴方の事だ、無駄だと判断したんだろうけど」審神者が続ければしかし「違う」と短く否定される。

「俺はただ、苦しげに……否、狂おしく花を吐く様をうつくしいと思ってしまったのである」

瞬間、審神者は息の根を止められた気分であった。
日光が何を言ったのか言葉は理解しても意味を理解する事を脳が拒絶したせいで、うっと込み上げたものを抑える間もなく閉じる事を忘れていたそこからこぼれそうになった花を手で堰き止める。
何故だか吐き出してはならぬと酷い忌避感でもって、心臓が苦悶に襲われるなか口元を覆い無理矢理嚥下しようとする審神者の腕が、けれど引き剥がされる。気づいた時には大きな暗い影の内であった。革手袋越しに微かに、しかし確かにぬくもりを感じたと思った時には頬にそえられた手によっておとがいを上げさせられる。
白哲のおもてが、葡萄の色をした髪が、硝子越しの涼やかな淡い青紫の双眸がぼやけているのが近過ぎるせいだと認識すら遅かった。
重なったやわさを、鼻筋に当たった痛みを思う間もなく、捩じ込まれた濡れた熱さに戦慄く。それは審神者の舌先の奥、飲み込み損ねたはなびらを奪い去っていき、咄嗟に追い縋ろうとした先で、ごくりと咽喉の蠢く様が振動として直に伝わった。

「…………っ、は、ァ……、」

余りにも短い、刹那にも似た逢瀬であっても審神者は解放された口唇でただ荒く呼気を繰り返すしかできずにいた。
沸騰しぼやける脳の芯の部分がそれでも冷水を浴びたように恐怖で凍てつく。なにを、この刀は、日光は、今―――と理解を放棄したくて堪らぬ審神者の頬に触れたままの手が、やさしく壊れ物でも扱う繊細さで撫でる。

「主」

呼ばれて審神者は、何を考える事もないままにのろのろと顔を上げる。病に罹ってしまうのか、この刀も砕け散ってしまうのか。一時夢想して、しかし現実として差し出されてしまえばただただ恐ろしく。戦場で折れるのではない、こんな死は相応しくも望むものでもないだろうに、絶望に満ちた蒼白いおもての審神者とは対照的に、目前にあったのはどこまでも真摯な熱を帯びた眼差しであった。

「俺はお前を恋慕っている。人間には成れぬこの鋼の身だが、いずれ後任の審神者の元で折れる時がくるのならば、今お前と同じ病で砕けよう」

先程から言葉を、事実を、拒絶しようと足掻く審神者のこころに、その声も紡がれた言の葉も酷くするりと沁み渡った。
人間には成れぬと言いながら人のこころを持つ刀の―――男の告白があまりにも誠実で真実なのだと飲み込んだ瞬間、再度咳漱込む。けれどそれは今までの苦しさに満ちたものとは異なり、清流の如く咽喉を伝い口唇から溢れ出たのは―――白銀の花弁。

「あ……、」

布団の上に横たわるうつくしく瑞々しい百合の花に、何を思えばいいのか。その間にもそれに音もなく触れた男の手に、見上げた先ではじめて睛にする驚きに見開かれた双眸に、この花が何を意味するのかを男が知っている事に気づき、途端審神者は頬に熱が集まるのが分かってしまった。

「……主」
「…………」

咄嗟に視線をそらす。恐らくみっともない表情をしているであろうという自覚があったためだったが、見ないでほしいと願う審神者など露知らず、いつだって真っ直ぐに審神者を捉える瞳がひたと見据えてそらされる事はない。
それもそのはずだった。男には、日光一文字には、頬ならず耳まで朱に染めた愛おしい女から視線を外すなどという選択肢は存在しない。

「主」

乞うように、強請るように、先程よりも静かに囁きかけられる声がただの一度も聞いた事のない甘く切なげな色をしていたせいで、審神者は観念して日光を見つめる。
そこでようやく気がついた。審神者に視線を合わせるため上体を屈めているせいで見えた、その後ろ髪を結ぶ髪紐の色が淡黄色でも深紅でもなく、白緑なのだと。
そうして、ずっと望んでいたはずの恋に苦しむ男の表情はけれど、そんな顔をしないでほしいと思うものでしかなく。
少しでも笑んでくれるだろうかと、願いとともに、もう雄弁なはなびらの出てくる事のない咽喉からそっと恋を吐き出したのだった。

20230109

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