んしゃく玉が破裂したような乾いた音のあと、黒いぼろを幾重にもまとった中で異質すぎるほどに白い顔が歪み、甲高い耳障りな断末魔の叫びをあげる。いや、違う。彼らは死ぬことがないのだから、あれはただの悲鳴であり絶叫だ。だけど、一々あの声をあげるのはやめてほしい。この暗闇の世界では、思っている以上によく響く気がするからだ。そうして、聞きつけた異形がやってくる可能性があるからだ。
素早く銃のリロードを済ませ、倒れているそれを見ないまま通り過ぎてしばらく進んだ先にちょうどよく隠れられそうな物陰があったので、いったんそこに潜り込む。もうなにも気にしてはいられないので、埃っぽい汚れた床に座ると息を吐く暇もなく、睛を瞑る。ザザザザザ、乱れる砂嵐の画面をラジオのチューニングを合わせるような感覚で切り替えようとするけど、視界が変わることはなかったので目蓋を開けた。そうして、ようやくひとつ息を吐く。疲れた。始終意識をとぎすましておかなければいけない緊張感のせいで、着々とこの身には疲労感がたまっていた。

まだ一日すら終わっていないというのに、まるで延々と彷徨い続けているかのように長く感じられる。そこで、そっか、と思う。まだそんなにも時間が経ってはいないのだ。あは、と音にならなかった笑いが自然こぼれる。おかしいな。たった、二十四時間にも満たない間に、こんなにも、こんなにも、変わってしまった。大きくまとめてしまうと人生というものなんだろうけれど、そこにはそんな一言では済まされない、済ましてなどいけないものがたくさんあった。そう、たくさん。私の今まで大切にしてきたもの、築いてきたもの、繋がっていたもの、嬉しいことも悲しいことも、くるしいこともしあわせなことも、うつくしいものも血の滲む痛みもすべて、生きていく間に、私が私のために生み出して、いろんな人からもらった、かけがえのないものが、そこに確かに在ったものが、すべて。そのすべてが、ここでは、まるで無意味なのだと嘲笑われているようだった。
おかしい。おかしいね、本当に。こんなことが現実であるわけがないのに、この悪夢はいっこうに覚めてはくれない。現実って、なんなんだろう。わけがわからなくなる。なにがあってもうろたえてはいけない、常に冷静でなければいけないと分かっているし、この島に着てからそれを実行しているつもりだったけれど、ふとした瞬間にわからなくなる。わからなくて、おかしくて、笑ってしまう。叫びだしたかった、泣き喚きたかった、醜い金切り声をあげて狂ってしまいたかった、この悪夢から解放されたかった。だけど、それができなかった。できないから、こうして、ふっと笑ってしまうのだろう。あは、は。おかしいね、本当におかしいよ。だって、おかしなことなんて、なにもないのに。奥の方の暗がりに、ぞわりと湧く気配がして、私は懐中電灯を向けると親指でスイッチを入れた。途端に眩しいほど明るく照らされた先で、黒い霧のようなものが逃げることもできず身悶えるように揺れたあと、消滅してゆく。あれは、確か屍霊と言うんだったっけと無感動に思いながらまた灯りを消せば、あたりは暗闇へと包まれた。
このまま、このまま、静かにそっとしておきたい。なにも耳にしたくないし、なにも見たくなかった。だけど、それが叶わないことだって、知っている。

「おーい、名前ー」

微かに、けれど、はっきりと鼓膜を揺らした声に一瞬で身体が強張る。条件反射じみたそれを、そっと宥めるように深く息を吐く。深呼吸。大丈夫、大丈夫だから、落ち着いて。その間にも声はどんどん近付いてくる。

「なあ、いるんだろ?出てこいよー」

それを耳にしながら目蓋を閉じる。意識を集中させれば、砂嵐の画面は直ぐに彩度の低い景色をうつし出す。やや高い視界はきょろきょろと左右に動きながら進み、その隅には黒く鈍い輝きを持つものがちらちらとうつり込む。そうして「あっれ、おかしいなぁ。確かにこっちの方で光った気がしたんだけど…」と小さな独り言じみた音声が紛れてくる。素早く他に合わせようとしても、それ以外の視界は見当たらない。そこまでで、目蓋を開けて、さっきのかと自分の先刻の行動を反省する。あの視界には見覚えがあったから、着々とこちらに近付いてきているのだろう。その確信通りに、静かな空間に次第に足音が聞こえ出す。私はそっと銃と懐中電灯を抱えてしゃがんだまま静かに移動する。物陰から僅かに顔を覗かせれば、やっぱりきょろきょろしながらこちらの方に歩んでくる黒いぼろをまとった男。私のいる物陰の前を通り過ぎるまで慎重に息を詰め、そのうしろ姿を確認した瞬間勢いよく飛び出すと懐中電灯を点ける。

「うあ゛、っ」

白い灯りはひどく眩しいけれど、振り返った彼はそれだけじゃない拒絶反応をおこしてひるむ。その隙に手元を蹴れば、彼の手から弾かれた銃が弧を描いて飛んだあと、がしゃりと離れた地面の上に落ちる音。それを視界の片隅でとらえながら、懐中電灯を消すと同時に銃先を向けた。

「うわ、あ、あーあー……びっくりした。じゃなくて、お前、どんどん手際よくなってるなぁ」
「それは、ありがとうございます」

彼は自分の状況を瞬時に認識したのだろう、降参とばかりに空になった両手をあげてぷらぷら揺らす。

「だけど、なんで私だって分かったんですか?」
「え、そりゃあ愛の力」
「じゃなくて、物理的な根拠をお願いします」
「……お前、なんか物言いもきびしくなってきてないか?まあ、そんな名前も可愛いからいいけど」
「…………」
「あ、ちょ、無視されるとさびしいからやめろよ。分かったよ」

だいぶあしらい方には慣れてきたような気がするけれど、正直慣れていない。こんなこと、毎回毎回、もうごめんだ。泣き笑うよわい私をそっと知らないふりをして対峙していることなんて、彼は知らないのだろう。知られたくなんか、ない。

「さっき聞こえた銃声、一発だっただろ?お前、こんなちっちゃくて可愛いのに、射撃の腕だけは誰よりも秀でてたからなぁ」

倒れてる闇人見かけて、たぶんこれは名前が殺ったんだろうなぁって。にこやかに笑う彼が、どうあがいても彼にしか見えなくて、ひどい既視感に、嫌になる。

「それは、どうも……だけど、これからは気をつけないといけませんね」
「なんでだよ、お前を見つけるいい手がかりになるのに」
「だから、ですよ」

黒いぼろに、巻かれた青い布。暗闇にぽっかり浮かび上がるような、おぞましいほどに白い顔。血の通っていない、蒼ささえ孕んだそこには、目じりからも、笑う口元の皮膚と肉が抉れたような右側の傷からも、黒が流れている。赤じゃない。彼はもう死体とすら言っていいのかもわからなかった。だけど、これがもう彼じゃないことはわかっていた。

「お前も、ほんと頑張るなぁ。さっさと死んだ方が楽になれるってのに」
「……ほんとに、自分でも、そう思います。そろそろ、お喋りの時間も終わりですね」
「もうかよ、はやいなぁ」
「あんまりのんびりしていると、他の闇人に見つかってしまいますから」

私が言うと、彼は、ああ、と納得がいった様子で頷く。

「まあ、確かにそれは、俺も困るから仕方ないか」
「…………どうして、困るんですか?」

笑って言う、生前と変わらない、私の記憶の中にあるあたたかいそれと寸分もたがわない笑顔と声音が、言う。

「そりゃあ、俺がお前を殺したいからに決まってるだろ?」

どこまでも明るく紡がれた言葉の、その毒々しいほどに甘い誘惑に惹かれそうになるのを、ぐっと堪える。堪えてしまえるのは、たぶん、私がまだ正気だからだ。私が、まだ、どんなにくるしく、つらく、絶望にまみれてても、惨めにもがいてでも、生きたいからだ。この島にくるまで、私は自分がこんなにも生に執着する人間だとは思ってもいなかった。だから、まだ。

「じゃあ、頑張ってください」

言って、返事もきかずに、撃った。至近距離で数発。黒に吸い込まれるように消えていったあと、叫びながら彼が倒れた。それを見届けて、はやく立ち去ろうと思うのに、足は動かなかった。何回目だろうか、と思った。こうして倒れた彼を見下ろすのは。彼が、苗字、ではなく、名前、と名を呼ぶようになって。ああ、思い出したくない。ぼんやりとする頭をふって、どうにか足を動かす。落ちている銃を拾って、そっと振り返る。

「…………できたら、もう会いたくないけど……沖田さん、また、」

続きは、出てこなかった。




もしも、も、たられば、も好きではなかったけれど、それを使うとしたら私はヘリに乗る前まで戻りたかった。
物資を輸送していたヘリがエンジントラブルで墜落する時、ひどい揺れに驚くことすらできず、気付けば私の身体は宙に放り出されていた。炎と煙をあげながら落下してゆくヘリを、その向こうの暗い天をうつしたのがその時の記憶の最後だった。次に目覚めた時には、草むらに横たわっていた。冷たい水の、雨粒を感じながら起き上がろうとすると、擦り傷や打ち身、体中の節々が痛んだけれど、ひどい怪我はなかった。見上げると濃い緑が茂る木々で覆われていたので、これらがクッションになったのだろう。奇跡的だなあと不幸中の幸いを思ったけれど、今考えると私はたぶんあの時死んでいた方がよくて、それが一番しあわせだったのだろう。いや、この墜落した島が普通の島であれば、前者だったのだ。けれど、この島は幸いを地獄にした。


身を整え、辺りに散らばっていた、恐らくヘリに積んであったものが私と同じように投げ出されたのだろう。その中から、使えそうなものを拾いながら私はまず生存者を探した。こうして自分が生きているのだから、きっと他にも生存者がいるはずだと思ったからだ。一藤一等陸佐や、三沢三佐、沖田さんに永井くんといった仲間の顔が浮かぶ。だから最初、街灯の微かな灯りにうつし出された迷彩服のうしろ姿を見つけた時には喜んだ。嬉しくて、急いで近寄ろうとして、けれど私はなにかよくわからないひどい違和感に襲われその歩みを止めた。なんだろう、と自分で不思議がる。近付いてはいけない、と微かな警鐘が鳴っている。こういう勘は、あまり外れたことがないのを、知っている。どくどくと、いつの間にか心臓の音がやけに大きくなっている。おかしい。なにが、おかしいんだろう。冷静になれ。うろたえるな。決して主観的になってはいけない。言い聞かせながら、ふらふらと覚束ない足取りの迷彩服のうしろ姿をただ静かに見つめる。
(…………足取り?)
そうだ、と途端に靄がかかっていた頭が晴れる。そうだ、おかしいのだ。あの、足は。あの、歩んでいる右足は、膝から下が、遠目から見ても、わかるほどに、捩れて、ありえない方向を向いているのに、どうして、あんなにも平然と、歩いて。よく見ようと、無意識に足を踏み出してしまったのだろう、パキッという小気味のよい音が足元から響いた。小枝を踏んでしまったのだろうと、思わず足元を見て、それからハッと顔をあげて、私は叫びそうになった。こちらを振り向いていた、その顔は、頭の片側が、頭部から目元のあたりまでがひしゃげてここからでは黒い影になっていてわからなかったけれど、そこから、いや、無事な方の睛からもだくだくと流れる、赤い、血が。
悲鳴が、よく声にならなかったものだと思った。確かに咽喉の奥からあふれたはずなのに、それは音になっていなかった。人間、恐怖を感じすぎると悲鳴すらあげられないのだと、その時はじめて知った。

おかしい。あんな傷、あんな状態で歩けるなんて、おかしい。睛をいっぱいに見開いて、がくがくと膝が震えているのに、足は動かない。警鐘は、逃げろと叫んでいる。凍てついてしまった私とは正反対に、最早知っている自衛隊員の誰なのかすら判別できない彼が、ゆらりと傾いたあと緩慢な動作でこちらに歩んでくる。来るな。来るな来るな来るな来ないで。咄嗟に思って、なのに、まだ私の足は地に縫い付けられたまま。そこからずぶりと地面に沈んでしまいそうな錯覚。恐怖で足が竦むというのは、こういうことを言うのかと意識だけは嫌になるほど鮮明だ。
近付いてくる彼は、うーとかあーとか、そんな間の抜けた声を発し、その無事な右手には小銃が握られている。どうして、あんな姿になってまで、動いている、彼が、銃を。嫌な予感だけが強くなる。まるで性質の悪いホラー映画だ。こんな、状況で、起こることなんて大体決まっている。だらりと落ちていた彼の腕が、あがる。揺れる銃口が、私に。距離が、近くなったせいで、ここまで届く街灯の光のおかげで、はっきりと見える彼の顔。肉と骨と頭の中身がすこしだけ覗いたそこからあふれ出る、赤、赤、赤。同じ赤を流す彼のひとつだけになってしまった睛を見て、私は、あ、と思った。焦点の合わない、濁りきったそれは、なにもうつしていない。死んでる、と思った。すとん、となにかがぐるぐる気持ち悪かった胸のなかに、落ちる。これは、死体だ、と思った。そして、静寂にはあまりにも似つかわしくない発砲音が響いた。

まっすぐに伸びた腕の先、握られた銃の黒々とした硬質な線の先で、彼が倒れていた。
動く様子は、ない。手にはまだチリチリと静電気にも似た反動が残っている。それを意識した時には、膝は折れ、地面に手をついてその場に吐いていた。びちゃりと水っぽい音とともに草の上に落ちたものを見て、最後に食べたものがなんだったのかを思い出す脳裏の片隅だけが場違いなほどだったけれど、それも一瞬だ。胃酸特有の饐えたようなにおいにつられて、また胃の辺りがぐっとひっくり返って、もう一度。今度は透明な胃液と唾液が大半で、中身はほとんどなかった。
はあはあと荒い息遣いだけが聞こえる。自分のだと、ぼんやりする頭ですこし遅れて気付く。もう出てくる様子はなかったけれど、未だぐるぐると咽喉の奥は落ち着かない。震える片手で、先刻拾っていたアルミニウムの水筒を探り出しもったいないとは思うけれど、このままにしておくのは気持ち悪かったので水を含んで口の中を漱ぐと吐き捨てる。それを三回繰り返すと、すこしはマシになった。

まだ整わない息のままじっと、どれくらいそうしていただろう、ようやく落ち着いてきた。頭の中もだ。彼は、いや、アレは、死んでいた。間違いなく、死んでいた。あんな、あんな頭がすこし吹っ飛んだ状態で生きていられるわけがない。それに、アレのおもてにはなにもなかった。痛みも苦しみもなにもかも、その睛には、なにもやどっていなかった。だというのに、どうしてだろう、口元だけがどこか恍惚とした笑みを湛えていた。それが気持ち悪くてしかたがなかった。死んでいるのに、動いていた。動く死体だ。生ける屍だ。まるでゾンビだ。ありえない。そんなものはホラー映画やゲームの中だけのできごとだ。現実にあるはずがない。夢だ。そう思って、すぐにおかしくなる。笑ってしまう。夢想に縋り付こうとする私よりも、これが現実なのだと嫌になるほど冷静に理解している私の方が比率が大きかったからだ。

あは、は、夢じゃない、現実だこれ、はは、あはっ、おかしい、おかしいよ、へんだよ、なんで、なんで―――夢じゃないんだろ?

ぽろぽろとこぼれ落ちる残骸のような言葉たちに、けれど、返ってくるものはなにもない。唯一この空間にいるアレだって、さっき私がもう一度殺した。おなじ、知っている、仲間だったのに。誰だったんだろう。もう、怖くて見れない。確認なんてできない。誰かなんて知りたくもない。そこまでで、ふっと気付く。まさか、他の人もあんな風に、なってしまっているのでは、と。アレがなんだとしても、可能性的にはアレ一体だけじゃないことだって十二分にあるのだ。なんて、なんていうことだろう。自分の思考に青ざめるのが分かった。かたまる私の耳に、がさりと微かな草の擦れる音が聞こえてバッと顔をあげる。どこまでも冷静な脳の片隅で、思う。二回目だなあ、と。二回目も、叫び声はでなかった。もう、悲鳴すら出なかった。私が殺した死体が、起き上がろうとしていた。眩暈がするのを感じながら、けれど私は銃を手に取った。



あてもなく島を彷徨う私には、次々と絶望の二文字ばかりが襲いかかった。
生きている、ちゃんと生きている人間に出会えないこと。出会うのは動く死体ばかり。おなじ迷彩服に身を包んだ自衛隊員だけではなく、どうやらこの島の住民であったモノもいた。ありふれた日常生活の、けれどどこか古く思える衣服に身を包みながらも睛や口から赤い血を流す彼らは、猟銃や鎌に鉄パイプといった凶器を持っていた。そして、それらを手に、こちらを見つけると襲いかかってくるのだ。目的なんて分かりきったことだった。私を殺すためだ。冷静に、冷静に、それだけを頭に、知らない場所ではまずは情報収集が大切だと、私は彼らを観察した。

そうして分かったことは、死体同士で争うことは決してないこと。襲ってくるのは私にだけ、つまり、きっと生きている人間だけだということ。打ったり、殴ったりすると叫びながら倒れて、動かなくなること。だけど、しばらく時間が経つと何事もなかったかのように起き上がり、また徘徊したり、おかしなことにまるで生きているみたいに日常的な動作をすること。たぶん、生前の行動をなぞっているのだろう。ただ一般市民であったアレらはまだよかった。訓練をし、飛び道具を持っているぶん私の方が有利だったからだ。だから、気を抜けないのは同胞だったモノ。自衛隊員の多くは銃を所持していて、幾ら動作が緩慢だとはいえこっちは一発でもくらうわけにはいかなかったからだ。皮肉なことだと、思った。一緒に苦楽をともにした彼らが一番の敵となってしまうなんて、なんて喜劇だろうと、おかしかった。おかしくて、泣きたかった。
もうひとつは、黒い霧状のモノだった。それらは闇の中から湧き出ると、壁をすり抜けたり実体をもたない筈なのに私に襲いかかってきて、触れた箇所はまるで殴られたかのように痛んだ。けれどこちらからの攻撃も効くと同時に、それらは光に弱いらしく街灯や懐中電灯の灯りであっけなく消え去った。まるでお化けのようなそれに、本当にホラー映画の世界のようだと思いながらも、まだ死体でないだけマシだった。そして、倒れた死体が何度でも起き上がるのはどうやらこの黒い霧が原因のようだった。わけのわからないことばかりのこの島の中で、ようやくすこし理解しはじめた頃。それも突如鳴り響いたサイレンの音とともに迫ってきた赤い、真っ赤な水の津波によってすべて流された。




目覚めた時また見知らぬ道路の端に倒れていたけれど、おなじ島の中であることに変わりはなさそうだった。くらくらする頭に睛を瞑った瞬間、ザザザザ、と視界が砂嵐になったあとなにかの映像に切り替わった。人だ。誰かの、うしろ姿。小さいのはまだ距離があるからだろう。だけど、なんだろう、この映像。気味の悪さと疑問に目蓋開けようとして、気付いた。あのうしろ姿、ゆっくりと近くなっていくあの、迷彩の、服を着て、へたりこんでいる、あのうしろ姿は―――私だ。
目蓋を開くと同時にうしろに振り返る。そこに、まるで農作業風の格好をした、人、じゃない。だらだらと赤を流し続ける死体が、鎌を持つ手を振り上げようとしていた。咄嗟に銃を探す。幸いにも津波に流されなかったそれは手元にあった。だから、振りかぶるよりもはやく、撃った。倒れた死体を見ながら、わたしは今までとは違う感覚に戸惑って、そこで呆然としていた。さっきのは、なんだったのだろう。あれは、まるで、誰かの、視界みたいな。まるで、この死体の、視界みたいな。漠然としたものを胸に、目蓋を閉じる。もう一度。そう思った時には砂嵐の画面になり、それがまた映像へと切り替わった。民家と、道路。それらの景色がゆっくりと、流れてゆく。ガサっという物音がしたと思えば、道路の向こうへ猫が駆け抜けてゆく。にゃー、という鳴き声が、どこか二重に聞こえた気がして目蓋を開ければ、私のいる道路の先から猫が飛び出してきた。それを信じられない気持ちで見送ったのも一瞬、私は直ぐに反対側へと駆け出した。

どうやら睛を瞑っている間は他人の視界を覗けるという、そんな不可思議で超能力じみた力が私の身にやどっていたらしい。今まで幽霊も怪奇現象もなにも見たり感じたりしたことなかったのに、と思ったけれど、もうあまり驚くこともなかった。むしろ便利だと思った。どうやら近くにいる相手だけみたいだったけれど、おかげで私の生存確率は上がったからだ。
それから何時間経っただろう、再び聞こえたぞっとする唸り声のようなサイレンに、つい耳を塞いでしまう。また津波かと思ったけれど、違った。ただ、特になにも起こらないことを不思議に思ってしまったことを、直ぐに悔やむことになった。うぞうぞと、闇の中から何かが這うような音が聞こえて銃を構える。死体かと細めていた睛にうつったものは、死体ではなかった。白い能面のような顔以外を黒い布でぐるぐるに覆った手足のないそれは、まるで芋虫みたいに器用に蠢きながらこちらに向かってくる。何匹も、何匹も。新手の異形だと瞬時に認識したけれど、こうも数が多いと一度に倒しきれない。リロードをする暇もあるかどうか。どうしよう、そう迷った時、今までずっと暗闇だった世界に光が射し込んだ。灯りではないそれは、赤みをおびていたけれど確かに光だった。そして、光に照らされた異形はあの黒い霧状のモノとおなじように、姿形を残さず消滅した。
いつぶりだろう。こうして光に照らされるのは。ただ日常生活を送っていれば当たり前に訪れる光が、こんなにも懐かしい。だけど、今はまだ懐かしがっている場合じゃないから。だから、私は逃げた。きっとここに逃げ場なんて、どこにもないと分かっていても。




最初、それを見たのは私が草むらに潜んで周囲の視界を盗み見ている時だった。さっきまではなかったひとつの視界、それに違和感を覚える。揺れもなく、軽快な足取りは今まで見てきた死体の視界とは明らかに異なっていたからだ。訝る私を余所に「あー…暑っつ、ビール飲みてぇー…」という鮮明な声が聞こえて、ハッと目蓋を開けてしまった。
今のは、今のは、もしかして、と淡い期待に胸を押さえる。死体じゃない、生きている人間なのかもしれない。死体も喋るには喋ったが、その言動は要領を得ないまるで狂人の戯言でしかなく意思の疎通もできなかった。だけど、今の声は、すべらかに紡がれた言葉は。やっと、やっと、私以外の人間に、はやる想いをおさえて静かに草むらから顔を出す。すこし先に、暗闇の中こちらに向かって歩んでくるのが見える。死体じゃない。やっぱり、違う。草むらから出ようとした時、彼に向かって死体が近付いているのが見えた。援護を、助けなければと思った足が、けれど動かなかった。死体が、彼に凶器を振りかざす前に、あの黒い芋虫のような異形に襲われたからだ。まるで群がるみたいに集まったモノに、死体は抵抗していたけれど直ぐに黒く蠢く塊の中に紛れて、見えなくなった。死体と、あの黒い異形は、仲間ではない?そんなことを抱いていたせいで、気付くのが遅れた。
彼は、直ぐ傍に異形がいるというのに、逃げる様子もなく、むしろ、振り返って、ただ、見ている。どうして。恐怖で足が竦んでいるようには、見えなかった。睛を凝らす先で、彼の、黒いぼろをまとったその姿に、なにか嫌なものが背筋を伝う。その横顔は、まるで、人間とは、生きている者とは到底思えないほど、そう、あの新たに現れた異形のように、白かった。そうして「おいおい、お前らやっと見つけた殻だからって、そんながっつくなよ」おかしげに紡がれた声に、私は自分の中でなにかが切れるのがわかった。ぷつりと、音がしたかは知らない。
黒い霧状のモノは屍霊、それがとり憑いた赤い血を流しながら動く死体が屍人。黒い芋虫みたいなのは闇霊、そして、その闇霊が死体にとり憑くと闇人になる。今まで目にしてきた異形の名前も、彼らが異形同士敵対する理由も正直どうでもよかったけど、仕組みはわかった。

すべて、あのあと生きている人間だとばかり思っていた彼を、闇人を拷問して聞きだした。彼にとっては拷問だっただろうけれど、私にとっては単純に縛った彼に向けて灯りを点けて脅すだけの簡単で可愛いものだった。有益だったのは、知性が劣化する屍人に対して闇人は生前とおなじように、生きている人間みたいに言葉を交わすことが、意思の疎通が可能だということ。更に、彼は殻と呼んでいたけどとり憑いた死体の、生前の記憶や人格が反映されるということ。確かに、聞き出す間の彼もまるで生きている人間みたいに会話ができて、撃ち殺すのを躊躇してしまった。結局、これは死体なのだと、死んでいるのだと、もうその人自身ではないのだと、自分に言い聞かせて撃ったけど。まだ、嫌だと思うことがあるのかと、うんざりして、笑った。死体を殺すのには、もう慣れたと思っていたのに、話せることが、会話が成り立つことが、こんなにも大きなことだったなんて、知らなかった。言葉が通じるって、怖いなあ。でも、撃たなきゃいけない。何度でも殺さなきゃいけない。
頭では理解していて、それでも、自衛隊員の闇人には、会いたくないなあと、思った。




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