のない雨がふる。窓ガラス越しに見たそれは、細く白い糸のように絶え間なくふりそそいでいた。なにを思うでもなく一瞥して、講義室をあとにする。いちばん最後だったにも関わらず、無人の室内から廊下に出れば途端人であふれかえった。厭われることの多い人混みが、わたしは嫌いではなかった。雑然と騒がしく疎ましいその中に紛れると、わたしという個が消え失せてしまえるような錯覚。わたしはわたしだけれど、それはなんでもないことなんだと思える夢心地。果たしてほんとうに紛れられているのかは、甚だ定かではなかったが、そう思い込めることだけが確かであれば、それだけでよかった。


朝、登校する際には白い雲がたなびく澄んだ青がひろがっていたというのに、いつ頃からだろう、講義の最中ふと窓を見やった時にはすでに外界は灰白へと染まっていた。透明なガラスの板を一枚挟んだだけだというのに、無音の世界とは目に見えて遮断されている。窓を見るたびに、そう思う。おなじでしかないのに、別なのだと。予報通りの天のうつり変わりに、昇降口で今朝持ってきておいた傘を、傘立てから引き抜く。真っ青な色が、彩度を落とした世界ではハッとするほど鮮やかで、異質だ。ちょうど、わたし以外も帰路の時間なのだろう、色とりどりの傘がまばらに咲いている。そっと、傘を開いて軒先から出れば、途端にさあさあと雨のしのつく音で満たされた。雨の日は、なんだか眠くなる。いつも頭がぼうっとして、脳の働きが愚鈍になる気がした。それに、今日はそれだけではない。鈍く重い痛みは、刃物で切った時や、壁に頭を打ちつけた時のような痛みとは異なっていて分からなくなるけれど、耐え難い違和感を腹部にもたらすので、痛いと称することしかできない。どろりと身のうちからあふれた感覚に、視界が赤く染まる。ナプキンは持っていたけれど、薬を切らしていたことに気付いた時は憂鬱だった。仲の良い子とはとっている科目が異なっているせいで、今日は誰もいない。薬を買うのに薬局へ行かなければと思いながら、次第に重く大きくなる塊のような鈍痛に耐えた。
指先の熱を、ひんやりとした外気がさらう。赤茶けた石畳の地面の、場所によってできている水溜りを避けながら歩む。がやがやと、周囲の人波の話し声さえ雨に紛れて地に落ちてゆく。そこに、ただ足音だけを響かせるわたしがいても、いなくても、おなじ。木を隠すなら森の中ではないけれど、個であることが意味をもたない空間は、溶けて消え去ってしまえるようで気が楽だった。名前もなにもない、誰かの物語の背景の一部でしかないような、それはわたしに安堵をもたらした。
あっという間につめたくなってしまった指先で、細い柄をくるくると弄る。風がないから、あまり濡れることがないのは幸いだ。蜘蛛の糸を彷彿とさせる細さでは、風が吹いたら簡単に流され濡れてしまうのだろう。電車に乗る前に、薬局へ寄って、ついでになにか簡単に食べられるものも買おうと、意識しないようにぼんやりしていたから気付かなかった。

「名前、」

雨も雑音もするりと通り抜けた、静かな声音に、正門を抜けようとしていた足が、止まる。聞き慣れたそれに、なにかを思う前に消え去っていたわたしを形作った声の方を向けば、静止してしまったわたしに構わず流れていく世界の、人波の向こう側で鳶色と、合った。艶のない黒い傘を手に、門柱のところに徐庶さんが立っていた。

「…………なんで、」

浮かぶよりはやく紡いでいて、顔につられた身体も向いた時には彼に歩み寄っていた。見上げた先で、双眸をやんわりと細めて、薄い髭の生える口元でそっとはにかんで、徐庶さんが言った。

「雨だから、迎えにきたんだ」




世界にはどうしようもないことも、どうしようもない気分に陥ることも、ありふれていると、そういつか言ったのは徐庶さんだった。わたしがそれになんと返したのかは、覚えていない。

「駐車場代が、もったいないよ」

傘を畳みながら助手席に乗り込んだわたしのぼやきに、車のキーを差しながら徐庶さんは、ちらりと笑みで染まる睛を向けてくるだけだった。それを見て、ああ、楽しそうだなと思う。そうして、シートベルトを締めると、わたしも前を向いた。雨粒でにじむ世界は、けれどエンジン音とともにワイパーが動いていくらか鮮明になる。視線の先にうつりこむ白い色に、いつものことだったけれど、似合わないなという感想を抱く。落ち着いた色でまとめられた、ゆったりとした服装が多い徐庶さんは、高い背に整った顔立ちも相俟ってどこか俳優さんかと思うくらいに格好いい。肉親の贔屓目で見なくても、きっとそうなのだろう。だから、いつもそんな徐庶さんがこんな白い軽トラに乗っている事実に違和感しかなかった。もっと車高の低い、暗清色が鈍く輝くようなそんな、CMで見る大人の男性が乗っているような車の方が似合うのだろうに。一度、そんな素直な感想をこぼせば「えっと、それはありがたいけど……そんなお金もないから」そう徐庶さんは苦笑した。それもあるのだろうが、わたしも分かってはいる。軽トラなのは、職業柄だと。

「ね……徐庶さん、お店は…?」
「こんな雨じゃ、人もこないからね。閉めてきたんだ」
「……きっと、開けてたら、数十万する本が売れてたよ」
「ああ……それは惜しいことをしたかな」

軽口を言いながら、車はコインパーキングをあとにする。雨だからか、道路はいつもよりも車が多い。徐庶さんは、小さな古本屋の店主をしていた。わたしは、徐庶さんの姪だった。徐庶さんは、わたしの叔父だった。


わたしが、徐庶さんのことを知ったのは幼少の頃だったけれど、会ったのはわりと最近だ。いまは冬だから、春がくればちょうど一年前になるのだろう。高校三年の時、受験する大学が家からは遠く、一人暮らしだと勝手に思っていたわたしとは裏腹に、母がそういえばと突然、大学の近くに叔父が住んでいると言い出したのだ。わたしには昔から父方にしか顔を会わせる親戚はいなかった。母は勘当されたのだ。母曰く愛の駆け落ちらしいが。なにせ、母はわたしを十六歳の時に産んでいる。いまのわたしよりも幼い時分に、もう彼女は母親になっていたのだ。そのことを考えると、とても現実味はわかないけれど、母が十六歳で妊娠して駆け落ちして実家から勘当されて産んだこどもがわたしなのは事実だった。おかげで母方の親類とは全く会ったことのなかったわたしは、それでも母に弟がいることは聞いていた。母が七つの時に生まれた弟を年が離れていたせいもあり、よく面倒を見ていたらしく、両親とは絶縁関係にあっても、弟と不仲なわけではないのでたまに連絡を取り合っていたようだ。そんな叔父もとうに親元を離れてひとり、祖父の営んでいた古本屋を継いで暮らしているという話は聞いていたが、そうこうしているうちに、いつの間にか話はまとまり、わたしは大学に通う間叔父の家に居候することになった。見知らぬ人間と突然一緒に暮らすというのは、どんな生活になるのか見当もつかなかったけれど、わたしはこの家から離れられればそれでよかった。どんな人でも、きっとここよりはマシだと思っていた。
そうして、まだ寒さの残る春先にはじめて会った叔父は、徐庶さんは、困ったように笑う人だった。

「……大丈夫、かな…?」

ゆっくりと薄暗くなってくる窓の外で、流れてゆくテールランプの明かりがきらきらと雨に反射する様をぼんやり眺める。じわじわと侵食してくるような痛みをやりすごすには、なにか別のものに意識を向けるのが一番だ。けれど、ラジオから流れてくる音楽は耳に入ってこないくせに、横からした声は鮮明に鼓膜を揺らした。

「なに、が…」
「あ、いや……間違っていたらすまない、なんだか調子がよくないように見えて…」

すこし喋っていなかっただけで、喉につまるような声になって、ちいさく咳をする。一年一緒に暮らしても、徐庶さんの、このおずおずと下手に出るような物言いは変わらない。わたしの方がずっと年下なのにと、それはいつもおかしかった。

「生理……一日目だから、痛いのに、薬切れてたから……ああ、そうだ、薬局に寄ってもらえますか?」
「え?あ……ああ、うん、分かったよ」

顔が、赤くなっているんだろうなと思った。焦って、どもる声音に、他人事のように冷めた脳の片隅は、けれど当然だと思う。血が近くても、他人だ。そしてやっぱり、おかしかったのですこし首を傾けて徐庶さんを見る。案の定、その横顔は思い描いたとおりにすこしだけ困ったように眉根が寄っていて、頬は赤みをおびていた。へんなの。つい、堪え切れなかった笑いがこぼれて、また前を向いた。

「楽しそうだね」
「おかしいだけ」

おかしい。だって、ね。だって、わたしの裸を見ても顔色ひとつ変えないのに、生理なんて単語ひとつで生娘みたいな顔をしているのだから。
母のおかげか、誰のおかげか、わたしと徐庶さんは九つしか年が離れていない。叔父と姪にしては近く、たまにご近所さんに間違われる兄妹というには離れている。なんだか歪だ。徐庶さんは、気をつかう人だった。それに倣うように、最初はわたしもおざなりに節度を守って、上辺だけの手のかからない姪をちゃんと演じていた。バイトをしてお金を貯めて全部捨ててひとりになるまでの間の、そんな関係だと分かっていたからだ。なのにある日、居間にあるちいさなまあるいちゃぶ台で晩御飯を食べている時に、徐庶さんが言ったのだ「えっと……まだ、慣れないかな…?家族みたいに、とは言わないんだけれど…」と。その言い方が悪かったのか、苦手なトマトがあったからか、わたしが悪いのか。断然最後だろうけど、なんでもないただの会話のひとつなのに、わたしはその言葉が浸透するよりもさきに胸のまんなかがぐっと気持ち悪くなって「家族なんてあのひとつだけでもいらないのに、どうしてまたつくらないといけないんですか」そう拒絶していて、自分で驚いた。でも、驚いたのは徐庶さんの方が大きかったとわたしは直ぐに馬鹿なことをしたと悔やんだけど、徐庶さんは一瞬だけ睛をまるくしただけで、瞬きをする間に微笑んでいた。やさしいそれに、刃物を突き立てられた気がした。それは、わたしが望んでやまないものだった。
なんでもないんです。浅ましくとりつくろう言葉が、かさぶたみたいに血を止めようとべたべたべたべた気持ちが悪い。けど、言葉として音として出てくることはない。なんでもない、なんでもないんです。嘘です冗談ですただの冗談なんですすみません。変なことを言って、ほんとうに、ごめんなさい。ごめんなさい。嘘なんです。ほんとうなんです。気持ちが悪いんです。家族なんて、あんな、あんなもの、おぞましくてしかたがないんです。嫌いじゃない、母も父も妹と弟も、嫌いじゃないんです。きっと好きなんです。だけど、あそこは違うんです。あそこにわたしの居場所はないんです。わたしはいてもいなくてもおなじなんです。家族のだんらんが大嫌いです。嫌で嫌でしかたがないんです。なんでもない、なにもないのに、なにも、ほんとうになにもないんです。みんな仲がよくて、喧嘩しても家族という絆で結ばれているという安心感があります。誰もほんとうに不仲ではないんです。ただわたしには耐え難いんです。その家族というきずなが、きもちがわるくてしかたがないんです。なにも、わるくはないんです。だれも、わるくないんです。わたしがだめなんですわたしがわるいんですわたしだけが、おかしいんです。
くるしくてくるしくてくるしくて、胸のまんなかがぐずぐずと気持ちが悪くなる。手をあてると薄い皮膚は直ぐに硬い骨にいきあたって、そのしたでとくりとくりと息づいているのが分かる。こころなのか、ただのその文字を仮した臓器なのか。分からない。そんなことは、どちらでもいい。どちらであっても、わたしがそこに刃の切っ先を突き刺したいことにかわりはないのだから。それができない自分が一番いやでしかたがないのだから。

「徐庶さんが、」
「ん…?」
「徐庶さんが、はやく恋人をつくって結婚すればいいのに」

きらきらきら、街中は色鮮やかな光で満ちている。暗いところが好きだった。明るい室内では、たまに狂ってしまいたくなる。人間、もっと簡単に狂えたらこんな苦労はしないのにねとこぼした時も、徐庶さんはただ困ったように微笑んでいた。どんどん車が増えて、連なっていって、ゆっくりと流れていた景色が音もなく静止する。赤い信号にどろりとあふれるものを思う。あのまっとうな血が流れているはずなのに、おなじ卵と種でできているはずなのに、どうしてこんなにも違うのだろう。無駄な脂肪でおおわれた下腹部の奥で行われる、無意味な作業を鼻で笑っていると、そこに大きな手が触れた。ごつごつと、骨のかたちがよく分かる、わたしのこどものような手とひとまわり以上も異なる、徐庶さんの手だ。

「しないよ」
「どうして」

まるでなんでもないように、ぽんと置かれたそこから、じんわりと、自分のものではない熱が、体温が、伝わってうつりこんでくる。不快なはずのそれに、ただあたたかいなと思う。

「そうだな……ええっと、多分、俺はきみとおなじなんだ」

徐庶さんは、いまどんな顔でそんなことを言ったのだろうかと思って、見ようとして、やめた。恐ろしくて、だけどぞっとしなかった。徐庶さんの傍にいると、わたしはいつだってわたしで。その湖畔の静けさを湛えた澄明な瞳にうつされただけで、どこにも溶けて消え去ることが許されないような気がしたからだ。

「死ねないから、死ぬまで惰性で生きてるだけ?」

そのかわりに、動かない景色をうつす視界の隅でワイパーが定期的に扇を描くのを見ながら問えば、てのひらから微かな振動が伝わってきた。笑っている。徐庶さんのおかしいポイントはよく分からない。割れたお皿で指を切って血がどばどば出た時に泣きそうな顔で処置をしてくれておきながら、わたしの手首に残る痕を見とめても静かに笑うだけだ。いつもとおなじように、困ったように笑うそれは、こどもの悪戯を許容するようでいて、懐古のにおいがするもので、わたしはそれにひどく安心した。

「なんと言うか……きみには、まだきっとこれから先に生きづらくなくなることもあるかもしれないのに」
「……そんなものに縋って生きれたら、しあわせかな」
「できたら、苦労はしない……かな」

だって、そんなの、今更だ。気付いた時にはこうだった。小学生の時は、中学生になれば。中学生の時は、高校生になれば。高校生の時は、もっとおとなになれば。そう思って生きてきて、なにも変わらないこどものまま。いまのわたしが通っている大学を卒業したあと、祖父のやっていたという古本屋を継いだ徐庶さんが、そのあいだにどんな風に生きてきたのかは知らない。知らないけれど、わたしがこれよりもっと大きくなったら、あんなおとなになれるのかと思ったら、悪い気はしなかった。
いつか、そんなおとなになったら全てを捨てるのだ。家族を捨てるのだ。友人も知人もなにもかもを捨てて、全部全部まっさらにして、誰もわたしなんて知らないところで死ぬまでひとり生きていくのだ。それはとても淋しくてむなしいことなんだろうけど、この世界をくるしいものにしかできないわたしには、それしか術がなかった。ただ、それだけでよかったのに、いまではたまにふっと思う。そうなった時に、わたしは徐庶さんも捨てるのかと。それは、てくてく歩いてて、ふっと振り返ったらリードの先に飼い主がいなかった犬はそんな気分なのかと思うようなものだった。
信号が青にかわって、すこししてまた動き出す。自然離れていった手に、縋りつこうとして、やめた。ひんやりと、ちょっとぶりに触れた外気のつめたさに、徐庶さんの手がどれだけあたたかかったのかを思う。そうして、いつの間にか鈍く重いそれが緩和されていることに気付いたからだ。一瞬なにもかもが嫌になって、死にたくなる。

「どうして、こんなどうしようもないのに、死ねないんだろう」
「そうだな……きっと、死にたくないからだと、思うよ」
「こんなに死ねばいいのにって、思ってるのにね」

ラジオの音楽は無機質な声の紡ぐニュースに変わっている。事故も事件も、おなじ。今日もどこかで誰かが死んでいる。なのに、どうしていま読み上げられた名前がわたしのものじゃないんだろう。この世は不条理と理不尽にまみれている。現世が地獄とすれば、わたしたちはどこへ逝くのだろう。眠いなあ。痛みがすこしひいたおかげで、ぼんやり目蓋が重い。ようやく暖房の効いた車内のぬるさに、徐庶さんの手が恋しくなる。はやく死んでしまえ。事故でも事件でも、そうして最期の最期に、うすれる意識の間際に思えばいいのだ。死にたくない、って。そこまで想像して、涙がでそうなくらい楽しい気分になる。簡単なことだ。口元がへたくそな笑みを形作るのを見たのか、徐庶さんが「嬉しそうだね」と言う。うん、とわたしは頷いた。
徐庶さんがいつか言ったとおりだ。どうしようもないことばかりで、あふれていて、満ちている。全部、ぜえんぶ、そうなのだ。わたしが駄目なのも、わるいのも、おかしいのも、発狂したいのも、捨てたいのも、大好きな家族が大嫌いなことも、世界がこんなにもうつくしいのにくるしいことも、いま隣にいて触れられるのに、決して混ざり合うことのない血が流れていることも、そのすべてがどうしようもなくて、いとおしい。
眩しく光る薬局の看板に、車はすうっと曲がって駐車場に入ってゆく。入り口に近いところが空いていて、ラッキーだね、とふたりで笑う。一回で綺麗にバック駐車した徐庶さんに、この距離なら傘はいらないなと、シートベルトを外すため俯いた視界が暗くなる。え、と顔を上げたら、くちびるに熱いものが触れて、離れて。わたしを外の光から隠すように、覆いかぶさった徐庶さんは困ったように笑って。名前、とわたしの名を呼んで、

「本当にどうしようもなくなったら、俺が殺してあげるよ」

そう言ってくれたので、わたしはとても嬉しくて、その言葉だけでこれからも生きてゆける気がした。ふふ、と笑うと徐庶さんもそれはそれは怖いくらい綺麗で無垢で色鮮やかな声をだして笑った。きっとわたしたちはいま、おなじかおをしている。ふふ、うふふ。徐庶さんも、どうしようもなくなったら、言ってくださいね。わたしだけなんて、ずるいから。この胸のまんなかを穿つ刃のさきにいるのが徐庶さんだなんて、ああ、それはなんて甘美でしあわせなことなのだろう。

20130228

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