い群青の夜天も、右に首を向ければ薄青くにじんだまま淡黄色に変わり、暗い影となった家並みの隙間からは、はっとするような緋色が覗いている。そのまま今度は左に向ける前に「あー嫌だ嫌だ最低だ最悪だああもう嫌だほんと嫌だ」という声が隣から聞こえてきて、俺はちらりと視線だけを斜め下に向ける。寒そうに、きっと赤くなっている鼻先をマフラーに埋めているおかげでくぐもっていたそれは、まるで世界の終わりを嘆いているようだった。
朝に挨拶をした時には馬鹿みたいに明るい声で「おっはー岱ちゃん!おっはーってもう古いかってゆうかレイモンドなにしてんだろね!マジで!」脳天から出たんじゃあというハイテンションをかましてくれたのは、若のレポートを手伝ったせいで寝不足の身としてはキツかった。まあ、顔をあわせていない間になにかあったのだろう。DVDを一緒に見る約束をしていたので、こうして二人、現在進行形で俺の家に向かっているのだが、彼女を見ていると軽い躁鬱持ちなんじゃなかろうかと、たまに、よく、ちょこちょこ思う。

「あー、あー、あー、やだやだやだやだマジ寒いし」
「ほんと寒いねぇ」

手袋を忘れたおかげで両手はコートのポケットの中だ。こういう時には適当に相槌をうっておくに限る。どうせ、なにがあったなんて聞いても答えてはくれないのだ。きっとまたなにか嫌なことがあって散々聞く相手のいない罵詈雑言を独り吐いたあとの自己嫌悪にでも陥っているのだろう。ぶつくさとなにか言っているが、マフラーに吸収され電車の音に掻き消されたそれは、耳に入ってはこなかった。まあ、どうせ、最後にいう台詞は決まっている。長く長い横長の箱も影となって宵闇の気配が濃くなる辺りに紛れてしまうなか、均等に並ぶ四角い窓だけが煌々と浮き出ている。それが段々遠のいてゆくのが、振動として地面から足に伝わるのを感じながら地下道の入り口へと差し掛かる。線路の下を通るトンネルからあふれる白々とした燈が、どこか場違いなほどだった。
歩行者と自転車用に分けられている通路の真ん中にある仕切りブロックに、ひょいと名前が乗る。まるで子どものようだと思いながら、幅の狭い石の上を歩く姿は平均台を彷彿とさせる。俺より少しだけ背の高くなった彼女を見上げつつ「落ちたら危ないよ」つい出てしまった言葉に、自分で母親くさいなあと呆れた。

「あー、うん、へーきへーき」

なんとも適当な応えの通り、地味にバランスを取りながら進む名前の眼差しは細長く続く石の面を捉えている。そうしながら「あー…」と間延びした音に、そろそろかと予感はどこか確信めいていて嫌になった。

「しにたい」

ぽつりと落ちた声がやけにはっきり聞こえたのがまた嫌になる。しにたい、死にたい。現代社会ではありふれた言葉で、そんなことを呟くのは彼女だけではなく周囲に他にもいる。とはいえ、耳にしただけでネガティブ臭が移りそうな言葉は、他人としてはあまり聞きたくないのも事実だ。

「じゃあ、死ねば?」

緩やかななぞえを下る毎にいっそう明るくなり、白すぎる白熱灯の光が睛を焼く。それが少なからず不快だったからだろうか、いつもならばふうんと聞き流すところを明確な言葉が口を吐いていた。けれどそれは思いのほかあっさりと淡々としていて、自分で驚く。ほとんど、お腹すいた、じゃあなんか食べれば?といった日常会話の流れと空気だった。
しかし、そう思っているのは俺だけかもしれないので、ちらっと視線だけやれば長い睫毛のぱっちりとした睛とあった。あ、やばいかも。微かな不安が首をもたげそうになった頃、にんまり細められる。そうして片手が顔の傍まで上がり、ちっちっちっ、軽妙な舌打ちと共に横に振られた手は、おそらく人差し指を立てた状態なのだろうが、ミトン状の手袋ではなんの意味もなしていなかった。

「もー、岱ちゃんてば、分かってないなー」

口元が隠れていても分かる不適な笑みを浮かべる名前は、先ほどまでのじめじめうだうだっぷりはどこえやら、愉快そうだった。それなりに惰性の腐れ縁じみてはいるけれど、相変わらずスイッチのポイントが定かでない彼女はともすれば不気味な存在なのだが、読めないそこが、きっといいのだろう。

「ってゆうか、むしろこっちが分かってないの?だよ!岱ちゃんだって隠れ根暗なくせしてー」

もー!とつんつん肘でついてきそうなテンションの上がりっぷりは正直うざいし、隠れ根暗ってなにそれ、隠れオタクみたいだからやめてよと文句が溢れる。けれど、それよりもうふふふふと笑う彼女に対する疑問の方が強かった。

「分かってないって、なにが?」
「なにがって、死ぬわけないじゃん」

からりと言い切って、一拍。

「岱ちゃん変な顔ー!」

一瞬間抜け面を晒してしまった自覚はあったので、首元を暖めるファーに顔を少し埋めながらじとりとねめつければ、彼女は前を向いてからからと笑っていた。そのまま足を滑らせて落ちて頭でも打って死ねばいいのにと思った。

「うふふふふ、うふふのふー!仕方ないからこの名前ちゃんが教えてあげましょーかー!」
「別にもういいよぉ、まったく…きみって本当やな奴だよね」
「やな奴やな奴やな奴!耳すまかっ!そんなやな奴と親友なのは岱ちゃんじゃんっ」
「うっわ、なにその笑えない冗談。親友なんかじゃないよ」
「そーだねー、ただの腐れ縁だよねー」

分かっているくせにこういうことを言うから彼女はやな奴なのだ。鼻歌でも歌いだしそうな彼女は、代わりに「違うんだよ」と言った。

「なにが?」

思わず問い返せば、マフラーから顔を出しはあっと息を吐き出す。一瞬だけ白く色づいて消えたはかなさを眺める眼差しが、光をうけて硝子玉のように煌く。

「しにたいはねー、死にたいだけどねー、死にたいじゃないんだよ」

そうして、寒っと呟いてまたマフラーに鼻先まで埋める。

「なにそれ、」
「まだ分かんないー?」
「分かるわけないじゃん、せめてヒントくらいないわけ?」
「ヒントヒントヒントねー…んー…」

もごもご微かに悩んだあと、そうだねー、と呟いてから。

「みんな死ねばいいのに、明日地球が滅べばいいのに」

歌うように紡がれたそれに、ネガティブワード上位が出揃った気がした。むしろ、それのどこがヒントなのだろうか。根暗なのは事実だけれど、どうやら彼女とは根暗の種類が違うか、思考の配列が異なるらしい。

「分かんない?」
「分かんないよ、むしろもう俺ときみを一緒にしないでよぉって気分だよ」
「えー、いいじゃん、一緒じゃん。岱ちゃんってたまにほんと不思議だよね」

心底不思議そうにする姿には怒るよりも毒気を抜かれてしまう。むしろ疲れる。思わず溜息が出そうになっていると「だってね」名前が呟く。

「だって、みんな死なないじゃん。地球滅びないじゃん」

は?と思って見上げた名前は眉を寄せて、死なないことが滅びないことが心底不服そうな顔をしていて、それが、あっさりした声音とどうにもちぐはぐだった。

「だーかーらー」

そんな俺を横目で一瞥するその瞳は、雨の次の日の混凝土の上で、からからに干乾びて死んでいたみみずを見る眼差しだった。あれ、なんで俺哀れまれてるの。

「死ねばいいのにって、滅べばいいのにっていくら呪詛みたいに言ってもさー、死なないし滅ばないじゃん。分かってるわけじゃん」

だからね、と続く。

「どっか、頭の奥の方ではさー安心するんだよ。死なないことに、滅ばないことに、ほんのちょっとだけどっかでさー、そうやって安心してるんだよ」

そんな馬鹿な話があるわけがないと思ったけど、舌は顎にはりついて動かなかった。それが嫌で「それが」と言う。

「それが、どう一緒だっていうわけ」
「えー、だって、みんな死にませんように、地球が滅びませんように、なんて祈るのはすんごく恥ずかしいじゃん。それで死んだらやだしさ。まあ、しにたいってのは応用編だからなー」

うふふ、と恥ずかしそうに照れた様子で笑う彼女が死ぬだなんて、確かに俺は思ってもいない。トンネルを抜けて、白い世界が後ろへと遠ざかってゆく。ほんの少しの間だというのに、夜天はまた色を変えていた。
ほわちゃあっと、まぬけな掛け声と共に途切れた石の道から名前がジャンプする。そんなことをする程の高さでは全然ないので、ちゃんと着地して、振り返って。

「しにたいっていうのは、しあわせになりたいってことなんだよ」

はにかみながら、そう言った。

「しあわせにさあ、なりたいじゃん。だけどなれないから死にたいじゃん。だけどだけどやっぱりしあわせになりたいっていうのはさあ、いくら誤魔化してそんなことないって意地はってもどっかで絶対消せないからさあ」

墨を流した深く濃い青に、月はない。つい先日、蒼白く透徹っていた満月は次の日からどこかへ消え去ってしまった。かわりに一番星がひとり、ぽつんと小さく鋭い輝きを放っている。

「でも、しあわせになりたい、なんて言うことくらい絶望的なこともないから」

赤橙の地に白や黄、焦げ茶のタータンチェックのマフラーは名前によく似合っていた。その上で、頬を朱に染めて、前を向いた眼差しはどこか慈しむようなやさしさを湛えている。きっと、彼女は俺のこともよくそんな色で見ているんだろうなと、思った。馬鹿なことばかり言って鬱陶しいくせに、ほんとは自分でなんでもしてしまうくせに、わざわざ人に寄っかかってくるのは俺がそれを求めているからだ。逆も、おなじ。

「だから、しにたいは死にたいだけどしあわせになりたいって言ってるのとおんなじことなんだよ」

うふふふふ、と彼女が笑う。それは、ほんと馬鹿だよねーって言ってるみたいに聞こえた。
人工的な灯りだけが、夜道を照らしだす。綺麗だなと見上げる夜天は、きっと、むかしはもっとずっと一緒にしてはいけないくらい綺麗で、それに比べれば塵溜めでしかないのかもしれない。だけど、横に彼女がいるいまを、綺麗だと、思った。

「あーあーほんと寒くてやんなっちゃうねー」
「うん」
「帰ったらあったかいお茶飲もうねー」

こちらを向いて、とても綺麗に笑う名前に俺はもう一度頷いた。




「あー寒かったまじ寒かった!」
「ちょいちょい、ちゃんと手洗いうがい」

真っ先にこたつの電源を入れにいった名前に、苦笑しながら促す。はいはーい、と能天気な返事をしながら洗面所にばたばたと消えていく姿はやはり大きなこどもだ。薬缶を火にかけて待っていると、戻ってきた彼女がコートもマフラーもその辺に脱ぎ散らかすので「こら」と注意すれば、いそいそこたつに潜ろうとしていたのを止めて寒い寒い言いながらコートをかけにいった。その後姿がなんだか嬉しそうに見えて、本当に面倒くさいなあと思った。
カップを二つ、片方は紅茶で片方は珈琲。どちらもお手軽インスタントなので、沸騰したお湯をとぽとぽ注げば両方があたたかく香る。蒸らしている間に、今度こそ全部済ませた名前がこたつに入った、と言うよりも頭まですっぽり潜り込んだらしく姿は見えなくなった。あのこたつ虫。
紅茶にだけ砂糖をスプーンに二杯と半分、ミルクはたっぷり。くるくるとスプーンを回せば、透明感のなくなったやさしい色。二つのカップを手に、こたつへ向かう。

「ほら、お茶持ってきたから出といでよ」

自分もこたつに入りながら言えば、直ぐに行き止まりになった足の先がもぞもぞと蠢いて、やがてもりあがった布団の隙間から頭がのぞく。わあい、嬉しそうな声で座ると名前はカップを手に取った。

「あー…あったかいーいいにおいー」

指先を暖めているのだろう、両手で持つ彼女は猫舌なのでしばらくそのままだ。髪の毛がぼさぼさになっているのを眺めながら、珈琲の入ったカップを手にしていると。

「あ!あ、たんま、忘れてた!岱ちゃんちょっと待って」

ストップ!と制止の声がかかり、飲むために傾けていたカップを元に戻す。手を伸ばして、置きっぱなしにしていた鞄の中をごそごそがさがさ。なんだか忙しない音がするなあ、と思いながらおとなしく待っていればやがて名前が満面の笑みを浮かべ、こちらに向かって勢いよく拳を突き出した。見事な右ストレート、じゃなくて、ちょ、危ない。

「ん!」
「え、」
「カップ!」

どうしてこういう時にいつも説明を全てはぶくんだろうと呆れつつ、俺は名前の方にカップを差し出す。名前の白く小さな握りこぶしが、カップの上でゆるやかにほどかれる様を見ていると、そこから星屑が降りそそいだ。

「え?」

完全にパーの状態になった手がひっこめられ、紅茶を一口。「あっつ!」直ぐに舌を出して眉をひそめる。宙ぶらりんでなんだか置いていかれた状態の腕を戻せば、白いカップの中、先刻睛にした夜天のように深く濃い色を湛えた珈琲の水面に、小さな白や淡い桜や萌黄の色をした星々が浮かんでいる。

「こんぺいとう?」
「珈琲に入れたら、お星さまのきらきらする夜天みたいで綺麗かなって」

ふーふー息を吹きかけ冷まそうとしている名前が、えへへと笑って言う。

「甘くなっちゃうよ」
「いいじゃん、たまには」

そうして、今度はきちんと火傷せずに飲めたらしく。はあ、と一息。きっと、とてもあたたかい息を吐いて。

「しあわせだねー」

にこにこ言う名前に、こちらもようやく珈琲を一口。

「そうだね」

熱い液体と一緒に口内にはいってきた星屑を、奥歯でがりっと噛む。甘いよ、とこぼせば彼女はけらけら心底楽しそうに笑った。

20130221

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