「ねえ、助けてナマエ。ボクもう死んじゃうよー」

それだけ言ってぶつりと途切れた携帯を、とりあえず耳から離してみる。14秒。液晶画面は通話時間を表示して、それもくせで押したボタンによって愛らしいマメパトの時計が表示される待ち受けに変わった。
でなきゃよかった。まず浮かんだのはそれだった。けれど、着信音とともに表示された名前に一瞬迷ったあとにでたのは私なのだ。その時点でもう決まってはいたのだろうけれど、ちょっと愚痴りたい。顔を横に向ければ玄関の姿見にうつるのは見慣れすぎた自分。先日買ったばかりの洋服に、ちゃんと化粧もして髪だって格好にあわせてゆるく巻いてみたりなんかした。しっかり下調べ済みの映画の上映時間に、ランチは同じビル内にあるデザートも美味しいと有名な、お洒落なダイニングカフェ。そしてそのあとは気ままにショッピング。きらきら色鮮やかな予定が、現実のものではなくなることで余計パステルカラーの色彩がビビットになるのがまたうらめしい。しかたない。思い描いているうちが一番きれいで、一番たのしくて、一番夢があるのだから。
肩にかけていた鞄を置いて台所に向かった。




ピンポーン。片方に鞄、片方にスーパーのビニール袋を手に、軽いチャイムの音を聞きながら、扉の前で待っているとややあってガチャガチャ…ガチャリ。案の定というか、毎回のことだけど、開いた隙間からひょっこりと黄色い触覚があらわれた。

「ハハコモリ」

つぶらな瞳が上目使いに私をとらえた途端、ぴょこっと触覚が跳ね上がると扉が勢いよく開かれて廊下が丸見えになった。

「ひさしぶりだねえ、アーティまだ生きてる?」

訊けばこくこくと頷きながら、葉っぱの手も上下に動く。相変わらずかわいい。はやくはやくと言っているみたいなので、ずかずか上がりこむとリビングにイシズマイやクルマユといった彼の手持ちに囲まれて死体が転がっていた。
とりあえず、机のうえにビニールを下ろして(重かった)死体の傍らにしゃがむ。

「アーティ」
「……」
「返事がない、ただのしかばねのようだ」
「……あうう、まだ生きてるよー」

んうんと言う声と一緒に、もっさりとした茶色の髪の隙間から肌色があらわれる。春の新芽を閉じ込めたような、エメラルドグリーンの睛でぼんやりと私をうつしてから「あー本物だー、本物のナマエだー」へにゃりと笑顔は力ない。

「それだけ喋れるならまだ大丈夫そうだね。はいこれ、昨日の晩御飯の残りだけど、とりあえずそれだけ先食べてシャワー浴びといでよ」

鞄の中からスープもお粥も大丈夫!が謳い文句のステンレスジャーを取り出して、アーティの前に置く。

「んー…そーだねー、なんか髪べたべたするし」

やっぱり。ようやく起き上がったアーティと一緒にテーブルに移動すると、お茶が用意されていた。ハハコモリ!なんて偉い子。ハハコモリはちゃんと歩いてるアーティの姿に一瞬瞳を潤ませるとダッと駆け寄って、熱い抱擁をかましていた。
勝手知ったる他人の家。食器棚からスプーンを取り出して、アーティに渡すとそのままビニール袋の中身を卓上に広げる。

「いただきまーす。シチュー?なんだか黄色味が濃いね」
「かぼちゃのシチューだから。家で温めてきたんだけど、まだあったかい?」
「あ、ほんとだ。うん、おいしいよー」

キャベツにニンジン、トマトとピーマンその他諸々の野菜や肉。来る途中で買ってきた食材を、まるで新品のように空っぽな冷蔵庫へしまっていく。
それからボールにフライパンと必要な道具を取り出しているうちに、背中に「ごちそうさまー」の声がかかる。

「はやっ、ちゃんと噛んだ?」
「噛んだよ」

まあ、じっくり煮込んでとろとろ具材はやわらかくなっていただろうから噛みごたえはないか。

「……うん、ちょっと生き返った」
「やっぱ死んでたんじゃん」
「んうん……バレた?お風呂いってくるよ」
「いってらっしゃーい」

ぺたぺた。フローリングの床に足音が間抜けに遠のいていくのを耳にしながら、野菜を切り始める。アーティは、いつもこうだ。創作に熱が入りすぎると寝食をろくにとらなくなるので、終わったあとは死屍累々。それまでおろそかにしていたことが、一気にたたるようだ。多分、電話の前はずっと寝てたんだろう。包装紙を捨てるのにゴミ箱を覗いたら、ゼリー飲料とクッキー状の栄養補助食品の空箱が多量にあった。見なかったことにしよう。とつい思うも、これも毎度のことだ。アーティ自身分かっているので、買い溜めてあるのだ。私も一回見たことがあるけれど、キャンバスに向かって集中しているアーティは、心配するハハコモリが差し出すと「ありがとー」と言いながら受け取るも、視線はキャンバスに向けられたままで、食べているけれど自分が今なにを食べているとかなにも認識していないんじゃあ、という雰囲気がひしひしとした。むしろ食べてることすら理解してないかもしれない。そして、その時の私は、ハ、ハハコモリ…!!とせっせと主人に水や食料を差し出す彼の献身的な姿にちょっと涙が出た。

「うん、大体できてきた……ハハコモリたちのごはんは、」

振り向いた先に、既に自分と他の子たちのためにポケモンフーズを器に入れているハハコモリの姿があって、涙が出そうになった。おおお、この数日間ずっとああやってアーティの世話したり他の子たちの面倒みてたのかハハコモリ……ッ(うるっ)。

「あー…さっぱりした!」

にこにこほかほかのアーティが戻ってくると、いそいそドライヤーでアーティの髪を乾かしはじめるハハコモリ。お、お母さんか…!!
それを眺めながら出来たものを並べていく。うん、我ながらおいしそうだ。

「ありがとー!ハハコモリ。いいにおい!もうお腹ぺっこぺこだよ」

テーブルに向かいでアーティと食べるのもひさしぶりだ。二人そろっていただきますをして、湯気の上がる料理を食べはじめる。

「今日は野菜たっぷりのオムレツとピラフに、トマトのコンソメスープです」
「熱っ、けどおいしい!」

一口が大きいわけでもがっついているわけでもないのに、気付けばアーティの皿は結構な速さでいつの間にか減ってゆく。こどものようなのに、アーティの食べる所作はとても綺麗だ。黙っていれば人形みたいに整った顔立ちをしていると、出会った頃から変わらない感想。シャワーを浴びてすっきりしたのだろう、だいぶ元気そうになってきた。私のよりアーティの分は割と多めについだにも関わらず、どんどんお皿が空になってくるのはさすが男子。

「うん、たまごもふわとろ!やっぱり、ナマエの作る料理はいいねー」

そうやって満面の笑みで食べながら言われると悪い気はしないので、アーティは食べるのが上手い。

「そういえば、その格好どうしたの?」

ちゃんと租借し終えてから、アーティが今頃私の格好に気付いた様子で言う。

「やっと気付いたな!今日は前々から観に行こうと思ってた映画観て、おいしいランチ食べてショッピングを満喫するつもりだったところに誰かさんから電話がかかってきたんですー」
「デート?」
「いやいや、ひとりで」
「ぬうんっ?」
「ぬ?」
「ごめん、ナマエに友達いないなんてボク知らなかったよー」
「いやいやいや、いるし。アーティ知らないのこれが今世間で言うおひとりさまよ!」
「………へー」

あ、すごい興味ない返事しやがった。

「アーティこそ、彼女どーしたのさ。前に見たよ、お人形みたいに綺麗な子と一緒だったじゃん」
「だいぶ前に別れたよー」
「またー?」
「またまたー」

アーティはこの整った容姿に、有名な芸術家とヒウンジムのジムリーダーという肩書きも揃ってよくもてる。モッテモテだ。だけど、顔を合わす度に違う女の子が隣にいるのがいつものことだ。来る者拒まずなきらいのある彼は、告白されると付き合う。アーティ曰くなにか新しいインスピレーションが生まれるかもしれない、からだというのを知っている私としてはこの根っからの芸術男め…と思うも告白してくる女の子たちはそんなこと知る由もない。どうなんだそれ、と一度言ってみたことがあったけれどアーティは、ぬうんとあの間の抜けた声を出したあと「あのコたちだって、別にボクが好きなわけじゃないんだからおんなじでしょ?」小首を傾げるすがたはクルミルのように愛らしかった。それを聞いた私はクルマユのような睛をしていたと思う。多分。

「今回のコもさー、デートとか約束とか、そういうの守れないよって最初にちゃんと言ってあったのに」

創作活動に熱が入ると外界を遮断するのも一因だけど、ヒウンジムは三つめなので挑戦者がそれなりに多く、ジムリーダーであるアーティのところまで辿り着く人も多い。つまり、急なジム戦で約束をすっぽかされることも多いのだ。なんて言うんだ、こう、芸術>ジム>彼女、みたいな。分かっているつもりでも、それに耐えられる子は少ないらしい。そして、大体いつも別れの文句は決まっている。

「今回は、むし?芸術?」
「あー……どっちもだけど、ちょっとむし寄り?」
「あたしとむしポケモンどっちが大事なのよー!って?」
「そーそー、ナマエ似てるね」
「うれしくない」

そんなのきみたちに決まってるのにねー。ポケモンフーズをもぐもぐ食べるハハコモリたちにアーティが言う。それは心底不思議そうな声音で、その綺麗な横顔は慈しみに満ちている。ああ、きっと彼女たちは自分には決して向けられることのないものを欲しがってしまったのだ。それ自体は悪いことではないけれど、相手が悪い。

「それでも、いつだってふらふらひらひら女の子が寄ってくるんだからすごいよねえ」
「ぬう、なんか、今のナマエの言い方ってあれだねー」
「あれ?……ああ、」
「うん」
「花にあつまってくる蝶みたいだよねえ」
「街灯にむらがる蛾みたいだよねー」

私とアーティの声が重なる。………うん?

「………………あ、アーティさん…?」
「んうん?」

小首を傾げて、クルミルみたいに愛らしく、にこっ。
に………にこ…(微笑み返し。返せたか分からない)。うん?なんだ今の。蛾って…例え的にはとってもアレだけど、いやでもアーティはむしポケモン大好きだから別に悪い意味ではないんだろう。きっと多分……うん。

「あんなお人形みたいに綺麗な子たちなのに、もったいない」
「んー…いっそ人形みたいに静かにしててほしいよー」
「うわあ…言っちゃった…(ドン引き)じゃあ、もういっそ人形でもつくれば?アーティ造形も得意じゃん」
「人形?」
「人形」

ちょうどスープをすくっていたスプーンが空中で静止して、アーティの宝石のように綺麗な新芽の色をした睛がきょとんと瞬きをひとつ、それが突然輝きを増した。1カラットから100カラットになった勢いだ。ま、まぶしい!

「いいね!それ、すっごくいいよー!ああ、なんかいいイメージが浮かんできた。うん!人形、いいねおもしろそうだよー」
「そう?それなら良かった」

上機嫌な様子は鼻歌でも歌いだしそうなくらいで。なにが彼のなかにわいてきたのかは知れないけれど、とりあえず創作活動の手助けになったのならいいことだ。

「ナマエ、ありがとー!やっぱりきみはいいねー」

嬉しそうに言うアーティの口元に、赤い色。あ、トマトの欠片ついてる。そう伝えようとする前に、横からハハコモリが手に持ったティッシュでふきふき。気付いたアーティがお礼を言って頭をなでなで。

「……アーティ、」
「ぬうん?」
「アーティはもうハハコモリと結婚したらいいと思うよ」
「んうん……それはとっても素敵だけど、ハハコモリ料理はできないからね」

さすがに火はねー。にこっと口元で笑って言う。アーティのハハコモリの性別が雄だというところは気にしないのか。




「出張、ですか…?」

今日も今日とてばりばり働いていると、ふと上司に呼び出されて告げられた一言。出張。

「そうなんだ。ほら、前にもさちょっと行ってもらっただろう?」
「ああ……シンオウの方の、」
「そうそう!他の子にもと思ってたらあちらさんがね、きみがいいって」

気に入られたね。と言われるも喜んでいいのかいまいち定かではないところだけど、ご指名いただいちゃったのか私。おお、すごいな。一応喜んでみる。

「じゃあ、一ヶ月…もしかするともう半月プラスされるかもしれないけど」
「え」
「頑張って!」

一ヶ月?もう半月プラス…?と窺おうとする私をばっさりスルーして、上司は親指を立ててくれた。今更だけど、結構ゆるいなこの会社。自分のデスクに戻った私に、隣の席のミチヨちゃんが「どったの?ナマエちゃん」と首をのばしてきたので、かくかくしかじか、説明をすれば、ミチヨちゃんが一瞬の間のあと「がんばっ☆」と親指を立てた。お前もか。そして「お土産よろしくねー!」とうきうき、シンオウの名産ってなんだっけーと楽しそうだった。……ミチヨちゃん、観光じゃないのだよ。
そんな出張命令をいただいて、いそいそ荷物をキャリーケースに詰めるなか。ふとアーティのことが頭をよぎった。ちょっと、長いけどその間にまた死体になったりしないだろうか。携帯を取り出して、アドレス帳をひらくと、一番うえにあるアーティの文字。この間の、手助けにとあの時は思ったけれど、すぐにまたイメージがわいて創作活動に熱が入ったら正直ハハコモリごめん状態なので(終わったばかりなのに)、余計なことを言ったような気がしないでもなかったからだ。そこまで思考して、ふっと息を吐く。まあ、でも、大丈夫か。料理をつくってくれる女の子なんていくらでもいるだろうし、最終的にはアロエさんに助けを求めるだろう。別に、私でなくてもいいのだ。知っている。二週間とか連絡もなにもないのもざらなので、今更一ヶ月ぐらい大丈夫だろう。電源ボタンを押して、待ち受け画面に戻す。ちょうど時刻は22時をまわって、マメパトがでてきた。くるっぽー。シンオウ地方は遠いし明日もはやいのだ、はやく寝よう。


シンオウ地方は、正直寒かった。忘れていた。ちょう忘れてた!私ばか!到着して早々に上着やマフラーを買って防寒対策をしながらもなんとか、出張に出てから一ヶ月が経ち、ウィークリーマンション生活にもだいぶ慣れた頃。やっぱり延びた。この年になると一ヶ月なんてあっという間だとはいえ、元の会社で私のこと忘れられていないだろうかとちょっと、不安になる。シンオウは、到着してからこれも思い出したけれど、イッシュと携帯が繋がらないのだ。会社に連絡をとる時は専用の固定電話を使わせてもらっているけれど、それ以外ではそうもいかない。ああ、はやくミチヨちゃんとくだらない女子バナをしたいなあ。結局彼女が調べて「これお願い!」と言ったシンオウ限定のお菓子も買ったさ!アーティにはミノムッチのぬいぐるみを買っておいた。アーティ、元気かな。
アーティとの付き合いももう何年になるだろう。出会ったのはヒウンシティじゃなくてシッポウシティだった。私は特にやりたいことも見つからずふらふらバイト生活の中、ちょうどその時シッポウシティにある料理店の厨房でバイトをしていたおかげで料理にこっていた。そんな頃に仲良くなった常連の女の子が芸術家を目指していて、今度仲間内で展覧会をやるから見にきてというよりも、ナマエの料理美味しいから差し入れちょうだい!と誘われて行ったそこでアーティと出会った。
まだジムリーダーでもこんなにも有名な芸術家でもなかった、木造倉庫のアトリエで絵を描いてむしポケモンを愛で、たまに外に出ては誰かとバトルをして、ヤグルマの森に入り浸ることもしょっちゅうだったアーティ。
第一印象はなんか変な人だなあ…だったけど、差し入れた料理を一番美味しそうに食べてくれたのが彼だったので印象に残った。まあ、アーティの第一声が「ねえ、きみむしポケモン好き?」だったし、そりゃあ記憶に残るよね(そして彼は、私が「そうだねえ、今日一緒じゃないけど家にホイーガいるし」嫌いじゃないかなあ、と続ける前に「本当!?いいよね!むしポケモン!」と詰め寄ってきた。ちょっと引いた)。
特別会話をするわけでもなかったけれど、それから数日後アーティはお店に通うようになってくれたので、だんだんと話すうちに意気投合……というよりも、なんだか楽だったのだ。いなくても大丈夫だけど、いるとたのしいよね、とお互い分かっているような。
そうやってぐだぐだしているうちに、そろそろちゃんとしないといけない年齢になってきたので、私はだめもとでヒウンシティの大きな会社に面接にいったら受かった。ラッキーだったあれは。多分あれで一生の運を使い果たしたと今でも思っている。
ちゃんと働きはじめたおかげでアーティと会うことは少なくなっていたけれど、ある日突然かかってきた電話が「ナマエのつくった料理が食べたいよー」だったので笑ってしまった。そうか、飯か。餌付けしてたのか、私。そうして会ったり会わなかったしている間に、アーティはいつのまにか有名な芸術家になり、ヒウンジムのジムリーダーになっていた。大出世だ。雑誌やテレビでも見るようになったアーティは、だけどアーティのままだった。私も、私のままだろうか。自分のことはよく分からない。




結局、一ヶ月プラス半月で終わった出張帰りのまま、もう夜の時刻になりそうなころ会社に顔を出した。なぜかによによ顔の上司に労われつつ報告を済まし、さて、久しぶりの我が家に帰るかと思っていた時「ナマエちゃん!」と名を呼ばれた。

「ミチヨちゃん、ただいまー。ちゃんとお土産買ってき、」
「ナマエちゃんってば水くさい!」

たよー!と続くはずだった言葉を遮られた。なんだ?なにが水くさいって?

「え、なに」
「なにって、アーティさんと付き合ってるなんて知らなかった!!」
「………………は?」

たっぷり間をおいて、は?今なんて言ったのミチヨちゃん。アーティがなんだって?アーティと付き合ってるって、誰が。知らなかったと言われても私も知らねえよ!

「ま、待って、ミチヨちゃんちょっとタンマ、なに言ってるか分からない」
「もー!誤魔化そうたってそうはいかないんだからっ」
「いや、誤魔化すもなにも……え?いや、ホントなに?」

なにがあった。つかつかヒールを鳴らして詰め寄ってきたミチヨちゃんに、降参、手を上げて問えば「アーティさんが来たのよ!」と彼女は芸能人でも見た眼差しで言った。

「あ、アーティが……どこに…?」
「ここにっ!ナマエどこに居ます?って。きゃー!もう、ナマエちゃんったら彼氏に出張のこと言ってないとか信じらんない!」
「か………え?え……彼氏…?………え?(二度訊き)」
「あたしナマエちゃんとアーティさんがそんな関係だったなんて知らなかったあぁぁ!ひどいよ、友達だと思ってたのはあたしだけだったのね!」
「いやっいやいやいやいや、違う。ミチヨちゃん違うよ彼氏じゃない、違う違う!!」

おみやげの入った袋を振り投げる勢いで、首も手も使って全力否定する私とは正反対に、ミチヨちゃんはきょとんとその長い睫毛をぱちぱち。

「またまたぁ!そんな照れなくてもいいのにっ(つんつん☆)アーティさんにナマエちゃんとのご関係は!?って訊いたら、ボクはナマエの恋人だよーって言ってたもん」

つつかれながら、ぷるるん、桃色の愛らしい唇からはなたれた言葉に、私はもう何度目かも分からない「は?」を言っていた。


ピンポーン。まさか自分の家の前にアーティの家のチャイムを鳴らすことになるとは……と、会社を出て勢いのままキャリーケースをがらがら引きずってきたものの、ようやくというか、今更というか、ちょっと冷静になってきたので若干チャイムを鳴らすのに迷い、けれど、ここまできたんだと結局押していた。この時間なら、きっともうジムではなく自宅だと思ったのだけれど、出てこない。もう一回鳴らすかと手を伸ばした時、ガチャと音がした。ハハコモリだろうか。大概の確率で、戸を開けるのはあの黄色い触覚がかわいい彼なので、ちょっと心を落ち着かせる。ハハコモリを怯えさせるのは可哀想だ。ガチャガチャ…ガチャリ。戸が開いて、出迎えてくれるハハコモリのために、笑顔をつくる。

「あ、」
「…………」

けれど、予想に反して現れたのは緑と土の色をまとった、見慣れた姿。アーティだった。

「ひさしぶりー、ナマエ。ぬうん?どうしたの、そんないっぱい荷物持って」

にこっといつもの笑顔で出迎えたアーティとは正反対に、私は無駄になった笑顔をしまう。

「ホントにひさしぶりだねえ、アーティ。どうしたのって、知ってるくせに白々しい」
「んうん?なんにも知らせてくれないよりはマシだと思うよー」

にこにこっ。軽い口調に、いらっ。すこし落ち着いたと思っていたのにそうじゃなかったようだ。アーティ相手に怒ったって無駄だということくらいは分かっているけれど、分かっていても割り切れないこともある。玄関先で仁王立ちする私を、アーティは頭からつま先までを見下ろして、笑みを深める。

「なに」
「んー、嬉しいなーと思って」
「……なにが」
「出張から帰ってきて会社寄って、そのままボクのトコに直行してくれたんだーって思ったら」

………こっ、の…!ミノムッチのぬいぐるみを顔面にぶん投げてやろうか。思って、無駄だと諦めた。いつだって、そうなのだ。彼のまわりでは勝手に人が騒いでやきもきしてひとり相撲。どんなに外野が荒れて吹きすさんでも、アーティ本人は台風の目。おだやかな青空のしたで、周囲が暴風域でもどこ吹く風だ。はあ、大きな溜息とともに身体から力が抜けるのが分かる。

「ね、あがっていきなよ。ナマエに見せたいものがあるんだー」
「やだよ。帰る。はいこれ、おみやげ」

疲れたしめんどくさい。もういいや、投げやりな気分でキャリーケースの中からミノムッチを取り出してアーティに押し付けようとした腕を掴まれて、引かれる。

「え、」
「そんなに嫌だった?」

なにが、とは流石に訊かなかった。訊けなかった。春の新芽の瑞々しく美しい緑の宝石が、睛の前で笑っていなかったからだ。

「…………冗談にしては笑えないし、めんどくさい」

綺麗だなあと思いながら紡げば、ややあってゆっくり細められた。掴んだまま私の手からぬいぐるみを受け取って。

「じゃあ、そういうことにしといてあげるよー」

じゃあってなんだ、じゃあって。悪いのは私じゃない。アーティだ。あの時、人をクルマユのような睛にしておいて微笑んでいたアーティだ。

「すっごくかわいい」
「え、」
「ミノムッチ」
「…………そうでしょうともっ、わざわざ売り場で一番かわいいミノムッチを選んできたんだから!感謝するがいい!」
「うん、ありがとー」
「………」
「ナマエ?」
「………腕、」
「腕?ああ………んうん、ナマエがあがってくれるなら離すよー」

にこにこと笑いながらも、腕を掴む手は頑なでびくともしない。めずらしい。的確に人に指示をすることはあっても、決して強要することはないアーティが。無言で見上げていてもなにも変わらないようなので、おとなしく「分かった」と頷けばあっさり腕は離された。
じゃあ、お茶淹れるよーと背を向けて廊下を歩んでいくアーティのうしろすがたを見ながら、まだ玄関の外にいる私は今すぐキャリーケースを引いて「かかったなアーティ!嘘に決まってるじゃん!さらばだ!」と高らかに笑ってこの場から立ち去れることを思って。思いながら、扉を閉めて靴を脱いでいた。なんだこれ。なんで私出張帰りで疲れてるのに、なんでこんなまた疲れてるんだろう。アーティは、アーティのままだったけれど、私が知っているとばかり思っているアーティはいつだってするりするりと簡単に指の間をすり抜けていって、私はアーティのなにを知っているのか分からなくなる。当然だ。自分のことだって分かっていないのに、他人のことが分かるわけがない。そこまでで、いや、と思う。自分のことは、見ないフリしているだけなんだ。
脱ぎ終えた靴をそろえて、アーティのあとを追ってリビングへ向かう。

「で、アーティ見せたいものって……、」

やや薄暗かった廊下とは異なり、明るい室内に入って、アーティの姿を探そうとした視界にうつりこんできたものに、私は固まった。なに?と続けられなかった。
リビングの奥に、私が、いた。一瞬鏡を見たのかと思ったけれど、違う。服装が、違う。ただ、見覚えのある服は、確かに私のものだった。ゆっくり近付いて、ようやく頭が理解する。人形、だ。これは。等身大の、私と寸分も背の違わない。人形。うっすらと微笑を浮かべる唇に、鼻筋も見慣れた。光を受けて煌く瞳は、なにを使っているのだろうか。ちゃんと睫毛まで揃っている。近付いたおかげで、ふっと鼻先を香るにおいも嗅ぎなれた、普段私が使っている香水のにおい。吸い寄せられるように、指先が頬に触れる。無機質なすべらかさは、けれどひんやりと冷たい。あまりにも精巧な人形は、これは、アーティがつくったのだろうか?けれど、なぜ人形を……と、そこまでで記憶が甦る。人形でもつくったらいいじゃん、と私が言ったのだ。だけど、なんで……なんで、

「いい出来でしょー?」

直ぐ耳元で鮮明に鼓膜を震わせた声に、ハッとする。振り向こうとして、できなかった。背中に、触れたのが分かったからだ。うしろから伸ばされたアーティの腕が、視界の横を通って、その指先が人形の、私の触れているのとは反対の頬に触れる。

「妥協は絶対許せなかったからどんどんこだわったら、すごい時間かかっちゃったんだよねー」

途中で、きみがいないって聞いて余計にさ。言いながら、肩に顎の微かな重みがあってアーティの顔が直ぐ横にきたのが分かった。細く、長い、けれど筋張った男の指が、ゆっくりと頬を撫でる。それは、触れるか触れないかの、軽やかで丁寧な動きが見ていても伝わってきた。なんで。なんで、そんな慈しむようなやさしい動きで、さわるのだ。

「ぁ……アーティ、」
「だけどさー」

つう、と人差し指が顎のラインまでを撫でて、離れる。

「やっぱり、冷たくて、静かなのはいいけどたのしくないし、ナマエの使ってる香水も洋服もちゃんと揃えたのに、だけどやっぱり違うし、それにやっぱり、なにより、つまらないしねー」

離れた腕が、回される。ぎゅっと、しめつけて。肩に顔をうずめる。息を吸って、吐く動作さえ繊細に響く。

「うん」

アーティが、頷く。

「これだよー、ナマエのにおい。あったかい、肌のやわさに、髪だって、睛だって、腕の、この薄い皮膚のしたにある血も肉も骨も、ぜーんぶ違う」

所在をなくした人の腕をとって、包んだ指先が這う。さっき睛にしたのと、同じ動きで。

「人形は、良かったけど全然駄目だったねー」

ねえ、とアーティが言う。顔を覗き込んでいるのが分かるのは、人形をうつしたまま動かない視界の隅に、緑が否応なく輝いているからだ。いや、きっと、アーティは私がうつしていないのを、知っている。自分はかげろうのようにすり抜けてしまうくせに、人のことは勝手に糸を張り巡らせて、気付かないうちに繭のなか。そろりと音もなく眼球だけを動かして、横を見れば、案の定そこには人形のように整った顔立ちのなか、嵌め込まれた宝石の双眸はきらきらとうつくしい。

「ね、ナマエはちゃんとボクのこと好きなんだから、そろそろちょうだいよー」

それは、喜んでいいのか傲慢だと罵ればいいのか、やっぱり私はクルマユのような睛をしたのだった。

20130204

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