高二の夏は、進路をどうするか考えていかないといけない夏だったけれど、高校受験をしたのがつい先日のことのように思える身としては未だ実感はわかなかった。わかないまま、特に宿題以外の勉強をすることもなく、そろそろ返却期限の迫っていた本を返すために、午后から図書館へと向かった。手提げ鞄はずっしりと重い。本は結構重いのだ。
青い天に雲はすくなく、さんさんと照りつける陽ざしを受けた混凝土が、宙へ熱を押し上げている。できるだけ日陰を、と思うも高いところへある真白い太陽から逃れる術はあまりない。かろうじて図書館と隣接した公園沿いを歩く頃、頭上まで茂る濃い緑の葉が路傍に影をつくりだしていたので避難する。かすかな風にさわさわと揺れるたび、影と光が万華鏡のように姿形を変える。図書館の壁は、朝顔やゴーヤのグリーンカーテンで覆われていた。
室内に入った途端に冷気につつまれて、ほっと息を吐く。日傘を買った方がいいかなあと思いながら本を返却して、書棚へと向かう。おさない頃のわたしはよくあんな炎天下のなか通ったものだと、それだけもとなりさんに会いたかった自分を褒める。
うえからしたへ、背表紙を見て面白そうな題字のものをとってみては中をぱらぱら、棚に戻す。もとなりさんは、どんな本が好きだったのだろうか。うろうろとさまよう内に、花の本が睛にとまる。花、花。もとなりさんは本当にいろんな花の名を教えてくれた。教えてくれた、けど、と思う。手にとって見れば、鮮やかな写真つきで様々な花の説明が載っている。芙蓉、椿、彼岸花に空木…めくりながら、もう幾度も抱いた疑念がうかぶ。おかしいのだ。おさない頃は無知だったおかげで気付かなかったし、気にもしていなかったけれど、おかしかった。
芙蓉は暑い夏に、椿は雪で白く染まる冬、彼岸花は秋の彼岸に咲き、空木は春のやわらかな緑に降り注ぐ。他の花だってそうだ。季節が、ごちゃ混ぜなのだ。あれは確かに、暑い夏季休暇のできごとだったというのに。温室でもないあの緑の庭では、季節を問わずいろんな花が咲いていたことに最初気付いた時はふしぎでしかたなかった。それで一時はあれは夢か、記憶違いなんじゃないかとさえ思った。けれど、花を見ればもとなりさんの声がするのだ。あの花は、と教えてくれる声は確かにわたしの耳に残っていた。


結局、散々書棚をうろついたわりに特におもしろそうな本がなかったおかげで軽い手提げ袋を手に、だいぶ傾いた陽によってできた建物の影を進む。この時間ならと、大通りではなく小路に入れば、そこは期待通りの暗がりの道だった。
木陰で涼む猫を見つけたりしながらなつかしいな、と思う。この辺りを散々探しまわったのだ。当時は蜘蛛の巣のようだと、迷路じみていた道もいまはどこを通ればどこに出るのかちゃんと知っている。それは普通のことで楽なことだったけれど、すこしだけつまらなかった。むかしはもっといろんなものがきらきらしていたはずなのにと、たまにおさないわたしがうらやましくなる。
もとなりさんが、大好きなわたし。過去形には、まだできなかった。あの頃の自分を思い出すと、恥ずかしいような呆れるような、おもはゆい気持ちになる。口下手だったけれど、本を読んでいたおかげかすこしませていたわたしは、ちゃんと自分の好きとの違いを察していた。もとなりさんは大人だから、こどものわたしを相手にするわけがないと、分かっていたのだ。その背伸び具合がおかしくて、ちょっとせつなかった。
そうして、いまなら、と思う。あれから何年も経って、まだ大人とは言えないけれど、大きくなったわたしを見たらもとなりさんはどう思うだろうか。いまなら、わたしの好きとおなじものになってくれるだろうか。けれど、それは甘い幻想だ。わたしが年を重ねたのとおなじように、もとなりさんはもっと、ずっと、大人になってしまっているだろうから。埋められない歳月のなかでは、きっと、いつまで経ってもわたしはこどものままなのだろう。
もとなりさん、もとなりさん。どんな字を書くのか、教えてもらわなかったせいで、わたしのなかではいつまでもひらがなのままだ。もとなりさん。明日言えなかった言葉が、ずっと胸の奥底につかえている。誰でもない、あの人にだけ伝えたい言の葉はどれだけの歳月を経ても、くるしくなるくらいに枯れてはくれない。
夏は、いつもこうだ。この濃い気配とにおいが、緑が、まざまざとせまってきて記憶が鮮明なものになりすぎて、つらい。ぐっと、あふれそうになるのが分かる。駄目だ、昨日から涙腺がゆるんでいる。自然うつむいてしまっていることに気付いて、すこしだけ唇を噛む。秋の気配を感じられるようになるまではまだまだあるのだから、これではいけない。ちょうど曲がり角にさしかかったのもあり、顔をあげた時、暗さに慣れていた睛を西日が焼いた。
眩しさに、咄嗟に手で視界を守る。わずらわしいなあと思いながら、とじた目蓋をひらいて、影となったてのひらのシルエットの向こうをうつした睛に、赤が飛び込んできた。

「え、」

間抜けな声がこぼれる。陽を受けてこがねに輝く石畳の道、太陽の色に染まった影。その影をつくりだす赤は、鮮やかすぎるほどの真紅。道を彩るかのように、路傍に咲き乱れる花冠を、知っている。知識としてではない、忘れられない記憶として、知っている。

「ひがん、ばな…」

呟くのと同時に、まさか、と思う。けれど、おさなくないわたしは狂い咲いているだけかもしれないとも、思う。それでも、おかしさは否めなかった。あの角は曲がってもずっと黒くごつごとした土瀝青舗装された道が続いて、そして。そこで、あれ、と戸惑う。どこに出るのだったか、思い出せない。家並みが続いているはずだというのに、深い水底のような静けさは人の営みの気配も、猫や虫といったいきものの気配すらないような、錯覚。そうだ、錯覚だ。久しく通っていないせいで忘れていた道に出ただけなのだ。そう自分に言い聞かせても、とくりとくりと嫌に心臓の音がおおきく内側から響く。期待をして、裏切られるのが嫌だった。いまのわたしは、とてもずるい。
どこまでも続く赤を横目に、まっすぐに歩めば、足音だけが無音に木霊するようで。やがて、白い塀が、濃い緑の垣根に変わる。足を止めそうになった。緑のなかに咲く黄色いしべを晒す紅は、椿だったからだ。彼岸花と椿。そのふたつの赤に、息ができなくなる。知らず胸にあてていた手に伝わる鼓動は、先刻よりもはやくなっているような気がした。
はやる気持ちのまますすんでいた足が、今度はぴたりと静止する。ああ、と思う。生け垣の途絶えた、そこだけ赤のない空間は道だった。隙間とはいえないくらいの、まるであつらえたかのようにわたしの背にちょうどの空洞がぽっかり口をあけている。その中は木々の重なり合う、緑の道だった。
ぎゅっと、胸にあてた手が服を握り締める。その内側でぐるぐるといろんなものが渦巻きすぎて吐きそうだった。泣きたいのか嬉しいのか怖いのか分からなかった。だけど、ひとつだけ分かっていた。握り締める手の力をどうにかぬいて、そっと息を吸って、吐く。いきものとして当たり前すぎる行為を、こんなにも意識したのははじめてかもしれない。深呼吸のなりそこないは、それでもわたしの足を動かした。
小道へと踏み入れた途端、すこし薄暗くなるも木々の隙間から光が入り込むのだろう歩むのに支障はなかった。長いような短いような、やっぱりよく分からないうちに途切れた先は、庭だった。森や林を彷彿とさせるほど鬱蒼とした緑で満ちた庭。おなじだった。なにも変わっていない。宝石箱の中身を散りばめたように、色とりどりの花が咲き乱れている。苔の敷き詰められた地面に並ぶ甃石は道標だ。あの人への。ただ、まっすぐに前だけを見つめて歩む視界は、気を抜けばうるんでぼやけてしまいそうだった。
だから、涙腺が耐えているあいだに記憶で数回、思い描いたのはもう数え切れないくらいの、群青の着流しの後姿を見つけたことを、褒めてあげたかった。だけど、それは、あとだ。いまは、いましかできないことを、したい。

「も、と…なりさん…っ」

ずっと声を出していなかったせいで、みじめなくらい、ひどく掠れたちいさな声だった。こんな声が聞こえるわけが、届くはずがないと瞬間嫌になったわたしよりも、まだずっと先、水盤の傍らに立つその背が、けれど振り返った。

「……っ、」

もとなりさん、だった。黒髪も、その奥で驚きの色を湛え見開かれた双眸が、確かにわたしをうつして、ゆっくりと細められる。

「名前」

やさしい声で呼ばれた名前に、いままでおさえていたすべてが決壊した。つん、と鼻の奥が痛んで、一気にもとなりさんも緑もぼやける。それが嫌で、手で拭う。もとなりさんをちゃんとうつしたいのに。想いとは裏腹に、拭っても拭っても一度あふれた涙は止まってはくれなかった。咽喉がつまって、ひっ、としゃっくりのような嗚咽ばかりがくるしい。いつから声をあげて泣けなくなってしまったのだろうか。こんなに泣いて、まるでおさないわたしのようだったけど、違う。苦くて悲しい涙じゃ、ない。
そっと、頭に触れる感覚にぼやけてしかたない視界が群青に染まっていることに気付いた。やさしく撫でられるそれに、余計あふれる。

「本当に、きみなんだね」

直ぐうえからふってきた声に、顔を上げる。きっと涙でぐちゃぐちゃで見れたものではないんだろうけど、見たかったから。記憶よりもずっと近い距離に、もとなりさんの顔があった。むかしは首が痛いくらいだったのに、いまはすこし傾げただけでよかった。
涙の膜をはる視界でも、もとなりさんは、なにも変わっていないように見えた。いまのわたしとすこししか年がはなれていないようにも、ずっと年をとっているようにもうつる。もっと、ちゃんと喋りたいのに、くるしい。頭を撫でていた手がゆるりと下がって、そのまままなじりに触れる。

「そんなに泣いては、目蓋が腫れてしまうよ…」

音もなく身をひかれたと思った時には、頬に布の感触。もとなりさんの腕のなかに、やわらかく包まれていた。咄嗟に名を紡ごうとしても、結局嗚咽にしかならないことにもがいていると「大丈夫、ちゃんと息をして…」そうあやすように背を撫でられ、心地よさに自然強張っていた身体から力がぬける。睛をつむったそこは、鼓動もなにも聞こえない、あたたかな暗闇だった。
次に見ひらいた時、うつる世界はまだにじんでいたけれど、もうあふれてはこなかった。

「……もとなり、さん」
「なんだい?」

まだ流暢とはいえない声だけど、もうくるしくはなかった。

「ごめん、なさい…あの日お花盗っちゃって…」

そのせいで会えなくなったのだと、ずっと思っていたおさないわたしの言葉をもとなりさんはただじっと聞いてくれた。かすかな沈黙のあと、息をつく気配が伝わる。

「……謝らなければいけないのは、私の方なんだ。あの日で会えなくなることは分かっていたのに、きみに伝えることができなかった」

もとなりさんの静かな声に、脳の片隅でやっぱり、と思う。あの日、夕闇に染まりかけていた帰り道、至る家で焚かれていた燈は送り火だった。

「もとなりさんは、やさしいから」
「やさしくなんてないさ……仮にきみがそう受け取ったとしても、それはきみを誑かして連れて行こうとする、私のためのやさしさでしかなかったんだよ」
「それでも、いい」

本当でも嘘でも、なんでもいい。もとなりさんのやわらかな笑みも、そっと撫でる手も、そのすべてが血の通わない、つめたいものであったとしても、わたしにはあたたかかったのだ。
もぞりと、みじろぎに囲いがひろまってわたしはもとなりさんの胸から顔をはなす。そうして、見上げた先でもとなりさんは微笑んでいた。泣きそうな顔で、やさしく笑んでいる。
黒くぬれた双眸にうつる自分がどんな表情をしているのかは、分からなかった。笑っているのだろうか、まだ泣いているのだろうか。それとも、もとなりさんとおなじような顔をしているのだろうか。

「ひとりは、淋しいけど……ふたりなら、きっと淋しくないよ」
「……いいの、かい?」

もとなりさんの問いに、今更だよと今度はちゃんと、自分でも分かる笑みがあふれる。おさないわたしが、もしあの時訊かれていてもこたえはおなじだったからだ。

「もとなりさんは、変わらないね」
「名前は、大きくなったね」
「うん……芙蓉の花みたい?」

冗談めかして言えば、花のひらく速度でもとなりさんの顔がほころんだ。そうして、うん、そうだねと頷くので、そんなわけはないと分かっているのに、そんな気持ちなってしまって困った。だけど、もとなりさんがわたしに向けて笑ってくれる。それは、とてもすごいことで、だから、それだけで良かった。

「もとなりさんは知らないかもしれないけど、わたしはずっと好きだった」

もっと恥ずかしくて縮こまった声になるかと思っていたら、あっさりと紡いでいて自分で驚いた。ロマンティックの欠片もない物言いに、これじゃあおさないこどもの戯言ととられてしまいそうだと思ったけれど、もう、それでも良かった。わたしがもとなりさんを、好きだと、愛おしいという気持ちはなにも変わらない。とりあえず、離してなるものかと背中に腕をまわしてもとなりさんにぎゅっと抱きつく。
本当はやっぱり照れていたのかもしれない。またもとなりさんの胸に顔をうずめたわたしの、つむじのあたりに。

「知っていたよ」

笑みを孕んだ声音がふってきて、お返しとばかりに強く、だけどどこまでもやわらかく抱き締められて。やっぱり、さびしい幽霊はとてもやさしいのだと思った。

20130116

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