もとなりさんとは、いろんなことを話した。
緑の奥にある湧水の池に咲く睡蓮や菖蒲、ぽつんと一本だけ大きな枝ぶりの藤、やわらかな木漏れ日をつくりだす合歓木、ゆるやかな傾斜を彩る野路菊、八重咲きがうつくしい花海棠。庭に咲き乱れる花の数々をひとつずつ丁寧にもとなりさんは教えてくれた。
そうして、もとなりさんと比べるととてもつたない話をしても、もとなりさんは静かにゆっくりと聞いてくれた。口下手なせいで家では姉や兄が口々に出す話題へあまり入り込めず、その日あったことも話せないので、それはとても嬉しいことだった。多分、もとなりさんが思っているよりもずっと。

「きのう、ばんごはんの時にテレビでおばけの番組やってて、わたしはこわいからやだったのにお姉ちゃんとお兄ちゃんが見たいって言うから見たら、やっぱりすごくこわくて…」

もとなりさんが切ってくれた水蜜を一口食べれば、口の中いっぱいにやさしい甘さがひろがる。水盤で冷やしていたおかげで、つめたい水蜜は火照った身体に心地よかった。食みながら、昨晩のことを愚痴ったらもとなりさんは、ふふ、と笑った。夏になるとやたら特番で放送される怪奇番組が苦手だった。なにより見たせいで夜にひとりでトイレに行けなくって笑われたのが一番嫌だった。

「それは、大変だったね…そうか、名前は幽霊が苦手なのか」
「だって、こわいから」

思い出したせいで恐怖映像が頭に広がる。唇をとがらせて言えば、もとなりさんはすこしだけこちらに身を屈めた。

「じゃあ、いまは名前にとってとても怖い時期なんだね」
「え?」

笑顔のまま言われた言葉に睛を瞬かせる。

「いまは盂蘭盆だからね、幽霊はこの間だけ冥府を出ることを許されてこの世にやってくるんだ」

続けられた言葉にもう一度、え、と思う。にこにことしているもとなりさんのせいで分かりづらかったが、こわい話をされているのだとようやく理解する。

「え、じゃあ、いま…ゆーれいいっぱいいるの…?」

恐る恐る訊ねれば、あっさりそうだねと首肯された。それにひっと昨晩の恐怖心がよみがえる。

「もっ、」
「も?」
「もとなりさんのいじわる…っ」

こわいと言ったばかりなのにそんな話をするなんて。そんなことを聞いてしまえば、これから夜はひとりでトイレに行けなくなってしまう。それに、もとなりさんの家は田舎の祖母の家のように古い木造建てで、意識をすればまるで幽霊でも出てきそうな雰囲気がある。もとなりさんは睛をまるくしたあと、声を出して笑った。その姿をねめつけていると、口元をおさえて、すまないと謝罪された。

「大丈夫だよ、盂蘭盆が終われば幽霊はまた冥府に帰ってしまうからね」

真面目な面持ちでそう言うけれど、よほどおかしかったのか、笑みが消しきれていなかった。それが不服だったけれど、もとなりさんの言葉にそっと安堵した。

「だけど、そんなに怖がらないでくれないかな、幽霊は淋しいだけなんだ」

思いがけない言葉につい、さびしいの?と訊いていた。もとなりさんは視線を受け止めるとそっと頷く。

「そう、ひとりで淋しくて…誰か一緒にきてくれる人を探しているんだ」

もとなりさんは微笑をうかべている。それは男の人なのにとても綺麗で、だけどなぜか胸がぎゅっと締め付けられた。

「……ひとりは、さびしいね」

ぽつりと知らず落ちた呟きに、もとなりさんがそうだねと笑みを深めるのを見て、すこしだけ幽霊がこわくなくなった。


もとなりさんのことは誰にも言っていなかった。両親にも兄と姉にも。言えば怒られる気がしたのと、もとなりさんとあの緑の庭のことは自分だけの宝物にしたかったからだ。毎日もとなりさんと会う度にきらきらと降り積もる綺麗なものを、そっと、大事に大事に宝箱へとしまう。もとなりさんのことを思うと嬉しい気持ちでいっぱいになった。
困った時は頭をかくくせや、笑うとできる口の皺とか、撫でてくれるおおきな手の心地よさ、ゆったりと沈黙さえやさしく流れ、花を見つめる時の澄んだ眼差し。それを思い出すだけでしあわせだった。もとなりさんが、好きだった。だけどもとなりさんは大人で、もとなりさんの腰ぐらいにしか背がないこどもを好きなるはずがないと分かっていた。本を読んでいると、いろんな好きのかたちがあるのだと知っていたからだ。もとなりさんに、嫌われていないとは思う。だけど、もとなりさんが好きだと思っていてくれたとしても、それはきっと違うものなのだ。




その日は朝から、ずっと田舎に行っていた友人が帰ってきたので一緒に遊んだ。おみやげを貰って、一緒に食べながら海の話を聞いていた。毎年我が家もこの時期は祖母の家へと遊びに行くのだが、今年は両親が忙しすぎて駄目だったのだ。
夕方頃に帰った友人を見送って、家のなかにひとりになって、今日はもとなりさんに会いにいけないと朝から思っていたものの、まだまだ外は明るかったのでついサンダルを引っ掛けて家を飛び出した。遅くなると帰ってきた両親に心配されて、どこに行っていたのか訊かれてしまう。急いで走る視界は、いつもは帰る時に足元へ濃い影をつくる西日が真正面にあってひどく眩しかった。
急いで、急いで、ようやく見えた木々の小道を抜けて一面にひろがる緑にもとなりさんの姿は見当たらない。色とりどりの花よりも、もとなりさんを見つけたくて甃石の小路をゆけば水盤の傍らに佇むもとなりさんの後姿を見つけた。

「もとなりさんっ」

思いの他おおきくなってしまった声に、群青の着流しの背が振り返る。もとなりさんはどこか驚いたようにこちらを見て、それから、名前、と名を呼んだ。

「今日はもう来てくれないかと思っていたから、驚いたよ」
「もとなりさんに会いたくて、」

傍まで駆け寄って、ようやく静止した身体は熱くどくどくと心臓の音がうるさいくらいだった。整わない息のまま紡いだ言葉に、もとなりさんは睛を見開いたあと、やんわりと細めた。

「ありがとう、嬉しいよ」

そう言ってもらえるだけで、疲労感もどこか嬉しいものに変わる。咽喉がかわいただろうと、もとなりさんはすっと手を伸ばして、水盤の中から水蜜をつかみ出した。やわらかな薄紅の表皮がきらきらと水をはじくのが綺麗で見ていると、もとなりさんが水蜜を剥きはじめる。おおきな手は、無骨な男の人のものなのに丁寧で繊細な所作は思わず静かに見つめてしまう。瑞々しい黄金色があらわれて、もとなりさんはそれをそっと差し出した。
受け取ろうとすると「手が汚れてしまうから、このまま」そうすこし手をひかれ。かすかな戸惑いに水蜜ともとなりさんを交互に見るも、もとなりさんはにこやかな笑みを浮かべているだけなので、こども扱いをされていると思いながらも目の前の水蜜にかじりついた。したたりそうになる果汁を舌で舐め、口内のつめたい塊を租借すれば甘い蜜が咽喉を潤す。つい手持ち無沙汰の手でもとなりさんの腕にふれると、水にぬれた肌はひどくつめたかった。
黙々と食べているなか、見上げなくてももとなりさんの黒く深い双眸でじっと見つめられているのが分かって、なんだか急に恥ずかしくなって食べる速度をあげた。ようやく食べ終えて一息ついていると、もとなりさんは果汁の滴る自分の指を舐めて「甘いね」と呟いてから水盤で手を洗った。懐から取り出した手巾で拭うのかと思っていると先に蜜でぬれた口元を拭われた。またこども扱いだとすこしだけ唇を噛むも、もとなりさんがとても嬉しそうなので飲み込む。かわりに、ずっと頭にあったことを言葉にした。

「もとなりさん、ここでなにしてたの…?」

いつも大体縁側で読書をしているのに、姿の見えなかったことを問えばもとなりさんは、ああと視線を横に向ける。

「花を、見ていたんだ」

もとなりさんの視線をたどれば、そこには赤い花冠が咲き誇っていた。

「ひがんばな…?」
「そう、よく覚えていたね。彼岸花だけじゃなくて、この庭の花をひとづずつ…ね」

そう言ったもとなりさんの横顔は花よりも、どこか遠いところを見ているようにうつった。それがあの時の、空木の花を見ていた時とかさなってなぜだか胸がくるしくなって、あのね、とむりやり話題をかえた。今日あった、友人の話に、海の話。それをもとなりさんはいつもとおなじように、急かすことなくただゆっくりと聞いてくれた。
一区切りがついたところで、ふともとなりさんに訊いてみたくなった。好きだと、言いたくなった。けれど、口をひらく前にもとなりさんが天を見上げ「もう、暗くなってきたね」そう言ったことで途端現実に引き戻された気がした。そうだ、今日はくるのが遅かったから、と今更気付く。鬱蒼と茂る木々のおかげで分かりづらかったが、陽が沈みきる前に帰らないといけない。

「…わたし、かえらないと」

気付いた途端焦る気持ちが先走る。両親が帰宅する前に帰らないと、ばれてしまう。

「そうだね、いくら夏は日が暮れるが遅いとはいえ引き止めてしまって悪かったね」
「もとなりさんはわるくないっ…わ、わたしがいっぱい喋ってただけだし…」

もとなりさんに謝られることなんてなにもないので、慌てて言えばもとなりさんは苦笑して「そんなことはないよ」と言う。

「きみとのお喋りを私はいつも楽しみにしていたんだ。名前、いつも来てくれてありがとう」

そっと頭を撫でながら言われて、嬉しさと気恥ずかしさでつい俯いてしまう。きっといま顔がすごく赤くなっているのだろう。

「わ、わたし帰るねっ…もとなりさん、明日はなにもごようじないからはやくきてもいい…?」

早口になってしまったけれど、顔をあげてそう言えば、もとなりさんは笑みを深めてぽんぽんと軽く撫でてから手を離した。それを惜しく感じてしまいながらも、もとなりさんの笑顔に安堵したので自然笑みがこぼれる。

「もとなりさん、ばいばい」
「うん、さようなら、名前」

いつもの別れの挨拶をして、駆け出す。すこし走ったあと振り返れば、もとなりさんが手を振ってくれたので振り返した。明日ははやくこよう。もとなりさんといっぱいお喋りをするのだ。さっき言えなかったことも明日言えばいいんだ。木々の隙間をぬって石畳の道に出れば、ひくい家並みの向こうにまんまるの夕日がいまにも沈もうとしていた。大変だと思い、また走り出そうとした視界に赤い色がうつる。椿じゃない。垣根の下に、ぽつんと一輪の彼岸花が咲いていた。真紅の王冠に、すっと伸びた細い茎に、いつかの衝動がよみがえる。駄目だと思いながらも、そっと腕をのばして手折っていた。うえにあげれば目の前にきた真紅の綺麗さに罪悪感は消えてしまった。しっかり握り締めて、赤い花を手に帰路を駆けた。陽の暮れかかった夕闇のなか、夏の濃いにおいに混ざって煙のにおいが鼻腔をかすめる。通り過ぎる幾つかの門前で火が焚かれているのを横目に、ただ急いだ。
けれど、燈りのついた家で出迎えたのは母で、こんな時間までどこに行っていたのと怒られた。隠し通したくてなにか嘘を吐こうとしたけど、なにもでてきてはくれなくて絶対に言うまいと頑なに口を閉ざせば余計に怒られ泣いてしまった。咎められたのが悲しかったからではなく、言えないようなところに出かけるならと外出禁止令が出たことに涙があふれた。ようやく終わったお説教のあと、涙を拭おうとしたてのひらの中に、赤い花がないことに気付いた。
そして、二日経ち、三日目にようやくお目付け役に任じられた姉の睛をどうにかかいくぐって抜け出した。けれど、いくら走り回って探しても、もとなりさんの庭に辿り着くことはなかった。




目を覚ました視界は、薄暗くぼやけていた。
瞬きのあと、こめかみの辺りがぬれていることに気付いてもまだうまく働いていない脳では驚くこともなく、ただ本当に寝ながら泣けるんだなあと思った。ドラマや漫画のなかだけの話かと思っていた。しばらくそのままにじむ天井を眺めていると、シーツの下から足音や微かな話し声が聞こえて、家人が帰ってきているのが分かった。
ごろりと横を向けば、まなじりに溜まっていたしずくが重力にしたがってあふれ出る。おさないわたしが未だ泣いている。何度も何度も探したのに、決してあの緑の庭にももとなりさんにも会えることはなかった。それが、悲しくて悲しくて、淋しかった。おさないわたしは、きっと花を盗ってしまったからだと思った。消えてしまった花といなくなってしまったもとなりさんが重なったからだ。
夏季休暇が終わり、秋になって冬を迎え、春のあたたかな季節になっても花を見る度にもとなりさんの声を思い出して、泣きそうになった。その悲しみが年とともに薄れていっても、わたしの深いところにある根っこの部分ではずっと泣いているわたしがいるのを知っていた。ごめんなさいと謝りつづけている。それを大きくなってしまったわたしは宥めることも慰めることもできずに、すこし離れたところで見ている。いつかは、泣き止んでくれるのだろうかと思うも、きっとずっと泣いているような気がした。
晩御飯できたわよーという声が聞こえて、ようやくぬれた目を拭う。はれぼったい感じはしないから、気付かれないだろう。ひとつ伸びをして、起き上がった。
とたとたと階段をおりると、カレーのにおいがした。ああ、これは三食カレーコースだと夜米、朝パン、昼うどんを思い浮かべながら居間に入る。鍋を混ぜている母の後ろからのぞいてみると夏カレーだった。ひき肉とトマトと茄子の入ったカレーは夏限定なので、嬉しかった。身体のだるさもすこしとれ、空腹だった。食器棚からスプーンを取り出そうとしていると「ごはんお供えしといて」と横から声がかかったので、仏飯器に炊き立ての白米をよそって居間の次の間の和室へ向かう。襖を開けた途端に畳みと線香のにおいがしみついた特有の空気は、ひさしぶりだった。あまり入ることはないからだ。
仏壇にお供えをして、蝋燭に火を燈すと線香を上げる。祖母も三年前に亡くなった。手を合わせて、睛をつむって。ひらいた視界は先ほどよりも赤橙の暗がりがよく見える。火を消そうとして、気付いた。胡瓜の馬と茄子の牛。襖の隙間から顔を覗かせた母が「危ないからちゃんと火は消しといてね」と言ったあと、わたしが見ているものに気付いたのか「あ、明日は送り盆だから送り火を焚かないとね」そうどちらかというと自分に言って去っていった。
カチャカチャとスプーンを並べる音がする。




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