に夕刻の時分だというのに、夏の長い午后は陽ざしが未だ爛々と照りつけてくる。それでも真昼よりは陽が傾いたおかげで道に落ちる暗い影へと、吸い寄せられるように歩んだ。
夏季休暇も半ばの頃合、友人に誘われて行ったプールの帰り道はだるい身体もともなって自然口唇から溜息がこぼれる。わたしを入れて女子四人のグループだけのはずだったのに、どうしてだかクラスの男子グループと鉢合わせたのだ。それだけならまだ偶然だねと軽く流せる事柄だったのだか、その中に友人の好きな男子がいたおかげでそれを知っている他の友人たちはじゃあ一緒に遊ぼうよと嬉々としてテンションを上げた。
人の恋路はいつだっていい娯楽だ。けれど、わたしは今日はてっきり女子四人で仲良くはしゃげるとばかり思っていたのに、そこに別にそう仲良くもない男子も混ざってだなんてと気落ちしたのも束の間。そう思っているのが自分ひとりなのだと気付いてひどい疎外感に襲われた。
それは、日常でも友人達の恋バナをただ、へえと相槌をうちながら聞いている時と、名前は好きな人とかいないのー?と聞かれる度に、うー……んと濁してしまう時とよく似ている気がした。青春しなよー!とか、枯れるにはまだ早いって!とか言われてもというのが正直なところで。格好いいなと思ったりはしても、それは綺麗なものや素敵なものを鑑賞する気持ちでしかなかった。ただ、枯れてはいないよ、とそれだけは思った。
恋を、したことがないわけではなかったからだ。そのことを思う度に、馬鹿だなあ…と自嘲する。分かっているのだ。友人にも、誰にも言ったことはないけれど。
木陰から視線を上げれば、しぼんだ淡紅色が睛に入る。芙蓉の花だ。

綺麗な淡紅色だろう?芙蓉と言うんだよ。うつくしい人の例えにも使われるんだけど、きみも大きくなったらこの花のような女性になるんだろうね

鼓膜をやさしく震わせる声に、ぼんやりと背の高い花を見つめる。そうしてからわたしは声の主へと顔を向けようとした。その視界を木々の隙間から射した陽が埋め尽くして、我に返った。
一瞬で戻ってきたほほを流れる汗の感覚に、家並みの奥に広がる青さに、瞬きながらいまのは、と思う。白昼夢のようなあやうさは、最早自分の手の届かないところへいってしまったのが分かる。ただ、まただ、と思った。花を見る度に呼び起こされる記憶。そっと、ひそやかにくるしむ胸。
きっと、わたしは初恋をひきずっている。


ようやく家に辿りつくと、鍵のかかっていたとおりに室内は無人だった。ただいまとおかえりをひとりで呟いて、ミュールを脱ぎ捨てるとぺたぺた木の床はひんやりと気持ちいい。台所で麦茶を一杯、一気にのみほして二杯目はそのまま手に持って階段を上る。自室は窓を開けていたおかげで空気がこもってはいなかったものの、外気とおなじ暑さに変わりないので閉めてクーラーをつけた。
そうして、だるい身体をそのままに、ベッドにぼすんと倒れこむ。つかれた。それは思っていたよりもずっと。思い返すのはもう嫌なので、ただ冷気が吐き出される音にだけ意識を向ける。
はじめてあの人に会ったのも、夏の匂いの濃い頃合だった。おさない記憶を、けれど鮮明に覚えている。色あせてほしくない一身で記録した、ひと夏の思い出。ぼんやりとしているうちに四肢の力がぬけ、シーツの海へ沈んでゆく。夕食までまだ時間があるから大丈夫だろう、そのまま静かに目蓋をとじた。




民家の間を縫うように続く小路は、まるで張り巡らされた蜘蛛の巣のようだった。
蝉の聲を背にまばらな家並みの隙間を歩みながら、名も知らぬ草花や塀のうえで丸くなっている猫を見上げる視線は目まぐるしくまわる万華鏡。変わりない日常の風景は、それでも一日一日が異なるのを知っていたあの頃。そっと息づく世界のささやかさで退屈な夏期休暇をやり過ごしていた。
ふと角を曲がった時、夏の遅い夕暮れの陽ざしが睛を焼いた。正面から照りつけたそれに思わず目蓋をとじれば、赤い暗闇が世界を覆う。再び見ひらいて、あれ、と思った。辺りの風景がどこか違う感じがしたからだ。土瀝青舗装されていた道とは異なり、石畳の道はこがねに輝き、影は太陽の色に染まっている。わんわんと降り注いでいた蝉雨もいつの間にか消え、深い水底の静けさを湛えていた。
見知らぬ小路を進むうちに白い塀が濃い緑に変わる。深い青葉は夏の間に見慣れたものだったというのに、やがてぽつりと紅のしずくが落ちる。ちいさな蕾は次第に彩りを増し、鮮やかな黄色いしべを惜しげなく晒してゆくその花の名を知っていた。椿だ。石畳にひとつ、紅が落ちている。拾ったそれはてのひらの中、未だ瑞々しくうつくしいまま咲き誇っている姿に宝物を見つけた気分だった。
花から顔をあげて、生け垣が途絶えていたことに気付く。ちいさな隙間はまるでこの夏に見たおはなしの、中くらいと小さいおばけが逃げて、少女が追いかけた穴によく似ていた。おなじように覗きこめば、緑が、広がっていた。椿の花をぎゅっと胸に、葉の茂る枝をかき分けて進む。長いような短いようなよく分からないうちに開けたところへ出た。そこは、庭だった。けれど、庭と言っていいのか分からなかった。森や林を彷彿とさせるほど鬱蒼とした緑は、どこまでも深く濃密な気配に満ちていたからだ。
赤橙、水紅、萌黄に紫紺と様々な色の花が咲き乱れるなか、苔の敷き詰められた地面にぽつぽつと石が道をつくっている。道標のようなそれに、そっと足を乗せてゆきながら様々な花や木々にみとれた。家にも庭はあったが、おなじものと称していいのか戸惑うほどにそこは緑と色とりどりの花だけの空間だった。
道の傍らに水盤を見つけ駆け寄れば夜天のような水のなかに、ちいさな緋色の金魚が泳いでいた。水草の間をするりするりと抜けてゆく姿を睛でおっていると、水盤の向こうに別の赤を見つけ覗き込む。巻いた細い紙を幾つも合わせたような赤は、椿とも金魚とも異なる鮮やかすぎるほどの真紅。葉のない真っ直ぐな茎は手折りたい衝動にかられ、そのうえに咲く様は王冠のようにうつった。

「それは、彼岸花。曼珠沙華とも言うね、綺麗な紅だろう?」

突然かかった声にびくりと肩が跳ねる。驚きのままに振り向けば、すこし離れたところに男が立っていた。人がいたことにも吃驚したが、群青の着流し姿が珍しくうつる。

「おや…それは、」

黒髪のかかる双眸が見つめる先に気付いてハッとした。未だ麗しい椿の花冠は、瑞々しい綺麗さ故に盗ったものだと思われてもしかたがなかったからだ。

「ちが…ぁ、落ちてて…」

盗人に間違われる恐怖にとっさに口をついた言葉は、つたない言い訳のようになってしまい余計焦る。けれどそんな心中を知ってか男はやんわりと微笑んだ。

「大丈夫、盗っただなんて思っていないよ。椿は花ごと落ちてしまうからね」

綺麗だけど勿体ない感じがすると思わないかい。やさしく落ち着いた声音に、自然と焦る気持ちは消えこくりと頷いていた。

「うん、素直で可愛らしいね。花が好きなのかい?」
「んー…わかんない」

綺麗だとは思うが普段特別花を愛でたり、惹かれたりはしない。

「けど…ここ、すごくお花いっぱいですき」

静謐な空間はなんだか秘密めいていて、素敵なところだと思った。

「そうかい?それは嬉しいなあ」

ふわふわと笑む男は本当に嬉しそうで、つられるように笑みが浮かぶ。

「暑いだろう、お茶でもどうかな」
「ぇ……」

やんわりとした誘いに、喉が渇いていることに気付く。けれど脳裏には知らない人に物をもらったりついて行ったりしては駄目よという母の言葉が過ぎる。ただ、勝手に入ってしまったのに怒らずやさしく接してくれる男を疑うのは嫌なことだったし、誘いはひどく魅力的なものだった。言葉につまっていると、男がどうかしたかなと腰をかがめ視線をあわせてくれたので、おとなしく理由を伝えれば黒髪の奥でぱちぱちと瞬く。

「ああ、そうだね。すまない、気付かなくて。人がくることが珍しくてね、ついつい浮かれてしまっていたようだ」

苦笑しながら頭をかく男はどこか独り言のように言ったあと、やさしく微笑んだ。

「私の名前は元就と言うんだ」

もとなり。口の中で反芻していると、きみの名前は?と訊かれ。

「名前…です」

まっすぐ見つめ返して言えば。

「じゃあ、これでもう知らない人同士じゃあないから、大丈夫かな」

男の、もとなりさんの言葉に今度はこちらがぱちぱちと睛を瞬かせるばんだったが、言葉の意味をすこし遅れて租借して。あふれる笑みのまま、うん、と大きく頷けばもとなりさんも嬉しそうに笑った。


そうして、お茶をご馳走になって帰路についた次の日も、もとなりさんのところへ通った。
ここ数日、共働きの両親がめずらしく家にいたが、病院勤務のふたりはお盆休みというものも短かったらしく今日もひとりだったからだ。年の離れた姉と兄はそれぞれ友人と遊び歩いている。ひとりは慣れていたし、元々静かに本を読んでいる時がいちばん楽しいので、なにも苦ではなかった。ただ、さびしくないといえば嘘になったので、あのやさしい人に会いたかったのかもしれない。
木々の小道から入り込んで、昨日も見たはずなのにすごく新鮮なものにうつる緑の庭をてくてくと歩いていれば、縁側に腰掛けているもとなりさんを見つけた。ただ、楽しみにしていた気持ちのかたすみで、迷惑に思われていないだろうかという不安もとぐろを巻いていた。けれど、直ぐに気付いたもとなりさんは本から顔をあげて睛があうと、ひどく嬉しそうな笑みをうかべる。それだけで不安はどこかに消え去って、駆け寄ると「いらっしゃい。今日もきてくれたんだね、嬉しいよ」そう大きなてのひらで、やさしく頭を撫でてくれた。それがとても心地よくて、あったかい気持ちになった。
隣に座って、もとなりさんが出してくれたお茶を飲む。

「もとなりさんも、本すきなの?」

横に置かれた本は古いもののようで、筆で書かれたような題字はむずかしくて読めなかった。

「そうだね。書物はいくら読んでも厭きないからね。私も、ということは名前も本が好きなのかい?」
「うん」
「そうか、一緒だね」

一緒、という言葉に嬉しさがあふれる。けれど、読書が好きなら、やっぱり邪魔をしてしまったんじゃあ…と今更気付く。本に集中している時に話しかけられるはあまり好きではなかったからだ。一瞬で曇ってしまったのに気付いたもとなりさんに、どうしたんだい?と首を傾いで訊ねられ。

「ぁ…えと、ご本読んでるのじゃましちゃって…」

ごめんなさい。冷茶のすべらかな硝子を満たす澄明な色から視線をあげて言えば、もとなりさんは一瞬の間のあと破顔した。

「そんなことを気にしていたのかい?謝るようなことじゃないよ。それに…書物はいつでも読めるけど、きみと会える時間はかぎられているからね」

言ってから、すこしだけ困ったように眉をさげる。申し訳ないのよりも気恥ずかしさが勝って、こくりと頷いてから視線を庭に向ける。その視界の隅に、白がちらついた。ふわり、無音の風にまぎれて消えるささやかなそれに雪かと思う。けれど、しんしんと降り注ぐ白は、雪ではなかった。もっと淡く確かな、儚いそれははなびら。

「あれは空木、卯の花とも言うね 雪みたいだろう?」

隣からもとなりさんの声がする。碧羅へ降り積もった白はけれど風が吹くたびにまた宙へと舞い上がる。それを見届けてから、もとなりさんを見上げる。もとなりさんは、大人の男の人だった。ただ、分かるのはそれだけでいくつなのかは検討もつかない。両親よりもずっと若く見えるのに、老練された落ち着きはどこか若さを感じさせなかった。
なにより、もとなりさんはどこか、重力を感じさせないはなびらのように儚い印象があった。




- ナノ -