間に紗を挟んだような、やわらかな明るさに睛を覚まし、何を思う前に枕元のスマホに手を伸ばす。液晶に表示された、目覚ましよりも幾分早い時刻に、もう僅かばかりの二度寝を貪るか否かの天秤はゆっくり傾いて、身を起こす。広いベッドの隣の空間は何時も通りに無人で、くあ、とあくびをひとつ零しながらおりるとフローリングを歩む。薄暗い廊下の照明を点けつつ、道中で洗濯機のスイッチを押して目的のキッチンに辿りつくと、とりあえずコップに一杯水を飲み干す。空っぽの胃に落ちていく感覚に、ようやく思考がすっきりしてきた心地で朝食の準備に取りかかった。

なるべく栄養のバランスよく。トーストに、今日はスクランブルエッグではなく、とろっとした黄色と一緒に細かく刻んだ色とりどりの野菜をまあるく閉じ込め、ふんわり半月な見目のオムレツにして。サラダには今が旬の柑橘を混ぜあわせ、ドレッシングはあっさりした酸味のあるものをかけておく。食に頓着しない人とはいえ、それでも別に朝は少食だとかそういう事はないので、ソーセージも数本焼いておく。食欲をそそるいい匂いがキッチンを満たしてきた頃、玄関のドアが開く音がしたのでコップに水を注いで置いていれば、やがてひょっこり廊下から顔を出したその人に、おかえりと声をかけると「ただいま」と返しながらこちらにやって来る。

「おはよう、今日も美味しそうだ」

言いながら、フライパンに向かう私のつむじに降ってくる軽いキス。

「おはよう、ダンデ。もう直ぐ出来るからはやくシャワー浴びてきて」

あせくさい。毎朝の日課であるランニングを終えて帰宅した彼の首元には今日も汗が流れている。恒例のようなやりとりにダンデは、ふふと笑うと置いてあった水を飲み干して「出たらたっぷりハグするからな」と言い残しバスルームの方へ去っていった。
珈琲の準備も終え、完成したものをひとつのお皿に盛り付けてテーブルへ運んでいればアオガラスの行水もかくやの早さで、あっという間に出てきたダンデがぎゅうと宣言通りハグをかましてくる。

「つめたいよ」

その際に乱雑に拭かれ、まだ水気の残る濃さを増した髪からぽたりと雫が肩に落ちてきたので、ちょっと離れたところで首に下げられたタオルを掴みわしゃわしゃ髪を掻き混ぜれば酷く幸福そうに破顔するものだからつい甘やかしてしまう自覚はある。
大型の毛足の長いポケモンみたいな気もしなくはないけど。

「あとでちゃんと整えて、格好いい姿になってねオーナー」
「ふふ、分かっているさ」

チャンピオンを退いたとはいえ、未だダンデにはガラルの夢や希望がいっぱい投影されているから身嗜みに気を使っているのは知っている。何より以前のユニフォームよりも紳士然とした今の洋服の方が、見目の麗しさが求められている気もする。まあ何を着ても似合うし格好いい事には変わりないんだけど。こうやって甘えてくる時は可愛いとはいえ。

「ほら、みんなのご飯も準備しないと」

冷めちゃうからはやく食べようと言う私の言葉を皮切りに、お互い作業に戻る。ボールからみんな、ダンデの手持ちのこ達が出てくると途端賑やかになるようで。なんとなくやっと朝がはじまったなと思う。
準備が済んでテーブルに向かいあわせに座って、やっと朝食の時間だ。トーストを齧るダンデの後ろでも、ポケモン達がそれぞれの好みのフーズや木の実を食べているこの光景が好きだなとしみじみするのも毎朝の事で。私には手持ちがいないから余計。

「キミの作るオムレツは何時だってふわふわだな、美味しいぜ」
「よかった。あ、そういえば今日って夜にエキシビジョンマッチある日だっけ」
「ああ、そうだぜ。試合のあとに飲みに捕まってしまうだろうが、あまり遅くならないようにする」
「いいよ、久しぶりなんだし。楽しんでおいでよ」
「オレが、キミにおやすみを言いたいし言われたいだけなんだ」

会話をしながらも、食べ物は合間合間にどんどん大きな口へ吸い込まれ消えていく。前よりはゆっくりになったけど、相変わらず食べるのがはやい。でも咀嚼はちゃんとしてるんだよね。そして毎食これが美味しいとか何気に感想をくれるので出来た人だと思う。作る身としてはこういう些細な事が嬉しいし、大事だと言われるのが分かる。ただ、直ぐ恥ずかしい事を言うのはちょっとやめてほしいけど。
朝食を終えて、ダンデが洗い物をしてくれている内に洗濯物を干す作業に取り掛かる。窓を開けてベランダに出た途端、目映い朝の陽射しに睛を細めて。夏の気配が感じられるようになってきても、まだ涼しい風が肌を撫でるのが心地いい。今日もいい天気だからすっきり乾くだろうと嬉しい気持ちで干し終えると、あとはダンデも私もお互い身支度を整えるのに集中する。
歯を磨いて顔を洗って、服を着替え化粧も済んだ頃合に、洗面所から聞こえていたドライヤーの音が止んでダンデが顔を覗かせる。

「じゃあ、行ってくるぜ」
「行ってらっしゃい」

すっかり綺麗に背へ流れる菫色に満足して、今日もオーナー様はばっちりだと思いつつ、ハグとキスを受けて笑顔で手を振って見送った。
勤務先がバトルタワーとなってからは、迷う事が少なくなったので以前より朝がゆっくりしているのはいい事だ。忙しい時も行ってきますのハグとかは欠かされていなかったとはいえ。
最後に電気や窓の鍵をチェックして私も会社に向かう為に家を出る。その道中で震えたスマホを見れば、昨晩送ってから待ち望んでいたメールの返答で。今日の夕方は時間がとれるという内容にそっと安堵の息をつく。
付き合ってもう直ぐ二年目となりそうな初夏の時分。半年程前に同棲しないかと誘われ、シュートシティにあるダンデの自宅に住むようになってから、今日も繰り返される、平日の朝の穏やかな日常。恋人であるダンデとの関係も相変わらず良好だし、側から見たら砂糖を吐かれそうなラヴラヴ(死語)っぷりな自覚もある。
しかしそんな私とダンデの間には、恋人同士である事以上に他者には決して公表出来ない、海よりも深く山よりも高い、埋められる事のない溝という名の現実がそっと横たわっていた。
その溝とは、ダンデと恋人同士になってから未だ、一度もセックスをした事がないという現実だった。




一応ダンデの名誉の為にも、彼がイン……性的不能だとか勃起不全だとかいう訳ではなくて。勿論私だって普通に性欲はある。ならば何故と、その答えを最初に知った時はなんて反応したらいいのか頭を抱えた。
お付き合いをはじめて三ヶ月以上経っても、ダンデと私は酷く健全なというか、いい年した大人二人でスクールに通うこども同士みたいな、青く淡い関係のままだった。そもそもとして、チャンピオンだった当時のダンデは多忙であまり会えなかったうえに、スポンサーやら何やら制約も多い身で、清く正しい交際と言ってしまうと字面がいいけど、そんなのを求められているのかなと思って勝手に納得していたら、ある日それが違っていた事を知った。

久しぶりに電話やメールじゃなく、ダンデの家で直に喋って夕食を共にしていたその日。
何時もよりお酒の入ってふわふわしていたダンデは、片付けも終わってもう帰るかなという雰囲気だった私をベッドに引き摺り込んだ。いいのかなとか、遂にこの時がきたのかとか、それは一応何時そういう事態になってもいいように、会う時には毎回事前に準備はしていたとはいえ、今までのそういう気配のなさを考えるとちょっと信じられない境地でもあったのは事実で。
濃厚なキスは酒気の強いおかげで、そんなに飲んでなかった私でさえ脳がぐらぐらするくらいで。そのまま時間をかけた前戯でたっぷりしっかり解されとろかされたあと、ようよう挿入のタイミングとなって、けれどダンデの動きは静止してしまい。あれ?とぼやけた頭で思い見あげた先で、今にも泣きそうな顔をしていたものだから一気に酔いが吹っ飛んだ。
反射の速度でベッドに重く預けていた上体を起こして「ど、どうしたのダンデ?」と問い掛ければ、彼はぐっと噛んでいた唇を静かに開いて「……すまない」こぼれ落ちたのは謝罪の言葉で。なんで謝るの?という疑問よりも、初めて聞くくらい弱々しい、チャンピオン・ダンデの力強い陽光の印象とは真逆の、まるで萎れたたんぽぽみたいな声音にびっくりすると同時に心配で堪らなくなってしまった。

「え…?ほ、ほんと、どうしたのダンデ…?大丈夫?」
「…………」

常ならばキラキラと目映く輝いている黄金さえ、水の膜を張って今にもぽたりと雨粒が落ちてしまいそうなくらいの曇り空の様相で。私とその睛をあわさない姿はどこか叱られるのを怯える幼子のようでもあって、つい手を伸ばして豊かな菫色を優しく撫でる。てのひらから伝わる他者の、ダンデのぬくもりは何時だって心地よく愛おしさが増すまま、安心させたい気持ちを込めているとややあって「……ナマエ、オレがキミを好きで、愛しているというのだけは、どうか信じてほしいんだ…」そんな事を言うものだから、クエスチョンマークしか飛ばないもののそのあまりに切実な物言いに、うんと首肯する。

「ダンデは何時も私に、言葉でも態度とかでも伝えてくれるから、それを疑った事はないよ…?」

あまり会えないぶんなのか、ダンデが感情を言葉にするのにてらいがない性質なのか、電話の時だって聞いているこちらが恥ずかしくなるくらい優しい声音で、好きだぜとか言ってくるからよく耳が死んでいるのは内緒だ。
向けられる笑顔だって、何時もテレビで見るそれとは全然違うし。力強い眼差しも、あう時は大体とろりと甘い甘い蜜みたいにやわらかく溶けている。疑う余地を私に挟ませてくれないのはダンデだというのに、全く何を言っているんだろうかとすら思うくらいで。
でも私の言葉にダンデは少しだけふわりと微笑んでくれたから、ちょっとほっとする。未だ何も解決どころか謎が謎のままでしかないのに。

「ああ……全く、情けないぜ。本当にすまない…キミなら大丈夫だと思ったんだ…」
「うん…?」

相変わらず主語がぼかされているので首を傾げるしか出来ない。そも、常にハッキリと自身の意思を主張するダンデにしては随分珍しいなと今更気付く。そんなに言い難い事なんだろうか。

「えっと、ダンデが言いたくない事だったら、無理に言わなくていいよ…?」

疑問は尽きないとはいえ、それはダンデの心を犠牲にしてまでのものではないのだ。私にとって一番大事なのはダンデなので、それ以外の事はちょっと二の次にしている節はある。いいのか悪いのかは別として。

「キミは優しいな…だが、その優しさに甘える訳にはいかないな。今言っておかなければならない事なんだ」

私にされるがまま撫でられていたダンデが、そっと腕を掴んできて。戻された両手は彼と私の間でぎゅっと、ダンデの大きな手に包まれる。

「その、あれなんだ、オレは…………勃たないんだ」

とてもとても言いづらそうに、伏せた視線を泳がせながら紡がれた言葉の意味を一瞬脳は理解してくれなかった。たたないって、それは漢字的にはきっと恐らく多分、立つでなく勃つの方で。それはつまりダンデのあれが勃起しないという事で。……という事で?

「う……ん?それは、その、えー……っと、つまり、あれ……ED的な…?」

ED、つまり性的不能。さっきのダンデじゃないけどぼかしまくりな私の反応に「いや!違うんだぜ…!」と慌てた風にダンデが否定する。

「語弊があったな……勃つのは、勃つんだ。ただ、その…………セックスしようとすると、勃たないだけで…」

喋るうちにどんどん陰鬱な声音になって、酷く苦々しげに吐き出された言葉に、ついぱちぱちと瞬く。性的不能でも勃起不全でもないけど、セックスの時には勃たない。それはつまるところ、てっきりこれから挿入れられると思っていた、上半身は衣服を脱ぎ去ってその美しい筋肉を余すところなく晒している反面、まだ前を寛げられてすらいないズボンの中身が挿入れられる状態ではないという訳で。
なんと答えていいか分からないでいると、そんな私にダンデは「本当に!キミの事が好きじゃないとかそういう訳ではないんだ…っ」と焦ったように釈明してくるので、逆にちょっと冷静になる気分だった。

「う、うん。それは大丈夫だよ。つまりダンデは、好意に関係なく勃たないって事だよね…?」
「ああ、そうなんだ」
「ん……じゃあ、ちょっとあれしよう、順序立てて最初から訊いてもいい?」

私の提案にダンデが、分かったと了承してくれたので、とりあえず私今更だけど全裸だし、熱も引いてきて肌寒くなってきたしとシーツを手繰り寄せてくるまる。ダンデもTシャツを着直したけど、私の様子に「すまない、気が利いていなかったな…」余計しょんぼりとしてしまう。いいよ、私も忘れてたんだしと宥めて、そうして改めて向きあったダンデは語りはじめた。

「最初は、そうだな……キミを不快にしてしまうと思うんだが、キミと出会う数年前に交際した女性とそうなった時に勃たなかったのがはじまりで…。そのあとも、その、色々な女性や、性的嗜好の問題かと思い同性や、あとAVも散々見たが反応する事はなかったんだ…。けれどキミを、こんなにも今までで一番好きだと想うキミなら、大丈夫かと思ったんだが、やはりオレは駄目らしい…」

ダンデの過去のそういう関係は、まあ本人から直接語られるのはちょっと微妙な気持ちになってしまうとはいえ、ガラル地方チャンピオンでありこのルックスだ、女性も男性も問わず放っておく筈がないので致し方ない事だと済ませる。AVを見るダンデは正直想像がちょっと難しかった。普段が爽やかで性の気配が希薄だからだろうか。

「うん、えー…っと、分かった。分かったけど、勃たない事はないっていうのはどういう時に、その、勃起するの…?」

さっきから散々あれな単語が飛び交って、私自身も何度も口にしているのに冷静になってくると途端に羞恥に襲われる。そういう雰囲気は全くないのだからこれは一種のカウンセリング、やましい事は何もないのだと自分に言い聞かせる無我の境地。

「それが……その、あれなんだ」
「うん」
「…………バトルのあとなんだ」
「うん?」

バトルのあと。口を濁しながら告げられたそれは、当然の事ながらポケモンバトルを指している訳で。

「いや、毎回という訳ではないんだぜ!酷く興奮した、楽しいバトルだった時に、終わったあと勃ってしまっているだけで……」

ダンデの、チャンピオン・ダンデのユニフォームってだいぶピッチリしていた気がするけど、とつい斜め上の心配をしてしまうのを軌道修正する。

「う、うー…ん?つまり、ダンデは性的には勃たないけど、バトルで気分が高揚すると勃つって事…なのかな…?」
「そういう事になるな…」
「それはえっと、じゃあ、その、私が駄目だったとか、魅力がないとか、そういうわけじゃ、」
「そんな事ある訳がないだろう!キミは魅力的だし、オレにとって大切で最愛な恋人なんだぜ…っ」
「あ、ありがとう…」

うっかりこぼした失言に、一瞬じめじめはどこへやら、ぐわっと吠える勢いで恥ずかしい事を言われ赤面してしまう。
だって事に及んでおいてあれだけど、別に私スタイル抜群とかモデル体系とかそんなあれでは全然ないし。ちょっと自分で平々凡々過ぎて悲しくなるくらいには、特に突出したものもなにもないから。地味に不安ではあったけど、こうも言い切られてしまえば信じない方が失礼だ。
じゃなくて、なるほど。なるほど?納得は出来たものの、すんなり納得していいのかは甚だ疑問が残る気もしつつ。しかし嘘とか冗談ではないだろうし、ダンデは相変わらず沈鬱な表情だし、本人が凄く気に病んでいるのは理解出来るから、私のやれる事といえば。

「分かったよ、ダンデ。うん、まあダンデ自身にもどうにも出来ない事だし、無理にしようとしなくてもいいと思うよ?ほら、セックスだけが愛情表現じゃないし、ダンデは何時もいっぱい伝えてくれるから、今まで通りプラトニックな関係でも、とりあえずはそんなに問題はないんじゃないかな…?」

そっとダンデと視線をあわせるようにして、出来るだけゆっくり優しく、安心させるように……ってこれ完全にちっちゃいこをあやす時の対応な気が……と思うのは隅に寄せておいて、語りかける。
ダンデは私の言葉を静かに咀嚼しているみたいだったけど、不意にゆるく緊張の糸が解けたみたいに弛緩するのが分かった。

「ありがとう、ナマエ……オレは、キミが恋人で幸せ者だな」

そこに苦笑と自嘲が仄かに存在するとしても、ふわりとやわらかく微笑むダンデに私も笑顔で「私こそ、ダンデが私を好きでいてくれて嬉しいよ」と返した。
そうしてそのあとは普通にお風呂に入って、ダンデの衣服を寝巻き代わりに借りると、二人ですやすや眠りに落ちた。ダンデはぎゅっと私を抱き締めていた。


次の日、昨晩は諸々の問題点を全部丸投げしちゃったんだよねとちょっと頭を抱えたのは、私だけの話だ。
ダンデには凄い理解のあるような事言ってしまったけど、そうなると将来的に、いや、するかどうかはまだ全然分からないけど、もし結婚してこどもが欲しいとかなったらどうするんだろうとか。だって私はそういう願望はあるし、何よりダンデの遺伝子を途絶えさせるとかなにそれファンやら各方面やらに刺されそうな所業〜!という感じだし。いや、ダンデが望むかどうかも分からないけど、でも絶対いいパパになると思うよね。ちっちゃいこと戯れる、お父さんしてるダンデは正直見たい。
しかし私以上にダンデはこの事についてももう考えてはいるだろうし、私は現状まだお付き合いして三ヶ月とかいうぺーぺー具合だし、未来の事は分からないよね、と無理矢理自分を納得させてダンデには訊かないでおいていた。ダンデの方からもそういう話題は出される事はなく、私達はそのまま健全な交際を続けた。
どこかでいつか破綻するかな?とも思ってたけど、特にそんな事もないまま一年が経ち、その数ヶ月後に同棲の誘いを受けて今に至る。


おかげでなんかもう、慣れたもので。私が自分に課したのは決してダンデにたいしてそういう事したいですよ〜みたいな雰囲気を絶対に出さないという事で。幾ら日常生活のふとした瞬間に、ダンデの色っぽさにあてられても、やましい睛では見ないよう気をつけたし。なんだかんだスキンシップを好むダンデによって軽いキスとかを繰り返されているうちに、うっかりむらっときても全神経を駆使して抑え込んで涼しい顔をしておいた。
ダンデが応えられないと理解していて、そんな彼に性欲を向けるのはだいぶ憚られたせいだ。
とはいえ、それらを耐えられたのもダンデのバトルで興奮して勃つという部分が、それが対戦相手に向けられないというのを知っていたからなのもある。ダンデ曰く、バトルの空気とかに感化されているのであって幾ら昂ぶっても、その相手を好きになったりとか、そういう事も一切ないらしい。それはいい事なのか悪い事なのか。一応恋人である私としてはいい事だったんだろうけど、ダンデの抱くものが、バトルの相手にも直結していれば多分きっともっと事は単純だったのではと思わなくもないからだ。愛情と性欲が全く別のものとして存在して、向いている方向もバラバラで、ポケモントレーナーではない私にはそのもう片方は決して向けられる事はないんだなと思うと、ちょっと寂しい気持ちになるのも事実だったからだ。
一度だけ、自慰をするところを見せてほしいと言われ、羞恥にまみれながら公開オナニープレイをする羽目になったのに、ダンデのダンデはスン…て感じで静寂を保っていた時の虚しさたるや。思い出すだけで穴を掘って埋まりたいくらいには寂しいとか通り越してしんどかった。抹消したい記憶ナンバーワンだ。

でもそんな私を他所に、破綻の足音は結構直ぐ近くまで来ていたのだと、最近になって気付いた。
その日は新チャピオンがバトルタワーに来てくれたらしく、興奮冷めやらぬ感じで帰ってきたダンデに良かったねと祝福した夜。寝静まった頃にふと睛が覚めて、隣で同じように眠っていたはずのダンデがいない事に気付いた。ちょっと待ってみるもトイレにしては長いと思い寝室をあとにしたら、暗い廊下の先でリビングのドアが少し開いているそこから明滅する光が漏れていて。そっと覗いて、固まった。
電気の点けられていない暗いリビングで、唯一の光源であるテレビは今日のだろう、バトルの映像が映し出されていて。その光に照らされているおかげで、向かいのソファに座っているダンデの姿も思いの外はっきり見えてしまった。
切なげに眉根を寄せた横顔は酷く扇情的で、Tシャツの上からでもよく分かる厚い胸板のラインを下がった先で、そそり勃ったそれを片手で上下にしごいている様を、見てしまった。一瞬真っ白になった頭で、でも気付けばテレビから聞こえる音に紛れてぐちゅぐちゅと粘ついた水音が、熱っぽく荒い呼吸音が、確かにあって。何を考える前に静かにあとずさって、音を立てないようベッドに戻った。
横になって、目蓋を閉じて、それでも暗闇には鮮明に、あざあざと、さっきの光景が焼き付いていて、何故だか泣きそうな気分になった。さめざめとした気持ちのまま、でもいつしか眠っていて、何時も通り睛を覚まして、何時も通りにおはようと笑顔で声をかけてきたダンデに、そこでやっと、ああ、と思った。私、自分で思ってたよりまいっているんだなって気付いた。
決して向けられる事がないと諦めていたつもりで、でも全然そんな事なかったんだと理解した。ダンデにおはようって何時も通りの笑顔で返す裏側で、悔しさとか嫉妬心とかどうしようもないやるせなさとかがぐちゃぐちゃと渦巻いていた。

とはいえ、これは私の問題なのでダンデには決して気付かれないよう、今まで以上に細心の注意をはらうようになった。
表面上だけなら私達は恋人同士としての関係は相変わらず良好だし、側から見たら砂糖を吐かれそうなラヴラヴ(死語)っぷりな自覚もある。
だけど間に横たわる、たったひとつの溝は、それでもあまりにも確かにそこにあった。




本当にこのままでいいのか。答えが私一人では決して出せないものであったとしても、ぬるま湯のような現状を維持したままでいいのか。問題から睛を背けて悪戯に時間を消費しているだけではないのか。一度開いてしまった蓋からは絶えず、まるで日常の片隅でぽっかり口を開けている虚のように、私の足をすくおうと虎視眈々と絡みついてくるようで。
どうやら、今のところダンデがそういう気分になるバトルは新チャピオンとのものが最多であるらしいからと、一度ほんのりそこはかとなく、ちょっと年齢差があれだけどその子を好きになったら解決しそうだねと、冗談めかして言ってみた事があった。けれどダンデからは、そういう睛では見られないしそもそも、あの子は弟と好い仲なんだぜと返され、それはそこに手を出したら泥沼もいいとこだなとしみじみしてしまった。
スキャンダルの気配が凄いし、ゴシップ記事にうってつけの内容過ぎて駄目だ。洗濯物を畳みながらひとりで笑っていたら、ふっと影で覆われて。見上げれば、リザードンの健康チェックをしていた筈のダンデがちょっと困ったような怒ったような、泣きそうな顔で私の眼前にいた。
何事?と睛を瞠る私をよそにダンデは膝をついて、伸びてきた両手ががしっと私の肩を掴んで、というかキミはオレが愛しているのはキミだけなのにどうしてそんな事を言うんだこんなオレの事は嫌いになったのか嫌だぜ絶対に別れないぞお願いだから捨てないでくれと、言葉の途中で涙腺は決壊してしまいそのうつくしい黄金色からぼろぼろと大粒の雨を降らしながら最後にはぎゅうとしがみつかれ、その力強さに、ぐえ、となった。
私をぎゅうぎゅうと抱き締めながら泣くダンデを慰めるのは凄く大変で労力が必要だったので、もう二度と迂闊な事は言うまいとこの時心に誓った。
それにしても、その台詞は普通私が言うものではないのかなとも思わなくはなかった。あと、何だか前より愛が、というより執着が重くなっているような気もしないではなかった。

そうして私は細々と、ダンデがどうにかもぎとった休みを使って他地方に旅行へ行ったりする際は、当然の事ながらバトル大好きダンデの希望で各地のバトル施設に行ってみるのも、喜んで同行した。ガラルで駄目なら、という打算だ。けれどそんな私の考えを尻目に、ダンデの身も心も、愛情も性欲も満たしてくれるような人とは出会えなかった。

私の焦りに拍車をかけるのはそれだけが原因ではなくて、付き合って二年、そろそろ結婚の二文字が忍び寄ってきている気がするからもあった。
先日、前から気になっていた映画のDVDを借りて来て見ていた時に、結婚式を挙げるシーンがあり。主演の女優さんのあまりにうつくしいウエディングドレス姿に思わず「すごい綺麗…!」と感嘆の溜息と共に呟いたら。同じくリビングで筋トレをしていたダンデにそれが聞こえていたらしく、腹筋を起き上がった状態で固定したまま画面を眺めると私に視線を移し「キミのドレス姿も綺麗だと思うぜ!」といい笑顔で言っていたからだ。その体勢キツくないの?流石ダンデ!と、話題をそらそうとしたのにダンデは「見たいな…」とうっとり言っていて、私は固まった。
結婚。ダンデと結婚。
それは、それは確かに、したいかしたくないかと問われれば、したいに決まってる。好きな人とずっと一緒にいる事を誓う。ダンデは私にとってそう思えるくらいには大切で愛おしい存在であったから、なにも問題はない。そう、ただひとつの大問題を除けば。
もしも、もしもいざ結婚したあとでそういう人が現れて捨てられたら嫌だしと思うとどうにも前向きにはなれなくて、そういう話題が出る度にそっと誤魔化して先延ばしにしていた。
ら、その結果より何かを思い詰めたダンデにある日スキンシップの最中「キミと別れるくらいならキミを殺してオレも死ぬぜ」と言われて、心臓がヒュッとなった。冗談のような甘い声音だったけど、本気と書いてマジのやつだと察してしまった。
最悪、ダンデがオナってる時に射精のタイミングで突っ込んで中出しすれば、できなくないよね、と私の思考もだいぶ追い詰められていた。人としてだいぶそれってどうなんだろう案件だし、そうやって産まれてくるこには申し訳なさしか抱かないだろうから、最後に残った理性で却下しておいた。

ダンデはきっとあの時の私の言葉を信じているのだずっと。だけど付き合って三ヶ月と、もう直ぐ二年では事情が異なる。異なってしまうのだ。
だからダンデと、もう一度ちゃんと話をしなければいけないと思いながら、そうなったが最後たぶん確実に幸いな未来は待ち受けていないだろうからつい、ずるずる先延ばしにしてきたツケが回ってきた気もするけど、その前に残されたあるひとつの手段を、私はとらなければいけなかった。




そうして夕刻、ホワイト企業のおかげでありがたく早めに上がらせてもらい、約束の時間に向かったのは自宅ではなく、シュートシティから列車に乗って辿り着いたナックルシティ。その歴史を感じる街並みのシンボルとも言える、ナックルスタジアムだった。
受付に向かえば、直ぐに通されたのはジムリーダーの執務室。建物に見合った重厚な扉の先で、ニパッとした笑顔に出迎えられた。

「よお、ひさしぶり」
「ひさしぶりキバナくん、今日は急にごめんね」

睛を通していた書類を置いて、四人がけのソファを私にすすめながら自分もその向かいに座った、トップジムリーダーさまであるキバナくんは「いや、別にいいけどよ。メールでも電話でも話しづらい事なんだろ?」と察しがいい。

「んー……話しづらいって事はないんだけど、直接お願いするのが筋かなって」
「え、ナニソレ、オレさまなにお願いされんの?」

怖いんだけど、とおどけてみせるキバナくんは、まあ当然の事ながらダンデとお付き合いをはじめてから知り合った雲の上の人なものの、なんだかんだ仲良くしてもらっている。たぶん、ダンデと別れたとしても、そのあとも彼はひとりの友人として会ったり接してくれるのだろうなと思うくらいにはお互い軽口が叩けた。

「えっとですね」
「ハイ」

居住まいを正して真面目に切り出せば、キバナくんもまた真剣な感じに反応してくれる。ノリがいい。

「キバナくんに、私がダンデとポケモンバトル出来るよう、ビシバシしごいてほしくてですね」
「は?」

しかし続けた私の言葉に、今は緩い垂れ睛を見開いて、何言ってんのお前、みたいな顔をされたので慌てて「バトルタワーの!ビギナー級の昇格戦のだから!勝つとかいうより、ちゃんと勝負になればそれだけでいいっていうか…」補足する。

「いや、っていうかよ、そもそもナマエってポケモン持ってないよな?」
「うん、なのでレンタルポケモンでどうにかバトルのカタチになるようにですね…お願いしたいんだけど…駄目かな?キバナくんが忙しいのは分かってるんだけど、他に仲のいいトレーナーの知り合いがいなくて…」
「あー…レンタルか、ならまだ何とか…なるかもしれねえし、オレさまも別にいいけどよ。まあダンデと勝負したいってのに本人に頼むのも違えしなあ…」
「ありがとうキバナくん!!ホント助かります!!」

その大きな手で、身長の割に小顔な整った顎のラインを撫でながらキバナくんは思案顔のまま、でも了承してくれたのでヤッターという気持ちのまま頭を下げていると「しかしよ」と続けられて上げる。

「なんで突然?」
「うん、当然の疑問なんだけどちょっとそれを答えるのは申し訳なくも憚れるというか…その、私個人だけの話じゃないから言えなくてですね…ただ、唯一言えるのは、今回のバトルには今後の人生設計がね…関わっててね…」
「いや、長いし重いわ」
「ううう、ごめん。お願いする身で失礼過ぎるんだけど、私が暴露する訳には絶対いけない重大な案件が関わっているので本当に言えないんだ…」

一から説明するのはどうあっても無理だ。ダンデも一緒に三者面談みたいな形にならないと。とてもじゃないけど私の口からダンデの下半身事情を吐露する訳にはいかない。
しかし察する事に長け、空気も読める出来た男であるキバナくんは大きく息を吐いてから「は―――…まあ、いいけどよ。オマエがそこまで言うのならオレさまは胸だけ貸してやるよ」ニッ、とやや目尻の吊り上がった凶暴な笑顔で言ってくれた。

「キャー!さすがオレさまキバナさまドラゴンストームさま!うん、本当に真剣にありがとう」
「おお、最後だけガチトーン…。で、オマエ、ポケモンバトルの事どのくらい理解できてるんだ?」
「そこは一応タイプ相性とかは分かるから大丈夫だと思うんだけど、その、問題は実践で……ちっちゃい頃ポケモンスクールに通ってた時に、先生から匙を投げられたくらいにはバトルが下手で…」
「まじか」
「まじです…」

ダンデの事情が発覚して、それなら自分がダンデとポケモンバトルをすればいい話のようであって出来ないでいた理由がそれだ。
子供の頃、ポケモンスクールでバトルセンスが壊滅的にない事が判明し、そこでくじけた私はポケモンと距離を置いてしまったせいで、手持ちもいなければジムチャレンジもしていない。だから自分ではダンデとバトル出来ないし、頑張ってもチャンピオンと互角以上にバトル出来るように果たしてなれるのか、なれたとしてもそれまでに何年かかるんだろうと思っていた。
けれどダンデがチャンピオンでなくなり、バトルタワーのオーナーとなったことで、レンタルで一番低い級のならなんとかバトル出来るんじゃ?と思い立ったのだ。
正直、それは正直その程度ではきっとダンデを満足させたり興奮させたりは出来ないんだろうけど、それでもこれは一種の最後の手段で。諦めるにしたって全部手を尽くしてからにしたかった私の我儘なので、本当快諾してくれたキバナくんには頭が上がらない。

そうして、この日から私のポケモンバトルの特訓の日々がはじまった。
恐れ多くもキバナくんの手持ちのこをお借りしての実践に次ぐ実践。ポケモンへの指示の出し方やタイミングだけでなく、相手のポケモンの動きや技も読まなければいけなくて、直ぐ状態異常、混乱に陥る私にバトルとなるとスパルタなキバナくんの怒号と激が飛びまくるわで。対面であの獰猛さを浴びて、ひええとなるも頑張って踏ん張って。でもバトルを一旦終えて、何が良くて何が悪かったかと解説してくれる時のキバナくんは、吊り上がっていた眦を一転下げて穏やかに丁寧に説明してくれるので、これが飴と鞭…と思っていた。
完全に初心者マークのついた私の素っ頓狂な指示に、ちょいちょい困惑していたキバナくんの手持ちのこにもその度に、ごめんねえええと謝って、トレーナーもポケモンも一緒に食べれるタイプのお菓子とかを差し入れておいた。受け取られなかったレッスン料のささやかな代わりともいう。
途中でふと思い出したように「そういや、これダンデには内緒なんだよな?」と訊かれたので、うんと首肯しておいた。プラスアルファ、サプライズ要素もあわせて少しでもどうにかならないかなという苦肉さだったけど、キバナくんは「いや、カノジョが男と二人きりで密会とか、これあとでオレさま、ダンデにボコられるんじゃね…?」とちょっと胃を痛そうにしていた。大丈夫だよキバナくん。ちゃんとやましい事は何ひとつないってあとでダンデに説明しておくから。私のフォローにキバナくんは何を思ったのか、次回からは何故かネズくんが増えていた。

「なんでおれまで……ジムリーダーを降りたとはいえ暇じゃないのですけど」
「え、ネズくん?なんでネズくん?キバナくん」
「オマエのバトルセンスが予想以上に壊滅的なのと、ダンデに対する保険に決まってんだろ」
「うっ、スミマセン……。ネズくんもごめんね、突然変な事に巻き込んで…」
「本当ですよ」

ネズくんとはキバナくん程仲良しという訳ではなかったので、当初はお互い距離のある感じだったけど、直ぐに私のポンコツ具合に言葉からよそよそしさはなくなり容赦ない叱咤が飛ぶようになった。

「はあ……スクールの教師が匙を投げたのも理解できますよ」
「ホントスミマセン…」
「ビギナー級とはいえ相手はダンデ、その程度で勝負になると思ってんですか」
「思ってないですううう」
「さっきのも途中まではまだよかったのに、何でダイマックス時の技の名前間違えてるのですか?バトル前にしっかり確認してたのに三歩歩いたら忘れる鳥頭ですかきみは」
「ジュラルドンのきょとん顔可愛かったです……あっ、ネズくんの眉間の皺がより深く!ごめんなさい真面目です真剣にド忘れしました鳥頭です!!」
「……はあ」

キバナくんによって死なば諸共道連れ要員としてだろう、無理矢理連れてこられ不服そうだったネズくんはしかし流石お兄ちゃんだからか、面倒見がよく、なんだかんだキバナくん同様に私に丁寧にポケモンバトルを教えてくれた。ネズくんにはそっとマリィちゃんと食べてくださいと評判のお菓子を献上しておいた。




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