「―――お願い…ッ!!」

その刹那、決して聞こえるはずのない声が、聞こえてはならない声が、ダンデの耳朶を打った。それは酷く聞き慣れた、間違える事など絶対にないと断言できるにも関わらず、今この場で耳にする事が余りにも有り得ないものだった所為で、認識と理解が乖離し一瞬の間となり遅れる。
経験則によって導き出された直感の通りに、望んでいたカチリという音を発さないまま赤と白の球体が弾け、同時に強烈な閃光が目を焼き咄嗟に瞼が閉じ切るその刹那、眩過ぎる真白の視界に黒を見た気がした。

閃光と、空気を痛烈に震わす衝撃を耐えた頃、眼裏の暗闇を通して光が弱まった事を感知しそっと開いた先に広がっていたのが白ではなく黒だった事に、己の勘違いや見間違えでもなかった現実を突きつけられる。近過ぎて全容を把握するのに僅かな時間がかかるも、直ぐ様その黒が鈍い硬質の輝きを纏っている事に気付き答えが弾き出された。
アーマーガア。呟きは口内だけで夢散し音になる事はなかった。次いで、何故アーマーガアがと疑問の答えを既に自分は知っていると、理解する前にスッと一気に全身の血の気が失せる感覚がダンデを襲う。
あの声は―――あの声はホップでもユウリでもなかった。確かにホップの手持ちにはアーマーガアがいたが、違う。ダンデは既に確言を得ていたが、それでも、その可能性を否定したかった。捨て切れない愚かな願望を胸に、けれど振り返る。
ホップとユウリを守りきった相棒が、そう酷い怪我を負っていない事に、子供達が無事な事に安堵する胸が、凍てつく。その後ろに、地に伏す人影があったからだ。そうしてダンデの優れた視力は、無情な程正確にその身なりが見覚えのあるものだと判別出来てしまう。その所為で、脳に浮かぶよりも早く叫んでいた。

「ナマエ…ッ!!」

気付いた時には駆け出していたが、止める意思など存在しなかった。ムゲンダイナの姿が視界の隅にあっても、それでも背を向ける事になんの躊躇も逡巡もなかったのは、この一瞬だけダンデは“チャンピオン”である事を忘れていたからなのだろう。そうでなければ、そんな選択肢はあろう筈がなかった。チャンピオンであれば、一瞥しただけで子供達に任せ、自身は即座に捕らえ損ねたムゲンダイナをどう対処するかと思案を巡らす筈だったからだ。
ぐったりと、声に一切の反応を示さないその人影は、少女は、ダンデの妹だった。血の繋がりのない、自分とは異なる肌の色は失せ、閉ざされた双眸を彩る睫毛すらぴくりとも動かない。
咄嗟に呼吸を確かめ、その細い首に触れれば指先にはぬくもりと確かな脈が伝わってきて、ダンデは大きく息をつく。指先が震えてしまっている事にも、知らず息を止めていた事にもようよう気付く有様に失笑したくなる心持ちだったが、それどころではなかった。瞬時に巡らせた視線の先に外傷は見当たらなかったが、意識を失っている現状は頭部を打った可能性が高い。
そこまででホップの「ナマエ!?なんでナマエが…ッ、」驚愕と焦燥に満ちた声と共に、空気をつんざく咆哮がビリビリと肌に伝わってくる。標的をダンデから子供達に変えたムゲンダイナが二人に迫ろうとしているのを見て、けれどダンデには判断が出来なかった。
道に迷うのとは真逆に、何時だってダンデは自身の信じる正しい判断が出来ていた。だのに、ぐらつく天秤はその何方にも傾きはしない。
秤の重しとなったのは弟だった。

「っ、アニキはナマエを頼む…!ムゲンダイナはオレとユウリで何とかするんだぞ…ッ!」

ボールを確と握る弟は、トレーナーだった。
己の喉元まで迫る強さを持つ少女もまた、ライバルに同意するようダンデを振り返って頷き、言葉を発する前に迫り来る厄災に向き直すと、手持ちをモンスターボールから出す。
その様に、嗚呼、と欠けたピースのように胸を満たすものを思う。守るべき、庇護すべき子供達は自らの気付かぬ内に信頼を預けるに足るトレーナーへと成長していたのだと、今更になって実感する。その目映さは未来の光だ。ダンデの希む先を同様に照らす灯りだ。
ダンデをちらと振り返るリザードンはまだ戦えるし、捕獲し損ねたとはいえダンデも未だムゲンダイナに心を折られた訳ではない。チャンピオンとしての責務を果たす事は恐らく出来るだろう。そう思ってけれど、開いた口唇は。

「分かった…頼んだぜ…っ!」

真逆の事を紡いでいた。自らの願望を、希望を、ダンデという人間の抱くそれを体現した少女を救いたい、ただそれだけの欲が今のダンデを突き動かすものだった。決して失われてはいけないものが、この手から零れ落ちる事をダンデは許しはしなかった。
手早く救急の連絡をかけ、切り終わると何時の間にかダンデの前へと、ムゲンダイナと少年少女達のバトルの余波を遮るように立つ朱色と黒の片方をボールへと戻す。
鈍い鋼の黒、アーマーガアはただじっとダンデではなく横たわるナマエを見ていた。それを横目に視界を巡らすと、少し離れた場所にぽつりと転がる赤と白があった為、立ち上がり拾いに行く。
手にしたそれに、今更ながら何時の間に、と思う。そんな素振りは欠片も見せなかった。些細な変化も見抜ける自負は傲りだったのかもしれない。思いながら戻ってきたダンデに、ついと俯いていた頭を上げ見つめてくる深い紅に、こんな時であってもダンデの双眸は瞬時に怪我の有無やコンディションの様子を、何よりその個体の強さを計る。ダメージを追っているようだったが、自らの脚で揺らぐ事なく立っている様に緊急を要する程のものではないと判断し、自身の手持ち達には劣るが、しかし十二分に鍛え上げられた姿に、ざわりと胸の奥底の本能じみた部分が、餓えた獣の如き獰猛な熱が滾り臓腑を焼くが、それをそっと静める。悪い癖だと思わなくもないがそれが自分である事も理解し納得していた為、ダンデにとっては治すものではなかった。

「済まないが、そのままではお前はおやと共には行けない。入っていてくれないか?」

ボールを持つ手を差し出しながら発っせられた穏やかな声にアーマーガアは微動だにせずダンデを見つめていたが、ややあってふっと緊張の糸が解れるようにその頭顱を下げた。ボールから伸びた光がその身を包み吸い込む。手にした赤と白の球体がカタリとも動く様子なく手に収まっているのを確認し、ダンデはリザードンのものと同様にしまった。
意識不明の人間を下手に動かすのは憚られたが、しかしここまで救急隊を上らせるのも得策ではない。人間が増えればムゲンダイナを余計刺激し兼ねなく、被害が増大する恐れもある。そっと、なるべく首を動かさないよう支えながら抱き上げるとその身の軽さに驚く。意識のない人間の身体は重いにも関わらず垂れた華奢な手足を目に、苦い息を吐きそうになって、既で嚥下する。忌々しい程に、焦燥以上に怒りが込み上げてくる気分だったが、冷静さを欠く訳にはいかなかったダンデはただ地上を目指した。



人の気配はそこかしこにあるにも関わらず、無機質な印象を受ける白いリノリウムの床を歩む。辿り着いた扉の横にある名を視線だけでなぞり取手に手をかけ横に引いた。

「入るぞ」

かけた声に返ってくるものはなく、ただ床に落ちたそれを踏みつけるようにダンデは室内へと歩を進める。お兄ちゃんノックしてよ…!そう困った風に笑う声が耳を掠めた気がしたが、それが記憶と鼓膜に残る過去のログだという事くらいは承知していた。
白い室内だった。白い壁に、窓を彩るカーテンすら白く、それでも一際白く映るのは部屋の大部分を占めるベッドのシーツだろう。清潔なそれがしかし、何処か病的な白さをたたえているように見えるのは、やはり場所柄だからだろうか。詮無い事を思いながらダンデは窓側に置かれた簡易なパイプ椅子に腰を下す。
そうしてから、常のダンデを知るものが見れば驚く程の静けさを纏ったまま、眼下のベッドを、そこに眠る少女を見つめた。
ただ健やかに眠っているだけのように見えてけれど、既に目を覚さないまま二日経過しているのは知っていた。頭部には包帯が巻かれていたが、精密検査の結果、異常はないと診断され直に目を覚ますだろうと医師も言っていた。それを受けてダンデは、直に、とは何時だと思いながら、結局この二日間ブラックナイトに関連する全ての問題に追われた所為で、やっとこの病室に足を運ぶ事が出来た今までの内に起きていない妹を思う。

「……ナマエ、随分寝坊助だな、お前は。ふふ、確かにそんなに寝起きはよくなかったが……なあ、もう起きてもいいんじゃないか?」

伸ばした指先で頬のまろい線を撫でる。そこにある確かなぬくもりに安堵すると同時に、冷水を浴びせられたかのような言い知れない感覚がダンデを襲う。疲労感よりも勝るそれを思ったまま撫でていると、不意に背後からガサリと音がした。気配で分かってはいたその存在に「お前も、食事をとっていないって聞いたぜ」開け放たれた窓の向こうに投げかけるが、此方も返答はなかった。
それに苦笑しながらも、笑みは直ぐに消え去る。その様相はいっそどこか穏やかなようでいて、嵐の前の静けさにも似ていた。
眠り姫と化した少女を、妹を、ナマエを見つめる黄金に感情の色はない。否、様々な感情が混じり合い煮詰まり過ぎて、深い水底のように透き通らないだけだった。
多忙を極めていた間にも脳裏をチラチラと過ぎってやまなかった思考が、最後に耳にした声というにはあまりに悲痛な願いの込められた叫びが、職務から一時解放された今ダンデを責め苛む。守られた、のだとは理解している。あの瞬間にアーマーガアが庇わなければ己が身がどうなっていたかは定かではなかったが、咄嗟にリザードンに子供達を庇わせた判断を思えば、それが正しいと言えるような目に合っていたのだろう事は想像に容易い。
次いで浮かぶのは、何故と、ただそれだけだった。

ホップ曰く、ナマエはチャンピオンマッチを観にシュートスタジアムに来てた筈だから、ブラックナイトが始まってからはそこから何処かに避難してるとばかり思ってたんだぞ、と。

同様に思っていたナマエの姿を、騒動の中心であるナックルシティで見かけた時にはダンデもまた目を疑った。何故ここに居るのかと問い詰めたが、時間がないのもあり返答を聞く前に避難させた事が悔やまれる。
あの時、ダンデを呼んだナマエの姿はあまりにも不安げだった。安心させるように笑顔で言葉をかけたが、それを聞いたナマエがその後どんな表情をしていたのか見ていなかったと気付いて、ひとつ溜息を吐き出す。
そうしてもう一つの証言、ダンデのよき好敵手であるナックルジムのジムリーダーが、同じく忙しくしている中で不意にふってきた話題に思わず食い付いたのを思い出す。

キバナ曰く、お前の妹、名前何てったっけ?ああ、ナマエか。アイツ怪我したんだろ?ったく、無茶はするんじゃねえって言ったのによ……いや、悪い。オレさまの責任だ。アーマーガアもアイツの目も悪くなかったんだよ。それで行かないといけないんですって、必死に言うもんだから、信じて行かせちまった。ン?アイツが行こうとしてた理由?あー…それも悪い。凄え焦って、急いでた…つーか思い詰めてた風だったからな、と。

謝罪をしてきた誠実なライバルに、ダンデはお前の所為ではないと肩を叩いた。責任の所在は別としてキバナの信頼を裏切ったのは妹だと判断したからであり、それは、ダンデの信頼をもだったからだ。
避難した先での出来事も訊いたが、それでもそれ以降の空白は埋められなかった。ダンデの記憶ではナックルスタジアムの入口付近にオリーヴが、地下のエネルギープラントにはローズが居たはずだったが、今回の事件に関与している人物として身柄は警察にあり、話を聞けてはいない。
故に、ナマエが何を思ってナックルスタジアムへ、ダンデの元へ来たのかは謎のままであり。何より、ナマエはダンデがナックルシティに到着する前から既に居たのだろうし、ダンデと出会った時点でナックルスタジアムに行こうとしていた風ではあった。
それに、とダンデは開けられた窓越しの気配を、アーマーガアを思う。一階の病室は静かな芝生に面しており、ナマエがここに運び込まれて以降何時の間にかベッド脇のチェストの上に置いてあったボールから出て、そのまま食事も摂らずただ傍に控えている唯一の手持ち。
ダンデが母から訊いた話では、ホップがジムチャレンジに旅立ってから捕まえたココガラを育てていたという事だったが、その事をダンデはおろかホップも知らなかった。後で驚かせたいとナマエが言っていたから内緒にしていたのだとはいえ、そもそもとしてトレーナーを目指す訳でもなかったナマエが何故そう思い至ったのかがダンデには不思議だった。ホップと違いポケモンバトルをしたいと、兄の背を追いたいといったような話は終ぞ聞いたことがなかったナマエが、何故と。ホップをみて自分のポケモンが欲しくなった可能性もあったが、それならば―――そこでダンデの脳裏に浮かぶのはアーマーガアの鍛え上げられた肢体だ。あれは愛玩でもよき隣人としてでもなく、バトルを、攻撃を想定して育てられた個体だ。
トレーナーにならないというナマエの証言とは真逆だったのだ、あのアーマーガアは。だからこそ、ムゲンダイナが発した衝撃を耐えダンデの盾となる事が出来た。
そうしてあの瞬間、何故ナマエはアーマーガアにダンデを守らせるという選択肢をとったのか。あの時は、ホップもユウリもムゲンダイナの捕獲に成功したとダンデの後ろで喜んでいた。その為、ボールの異変を察知したのは油断する事なく緊張の糸を張り詰めたままの己と相棒だけだった。だからダンデはリザードンに子供達を守らせる選択肢を瞬時に選び取れたのだ。己が身が無防備になるとしても、それが正しい選択だと、当然のものとして良しとしたのだ。
けれど、予想していた衝撃はダンデを襲わなかった。
ナマエが、自分と同様の選択をしたのだとは理解している。ただ不可思議だったのは、あの場で当事者だったダンデとは違うナマエが、何故それを選択出来たのかという部分だった。
思考を幾ら連綿に煮詰めたところで、深まるのは謎ばかりで、絶えず浮かぶ疑問の答えはダンデの身の内にはない。それは全て目の前で眠り続ける少女の小さな頭の中だ。
賢い子だとは思っていたが、その思考で何を為そうとしていたのか。素直ではあったが、ホップと違い自分の考えをそっと内に秘めるタイプだと認識していたとはいえ。

「……全てを話して欲しいと望むのは無理な事なんだろうが、それでもナマエ…お前はオレに言わない言葉が多すぎるな」

そんなに頼りにならないだろうかとすら思うくらいだったが、幼い妹は昔からダンデの事をチャンピオンではなく兄として見ていたと懐かしい記憶を思う。あの日までダンデは妹を、血の繋がりがなくともホップ同様に兄として、父親代わりのような立ち位置として愛していた。それは確かに家族へ向けるモノだった。

けれどあの日、久しぶりに帰省した実家で、少年から青年へと変わる頃合いの、まだチャンピオンとしての様々なしがらみに上手く折り合いを付けられておらず少しばかり揺らいでいたダンデの零した戯言に返って来たのは、あまりにも鮮烈な衝撃だった。幼い身の全てで、あれを全身全霊と言うのだろうと今ならば思うそれでもってして、向けられた感情の波に攫われて、洗われて。一瞬、真っ白なカンバスにも、どこまでも身が澄明になったようにも感じて、全てがリセットされたそこに、最初に生まれた希みは、欲しい、だった。

この人間が、この子供が、この少女が、ナマエが、欲しい。
いや、違う―――オレの、モノだ。
このキラキラと目映い色とりどりの感情全てが混ざり合った涙を流し、自分を大好きだと、愛してくれるこの存在はオレだけのモノだと。

それは確信であり、決して揺らぐ事のない確定した事実だった。ナマエの意思など微塵も鑑みていない酷く傲慢なそれは、しかしダンデにとっては既に至極当然の決定事項だった。
希みを叶える事は、それに向け直走る事は何も難しい事ではない。確かに困難はあるが、それは最初から既に含まれている事でしかなく、歩みを止めるに足る理由にはならなかった。
だからダンデは手を伸ばした。ナマエに何れ事実が打ち明けられる事は母と話し合っていた為知っていたので、それまでは今まで通り、兄として家族としての立ち位置を守るとしても。
いつか自分一人だけ血が繋がっていないと知ってナマエはショックを受けるだろうか?そう思うと同時にけれどダンデは、ナマエが悲しみや失意に沈んだとしても絆も繋がりも己が与えてやれるとすら思っていた。
それに反して、ナマエは事実を知っても特に気にしているようではなかったのだが。付け入る大きな隙にはならなかったかと分析する部分は、直情的に生きていると他者に思われがちなのとは正反対に、何時だって絶対零度の如く冷静だった。

とはいえ、ナマエのダンデに向ける好感度は親愛であったとしても高い。自惚れではなく、偶に会える時の様子を見ればよく分かる。ダンデは他者の感情の機微には疎いというよりも興味がなかった為、よく人の気持ちが分からないと幼馴染みからは評価されていたが、その反面自身に向けられる感情には野生のポケモンのように敏かった。
そうして、自身が甘いようにナマエもまたダンデに甘い事を理解していた。会えば必ずするハグもキスも、成長するに従って恥ずかしそうにしながらも、それでもダンデの好きにさせていたし、キスが返ってくる事はなかったがハグの際には華奢な腕が背中に回されており、その度にダンデは愛おしさが増すのを実感していた。そこに家族へ、妹へ向ける以上のモノが多少なりと込められていたのはご愛嬌だ。ナマエが何も疑っていなかったようなのだけは、喜ぶべきか嘆くべきか悩むところだったが。
だからナマエが、血が繋がっていないし自分ももう小さい子供ではないからそろそろ控えた方がいいのではないだろうか、要約すればそんなような事を伝えてきた時も、余計な事を気にしているなと思う以上に、ようやくこの時が来たかと歓喜し垂涎の思いだった。逃すつもりはない。必ず手中に収めるし、誰にも奪わせるつもりもない。
そうだ、その筈だったのに―――

「―――まさか、お前自身に奪われるとは、思ってもみなかったんだぜ」

苦笑と共につい呟いてしまって、ダンデはそっとシーツの下に手を入れる。目当てのものは直ぐ指先に触れた。緩く開かれているそこに滑り込ませ、やんわりと握り締める。小さな手はダンデの手にすっぽりと覆われる程だったが、その指先が握り返してくれる気配はない。
確かなぬくもりは生を感じさせるが、それだけでは意味がないのだ。はやく、はやく、その目蓋の裏に隠された瞳で己を見て欲しい、その小さく柔らかな唇を動かして己が名を呼んで欲しい。願望は、希みは、けれど決してダンデには叶える事が出来ない。それが出来るのはナマエだけなのだ。
嗚呼、とダンデは思う。こんな絶望感を、無力感を、味わいたくなかった。
ナマエがアーマーガアに自身を守らせなかった場合、立場が逆になっていたとしても、ダンデはこんな想いをさせたナマエを許しはしないと決めていた。
けれどそれすら伝える事が出来ない。ダンデの怒りを悲しみを苦しみ痛みをナマエは知る事がないのだ。考えたくなくとも、もしも医師の見立てとは異なり一生目を覚まさなければ、そう思う度に心臓が軋む息苦しさに襲われては、その可能性を払拭する繰り返し。どんなバトルの時だって感じた事のなかったそれは、まるで尖った鉱物を飲み込むようにダンデを傷付けた。
そこで、ダンデは思う。そうだ、オレをこんな気持ちにさせるのは、こんな目に合わせられるのは、お前だけなのだと。それ程までに、愛しているのだと。喪う事を―――恐怖しているのだと。
無敗のチャンピオン、無敵のチャンピオン、俯いた視界に身に纏うユニフォームが酷く滑稽に映り、口元が歪む。嗤いたいのか泣きたいのか分からなかった。分かるのはただ、己れにもこんなに弱く脆い部分があったのかという事だけだ。あまり知りたいものではなかったが、不思議と嫌な気分ではなかった。

「ナマエ……ナマエ…頼むから、はやく、起きてくれ。そうしないと、キスをしてしまうぞ?眠り姫は、そうやって目を覚ますんだろう?なあ、今回も頭突きをしていいんだぜ……だから、だから…ナマエ」

成功したのは血の繋がりがないのだからと訴えてきた時の一瞬の軽いものだけで、幼少時と先日と二度阻まれているのだ。
迂闊なようで危機察知能力に長けているその様を、脆いようでズガイドスも顔負けの強固さを誇る頭突きをくらった時を思い出して、ふっと笑ってしまう。笑えて、しまう。

「ああ、本当に…オレに、こんな想いをさせるのはお前だけなんだぜ」

そうして、ダンデは握る手を持ち上げ、俯く額に当てた。祈るように、懺悔をするように、ただただ願いを込めて。
しかしダンデは知らない。握り締めた手がぴくりと動きやわく握り返すまで、後ほんの少しだという事も。目を覚ました姿に心底安堵するのも束の間、自分の身よりも何よりも先にダンデの怪我の有無を訊いてきたナマエに、一気にセンチメンタルでシリアスな感傷は引っ込み、怒りのみが己を支配する事も。
今はまだ、知る由もなかった。


20200904

- ナノ -