じっとりと肌に吸い付くような風に、天を仰げば雲の流れがはやい。暗雲とまではいかない灰白に、けれどこれはもう幾許かで一雨が来るだろうと予想を立てていると「東より敵軍接近中!」物見の兵が上げた声が湿った空気を切り裂く。途端にいっそう濃くなったざわつく気配と緊張感に、そういえば今回はまだ経験の浅い兵を導入していたのだと思い出した。
鍛錬より経験。実戦でしか、簡単に訪れる死と隣り合わせのこの空間でしか養えないものがあるから仕方のないことであり、兵となった者には避けては通れない道だ。だけど。
すうっと、静かに息を吸い込む。

「案ずることはありません!全て軍師殿の見立て通りですから、私達は己が責務をただ全うするのみ」

出来るだけ凛とした声音を心がけて言い放てば、見渡す兵等のおもてが余計固くなるのが見て取れる。全体を真剣に見渡してから、鮮やかに、揺ぎ無い自信だけをのせて。

「大丈夫。私達は群です。誰か一人だけ強くても駄目なんです。私一人では駄目だから貴方達がいるんです―――共に、戦ってくれますね」

そう言い放つ。一拍の静寂の後、空気を震わせた一糸乱れぬ返事につい笑みを浮かべてしまいそうになりながらも、隊列を指示する。そんなつもりはさらさらないものの、要所である拠点だから落とされる訳にはいかない。むしろ心配事はどれだけの兵が無事にこの戦地を生き残れるかだと、そんな懸念を表情に出さないよう気をつけたまま頭を巡らせていると「名前殿!」名を呼ばれ振り向けば、副官が駆けてくるところで。何事かと、問う前に私は察してしまえた。副官の後ろから悠々と歩んでくる男が、私と睛が合った途端に快活な笑みを浮かべたからだ。
そうして「よっ!」と片手を上げて明るく挨拶をしてきた男とは正反対に、自分の士気が急降下するのを思いながらじとりとねめつける。

「なんで曼成がここにいるの」

私の第一声に「おいおい、挨拶もなしとか冷た過ぎだろ!泣くぞ、俺!」大袈裟な反応をする男、李曼成に意図して視線を冷たくすると彼は慌てた様子で「ちょ、そんな睛で見るなよ!言ってただろ、援軍」そう答えるも、私が聞きたいのはそんなことじゃない。

「分かってるわよ、そんなこと。私はなんでそれが曼成なのかって聞いているの」
「なんでって、そりゃあ愛だろ」
「刺すわ」
「あ、いや冗談冗談…!って訳でもないんだけど……あああ、マジで止めろって、ちょ、刃先近過ぎだろ!?」
「……」

無言で得物の切っ先を向ければ、降参とばかりに両手を上げる彼に「……ま、いいけど。足手まといにだけはならないでね」内心嘆息しながら腕を下ろす。この防衛拠点の死守が今回の戦での要だからと、援軍を送るとは聞かされていたものの、てっきり張遼や楽進だとばかり思っていたというか、そっちの方が全然良かったというか。ああ、まったく。よりによって口を開けば軽いことしか言わない勘だけ男とは、人選間違えてる。
まだ兵達の睛もあるしと、溜息をおもいきり吐きたい衝動をぐっと堪えて「それで、戦況は?」曼成に問う。

「まあ、大方郭嘉殿の策通り。ここを死守する時間もそう長くはないだろう、ってな」
「そう……」

情報は逐一伝令で入ってくるものの、我が軍の優秀な軍師殿の見立てを聞ければ不安材料は減る。

「おいおい、名前。そんな難しい顔ばっかしてたら綺麗な顔が台無しだぞ」
「余計なお世話。ついでに、曼成の顔は気楽過ぎ」
「気楽過ぎって……あんただって知ってるだろ!やる時はやる男だぜ、俺!」

知ってる。とは言わない代わりに「はいはい」と軽く受け流す。「ったく……あんた信じてねえだろっ」という言葉も同様に。何時ものことだけどうるさいから、彼の戯言は流すに限る。

「けどなあ、名前」
「なに」
「あんたがそんなに心配しなくても、大丈夫だと思うぜ?」

ま、俺はそんなとこも好きだけどな。と続いた戯言を無視してその前の言葉を反芻する。心配。そう、心配でたまらない。これも何時ものこと。隊を任された将としての責務に応える為だけじゃなくて、拠点の死守以上に、出来うる限りの命がこの戦で散らないようにと。そんな不安と心配を繕って、強く冷静沈着な武将という自分の理想で塗り固めた無表情の面の奥に隠しているつもりなのに、曼成や他の馴染みの面々には何時の間にか知られて、こうして偶に見透かされてしまうので、頭を抱えたくなる。

「……その根拠は?」
「そりゃあ、俺の勘に決まってんだろ!」
「だろうと思った。この勘だけ男」
「おいおいっ、勘だけって……!」
「うるさい。だって勘以外は胡散臭いし、そもそもあんたに心配してもらう必要なんてないんだからっ」

私の言葉に自信たっぷり明快に答えた曼成を刺々しくばっさり切り捨てても、めげる様子はない。だから悪くないと思ってしまう。そんなことは絶対言葉にできないけど。でも。

「……でも、曼成の勘は信じてる」

から、少しは安心した。そう素直に彼の藍鼠の瞳を見ながら言えば、驚いたように睛を瞠った後、何かを言いかけた口元を突然手で隠して勢いよくそっぽを向いてしまう。そうして「ちょ、まっ…!今のは反則だろ…!」手で覆われている所為でよく聞き取れないものの、一人でぶつぶつと何か言っている。なにその反応。やっぱり胡散臭いと思いながらも、自分自身の緊張が程好く解けていることに気付いて、だけどそれに気付かないふりをしていると不意にぽつりと頬に冷たい感覚。

「雨……」
「ん?ああ……降ってきたな。でも、もう少し持つだろ、これ」
「じゃあ、酷くなる前に終わらせるわよ」

援軍が来たのだ。これなら守ってだけではない戦い方も出来る。真面目な空気を纏い直した私に、彼も察したのだろう。

「よおっし!やってやるぜ!今日は良い予感しかしないからな、名前に格好良いとこ見せるぜ、俺!」

またこの男は。と思ったけど、もう軽口に付き合ってはいられない。得物を握る手に力を込めてから、余分なものを抜き歩みだす。知ってる。軽口ばかりの彼が、とても真面目で良い奴で、やる時はやる男だってことくらい。だから、皆安心するのだ。だから、私も、安心するのだから。
だから、つい口からは。

「あ、そ……じゃあ、期待してる」

そうついて出ていて。一層喧しくなった曼成を「うるさい」と柄で小突いた。ああ、まったく心配の中に彼のことも一応はあったというのに。




戦に勝利すれば、後に待っているのは祝いの宴しかない。帰還してからも慌しく、傍仕えの女官にごてごてと着付けられそうになるのをかわしながら支度を整える。悼む感情はそのまま戦地へと置いてきた。城内に溢れるのも歓喜だけだ。室から出た私はそんな気配を肌で感じながら、ただ歩んでいた。
宴の定刻まではまだあるけれど、あのまま室にいれば彼女達の着せ替え人形になってしまいそうなので逃げてきたのだった。着飾るのは嫌いじゃあないけど、男に混じって武を磨き今の地位を築いた身としては、あまり晒せる肌をしていないのも自覚していた。とはいえ、どう時間を潰したものかなとぼんやり歩いていると楊の大木の傍らに小さな影を見つける。あ、と思うままゆっくり近付いて行くも、逃げない。

「どこから入ってきたの?」

しゃがみながら問いかけても、その金糸の双眸を瞬かせることもなくじっとこちらを見上げてくる姿が可愛くて。まだ子どもなのだろうか、細身の黒い毛並みが美しい猫だった。
手を差し出せば、にゃあ、と鳴きながら擦り寄ってくる。絹のような皇かさに誰かの飼い猫だろうかと思いつつも、その仕草についつい胸がきゅんとなる。か、可愛い…!思わず顔も緩んでしまい、なでなで。

「おや、随分と可愛らしいね」
「きゃあっ…!?」

猫と戯れながら癒されていた所為で、突然真後ろから聞こえた声に勢いよく肩が跳ねてしまう。そして、それに吃驚したのか猫は背を向けて何処かへ走り去ってしまった。あ……、と思うも遅くて。でも、それよりも。

「か、郭嘉殿…!何時からそこにいらしたんですか?」

振り向けば、そこには思っていた以上に近い距離に郭嘉殿の姿があった。あわあわと、突然のことに崩れた平常心を必死で掻き集めてみるも、そんなことはお見通しなのだろう聡明な軍師殿は、ふふ…と楽しげに綺麗な笑みを深めるだけだ。

「ああ、もう戻ってしまったね。ふふ、私にはそんな堅苦しい言葉遣いをしなくても良いのに……」
「いえ、そんな訳には、」
「名前殿は素のままが可愛いと思うのだけれど」
「そ、そんなっ…」
「まあ、今でも十分に可愛らしいのだけれど…ね」
「っ、郭嘉殿…!失礼します…っ」

駄目だ。郭嘉殿にはきっちり気を張っている時でさえ話術に踊らされてしまうのに、こんな生半可な状態ではいっそうで。容赦なく紡がれる甘い言葉に、ただの世辞だと理解していても恥ずかしくなってしまうのはきっとこの人の雰囲気とかそういうもの全部が、怪しげというか色っぽいからだ。ああ、まったく。なんだかもう色んな人に見破られている気がしてならない。無表情で冷徹な女武将という、私が周囲に対して作り上げた像がいつの間にかどんどん欠けていっているような気がしてならない。
なんとか郭嘉殿から逃げ出して、そんなことを一人悶々と考えながら回廊を歩む。どうしてこうなったの。どこから欠けてしまったの。考えて、悩んで、ふっと思い出した。

「……あ」

曼成だ。彼や楽進とは同期のようなもので、その中でも今の位にまで登り詰めた数少ない人物ということもあって親しくしている。でも、別に最初は仲が良い訳じゃなかった。その当時から周囲に見縊られないよう、冷静に淡々とあまり感情を表に出すことなく過ごして、そんな印象が周囲にも定着していたというのに。愛想のない私に彼はよく話しかけてきて、どれだけ冷たくあしらってもそれは変わらないので、面倒と呆れを通り越して段々と接するのが面白くなっていた。
とはいえ、そんなことはおくびにも出さなかったけど、何時しか気が緩んでいたのだろう。あれは忘れもしない春先のことだ。
鍛錬を終え、少し木蔭で休みながら二人語らっていた時にふっと曼成がじっと私を見つめてきた。その時私は初めて彼の相貌が整っていることも、垂れた瞳が、藍がかった灰色だということにも気付いた。つい一瞬前まで笑ってたのに、突然の真剣な顔に何故かきゅっと心臓が締め付けられたような気がして。何なんだろうと思うも、どうしてかうまく言葉が出てこないでいると、彼は言ったのだ。

「名前……あんたの後ろの樹、毛虫いるぜ」

何を言われたのか理解しなかったのも刹那の間で、無意識に息を吸っていた私は次の瞬間には「きゃあああっ…!?や、やだ…!!」と盛大な悲鳴を上げて、急いで樹から離れた。見れば確かに私のいた直ぐ傍らに毛虫の姿があり、見たくもないのでそらした視線の先で。

「………」

曼成が睛を丸くして私を見ていた。私は、あ、と気付いてしまった。自分が今どんな醜態を晒したのか、気付いてしまった。どうしようと途端に混乱する脳でも、だけど落ち着けと指令が出るものの遅かった。

「ちょ、名前、今、きゃあって……っ、あんた、そんな可愛い悲鳴出せるのかよ…!」

驚きから私よりもはやく解放された曼成の言葉に、咄嗟に「う、うるさいっ…!なに笑ってんのよ…!!」と返してしまったからだ。それまでは曼成にだってちゃんとした言葉遣いで接していたというのに、私はこの時初めて軍に入ってから素を出してしまったのだ。
そのまま言い合いをした結果、彼に対しては口調が砕けてしまったのだ。
そうして、それ以降なんだか何時の間にか私の作り上げてきた印象がどんどん崩れている気がしてならなくて。

「曼成め…」

つい口から恨みがましい声が出てしまうのも仕方ないことで。

「よお、名前。あんた、まだこんなとこ居たのか。そろそろ宴が始まるぜ?」

別に呼んだ訳じゃなかったのに、前方の角を曲がって現れた曼成の姿につい眉根が寄ってしまうのもきっと仕方ないことなのだ。

「出たわね諸悪の根源」
「は?!なんだよその第一声、何かしたか、俺?」
「なに、心当たりがある訳?」
「いや、心当たりっつってもなあ……」

顎に手を置いて首を捻る曼成に「別に、なんでもないわよ」言って、彼を置いて足早に歩き出す。そんな私に「あ、ちょ、待てよ名前っ」慌てた様子で言いながらも、簡単に隣に並んでくるのだから少し苛っとする。身長差による歩幅の違いなので今更どうこう言わないけど、私の歩みと違って悠々とした彼の足取りにどこか男女の差を見せ付けられるようで。
だけど、とも思う。曼成は最初からそんなことを気にさせないような人だった。何時だって対等に接してきて、それは昔からずっと変わらないから。私はつい棘のある言い方しかできないのに、それだって飄々とした態度で上手くかわしてしまう。たまに、あ、やば、今のは言い過ぎたかも、と思ってもそんな風なのだから、私がその都度拍子抜けとくすぐったさと自己嫌悪で少しもやもやしてしまうことなんて曼成は知らないのだ。
彼が戯れに好意を示してくる度に、いっそう刺々しさを増す茨の奥にあるもののことなんて知らないのだ。
そうやって考え事ばかりしていたおかげで、僅かに出来た石畳の段差に躓いてしまう。あ、と思うよりはやく重心の崩れた身体は自然受け身をとろうとするのに、それよりもはやく。

「おっと、」

横から伸びてきた腕に抱き止められ、傾いていた姿勢が戻った時には背中にぬくもりを感じていた。太い腕にも、鍛えられた肢体からも安心感が伝わってきて、きゅうっと何時かみたいに胸の奥が甘く締め付けられる。そこから一瞬で全身に熱がまわるのが分かる。

「…………っ、あ、ありがと!」

それが顔にまで来たのと同時に、勢いよく曼成から離れる。加減が出来てなかったからか私だけじゃなくて、彼も少しよろけてしまったのを見て自分の失敗を思う。助けてもらっておいて、これでは突き飛ばすみたいになってしまった。
ど、どうしよう。と流石に申し訳なくなっていると、体勢を直した曼成が私を見て、ちょっと、寂しそうに苦笑しながら。

「なあ、俺のこと嫌いなのか?」

なんて、言うものだから。

「そ、そんなこと言ったこともないし、思ったこともな……っ」

咄嗟にそう答えていて。でも、嫌いじゃないというのはつまりは好きと同等だと気付いて直ぐに。

「あ、や、なんでも、ないからっ!」

そう言葉を濁してしまう。私には彼と違って好きとか、そういう言葉を口に出すことなんてできない。恥ずかし過ぎて、無理だし、そんな勇気も、ないから。さっき離れた時にするりと抜けていったぬくもりが名残惜しかったなんて、思ってない。
ちら、と彼を見ればもう嬉しそうに笑っている。笑われていると思ったけど、同じ笑みの種類でも、彼にはこちらの方が良いから、出そうになった棘を飲み込んで。代わりに。

「……曼成こそ、嫌じゃないの?」

そう口からついて出ていた。

「ん?なにがだ?」
「私は曼成に対して優しくもないし、言い方だって何時も酷いのにって」

顔を背けたまま言うと「なんだ、名前、あんた自覚あったのか」なんてのたまうので、何その言い方と文句を言うために曼成を見たら。

「今更なんだよ、あんた」

思いの他近い距離に彼の顔があって、言葉を失ってしまう。黒い癖毛に、凛々しい線を描く眉の下。眦の垂れた、藍鼠の双眸の色が分かる距離。

「綺麗な花には棘があるって言うだろ?」

口元は笑みを形どっているのに、その眼差しにある色は真剣なもので。

「それに、ちゃんと分かってるんだぜ、俺」

何を、と問う暇もないくらいに、あっさりと、当たり前みたいに、自信満々に、

「あんたの棘は俺を傷つけることはない、ってな」

笑ってそう言う曼成に、ああ、私は彼には敵わないのだと思った。思ったけど、それを伝えるにも私にはまだ纏う茨が多過ぎて。

「……ばか」

結局そんな憎まれ口しか出てこなかったのに、顔がどうしようもなく緩んでいるのが自分でも分かった。


薔薇乙女




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