晴れ渡った天はどこまでも澄んだ青さを湛え、穏やかともとれる陽気にそっと仰いだ睛を細める。もう幾許かで黄塵にまみれ、その色を気にする余裕もなくなってしまうのだろうけれど、こんな天気の良い日は遠乗りに駆けるのが一番だと思うのと同時に、そういえばあの時もそうだったと、さわり、若葉風が吹き記憶の梢が揺れた。
青々とした野を駿馬で二人駆け抜けた午后。手綱さばきは私の方が秀でていたのはあの頃から変わらないまま、だけど彼は父親に良く似て弓の扱いには長けており私は一度も勝てたことがなかった。
訳もなく喜び勇み、風を真っ直ぐに切り、緑や大地の匂いを感じていたあの躍動感を今でもまざまざと思い出せるけれど、同じものを二度と感じられることがないのを分かっている美しさがそこにはあった。眩しくも、儚い、この感覚はいつから胸に芽吹いてしまったのだろうか。考えて、詮無いことだと一笑に付す。そうして、ああ、と思う。
それよりも、彼は、覚えているだろうか。

「戦の前に呆けるとは、余裕だな」

低い声。振り向けば足音すらなくそこに賈充殿が居た。黒衣に浮かび上がるような白さは、この澄んだ陽に照らされてもどこか病的な色を保っている。白昼に幽霊を見た心地を抱きながらもその手に握られた対の鋭利な刃に、自分の右手にある柄の感覚を思い出すようで、確かに、と心のなかだけで同意しながら「そんなつもりはなかったのですが、そう見えたのなら私も緊張感が足りませんね」そう応える。

「なにか、御用でしょうか」

忙しい身だろうに、こんな所にふらりと現れるなど珍しい。それだけに意図を酌むのは容易い。

「お前は無能ではないからな、手筈を確認するまでもないが」
「では、他の確認事ですね」
「くくっ……そういう冷静で聡い所は勝っている」

いや、と賈充殿は続ける。ちらりと此方に向けられた視線はどこまでも昏く、そして鋭敏な光で射抜いてくる。

「冷酷、と言った方が正しかったか」
「…………」

その双眸を見返すことに抵抗はない。賈充殿は人のやわらかで脆い箇所を抉ることにかけてはいつも天才的だけれど、その切れ味は酷く良すぎて私にはきっと切られた感覚がないのだろう。じわりじわりと毒殺でもしてきそうな印象とは異なり、この人には隙あらば一撃で命を絶つために喰らいついてくる獰猛さがあった。
ただ、どんなにそれが鋭利であっても言葉である限り、受け手によってそれは意図も容易く鈍らにもなることを私は知っている。

「……それこそ、今は戦前です。感傷に浸る余裕などありませんよ」

それは当然、賈充殿も知っているということだ。私の言葉に、賈充殿は僅かにその睛を開いた後「成る程」と呟く。なにが成る程なのだろうと思う私の機微を悟ったのだろう、くくっ……と咽喉を震わせる低音の笑い声が耳を通り抜けていった頃。

「報を聞いた時と同じ顔をしている」

そう言った。おかしそうに睛を細めて。報。その言葉がなにを意味しているのか、それが分からないくらい馬鹿であればきっと良かったのだろうけれど、理解してしまった。

「……賈充殿は、私が司馬昭殿や郭淮殿のような反応をすれば満足なのでしょうか」
「なに、多少なりとも意外だっただけだ」
「尋問なら、あの時もう済んだと思っていたのですが」
「ああ、疑心がある訳ではない。だからお前は今ここに居る」

違うか、と逆に訊ねられてしまえば無言を返すしか術はない。そうして、今も戦の前の緊迫感に紛れて亡霊の如く陣中に漂う微かに沈んだ空気―――焦燥や憤り、痛ましさといったものを思う。賈充殿は私からはそれがないと言っているから、きっとそうなのだろうけれど、私自身は自分のことを図りかねていたから、余計。

「賈充殿こそ、意外と心配性なのですね。武を磨き、家を誇りに思ってきたのです。なにが変わろうとも私の忠義はこの国にあります」
「重畳な答えだな。人である前に武人であるという訳か」
「ええ、なによりもここは戦場ですから。そのつもりです」

そうか、と納得したように言って賈充殿は興味を失くした風に踵を返した。ざり、と砂塵の擦れる音に幽霊ではないのだと、とりとめもないことを思った。だから「名前」名を呼ばれたことに反応が遅れて。

「有能な者は一人でも多いに越したことはない、それを忘れるな」

その背をただ見送ることしか、できなかった。
仲権が隣にいればきっと「賈充殿があんなこと言うなんて珍しいな」なんて言ったのだろうなと、思った。


仲権と私は親同士、と言うよりも家同士の付き合いがあり同い年の彼とは所謂幼馴染のような間柄だったけれど、きっと傍から見れば私たちは兄妹みたいだったのだろう。どこまでも明るく、臆病でだけど真摯な彼の気性は昔から変わらない。ずっと、私の方が少しだけ背の高かったことも。
曹家に仕える将だった父は、しかし私しか子を儲けられず。その所為かどうかは定かではなかったものの、お淑やかとはかけ離れた少女に育った私は自然に仲権の影響もあり馬の扱いに弓矢に、そして槍や矛といったものを経て、結局父と同じ剣に落ち着いた。武人の道を歩むことに両親はあまりいい顔をしていなかったけれど、仲権の「お前が決めたんなら、それでいいんじゃないのか」という言葉に軽くなった心のまま前へと進むことができた。
その間に味わった、きっと淑女として早々に良家へ嫁いでいれば決して一生経験することのない―――呆気なく零れ出てしまう命の赤や、断ち切られ宙を舞う四肢や馘首に掻き捌かれた腹からずるりと溢れる臓物、濁ってゆく瞳に呪詛のように死にたくないと祈り事切れ、冷たく硬くなっていった骸の重みや、向けられた切っ先よりも此方を穿とうとしてくる殺意と憎悪と怨嗟の眼差し、そして親しい人を睛の前で亡くす、あの絶望―――そういったものに、押し潰されそうになった時も「いやいやいや、やりたくないなら止めてもいいと思うぜ?」いつもの調子で、まるでなんてことないみたいな彼の言葉に、今もこうして剣を握っていられるのだろう。
後悔だってしても良いのだと、私にはとても言えないことを口に出せた仲権はずっと傍で見てきたはずなのにまるで知らない人のようだった。
だからこそ、私は彼が今後悔をしていてもいなくても、きっとそれはどちらでもいいことなのだろうと思えた。
そっと剣の柄を握る。この戦の前に砥ぎ直してきたからよく斬れるのだろう。自分の為にも相手の為にも斬れるに越したことはない。白刃が陽光を受けて煌くのが場違いな程に眩しく、美しい。視線を上げて、兵になにか指示を出している人物に近付けば直ぐに此方に気付いて、静かに一礼してくる。

「名前殿、賈充殿とのお話はもう宜しいので?」
「はい、隊のほう任せてしまってすみません」

いえ、と首を振るその面は端整なものの厳しく、けれどそれがこの李順という男の常であると知っているので気にはならない。

「それにしても、やはり李順殿の方が指揮には向いてますね」
「そんなことは……」
「私はどうにも未だ兵を指揮するのは慣れないのです。こんな立場では贅沢というものでしょうが」

真面目な面持ちを見る度に、彼が副官で良かったと安堵する。歳が上にも関わらず、幾ら将とはいえ年下の、それも女の身である私にも丁寧に接してくれる。

「名前殿は、仕えるに値する将だと俺だけでなく兵等も思っています」
「ああ、気を使わせてしまいましたね……だけど、ありがとうございます」

申し訳なくも嬉しく、微笑を浮かべて言えば李順殿はやはり、いえ、とその厳しい無表情のまま応えてくれた。けれど、不意にその深い眼窩の奥で双眸が鈍い輝きを湛える。

「…………名前殿は、」
「どうされました?」

珍しくどこか歯切れの悪い物言いに首を傾げると、苦いものでも吐き出す口調で「本当に宜しいのですか」そう重く言った。その端的な言葉の意味を理解して、きっと合っているであろう確信のままに笑みを深める。

「李順殿も、心配性ですね」
「茶化さないで頂きたい」

ふふっと笑って言えば、両断するように紡がれ、その眉間に増えた皺に余計嬉しくなってしまう。

「大丈夫ですよ、私は。今更です。もう、あの時から覚悟は決めてきたつもりですから」
「……ですが、」
「そんなことよりも、李順殿聞きましたよ?父親になられたのでしょう」
「え、ああ……はい」
「おめでとうございます」

急な話の転換を諌めることもなく、ありがとうございますと律儀に礼を述べる李順殿はやはり真面目で、私には勿体ないくらいの副官だ。武功も上げているし、将軍の地位を冠してもおかしくはない人材だと思っている。以前、司馬昭殿にもそれとなく進言してみたし、きっと賈充殿の睛にも無能ではないと映っているはずだから、たぶん大丈夫。

「出産のご予定は?」
「来春、と言われております」
「そうですか、ではやはり奥方や御子の為にも私のことより自分の身を案じてください」
「…………」
「さあ、そろそろ行きましょう」

隊列へと向かおうとする足は「名前殿」李順殿の固い声で止まってしまう。

「それでも俺は、貴方達が並び駆けるのを見るのが好きでした」

眉間の皺をもう一本増やしてそう言ってくれたこのやさしい副官に、私はただ笑みだけを返した。




駆ける、駆ける。戦塵にまみれ怒号を掻き分け切っ先を弾き刃を振るい、飛び散る鮮血を横目に、それをもう過去のものとしながら、ただ前だけに進む。李順殿が槍を払う音と断末魔を背に。
駆ける、駆ける。昔は、駆けた先には大きな樹があった。ぐんと天に向かって伸びた太い幹に、血脈の如くどこまでも広がる枝は常緑の葉むらで憩う影を作り出していた立派な一本の大樹だった。大地に隆起する根を張った木蔭に二人寝そべって、色んな話をした。風が草木を揺らす音や鳥の囀りを耳に、青青とした野に身を預けその匂いに包まれながら、いっぱい、いっぱい、とりとめのないことや過去に現在、そして未来のことまで。他愛もないこどものような会話を、何度も、何度も。時には喧嘩をしながら。がさつな物言いをすれば、そんなんだからお前嫁の貰い手もないんだぞと言って余計火に油を注いでおきながら、これ似合うと思ってさ、そう言いながら可憐な花を模った髪飾りをくれたりする。
仲権。何度音もなく呼んだだろう。君は覚えているだろうか。あの樹のことを。
湯水の如く溢れ出る言葉達がふっと途切れた瞬間の、あのやわらかな沈黙を。きらきらと綺麗な木漏れ日をただ映して、どこも触れ合っていないのに隣に確かにあるぬくもりを感じていたあの一瞬を。仲権。私は、あの時とても自然になんてこともないみたいに、ああ、きっと今私と彼は同じ気持ちなのだろうと、漠然と、だけど確かに思ったんだ。そっと少しだけ首を動かして君を見たら、蜜色がかった茶鼠の大きな睛と合って、だけどそれだけでなにを言うでもなく内緒話をするみたいにこっそり笑い合ったあの午后を。君は、覚えているだろうか。
空城の計にかかったという一報は耳にしていたので、城内をただ駆けて、駆けた先で真っ先に眩しい程の輝きを見つけた。見間違えることなんて出来るはずもない。小柄であっても圧倒的な存在感を放つ鎧の、兜の隙間から懐かしい色がどこか驚いたみたいに睛を瞠って、それで。仲権。音もなく呼ぶ代わりに、

「夏侯覇、覚悟!」

そう叫んだ。駆ける勢いのまま真っ直ぐに突き入れば、彼の槍に受け止められる。こんな重い鎧を着てこの重い得物をよく扱うものだと、それは手合わせをしてきた頃から変わらない称賛。見開かれたままだった双眸が、凛々しい眉に沿うように細められた瞬間風を切る音と共に払われ、そのまま距離をとって対峙する。

「……いや、いやいやいや、あー…そうだよなぁ。分かってはいたけど、やっぱそうだよな」

得物を構えたまま呟かれた声は、それでも苦笑に近くて私は安堵してしまう。

「久し振り、だな。名前、お前ほんと変わらないな」
「その言葉、そっくり返すよ」

変わらない。ぶれない。臆病だと自身を卑下するけれど、しなやかな強さは変わらない。きっと今の私の面を彩るのも苦笑なのだろうと思いながら、剣先を彼に合わせたまま窺うのは隙だ。

「っ……名前殿、」

背後で李順殿の息を呑むような声がして、だけど振り向かないまま「手は出さないでください」正面を、彼を見据えたまま言い放つ。無言は了承。少しだけ申し訳ないなと思いながら、再度地を蹴る。
打ち合う。何度も、何度も。もう幾度も手合わせをしてきたから、お互い手の内は分かりきっている。分かりきっていて、それでも直止まらない。あんな重い攻撃を受ける訳にはいかないから、弾き、力を流し、その分私より劣る動きの遅さの合間を縫うように切り込むけれど軽い攻撃は頑丈な鎧に阻まれる。
仲権。まるで、これではまるで私や君の家の庭で、城の一角で手合わせをしていた時のようじゃないか。私たちは殺し合いをしなければいけないというのに。こんなままごと。
仲権。別に私は怒っても恨んでもいない。君の選択肢を否定はしない。君が決めたのなら、私だってそれでいいと思うから。だけど、君がなんの相談も別れの挨拶もなしに、私が城を空けている間に勝手に蜀漢へと亡命したことに対しては、何故と悲嘆に暮れたことを君は想像しただろうか。何故、なにも言ってくれなかったのだと、憤りは、けれど私の為でもあったことは直ぐに気付いた。血の繋がりはなくとも君と私はとても近かったから。要らぬ疑いも、本当になにも知らなければ、知らないと言うことは容易いから。
同時に動き、繰り出された切っ先は私の脇腹を掠め、彼の兜を弾き飛ばした。続けざまの鋭い突きを身をかわして避け、もう幾度目かも分からない距離をとる。息があがっている。肺が、心臓が、うるさい。だけどそれは彼も同様で。なにが足りないかな、と思う。覚悟は、してきたはずだったのに。迷いは絶ったはずだったのに。そのどれもが、はずなだけだったということなのか。
だけど、この刃も手も身も血に染まっている。拭いきれない死臭にまみれている。それが武人の道を歩んだ業で、そこでは本当にもう、今更だ。今更、彼を斬れないでどうするのだろう。

「……夏侯覇、」
「ん…?どーした、もうへばったのか?」

どこまでも明るさの損なわれない声に、知らず笑ってしまう。その奥に、どれだけのものが今渦巻いているのかなんて、私には分からないまま。君も、一緒なのだろうかと願ってしまうのは傲慢だろうか。

「恨みっこ、なしだよ」

私の言葉に彼は静かに瞠目して、それから。

「おいおいおい、なに今更なこと言ってんだよ」

兜がなくなった途端に幼く見える相貌も露に破顔して言うから、どこかその笑顔が泣きそうに見えたのを私は気のせいにした。
代わりに、本当だね、呟いて沓の下に感じる固い地面を踏みしめる。狙うのは、馘首。読まれていると思った通りに防いでくるけれど、もう少ない余力を振り絞るように斬撃の速度を上げれば、次第に追いつかなくなって彼の頬に一筋の朱が走る。攻撃を距離をとっては避けその懐に踏み込む繰り返しのなかで、後少し、その手応えを感じかけた刹那。彼だけに集中していたはずの視界の片隅で、李順殿の背後から斬りかかろうとする蜀兵の姿が見えた。別の兵と応戦をしている所為で気付いていない。サッと、血の気が引く。流れに身を任せようとしていた、熱を帯びた思考が急激に冴え冴えとする。

「危ない…っ!」

刃が、それる。私の急な大声に虚を衝かれた表情の仲権を捉えて、軌道を変えた足が駆けようとして、できなかった。

「っ……あ゛、」

重く鋭い衝撃。思わず見れば、胸元に白銀が生えていた。その切っ先から、赤い雫がぽたりと地に落ちる。深く深く、皮膚を肉を臓器を食い破ったそれは一瞬の間に灼熱の痛みを残して引き抜かれた。

「ぁ……か、はっ…、」

全身の感覚が刹那に途切れたまま、視界が反転する。膝から崩れ落ちたのだとどこか冷静な脳で理解しても、受け身をとることすらできずに倒れた衝撃で息が詰まった。

「名前殿…!!」

焦りと悲痛にまみれた空気を切り裂くような声に、霞んで歪む視界に映る李順殿はちょうど背後の敵を切り伏せたところで、無事だったことだけを思う。それも、直ぐに見えなくなった。暗い、暗い影に蔽われたからだ。

「夏侯覇殿…!?」

あたたかな影に、蔽われた、からだ。
小柄な影の隙間から向けられた槍の、赤く濡れた切っ先の向こうを見る。凛々しい佇まいに、精悍な顔立ち。蜀将の姜維だと直ぐに分かった。ただ、その常は冷静であろう面は驚愕に染まっていた。

「待ってくれ!姜維」
「そこを退いてください夏侯覇殿、貴方だって分かっているはずだ」
「ああ、分かってるぜ。分かってる……だけど、無理だ。こいつに関しちゃあ、無理なんだよ」

自虐じみた声音は、どこか震えているように聞こえて。私からはその後ろ姿しか見えなかったけど、煌く鎧も微かに揺れていて。

「頼むから、殺さないでくれ…っ」

仲権。君が泣きながら請う価値が私の命にはあったのかと、場違いな程ぼんやりと思った。

「……おい!李順、なにぼさっとしてんだ!さっさとこいつ連れて離脱してくれ…!」
「夏侯覇殿…!なにを…っ、」
「悪い、姜維……お前はほんと俺みたいな奴を気にかけてくれてるってのに」

脂汗が滲む。呼吸が苦しい。胸が熱くて、熱くて、痛くて。李順殿が私の傍らに膝をついて、触れようとした手が、だけどきつく宙で握られる。李順殿のそんな顔、はじめてだ。見ている此方が痛々しい程、辛酸に満ちた表情。

「…………無駄です。そこを退いてください、彼女がもう助からないのは貴方だって、」
「分かってる!!分かってんだよ……畜生っ、」

分かっていた。この場にいる誰もがきっと、そうして、私自身も。指先から感覚が消えてゆくようで、ああ、死ぬんだなって、そう。

「…………いい、よ…」
「名前…っ」
「っ、く……ぁ…わ、たし…だっ、て……分か…って、る…か、ら…」

影が振り向く。青く澄みきった天を背景に、彼の色素の薄い蜜色の髪が陽光に明るく煌くのを綺麗だと思う。だから。だから、そんな顔で、泣かないで。
後悔、しているのだろうか。私は。彼が一人思い詰めていたのを察せられなかったことを、なりふり構わず追いかけなかったことを。不必要に何人もの敵将と対峙した。彼に会いたかったけれど、会いたくなかったから。誰か私が彼に刃を向ける前に殺してくれと、そんな傲慢さを抱いたことを。何人かの城から逃げ出した兵に対する違和感、きっと援軍を呼ぶ為の伝令兵だと分かっていて見逃したことを。
そうして、彼が、私より背が高くなったら伝えるのだと人にこぼしていたのを偶々聞いてしまって、おかしくて、じゃあ待ってみようかと思ったけどもういい年なのだから、あんまり遅かったら私から伝えてしまおうとこっそり笑ったあのあたたかさを噛み締めるんじゃなくて、もっと、もっと早く、伝えていればと思ったことを。
だけど、それも、もういい。私はあれで幸せだった。君と過ごした一瞬一瞬が、幸せだったから。あれで良かったんだ。そう、すんなり思えたのは、これが最期だからだろうか。それだけは、分からなくて。
ただ、ひとつだけ、

「ちゅう、けん……」
「っ……なんだよ、お前今更そう呼ぶのかよ」

ずるいぜ。そう澄明な雫とともに頬に降ってきて、ごめんねと思う。それが私の覚悟だったから。

「ね…ちゅうけん……お、ぼえて…る…?」
「喋るなってお前はほんとにもう……くっそ、止まらねえなあ……なんだよ、ちゃんと聞いてるぜ」

喋るなと言いながら続きを促す彼の矛盾につい笑ってしまったけど、振動に激痛が走り咽喉奥から込み上げた熱いものを堰と共に吐き出しただけだった。ああ、仲権や李順殿の顔が余計辛そうに歪んでしまう。それをさせているのが自分だと思うと、悲しかった。

「む、かし……とお、のり…した、と…き………の……、」
「ああ、」
「おお…き……な…き………」

あの樹のことを。湯水の如く溢れ出る言葉達がふっと途切れた瞬間の、あのやわらかな沈黙を。きらきらと綺麗な木漏れ日をただ映して、どこも触れ合っていないのに隣に確かにあるぬくもりを感じていたあの一瞬を。

「お……ぼえて、る…?」

君は、仲権は、

「ああ……覚えてるぜ。すっげえでかくて、葉の隙間からの木漏れ日が綺麗だったよな」

覚えていて、くれたのか。
ああ、と思う。万感の思いで、ただそれだけを。薄れゆく意識のなか幸せでそっと目蓋を閉じたはずなのに、もう遠くなってしまった私の名を呼ぶ声に、はじめて涙がこぼれた。


彼等の愛しんだ実のならない樹




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