なまぬるい風の吹く夜だった。冬の残り香がうつろう花冷えの季節だというのにそれは熱した湯気のように重く肌に纏わりつくようでいて、衣と素肌の合間をするりと抜けてゆく。庭に咲く、もう幾許かで満開に垂んとする金雀枝の花房を微かに揺らしはすれど、朧月に澄明でくきやかな輝きをもたらすまでには至らない。庭に面した室に唯一設けられた窓の傍らで、枠にもたれるように坐る影が在った。風が通っているにも関わらず、濁った滓が沈殿しているかのように室内の空気は澱んでいたが、その影は底に深々と泥の眠る沼に咲く水蓮の清廉とした白さを湛えている。それは陽の存在しない常闇で生じた退廃的なものであり、晦冥を出ることを許されて尚庭に面した窓のある室は未だ鎖で枷とを繋いでいた。雪白の肌を風が撫でるのを忌憚する様子もなく、窓外を向く横顔へ戯れに絹糸の髪がかかるのを細い指先が除けようとする前に、異なる無骨な指が音もなく頬を撫でるように耳へかける。突然の接触にもかんばせは揺らがないまま、その手が次いで後ろから身にまわされるのをただ甘受した。はねた毛先が首筋に触れてくすぐったいのだろう、衣擦れの音と共に鈴を転がした声が風に溶ける。そうすれば耳元でも嬉しそうな笑声がそっと吐息に混ざり耳殻を掠め、宵闇に魑魅魍魎の囁きのように響く。そして静かに息を吸い込む気配に、形の良い唇が次に紡ぐ名に耳を澄ませた。




優しく物静かで誠実な人柄に、軍師でありながらも撃剣を扱うその体躯は長い衣で隠されているとはいえその下を想像するのは容易く、整った顔立ちも相俟って素敵だけれど、というのが女官の間で耳にする彼の評価でした。つらつらと容赦なくあげられる賛辞の後に、けれど、や、でも、が付いてくるのも何時ものことでした。そうして、その後に続く言葉も大よそ似通ったものでした。根暗、気弱、後ろ向きという言葉では足りないくらいの最早自虐じみた自信のなさは如何かと云うものでした。
人事のようですが、わたしも概ね似たようなことは抱いていて、それは稀にホウ統様の室で顔を合わせる時から、彼―――徐元直様付きの女官になってからいっそう増すものでした。
わたしは元々ホウ統様付きの女官でした。徐庶様は訪れる度にわたしの淹れたお茶を美味しいと称賛してくださり、その都度わたしは素直にお礼を述べながらも、内心ではなにも特別な淹れ方はしていないのですがと思っていました。何時も飲んでいらっしゃるホウ統様も美味しいとは仰ってくださいますが、それは社交辞令のようなものだとわたしも理解しています。ですが、徐庶様は本当に美味しそうに嬉しそうに、えっと…と口ごもりながらですが笑顔と共に仰ってくださいました。だからでしょうか、何時の間にかわたしはホウ統様ではなく徐庶様付きの女官になっていました。話が出た時に、特に断る理由もなく曖昧な返事をしていたらとんとん拍子で知らぬ間に事は進み、本当に何時の間にかの出来事でした。わたしも同じ城の中ですし、場所と人が少々変わってもやる事はなにも変わらないのでただ勤めを果たすだけでした。ホウ統様の下を離れる前に一度、どうしてわたしなのでしょうかと訊ねたら、ホウ統様は、お前さんの淹れたお茶が美味しいからと言っていたねえ、と嘆息と共に仰いました。それは呆れと苦々しさに満ちたものでした。その理由に微かに首を捻りつつも、直ぐにそんなことは忘れ去られました。
傍らで日々を過ごすようになって分かりましたが、平素から徐庶様は困ったような顔をされる方でした。なにをそんなに気に病むことがあるのかと不思議に思う程です。わたしは自分でも能天気な方だと自覚していたので、徐庶様のその様子は本当に不思議でした。ですが、世の中色んな人間がいるのです。彼のような方がいても、それはなにもおかしなことではないのでしょう。けれど、彼自身も気にはしているらしくある時不意に「君も、呆れるだろう?こんな自分を卑下するしか能のない男なんて…」と、何時も以上に暗い声音で言われた言葉に、遽然瞬きを繰り返してしまいましたが特に驚きはありませんでした。なにせ、俺なんか…が口癖なのが徐庶様ですから。わたしはただ「呆れたりとか、そう云うのはないです……その、ただ、不思議なだけで。あと、他者とお比べになってそう仰っているのでしたら、徐庶様は徐庶様ですし……えっと、一介の女官でしかないわたしにも良くして下さいますし、わたし自身は徐庶様のこととても素敵な方だと思っているので……それは否定しないでいただけたらありがたいです」そう素直に言うだけでした。嘘を吐くと云う高等な技術なんてわたしにはありませんでしたし、きっと吐いていたとしても聡明な軍師である徐庶様は見抜いていたでしょう。そうして、わたしの拙い言葉を聞いた後に彼の浮かべた、春の陽だまりに咲く花のように落ち着いたやわらかな笑みに、正解だったのだとほっとしました。偽善者や八方美人と揶揄されることもありますが、わたしは基本的に誰も傷付けずにいたいからです。きっと、それは好意や優しさとは異なるものだったのです。それくらいは、自分でも理解していました。


それからも徐庶様の自虐は特に改善されることはありませんでしたが、わたしは気にはなりませんでした。それは、わたしが気にすることではなかったからです。ただ、否定さえしなければ良かったのです。徐庶様がなにを仰ってもどう御自分を貶そうとも、わたしは拒絶も否定もしませんでした。それは偏にわたし自身が他者から否定されることを恐れるが為の、自己防衛じみたものでしかありませんでした。徐庶様は変わらずわたしの淹れたお茶を美味しいと微笑んでくれましたし、わたしは自分の仕事をするだけでした。それに徐庶様だって、何時も困っている訳ではないのです。嬉しい時には笑い、滅多にありませんが不快な時には怒りを露わにすることだってあります。それに、人知れず涙を流すことだってあるのです。これは一度だけ見たことがあります。
茶器を手に室を訪れたわたしが戸を叩いても返事はなく、留守なのでしょうかと思いながら入った先に人影を見つけ咄嗟に申し訳ありませんと謝罪を口にしました。ですが徐庶様は「……嗚呼、いやすまない……謝らないでくれ、返事をしなかった俺が悪いんだ」その言葉も声音も存分に自嘲を孕んだものでしたが、わたしはもう慣れていたので特別気にはしませんでした。ただ、窓から差し込む夕焼けの韓紅だけが光源の室内で、それに背を向ける徐庶様は影となっていてその表情は窺えませんでした。わたしは茶器を置いてから、柱にかけてある燭に燈を灯そうとしましたがその手にそっと影が重なります。赤赤とした過ぎたる彩度の中で、それが彼の手だと少し遅れて気付いたわたしは無粋にもそのまま顔を上げました。そうして殊の外近い距離で見上げた徐庶様の薄暗いおもては、その双眸の縁が別の朱で彩られていました。燃える影の中で未だちらちらと炎を舐める舌先の潤いを帯びていました。鈍磨なわたしはそこまででようやく徐庶様が泣いていたのだと気付きました。あまりにも遅いそれに、咄嗟に今直ぐ部屋を出なければいけないと思いました。思いましたが、出来ませんでした。踵を返そうと離れたのも一瞬、再度触れたからです。他者との接触に驚き思考だけでなく身体も静止しました。握られた手に視線を落としてから、徐庶様の顔を見ようとしてやめました。そこまで野暮ではありませんでした。ただこういう場合の対処法を知らなかったので、結局わたしがしたことといえばそっと手を握り返すことだけでした。ぴくりと戦慄きが伝わってきましたが、離されることはありませんでした。ただ突っ立ったままというのもどうかと思ったので、とりあえず二人並んで坐りました。刻々と燃え盛る夕映えは次第にその鮮やかさを潜め、薄闇へと染まり続ける室内には沈黙と無言だけが深海の微々たる酸素のようでした。時折横から啜り泣きが聞こえましたが、わたしは今日の夕餉はなにかを考えている内に襲い来た睡魔との闘いに没頭していた所為で気付いた時には暗闇の中「すまない」と云う声にようよう覚醒する有様でした。平常と変わりない様子へと戻った徐庶様は謝罪と、何故か礼を繰り返しました。なにか言葉を交わし首肯した気もしましたが、離れた手に室を後にしたわたしは空腹感と眠気が勝ったおかげでそのやりとりは覚えていませんでした。翌日の朝、ぼんやりと夢のような記憶を思い出して、嗚呼やはりと抱いただけでした。ただの人間なのです、徐庶様は。
それ以降というものの、徐庶様は以前よりも笑顔を浮かべていることが多いように思いました。自虐の陰に濃くこびりついたものも、どこか少しだけ薄らいでいるようでした。それはきっと良いことだとわたしは思いました。きっと、それだけなら良いことだったのでしょうと“今”のわたしも思います。
ある時久方振りにお会いしたホウ統様に「どうだい、元直のところは」そう訊かれたので「はい、とても良くしてくださって。徐庶様は本当に優しくて良い御方ですね」答えればホウ統様はどこか物憂げな色を、雲に陽が翳る速度で微笑ましいものを見る眼差しに変えました。そうして「そうかい、それなら良いんだ。お前さんと元直の相性はどうかと思っていたんだが……あっしの杞憂だったようだねえ」一人納得した様子で呟かれた言葉も、その時にはなにも理解できませんでしたが“今”ならなにを仰っていたのかが分かります。わたしと徐庶様の相性は最悪だったのです。
ですが、当時のわたしはそんなことにも気付かないまま日々を過ごしていました。その頃徐庶様は城には居りませんでした。遠征に出ていたからです。そうして、そんな折でした。わたしの元に一通の文が届いたのは。それは両親からの便りであり、中身は気遣う言葉や最近はどうかという窺いばかりが書き連ねてありましたがその中から要点だけを掻い摘むと、ようは縁談の話があるから帰って来いというものでした。実家は商家でしたが、わたしは兄と二人の姉、下に妹のいる五人兄妹の四番目という半端な位置にいたので昔から好きにさせて貰えました。だから実家を継いだ兄に、嫁いでいった姉とも異なりこうして城仕えをしていました。ですが、その縁談の相手は別の大きな商家であり、話が纏まればより家が繁栄することを指していました。わたしは文を読んだ後も特に悩むこともありませんでした。理ばかりだとは分かっていましたし、恋慕うような相手もいません。それにそんな考えは毛頭ありませんでしたが両親に逆らうのも面倒だったからです。ただ、徐庶様が帰って来る前に城を発つこととなったのだけが心残りでした。徐庶様はあれだけ良くして下さったのです。せめて一言お礼を申し上げたかったのですが、それも叶わないままわたしは帰郷しました。
そして、わたしは嫁ぎました。旦那様はやや身体が弱く頼りなさがあるものの、真面目な人柄だったのでこの方となら良い家庭が築けそうだと安堵しました。恋や愛といったものは特に双方の間にはありませんでしたが、なに不自由なく過ごす落ち着いた平穏と少しずつ築かれるであろう信頼が芽吹くのをお互い感じていたように思いました。ふっとした時にたゆたう穏やかであたたかなものは心地良いものでした。目紛るしくも新しい生活の中では、城仕えしていた日々は容易に夢のような薄ぼんやりとした記憶へと相成りました。幸せ、と云えばきっとそうだったのでしょう。ただそれは一月も満たない内に壊れてしまっただけで。


その日は旦那様も休みをとり、家で束の間の安寧を楽しんでいらっしゃいました。多忙な身でしたが、何時もわたしへの気遣いを忘れない心優しい方です。わたしは腕によりをかけて食事を作ろうと、影の長くなる夕刻に買物へと出ました。ですが途中で財布を忘れたことに気付き慌てて引き返しました。意気込みだけでこれでは粗忽者にも程があります。きっと旦那様には笑われてしまうのでしょう。思いほんのりと笑みを浮かべ戻った館の中でわたしを出迎えたのは赤でした。どろりと床を染め上げ続ける赤を垂れ流す、笑顔だけでなくその表情をもう二度と変えることのない事切れた骸でした。
いつか見たあの夕焼けのように爛然と朱に燃えている室内でも、その赤は殊更鮮烈な劫火でした。ただ止めてしまっていた足のまま、近寄ることすら出来ません。わたしの視線は死体に向けられていたのではありません。韓紅を背になによりも赤黒い影を、影の中でも光輝を失わない白刃を、ただ瞠目したまなこで鮮鮮とうつしていました。そこから滴り続ける鮮血は霜の囁きすら殺す場違いな程静謐な空間では、ぽたりぽたりと血溜りを造る音すら聞こえるようでした。
常であれば背に垂れた頭巾で蔽われた相貌が、俯いていたようでしたがわたしの存在を察したのでしょう。ゆるやかな動作で此方を向き、視線が絡んだ時には虚の瞳が彩りを取り戻すのをまざまざと見てしまいました。とてもとても綺麗で純粋な笑顔になるのを見てしまいました。「やあ、久し振りだね」涼風の如き声音になにも返すことが出来ません。「ええっと、君に見せるつもりはなかったんだが……財布を忘れたんだろう?そういう何処か抜けているところは変わらないな」自分で言ってから、嗚呼でも一月そこらではそう簡単に変わらないかと笑っています。楽しそうに、嬉しそうに、嗤っています。「……徐庶様、」知らず口唇が紡いだ瞬間、噎せ返るような醜悪な匂いに息を詰めます。ですが既に遅く、それは身の内で臓腑を腐らせてゆきます。ただ立っているだけだというのに息も絶え絶えに「どう、して」紡ぐわたしに彼は、徐庶様は首を傾げます。長身の男性には似付かわしくない動作にも関わらず愛らしいものでしたが、一転「何故、とそれを君が言うのかい」口調はどこまでも重苦しく哀しげなものへと化しました。その刹那にわたしは徐庶様が泣いてしまわれるのではと思いました。ですが此方へ歩んでくるそのおもてに在るのは変わらない笑顔です。取り繕うような上澄みの紛い物ではありません。「君が残酷なのは知っていたけれど、ここまでとは思っていなかったよ。ああ、いや、君はなにも悪くないんだ。ゆっくり縮めようとした俺が臆病で愚かだっただけなんだ。幾ら結び目を増やしていっても見えなければ意味がなかったのに、滑稽にも下らない幻想に縋ろうとした、俺が」彼は、徐庶様はなにを仰っているのでしょう。淀みなく吐き出される言葉はまるで汪然とした涙の如く溢れんばかりの悲調だというのに、笑顔だけは残酷なまでに美しく慈しみに満ちています。「でも、忘れるなんて本当に酷いな。だけど、もう大丈夫。君が嘘吐きじゃないことくらい俺は知っているから、忘れているだけなら思い出すまで待つだけだよ。それに、俺も絶対に間違えたりしないから、もう、二度と」血と死の匂いが眼前に迫っても、酷く純然たる微笑みに魅せられ捕らわれたわたしは次第に四肢の感覚が亡くなるようでした。


途切れた記憶に、次に気付いた時にはわたしは暗闇の中だったので、未だ夢の中なのかと思いました。身動きをしようにもできません。じゃらりと何か重く硬いものが擦れる音がしました。腕は後ろ手に縛られているようでした。足は動かすことが出来ましたが爪先で触れた足首の辺りには冷たい金属の感触と重みがありました。見えなくても枷なのだと理解しました。横たわった身に触れるのは布です。わたしには何故自分がまるでめしうどのような扱いを受けているのか分かりませんでしたが、暗闇を真紅に染め上げる記憶を辿れば自ずと答えは出てくるようでしたし、戸の開く音と微かな光源を背に立つ徐庶様を見れば全ては合致しました。彼の持つ小さな燈のおかげで、わたしはここが窓のない室だと分かりました。そして、唯一在る寝台に自分の身が寝かせられていることも。わたしは何故という言葉を吐き出そうとして、やめました。それはそれは幸福そうな笑顔を湛えた徐庶様を睛にしてしまえば無駄なことだと悟ったからです。寝台に腰掛けた彼はわたしの上体を起こすのと同時に抱き締めました。何度も何度もわたしの名を呼びながら、幼子が執着した玩具を愛でるようにぎゅうぎゅうと肉の檻に閉じ込めました。怖気と薄ら寒い醜穢さに身の毛が弥立ちましたが、拒絶の言葉の代わりにこんなことをして大丈夫なのかという場違いな疑問が出ました。おかしなことでしたが、徐庶様はそんなことを気にする筈もなく「嗚呼、俺の身を案じてくれるなんて……嬉しいよ。でも、言っただろう?大丈夫なんだ。君とよく似た背格好の死体と共に館ごと燃やして来たからね、君が眠っている間に恙無く葬儀も終わったよ。流石に君の名が刻まれた墓は壊してしまいたい衝動に駆られたけど、はは、滑稽すぎて止めたんだ」惨澹たる内容を嬉々として楽しげに語りかけてきました。彼もまたおかしかったからです。わたしが死人だとすれば徐庶様は死人を手に入れて喜ぶ狂人だったからです。


陰惨と鬱屈した日々でした。徐庶様は甲斐甲斐しくわたしの世話を焼きました。わたしは大人しく世話を焼かれました。流石に最初は食欲がないと嘯いて抵抗もしましたが、それを口移しで、尚且つ彼の口内で存分に咀嚼され最早個々の原型を留めない練り物と化した物体を嚥下させられてしまえばそんな気も萎えました。厠以外で室の外に出ることはなく、一日も定かでない常闇の中で過ごす内にわたしは次第に睡眠時間が増えているように思えました。睛を開いても閉じてもそこに在るのは気の狂いそうな無音の黒だけです。徐庶様が訪れた時だけ微かな燈があり、それにどうしようもなく安堵します。彼が立ち去らずに寝台でわたしを抱き締めて眠る時は、恐らく夜なのだろうことが分かりましたがやはり一時だけではなんの意味も為しません。徐庶様は眠る前に何時だって必ずわたしの名を繰り返し呼びました。緩慢に腐り逝く脳髄を啜るように項へ口付け、無防備で露な耳殻をそっとその形の良い唇でなぞりながら「嗚呼、嗚呼、好きだよ。好きなんだ、大好きだ、君だけなんだ、君だけが居ればそれで良いんだ。それだけで良かったのに、君が居なくなって俺は狂うかと思ったよ、あの時の絶望なんて生易しい言葉じゃ表せきれないだけどそんなものに胸が張り裂け心臓が血反吐を吐き骨柄ごと肉叢を切り刻まれる想いをしたことなんて君に分かるかい?嗚呼、いやきっと分からないし分かる筈もないんだ、知っているよ、だからこうなったんだ。はは、ははは、すまない。君を責めたい訳じゃないのに、君はなにも悪くないのに、すまない、好きだよ、本当に好きなだけなんだ、嗚呼、愛している。優しくて優しくて残酷な、俺の、俺だけの、」恍然と妄執と狂気を呪詛のように睦言のように囁き、どこまでも甘く優しくわたしの頭蓋の中身をぐちゃぐちゃに攪拌してべったりと青臭く濁った血を染み渡らせていきました。
わたしは不思議でした。こんな目に遭ってまで何故自分が彼を拒絶し否定しないのかが。それ以前に何故徐庶様がこんなにもわたしに執着するのかが。それは確かにわたしは徐庶様付きの女官でしたから、距離が近しいのは事実でした。ですがそこに在ったのは飽く迄も上下の関係であり、わたしはそれこそただの女官でしかないのです。だからこそ仕える身としては十二分に良い方でしたが、彼に恋慕の情を抱いたことなどありませんでした。そこでわたしはようやく悲しんでいないことを思いました。壊されてしまったあたたかで穏やかなものを、その傍らにいつだって居た心優しい人の死を。悼んでいない訳ではありません、わたしの所為だとも思います。ですが、それらはどこか薄い膜の向こう側のように曖昧で現実味がないのです。わたしは自分がこんなにも薄情な人間だとは思ってもいませんでしたが、現状を考えれば間違っていないのかもしれません。わたしは変わらず徐庶様に恋情を抱くことはありませんでしたが、同時に怒りや責苛む憎しみといったものもなかったからです。ただ、不思議でした。そして、ほんの少しだけ憐れなように思いました。徐庶様がわたしに抱いているものが、好きだと愛していると云う気の触れた狂言だとしても、わたしなどを欲さなければこうはならなかったからです。そうして、わたしはきっと傷付けてしまえば良かったのです。彼の胸を裂き心の臓を踏み潰して詰り骨身ごと四肢を砕いて頸を切り落としその頭顱を打棄ててしまえば良かったのです。或いは自らの命を絶ってしまえば良かったのでしょう。その頃にはもう腕の拘束はありませんでしたし、最初から猿轡はなかったのですから死のうと思えば舌を噛めば良かったのです。ですがその選択肢をぼんやりと手にして尚自害することがなかったのは死にたくなかったからでしょうか生きたかったからでしょうか痛いのが嫌だったからでしょうか。分かりません。分からないままわたしはある時、縋り付く腕の先にある頭をそっと撫でていました。今まで拒絶も否定もしませんでしたが、わたしは受け入れることもしていませんでした。けれど、ふっと気の迷いのように、いえ、ようにではなくだったのでしょう、初めて自ら彼に触れていました。徐庶様は猫の翻る速度でわたしの腹に埋めていた顔を上げ、驚嘆に満ち満ちた双眸でわたしをうつしましたが瞬きをするよりもはやくゆるやかに破顔されました。それは、怖い程美しい純粋な笑みではありませんでした。春の陽だまりに咲く花のように落ち着いたやわらかな笑みでした。

「名前」

わたしはそれを睛にした瞬間、嗚呼、と思いました。




窓から差し込む赤赤とした韓紅の色だけが光源の室内も、刻々と燃え盛る夕映えは次第にその鮮やかさを潜め、やがて宵の気配も濃厚な暗闇と化していた。長さの異なる腕の先で繋がれた手もまた影となり、静寂の室内には謝罪と礼を述べる声ばかりが繰り返し繰り返し生み出されては晦冥に霧散し消えてゆく。幾許かの後に遮る声がしようよう止まるが水切りの悪い花卉のように、すまないと今一度と漏れ出る。
嗚呼、折角持って来てくれたのに冷めてしまったね。
え……あ、いえいえ気にしないでください。徐庶様ってばなにかと思ったら、そんなことまで謝らなくていいんですよ。
あ、ああ…そうだね、すまない……あ、
ふふ、構いませんって。お茶淹れなおしますね。
いや、いいんだ。暗くなってしまったし今日はもういいよ。…………ただ、その、
どうしました?
これからもずっとこうして居てくれない、かな…?
あ、はい、お茶汲みくらいしか能がない女官で良ければ。
そんなっ……君がいいんだ。嗚呼、嬉しいよ。ありがとう、名前。




唇に愛を浮かべて耽る薄汚れた遊戯




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