ぐるりと左腕をまわす。鎧と手甲が触れ合ってかすかな音が立って、でもそれだけだったのでほっと安堵しながら回廊を歩んでいた。
つい先日まであった、どこか角の尖った雰囲気が緩和されている城内にも知らず人心地つきながら今日はこの後どうしようかと考える。思ったよりも早く済んだおかげと、数日鍛錬は控えるようにと釘を刺されてしまったのでちょっと暇になってしまった。溜まってた書簡も昨日のうちに済ませてしまい、そう急ぐ用事もないから余計で。どうしようかな。なにしようかな。誰かのお手伝いとか、自分の鍛錬はできなくても兵の指導はできるよねとか、前に女官の人に教えてもらった甘味を買いに街に出るのもいいかもしれない。思考していると、甘いものがなんだか食べたくなってしまった。
ここ数日は、そんな甘いものとか食べていなかったせいだろうか。いやでも元々甘味の類は大好きだけれど。それでも、とりあえず味より空腹を満たすこと、食べられる時に食べる、そんな状態だったから。よし、甘いものだ。そう完全に甘味に傾いた頃、ふと前方から歩んでくる人影があって、その人はわたしと睛が合った瞬間、鋭利な双眸をすこしだけ見開いてから、直ぐにやにやとおかしそうに細めた。
どうしたんだろう。そんな笑われるほど、おかしな格好してるかな。そう、つい自分の姿を確認して首を傾げてしまう。

「どうしたんですか、賈ク殿。なんだか、とても楽しそうですけど」
「いやあ、名前殿。そりゃあ失礼だとは思っているが、今あんたを見て笑うなって方が無理な話でね」

あ、やっぱりわたしを見て笑っていたんだ。でも、そんな笑われるような要素はないはずなんだけど。なんだろう。自分でもそんなに頭よくないと思っているので、軍師の人の考えはいつもさっぱりだ。というか、失礼って自分で分かって言っている賈ク殿に、わたしはここで怒ってもいいのだと今更気付いた。まあ、気付いただけで怒る理由にはならないから疑問の方が結局勝ったんだけど。

「……そんな真っ直ぐ馬鹿正直に『分からない』って顔に書かないでくれるかね、いつものことだが嫌味な言い回しをする俺が滑稽に思える」
「え、あ、はあ……ごめんなさい」

一転心底呆れたように溜息を吐かれてしまったので、とりあえず謝ると余計嫌そうな顔をされてしまった。ううん、やっぱり軍師の人はよく分からない。

「で、なんなんですか。わたしでも一応、そんな人の顔見て笑われると気になるんですが」
「そうかい、あんたでも気にすることを喜ぶべきか微妙なとこだが……と言うか、自分で思いつかないあたりが本当にお頭を心配してしまうんだが」
「なんだか、そろそろさすがに貶されているのが分かってきたので……怒ってもいいですか?」
「おっと、それは重畳。だが、名前殿の馬鹿力に付き合う程こちとら体力がないんでね」

遠慮させてもらうとしよう。飄々と悪びれもなく言ってのける賈ク殿に、やっぱり怒る気がわかない。まあ、いつものことなんだけど。ただ賈ク殿との会話はいつも煙に巻かれるというか、狐狸にでも騙されている気分に陥るというか、なんだか噛み合っていないようなというか、とりあえずちょっと疲れるだけだ。以前そうこぼしたら「俺もだ」と苦虫を噛み潰したような顔で言われた。

「とはいえ、別に俺でなくとも笑う奴はいると思うがね」
「だから、なんでですか」
「…………あんた、本当に分かってないんだな。全く、郭嘉殿が可哀想に思えるねえ。同情はしないが」
「郭嘉殿…?」

賈ク殿の言葉に一瞬で脳裏にさらさら美しい金糸の髪がなびく。

「こないだの戦さ。俺は残念なことに実際睛にすることはできなかったんだが、名前殿、あんた郭嘉殿を横抱きしたんだろう?」
「あ、」

途中で堪え切れなかった風にふきだしながら言う賈ク殿に、思い出す。思い出した途端顔が熱くなる。

「なっ、なんでそれ賈ク殿が知って…っ」
「あははあ、否定しないということは事実か。これは面白い。しかし名前殿も大胆なことで」
「いやっ、違っ…あれは、その、」
「本当に、さすがの私も吃驚してしまったよ」

あわあわどもっていると、なんだか今さらりと賈ク殿じゃない声が後ろから。というか、このやわらかく静かな甘い声は……と思い、考える前に振り向いてしまって後悔した。わたしの直ぐ後ろにいたのは、まるで月の光を紡いだみたいな綺麗な髪に、涼しげな目元に白い肌のなか微笑を浮かべている郭嘉殿だった。
ちょうど話題にしていた人物の登場ということだけじゃなくて、わたしは大いに驚いてつい後ずさってしまう。いつの間に、というかいつからというか、気付かなかっただなんて武将として失格だとか、瞬時にぐるぐる駆け回ったそれよりも困ってしまう。

「かっ、郭嘉殿…っ」
「おや、そんなに驚いてもらえるとは、ね……気配を消したつもりはなかったのだけれど、それだけ賈ク殿とのお喋りが楽しかったということかな」

楽しそうに微笑む郭嘉殿は、今日も綺麗だった。男の人にこの形容詞はどうかと思うけれど、どうしても綺麗とかうつくしいとか思ってしまうのはきっとわたしだけじゃないはずだ。

「んー、俺としては一体いつ話しかけるのかと思っていたんだが」
「私としてはいつ名前殿が気付いてくれるかと待っていたのだけれど、あまりに二人が仲睦まじそうで……つい、ね」

ふふ、と笑みを深めながら言う郭嘉殿に、賈ク殿は「あははあ、よしてくれ。あんたが言うと冗談にもならない」どこか辟易した様子で答える。間に挟まれたわたしは、どうしようかこれはきっと軍師二人水入らずお邪魔虫は立ち去ってもいいかな、いいよねと、きょろきょろ二人を見比べていると「さて、名前殿」やんわりとした声で呼ばれて咄嗟に勢いよく返事をしてしまう。

「これから一緒にお茶でもどうだろう」
「え…?あ、いえ、そんな……、」
「おや、では夜の酒事の方がお好みかな?私としてはそちらの方が、あなたとの仲をより深められそうでいいのだけれど…」
「あっ、や…あの、お酒は、あんまり…っ」
「では、やはりお茶の誘いの方が良さそうだね。ちょうど、名前殿好みの甘味もあってね」

郭嘉殿の告げた甘味の名前に、それが先刻食べに行こうかなと思っていたお店のだったので偶然に驚き、ちょっと、いや、とっても心が揺らぐけど。けど、だけど……。そう内心葛藤していると、そっと郭嘉殿が上体を屈めてわたしと目線を合わせてくる。その近さと、至近距離の郭嘉殿の顔に逃げるよりも先に硬直してしまう。見惚れて、しまう。

「駄目、かな…?」

そして、そっと囁くような声で言われてしまえばわたしに残された道なんてひとつしかなかった。というか、もう、郭嘉殿相手じゃ最初からそれしかなかったような気がしてしまうのも、たぶん間違いじゃない。視界の隅で賈ク殿がにやにや面白がっていた。よし、今度鍛錬の相手を是非してもらおう。




そうして連れられて来た郭嘉殿の部屋で、卓上にはお茶と真ん中に置かれた可愛らしい淡い紅の花を模ったお饅頭。それ越しに向かいの郭嘉殿を見ると、きっと他の男の人だと合わないんだろうけど、郭嘉殿はそんなお饅頭とも違和感はないので凄い。ずっと、薄く微笑を浮かべたままの相貌は本当に整いすぎていて、睛のやり場に困る。そして、わたしはお茶を飲むかお饅頭をちびちび食べるかにしか口を使っていなかった。
つまり、郭嘉殿とわたしの間にあるのはお茶とお饅頭と、沈黙だ。
だけど、それもしかたないというかなんというか。おなじ軍師でも、賈ク殿と郭嘉殿は正反対だった。わたしの接せられる度合いが。賈ク殿とはあんな風に、なんだかんだよく分からないなりに気軽に応酬できるけど、郭嘉殿となると話は別だ。まず話しかけることさえ無理だった。賈ク殿と郭嘉殿とでは、わたしが抱いているものが違いすぎた。
それは、確かにわたしは許チョ殿や典韋殿には劣るとはいえ無駄な馬鹿力だけが取り柄で、策とかそういうのはさっぱりだから優秀すぎる軍師の二人を純粋に凄いなとは思うけど、郭嘉殿にはそこにまた色々付け加えられるのだ。
誰にでも柔和な物腰で、天才と謳われることもなにも鼻にかけないで、賈ク殿によく「お頭が足りない」と言われてしまうわたしにだって丁寧に接してくれて、なんかもう郭嘉殿は人として完璧すぎてわたしの憧れだった。なにより、女の人にとっても優しい紳士だし。そんな、夜天に透徹った輝きを放つ青月みたいに、遠目からずっと眺めていたいようなのが郭嘉殿なので、たまに話しかけられるとわたしは嬉しさとか恥ずかしさとかで楽進殿じゃないけど恐縮してしまって、うまく話せないのだ。
それでも、そんなわたしに郭嘉殿は気を害するわけでもなく優しいので、いつも申し訳なさと同時に郭嘉殿は本当に凄いという憧れが強まった。今だってそうだったけど、でも今だけはちょっと顔を合わせるのが気まずかった。

「名前殿」
「は、はいっ」
「おいしくない、かな?」
「え?あ、いえ、とってもおいしいです!」

質問に慌てて答えると、それは良かったと郭嘉殿の微笑みが深くなる。でも、おいしくないかなと訊かれてしまったということは、わたしが考え事と緊張ばかりしていたせいだろう。郭嘉殿に気を使わせてしまったことに、余計申し訳なくなる。

「ぁ、あの……郭嘉殿」
「なにかな?」
「先日は、その……すみませんでした」

つい視線をそらしたままぽつりと謝罪の言葉をこぼすと、ふふ、と郭嘉殿の笑う気配があった。

「私も今まで色々経験はしてきたけれど、女性に抱きかかえられたのは初めてだったよ」

だけど、楽しそうな声音で紡がれた言葉に、わたしは申し訳なさが一気に頂点まで上がるのが分かった。わたしも、初めてでした。とはさすがに言わないでおいた。
先日の戦で、わたしが援軍として駆けつけた時、戦況はだいぶ魏の勝利へと傾いているように思えた。だけど、とりあえず前線へと思っていると不意に入った伝令の、郭嘉殿が敵陣中で囲まれている、というものを聞いた瞬間わたしは一人馬を走らせていた。郭嘉殿を助けに行かなくちゃ。その一身で、敵を薙ぎ払いながら駆けた先、敵軍の中に見間違えることなんてできない月の色を見つけた時には、もうなにも考えずに突撃していた。
ただ郭嘉殿だけを見て、得物を振り回して周囲の邪魔な敵を一掃していると砂埃と血飛沫の中、睛が合った。だから、わたしは手を伸ばした。郭嘉殿も、それを掴んでくれた。
そして思い切り力を込めて引き上げた結果―――郭嘉殿を横抱き状態で馬に乗せてしまったのだ。

「あの、ほんと、ごめんなさい…」

その時のわたしはなにも考えていなくて、でも直ぐに軍勢を引き連れてやってきた夏侯惇殿がわたしと郭嘉殿を見つけた瞬間、その隻眼を瞠った後、とっても微妙な顔をしていたのは今思えば笑いを耐えていたのだろう。そうして、その時ようやくわたしは今の状況が、郭嘉殿をまるで女性扱いしているのだと気付いて、一気に血の気が引いた。心境としては、や、やっちゃったあああ!だった。そのまま郭嘉殿を見たら、さすがの郭嘉殿も苦笑していた。
しかも、この話のわたしの失態はこれだけじゃなくて。全ては郭嘉殿の策で、彼は自らを囮にしていたらしく、夏侯惇殿がそれを救援する役だったのだ。だというのに、なにも知らないわたしが先走ってしまったという、そんな残念な事実を後で聞かされた時にはもう、羞恥と申し訳なさで思わずその場で入るための穴を掘り出して止められたくらいだ。
平謝りするわたしに、だけど郭嘉殿は「どちらにしろ、名前殿が来た時点で既に策は功を奏していたからね、私の救援が早かったか遅かったかだけで問題はないよ」そう優しく言ってくれたけど、それはあくまで策のことだ。夏侯惇殿に「……名前、お前が馬鹿力だとは知っているが、ああも軽々抱えられるのは……男としての矜持も考えてやれ」そうお説教されてしまったので、猛反省した。一応、現在進行形で反省はしているけど。だけど、とちらり。郭嘉殿を見る。郭嘉殿は、ほんとに軍師だからか線も細いし他の人に比べると全然男っぽくなくて、綺麗でどこか儚げな姿は、なんかもう守ってあげなくちゃいけないという気分になるのだ。

「私としては謝罪以外の言葉がそろそろ聞きたいかな。それに、あの時の名前殿は私が女性だったらうっかり惚れてしまいそうなくらい素敵だったからね」

どこまでも涼しげなおもてと、やわらかな声音で郭嘉殿に言われ、ついすみませんと言いそうになったのを飲み込む。賈ク殿じゃないけど、郭嘉殿はいつも冗談か本当なのかがさっぱり分からない。

「でも、私も軍師とはいえ戦場に立つ身だからね。それなりに力はあるつもりなのだけれど」
「はあ…」

わたしの曖昧な返事にお茶を飲んでいた郭嘉殿が、おや、と声をあげる。

「信じていないようだね。まあ、分からなくもないけれど……そうだね、じゃあ名前殿ひとつ勝負をしようか」
「え?」

そっと、真ん中にあったお饅頭が隅に除けられる。そうしてから、郭嘉殿はゆるやかな動作で卓上に肘をついた。

「腕相撲、なんてどうだろう」

ついそんな言葉をあっさり口にした郭嘉殿と、差し出された白い手を交互に見てしまってからわたしは「えええ…!?」と大きな声を出してしまった。遅い反応に、でも郭嘉殿は相変わらず穏やかな水面の微笑みを浮かべてるだけだった。

「え、いや、郭嘉殿それは……ええと、わたし…」
「負ける気がしない、かな?」
「いえ……その、あの、ぽっきり折ってしまいそうで…怖い、です」

勝ち負け以前に浮かんだことを、正直に言えば郭嘉殿は珍しくすこしだけ相貌を崩してから、笑った。いつも緩く口元を彩る微笑みじゃない笑顔が珍しくて、見惚れてしまう。じゃなくて、と直ぐにかぶりを振る。

「わ、わたしにとっては切実で大問題なんです…!」

そんな郭嘉殿笑ってる場合じゃないですよ!との思いで言えば、郭嘉殿は「ああ、そうだね……でも、これでも私は男なんだ。一応、算段はあるつもりなのだけれど」相変わらず掴みどころがなく、やめるつもりもないみたいで。楽しそうに笑んだまま、わたしを見ているし差し出された手が下がる様子も微塵もない。そして、わたしがそんな真っ直ぐ見つめられる状態に耐えられるわけもなく、おずおずと手を差し出していた。
手と手が触れ合ったと思った時にはやんわりと握られていて、なんだか低そうな印象と異なるあたたかな体温とか意外と硬いてのひらの感触だとかを認識した瞬間、顔に熱が集中する。当たり前だけど、そうだけど、忘れてたわけではないけれど、郭嘉殿と手を繋いでいる現状を改めて認識してしまったからだ。
ゆったりとした青い袖から覗く、爪の先まで綺麗な手は男の人とは思えないくらいだったけど、でもわたしの手より大きいこととか、細いのに節や筋がごつごつとしていることとかがやっぱり男の人ということを示していて。どんなに綺麗でうつくしくてつい守ってあげなきゃと思うくらいでも、やっぱり郭嘉殿は男の人なんだと失礼だけど再認識してしまった。

「じゃあ、始めようか」
「え、あ…はいっ」

郭嘉殿の声に現実に呼び戻されながら頷くと、そっと握る手に力が込められるのが分かったのでわたしもちゃんと郭嘉殿の手を、それでも力の配分に極力気をつけながら握り返す。
い、痛くないかな。大丈夫かな、郭嘉殿。わたし握力も林檎とか簡単に握り潰せるくらいだから、ほんとに気をつけないと。というか、これわたし負けた方がいいのかな。これって、あれだよね。夏侯惇殿が仰ってた男の人の矜持云々に関わるよね。でも、負ける気もしないんだけれど。もうすこし力加えても大丈夫かな、折れないかな、ほんと。そう、勝負云々というよりも如何に郭嘉殿に痛い思いをさせないようにするかということに全神経を集中させる。集中させていたせいで「名前殿」と呼ばれたのに反応が遅れてしまった。

「あ、はい、なんでしょうか」
「いや、やはり力が強いと思ってね。びくともしないよ」
「う……あ、すみません」

最初に組んだ状態、右にも左にも傾くこともない現状を保ったままの手を見ながら郭嘉殿が言う。だけど、その台詞とは異なって口調はひどく楽しそうだった。
とりあえず、つい現状維持に努めてしまったけど、このままでは埒が明かないし、正直勝ってもいいのかな。でもわたしが勝ってしまったらやっぱり矜持的なものがと思うも、わざと負けるのも失礼だろうし。すっかり困ってしまっているわたしとは裏腹に、郭嘉殿はどこまでも涼しげで楽しそうだった。

「名前殿の謝罪は条件反射のようなものだとは分かっているのだけれど、むしろ謝らないといけないのは私の方なんだ」
「え…?」

郭嘉殿の言葉の意味が分からないでいると、視線だけを上げてわたしを見たまま「左腕」そう言った。郭嘉殿にしては珍しく端的な物言いに、つい口の中だけで反芻してしまう。左腕。誰の。たぶん、わたしの左腕、は。

「あ……、」
「手甲で隠していても、あの時見てしまったからね。知っているんだ。その傷は私を助ける時についた傷だろう?」
「…………」

左腕の、深い藍色の手甲の下。包帯の巻かれたそこにはざっくりと刃物で斬られたと分かる傷が、未だ生々しい痛みと共にあった。郭嘉殿の言葉は事実で、だけど違うとわたしは思う。

「これは、わたしが勝手にしたことですし……えっと、戦場で傷は当たり前ですし、だから郭嘉殿が気にするようなことじゃ、ないです」

理由がどうであれ、それは戦線を駆ける武将としてはなにも特別なことじゃないから。おずおずとそう言えば、郭嘉殿は月の例えが似合うかんばせを彩る微笑の形を、すこしだけ変えたように思えた。それは、どちらかといえば苦笑に近いような。淋しそうに見えてしまうようなもので、戸惑う。

「あなたならそう言うと思っていたけれど、私としても女性を傷物にしておいてのうのうとはしていられないんだ」
「え…?ええと、郭嘉ど、」

傷物とか、なんだかその言い方はおかしいような気が…と思っていたおかげで郭嘉殿の表情の変化に気付かなかった。

「名前殿、私の妻になってもらえないかな」

ぱたん。郭嘉殿の声が耳に浸透したのと時を同じくして、なんだか間抜けな音がしたと思ったらそれはわたしの腕だった。卓と郭嘉殿の手に挟まれて倒れている、わたしの腕だった。

「あ、」
「うん、やはり名前殿には回りくどい言い方は合わないと思って直球にしてみたのだけれど……正解だったね」

にっこり。珍しく音の付きそうな笑顔で言う郭嘉殿と、倒されてしまった自分の腕とをつい見比べてしまってから、ようやく現状を把握したわたしは「ずっ…ずるいです!」そう叫ぶみたいに言っていた。顔が熱い。血が上っているけれど、だけど、それが怒りじゃないことは自分が一番分かってた。

「おや、心外だね。私はなにも不正は行っていないつもりなのだけれど…」

そして、わたしが分かっているということは郭嘉殿にだってお見通しなわけで。言葉に詰まるわたしとは真逆に、涼感たっぷり。やわらかで穏やかな口調もどこまでも淀みない。でも、さすが天才軍師と感心している場合じゃない。

「冗談でも、そういうことを言うのはよくないと思います…っ」

悔し紛れにそう言ったら、郭嘉殿は今度はいかにも心外そうな顔で、でもやっぱり笑んだまま、そっと未だ繋いだままだった手を起こして、もう片方の手も使ってわたしの手を包む。両手で握られてしまったせいで、見えなくなったわたしの手に、え?と思うも遅い。

「さっき、私が女性だったら惚れてしまいそうだと言ったけれど、私は男だからね。とうの昔に名前殿に惚れているんだ」

ぎゅっとわたしの手をやさしく握り締める先、その綺麗な青月の輝きにとうの昔から魅せられているわたしは、もう冗談だとか言うことができなかった。


青の三角




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