澄明な冬の夜だった。
街燈の届かない海は黒く、夜天との境目が分からなくなるほどだったけど、うつくしい十三夜月の月明かりが水平線を蒼白く照らし出し、そのまま水尾を曳いて揺れている。おだやかな海はかすかな漣に光がきらきらと輝き、その周囲は深い藍色に染まっていた。灰色の砂浜をゆるやかに波が寄せては暗く濡らして引いてゆくのを、波の届かないところに坐って見ていた。
こんな姿、人に見られたら自殺志願者と間違われそうな気がしながらも、海風は弱いものの凍えるような寒々しい季節だからか人影はない。けれど、それもいつものことだった。この辺りに家は建っていなく、浜辺は崖に面している。少し離れたところに住宅地があるとはいえ、こんな真冬の夜中に海へくる酔狂な人はいなかった。
海をこんなにも近くで見るのははじめてだったからか、ここに越してきてもう少しで一月になろうとするのに未だ潮のにおいは新鮮だった。今日は雲ひとつない真っ黒な夜天だったけど、月が煌々としているので暗い等星の星は見えない。ただ、明後日の満月は残念ながら雨の予報だったので、今日は月の綺麗さを堪能することにしていた。体操坐りのまま、手の中にある赤い花弁から顔を上げて夜天を見ていると、不意に砂を踏む足音が波音に混ざって聞こえた。それは次第に近付いてきて、やがて背中に止まる気配があった。

「いないと思って見にきたら、本当にきみは星空が好きだな」
「はい、とっても。でも、今日は星より月がメインですね。すごく綺麗ですよ」
「そうだな。だが、毎晩毎晩よく飽きないな」
「だって、毎晩違うから」

天の色も海の色も、月も星も、毎晩異なる。一度だってまったくおなじものはない、刹那的なものなのに決して変わることがないからだろうか。こんなにも惹かれるのは。

「確かに、きみといると俺まで夜天を見るようになったからな。違いは分かるよ」

その言葉に、自然口元がゆるんでしまう。こうやって、好きなものを共有できるなんて思ってもみなかったから、だろう。

「先生、煙草吸わないんですか?」
「ん?ああ、吸わないよ」
「もう、わたしのことは気にしなくていいのに」
「分かってはいるんだが、なんとなくな」

もう癖なんだろう、きみこそ気にしなくていい。そう言う先生の声には苦笑が混ざっていた。

「そういえば、知ってるか?」
「なにをですか?」
「今日きた患者が言っていたんだが、最近この辺りに幽霊が出るらしい」
「え…?」

幽霊。その言葉に、ついびくっと肩が跳ねてしまう。見たことはなかったけど、そういう類のものが得意というわけじゃないからだ。心霊番組とかも、怖くて見れない。そして、それを聞いた途端に、さっきまで静かで綺麗なだけだった夜がちょっとおどろおどろしい気配をおびるような気がする。それが自分の思い込みで気がするだけとは分かっていても、一度芽生えてしまうと恐怖心は中々消えてはくれない。

「なんだ、幽霊が怖いのか?」
「……あ、あんまり……そう言う先生は怖いものがなさそうですよね…」

羨ましいです。迂闊に怖いと正直に言ってしまうと、後々までからかわれるのは見えているので濁してしまったけど、そんなのお見通しなんだろうなと思う。案の定「そうだな」と肯定する先生はどこか楽しそうだ。

「ちなみに、その幽霊なんだが」
「あ……あの、もうその話は…」

嬉々として詳しく話し出そうとするのを、つい遮ってみるも先生の声は止まらない。

「こんな星の綺麗な夜に現れることが多いらしくてな、こんな真冬だってのに薄着で、月明かりによって闇の中から浮き出るような蒼白い肌をしているそうだ」
「…………」
「どうした?」
「……先生、あの…それって…、」
「流石に気付いたか」
「わたしのこと、ですよね…?」

もしかしてと思って訊ねたら、先生はあっさり「だろうな」と言った。一気に恐怖心がどこかへ行ってしまったのが分かった。代わりに、ほっとしているとうしろから、はは、と笑う声がして恥ずかしくなる。先生は、わたしの前で煙草を吸わないところは変わらないけど、前よりちょっと意地悪になった。だけど、それがたぶん間にあったものが変わったのと、少しだけ近くなったからなんだろうなと思うと、それすら嬉しいのだから、ちょっとだけマゾっ気でもあるんだろうかと悩んでしまう。そんな、照れ隠し。だけど、こうやって一緒に夜天を見ることができるのは、ほんとに嬉しかった。
先生と。先生と一緒にこの海辺の町に越してきてから半月以上経っていたけど、未だにどこか信じられない気持ちがある。現実だって理解してはいるのに、これは都合のいい夢なんじゃないかって、こんな時は余計に思う。それは、しあわせであればあるほど。
(…………だって、)
だって、と思う。だって、わたしはほんとなら―――生きていないはずだったから。
そう。これは、おかしな未来だった。だって、ほんとに、生きていないはずだった。今頃はもう、死んで炎に焼かれて灰になっているはずだった。今度こそ、荼毘に付されるはずだった。そう、他の人とおなじように。他の、屍鬼と、おなじように。胸に、杭を打たれて、死んで。二度目の死を、迎えて、そして。そして、あの外場村を焼き尽くした炎の中で、おなじように。そうなっているはずだったのに、ならなかった。わたしはそれを望んでいたのに、それは叶わなかった。わたしの望んでいた未来は捻じ曲げられた。それをしたのは、先生だった。
尾崎先生だった。




あの時。尾崎医院で、手術室に辿り着く前に昏倒したわたしは、次に睛を覚ました時真っ暗で狭い空間にいた。埃っぽいにおいのする、なにもない長方形の空間で寝ていた。
一瞬自分がどうしてこんなところにいるのか分からなかったけど、直ぐに眠る前のことを思い出してハッとした。慌てて起き上がったら予想以上に低かった天井で頭を打って、痛みに悶えながらも壁に触れればそれは横へと開いた。その先には黒い布があって、それを除ければようやく視界が開けた。そこは、部屋の中だった。
這い出てみて、振り返ればわたしが入っていたのは遮光カーテンで覆われた押入れだった。部屋の中は、ごちゃごちゃと服や収納箱と、いろんな物が散乱している。それを呆然と眺めてしまってから、ようやくここはどこなんだろうと思った。尾崎先生の家の一室かとも思ったけど、瞬時に違うと否定してしまう。
フローリングの床に、白い壁。右手にある大きな窓にも真っ黒な遮光カーテンがかかっている。そう、これは、この部屋はどちらかというとマンションのような。その思いに、扉へと向かってドアノブに手をかければすんなり開く。その先は、細い廊下だった。正面は一部屋先が玄関でわたしの靴がある。右を見れば壁沿いに扉があり、その先のものは開いていて室内が窺える。近付けば、机やソファ、テレビが見えていたとおりに、そこはリビングだった。そこでようやく、ここがどこかマンションの一室だと確信する。けれど、だとすればいよいよここがどこなのか分からなくなってしまって、わたしは途方に暮れた。
ただ、外場村ではないことだけも確かだった。外場村にはマンションなんてないから、ここは村外のどこなんだろう。リビングのカーテンは普通のもので、窓ガラスの向こうは夜景が広がっていた。夜の闇の中街燈に、家や他のマンションの部屋の、白や橙といった明かりが浮き出ている。そして、わたしはその密集具合に驚いた。村では考えられないくらいに、建物は隣接し合っていたからだ。そうしてから、わたしは室内を散策しはじめた。
人気がない気がしていたとおりに、どの部屋にも誰もいなかった。様子からして、この部屋の持ち主は女の人だろうけど、棚のうえとか至る箇所に埃が溜まっている。誰も住んでいないのかとも考えるものの、それにしては物が残り過ぎている。誰かがちょっとだけ留守にしているだけのような、そんな。そうしているうちに、わたしはようやく答えを見つけた。寝室らしき部屋の引き出しの中に通帳を発見して、急いで名前を見て、え…?と思った。そこに書かれていた名前、尾崎恭子の文字に、愕然とした。
恭子さんが、ひとりマンション暮らしをしているのは、知っていた。そう、確か、溝辺町でアンティークショップを経営していて。だけど、だとすればここは、恭子さんのマンション…?うまく現実を受け止められないでいたけど、服とか家具とか小物とか、これまで睛にしてきたものは、ぴたりとわたしの中の恭子さん像と当てはまった。だけど、それでもその思いは消えない。だけど、それならどうしてわたしは恭子さんのマンショにいるんだろう。思って、脳裏にひとりの姿が浮かぶ。尾崎先生だった。
そう、だ。最後にあったのは尾崎先生で、わたしのことを知っているのは先生だけで、先生なら恭子さんの家を知っていて当然で、わたしをここに連れてくることができる。
けど、だけど、そうだとすればどうして尾崎先生が。

わたしは、先生の役に立ちたくて、みんなの前に突き出してくださいって、そう言ったのに。先生は分かったって、そう言ったのに。だから、わたしは先生が殺してくれるって、やっと死ねるって。それも、無駄な死じゃなくて、ちゃんと先生の役に立てる死だから、嬉しくて、しあわせで、それで、それでそれでそれで―――それなのに、どうしてこんなところにいるんだろう?

自分が睛を覚ましたところを、思い出す。あんな風に、窓だけじゃなくて押入れの前にも遮光カーテンをつけて、それはわたしが日光に晒されないようにするため。安全に昼中眠ることができるように。きっと、押入れの周囲に散乱していたものは、あれは、押入れの中にもともと入っていたものなのかもしれない。片付ける暇もなく、ただ、わたしをあそこに隠すためだけに作業をする先生の姿が脳裏に浮かんで、かぶりを振ってそれを消す。そこで、わたしは気付いた。おなかが、空いていないことに。
昨晩は、母の血をほんのちょっとだけ口にしただけで最後の方はひどい空腹に襲われていたけど、それがなくなっている。既視感に、眩暈がしそうだった。きっと、眠っている間にまたわたしは血を与えられたのだろう。今度は尾崎先生の手によって。どうして。その思いばかりがぐるぐると頭の中を廻って巡って螺旋を描く。果てのないものを決定的にしたのは、冷蔵庫の中身だった。混乱していたのだろう、余所の家の冷蔵庫を開けるという抵抗感も薄いまま、なにか気休めにと飲み物を欲してしまった。
開いた途端、暗い室内に白い光が広がって一瞬視界が閃光で埋め尽くされる。夜目が利いているおかげか、ひどく眩しくて睛を瞑ってしまう。咄嗟に目の前を手で覆って、溢れ出す冷気を感じながらようやく慣れてきた頃そっと目蓋を開けた。そうして、明るい光で照らされた中に、睛を瞠った。
冷蔵庫の中は殆どなにも入っていなかった。あるのはお酒やバターといったもので、賞味期限の短いものは入っていない。それは、少しの間家を開けるということを物語っていて、だけど、その中に混じって有り得ないものが入っていた。
濃い赤につい見入ってしまう。血液パックだった。それもひとつだけじゃなくて、何個も。アルファベットの文字も様々な、輸血用のものが。ただの、普通の家庭用冷蔵庫の中で、それだけが異質で異様だった。元からあったものではないことは、明白だった。これを、入れたのは尾崎先生だ。どうして、なんてもうそんなものの答えは明快だった。

わたしの、ため。全部全部全部、先生が用意したのは全部、わたしが―――生きる、ための。殺してほしかったのに、死にたかったのに、そう言ったのに、先生も分かったって、そう、言ってくれたのに、なのに、先生はわたしを生かそうとしている…?

そのことに気付いて、わたしは冷蔵庫のドアを開いたままぺたりと床に坐り込んでしまった。なにを、どう思って感じればいいのかも分からなかった。泣きたいわけでも笑いたいわけでも嬉しいわけでも悲しいわけでも、なかった。なんにも、ない。からっぽだ。
ただ、いま直ぐ先生にどうしてと訊ねたかった。尾崎先生がなにを思ってわたしを生かしたのかを知りたかった。縋り付いて、なんでとどうしてと問い詰めて罵って懇願したかった。だけど、先生はここにはいない。わたし、だけ。わたし、ひとりだけ。相手のいないものはがらんどうな虚の中へ消えて、なくなる。ピーピーという甲高い音が室内に響く。音源である冷蔵庫を、重い頭をゆっくりと動かして見上げる。煌々と白い光の中にある赤。それを、ぼんやりと見つめる。一週間以上は持つことができる量だった。空腹に耐え飲む量を減らせば、もっと。
先生は、わたしにここで待つことを望んでいるんだろうか。待って、静かにおとなしくこれで餓えを凌いで、待っていたら、先生と会えるんだろうか。ここが溝辺町だとしたら、歩いて戻るのは途中で陽が昇ってしまう。こんな夜にバスはないし、タクシーに乗れるようなお金もない。それに、外場村に戻ればきっと先生に会う前に見つかって、殺される確率の方がずっと高い。
そっと、手を伸ばす。真っ白な灯りの中、わたしは赤を掴んだ。


生きたかったのか死にたくなかったのか自分を殺す勇気がないだけなのか、わたしは輸血用の血を啜っては眠る日々を過ごした。ただ、尾崎先生にもう一度会うために。それだけを理由に、ただ生きた。
陽が沈めば自然と起きだして、電気もガスも水道もまだ止められていない部屋の中、外に灯りが漏れないようカーテンを締め切ってテレビを見たりして暇を潰した。本はなかった。外に出てみようかとも思ったけど、下手に他の住人にばれても困るのでずっと部屋の中に閉じこもっていた。衣類は身につけている一着だけで、恭子さんのものを借りる気はおきなかったので、それを洗濯して着回した。干している間は全裸だったけど、誰もいないしもう風邪を引くこともないから抵抗感は直ぐに消え去った。
テレビを見ていない時はただぼーっとして、なにも考えず睛を瞑っていた。なにを考えてもなにも知ることができないから、最初からもう考えないようにしていた。全部。そうやって、おなかが空いたら冷蔵庫を開けて、夜明け前にまた押入れの中に戻って眠りにつく。そうやって、何日過ぎただろう。テレビのニュースは十一月九日を告げて、そしていつもなら見るともなしにぼんやり眺めていたわたしはけれど、釘付けになった。

外場村で火災が発生したというニュースだったからだ。

十一月八日未明、外場村で発生した山林火災によって四百戸からあった家屋がほぼ全焼。ひどい乾燥と強風に煽られ、火は麓の市街地にまで迫っていたが無事に食い止められた。けれど、未だ鎮火していなく原因も不明。そう告げるアナウンサーの声が耳に入ってきて、意味だって理解できるのに、わたしはなにを言っているんだろうと思った。外場村が、火災?ほぼ全焼?それは、外場村が焼け失せたという、こと?それは、それは、待って。人は?
住人はなんとか避難したようですが、詳しい情報はまだ入ってきていませんと言う声に、安堵はけれど一瞬だ。避難した住人の中に、母は祖母は伯母は―――先生は、いるのだろうか?分からない。画面がヘリで撮ったのだろう、上空からの映像に切り替わる。だけどそれは遠目に、漠然と黒く焼け焦げた山肌や赤い火がうつるだけのもので、それが外場村かどうかすらわたしには分からなかった。
そして、わたしの知りたいことをなにも教えてくれないまま別のニュースに変わった。他のチャンネルに回しても、この時間ニュースをしているのはその一箇所だけだったので、他は全部バラエティ番組の陽気な笑い声ばかりで、それで、ブツン、画面が真っ黒になる。テレビのリモコンを置いて、自ら縋るものを手放した手はただ横に垂れた。


そうして、ニュースは毎日確認したけど目新しい情報やわたしの求める情報もないまま三日経った。
何度見ても薄い透明な膜を間に挟んだみたいに、現実味がなくて信じられなかった。外場村がなくなったことが。むしろ、自分がこうして生きていることすらひどく希薄だった。だけど、四日目の夜に睛を覚ましたわたしは押入れから出て、なんとなく違和感を覚えた。なんだか、いつもと違うような気がした。はっきりとしないそれの正体は直ぐに判明した。
それは、煙草のにおいだった。急いで部屋から出れば玄関にはわたしの靴の隣に、もう一足。サイズの大きな、一目で男性物だと分かるスニーカー。それから視線は右に、リビングの扉が、開いていた。灯りは点けられていない。こころも頭もはやっているはずなのに、なぜか身体はゆっくりとしか動かなかった。それでも、直ぐに辿り着く。リビングには、ソファに坐って煙草を銜えている先生が、いた。

「…………」

それは確かに、ほんとに、夢なんかじゃなくて、尾崎先生だった。カーテンが開けられているリビングには外からの光が射し込んで、それが先生を照らしていた。白衣の代わりにコートを着た先生は、入り口で立ち止まってしまったわたしに気付いて、その顔がこちらに向く。薄闇の中、真っ直ぐに睛が合って、わたしはなぜか竦んでしまった。先生は、じっとわたしを見たあと銜えていた煙草を離して、

「おはよう、名前ちゃん」

そう、わたしに向けて笑った。
それに、わたしは涙が出た。なにを思う間も、なかった。ただ、瞬きを忘れた双眸からぽろぽろとこぼれる。自分でもなんで涙が出るのか分からなかった。理由が、分からない。ただ、きっと、いろんなものがごちゃごちゃに混ざり合い過ぎてただの空白になってしまった、そこから溢れるのだろうと、思った。先生は瞠目することもなく、ただゆるやかに睛を細めて煙草を消すと手招きをした。
その手に吸い寄せられるように足が動いて、先生の傍らまできたところで腕を引かれた。無防備だった身体はそのままソファに倒れこんで、上体は抱きとめられる。ぬくもりに顔を上げたら、睛の前に先生の顔があって、わたしはただじっと、にじむ視界で見つめた。
言いたいことも訊きたいこともいっぱいあったはずなのに、わたしの口唇はかすかに開いたまま嗚咽すらこぼさない。おかしかった。すごいなと、思った。先生の顔を見ただけで、全部どうでもよくなってしまったことが。尾崎先生が生きている。ただそれだけで、よかった。先生は微笑を浮かべたまま、そっとわたしの頭を撫でてくれた。そうして、わたしが泣き止んだ頃、静かに話し出した。
わたしをここに隠したあと、外場村で起こったこと。霜月神楽の夜。殆どの村人に屍鬼の存在を伝えることができ、そのまま狩りがはじまったこと。杭を打って、屍鬼を殺していったこと。それは五日の夜から七日の夜まで、火災が起こるまでつづき、屍鬼の殆どは狩ったが結局村も失われたこと。そして、わたしの家族のこと。

「きみのお母さんたちは、無事だ。事情を聞いて、六日に村を出て行ったよ。とりあえず都会に住む親族のところを頼るつもりだと言っていた」

それを聞いて、ようやくゆるゆると身体から力が抜けるのが分かった。親族。それは、きっと伯父のことだろう。そっか。そっか、お母さんもお祖母ちゃんも伯母さんも、みんな無事なんだ。よかった。

「先生……わたしの、ことは…?」
「……きみは起き上がっていないと、伝えた。お母さんも、睡眠薬を飲んでいたせいだろう。きみとのことはぼんやりと覚えているだけで、あの子のことを考え過ぎて夢にまで見てしまったのねと、そう言っていた。俺も夢遊病だと診断しておいたが、実際のところはどうかは分からない」
「そう、ですか…」
「ただ、心配はないだろう。きみのお母さんは、そのあとにこうも言っていたからな」
「え…?」
「きみに、怒られたんだと。娘に、まだこっちにきたら駄目だと。お父さんもわたしも怒るからねと、そう。笑って言われてしまったと……そう、微笑んでいたよ」
「…………っ、」

なにも、返すことができなかった。お母さん、それだけをこころの中で紡いだ。生きて
いてくれた。そして、きっとこれからも生きていてくれる。くるしいことやつらいことばかりかもしれないけど、いつだって思い出すのは素敵なこと。それは思い出が美化されただけじゃなくて、ほんとに嬉しくてしあわせな時間がそこに確かにあったからだ。そうやって、大切であたたかなものはひっそりとこころの奥の宝箱にしまわれて、どんなにそのまわりが暗く淀んだり真っ暗闇でなにも見えなくなっても、ふっと夜天を見上げたら星が輝いているように、そこにはいつだって変わらないきらきらしたものがあることを思った。

「先生、ありがとう」

さびしさを、沈黙がやさしく包むのを感じながらわたしは先生にお礼を言った。自分で思っていたよりちゃんとした声が出たのはきっと、もう揺らいではいなかったからだろう。先生は「いや…」とだけ言って、苦笑していた。まるでお礼を言われることじゃないと言っているみたいだった。そうしてから、名前ちゃん、わたしの名前を呼ぶ。

「俺は村を出て、どこか全然知らない別の町で暮らそうと思っているんだが」

そこで一旦口を閉じて、先生はわたしをじっと見る。相変わらずその表情はおだやかなのに、睛だけはどこか真剣な眼差しで、

「俺と一緒にこないか?」

そう言った。
わたしはその言葉を受け止めて、ゆっくりと咀嚼して、そっと大事に飲み込んでから、尾崎先生、名前を呼んだ。

「先生は、どうしてわたしを殺さないんですか?」

屍鬼を狩った先生、屍鬼を殺した先生。きっとそこにあったのは怒りと憎悪と敵愾心と―――殺意だ。
きっと、あの村での屍鬼の生き残りは、わたしだけ。先生は桐敷の人たちだけは何人か行方が分からないと言っていた。沙子や辰巳さんは逃げ延びたのだろうか。そして殆どと言ったその例外に、自分が含まれていることをわたしは分かっていた。だって、わたしは屍鬼だから。杭を打たれて死ぬべきいきものだから。なのに、そんなわたしを、そんな先生が生かした。そして、いまもまた、先生は一緒にこないかって。それは、わたしに生きないかって言っているのとおなじことだったから。だから、その理由が知りたかった。
尾崎先生とおなじくらい真剣に訊ねたら、先生は無言のまま視線を交差させたあと、くしゃりとその相貌をくずした。自嘲しているような、だけど嬉しそうなような、そんな苦笑いだった。

「名前ちゃん、きみは最後に会った時、眠る直前に俺になんて言ったか覚えてるか?」
「……え…?」

全然予期していなかった言葉に、睛を瞬かせてしまう。最後に会った時。わたしが山入から逃げ出して母と家に帰ったあと、尾崎先生に会いにいった時のことだろう。その時の、眠る直前?記憶を遡る。確か、先生と一緒に病院の手術室に向かって、だけど辿り着く前に眠ってしまった。その時に、わたしは、先生に―――

「―――…あ、」
「よかった。覚えていてくれたみたいだな」

先生の口元がほころぶ。だけど、わたしはそれよりも、そんなことよりも、思い出した記憶が確かならわたしは先生に、好きって、そう言って、伝えてしまったんだ。

「ぁ、あの…あれはっ……わたし…、」
「それが、答えだ」

つい、体温なんてないのに顔に熱が集まるような錯覚に、しどろもどろになっていると先生がそう言った。だけど、意味が分からなくて見上げたら。

「きみに、好きだと言われて嬉しかったから、だろうな」

先生は言った。そのやさしい声音はじんわりと沁みこんで、わたしの中を潤して、またこぼれ出てしまった。ひとしずくだけのそれを見ながら、尾崎先生がつづける。

「俺も、正直戸惑ってる。屍鬼を狩り滅ぼそうとした俺が、きみだけを生かそうとすることが、矛盾していかれてることも分かっている。だけどな、名前ちゃん。どう考えても、俺にはきみが殺せないんだ」

それは、わたしのただの思い込みかもしれないけど、だけど、先生がほんとにそう思って考えて、いまこうやってわたしに言っているのだということが伝わってくる言い方だった。上滑りしない真実は、だけどそこにあるのは綺麗なものだけじゃない。どちらかというともっと血腥い不合理で残酷なものばかりなのに、それはわたしが希ってやまないものだった。
そして、わたしも尾崎先生も分かってた。生きる、ということがどんなことなのか。先生はきっとわたしを殺せないことをずっと悔やむだろうし、わたしは自分が生きていることにずっとくるしむのだろう。
だけど、それでも生きたかった。差し伸べられた手を、とりたかったから。だから、わたしは。




先生がどこがいいと訊いてきた時、わたしは海が見たいですと答えた。
都会に住んでいた頃、海水浴に行くこともなくて、わたしはまだ一度も海を見たことがなかったからそう言えば、先生はそうだなと頷いた。それがいいなと笑った。わたしのそれはほんとだったけど、それでもふたりの間に山という選択肢がないことは明白だった。忘れることなんてできないのに。先生はわたしの存在のせいで余計。だけど、それを知っていてわたしと先生は選んだ。
そうして、遠く離れたひとつの海沿いの町で、住宅地とは少し離れた岬の突端にある空家を見つけた。そこは古めかしい木造立ての一軒家で、庭からは崖に沿って小径が砂浜にまでつづいていた。随分と人が住んでいなかったみたいで、家の中は埃がひどく庭は草木が伸び放題になっていたけど一目見てそこに決めた。
そうやって日中は先生が、夜はわたしが片付けをして。ふたりで住むには広かったから一部を診療所にすることにした。ちゃんと住宅地の方にまであいさつ回りをした先生と、朝は遅いけどその分夜間までやっているおかげか、患者さんは次第に増えていった。わたしは陽が暮れてからだけ先生の助手というか、簡単なことしかできないけど手伝いをしていた。勿論患者の人たちはわたしのことを不思議そうに見ていた。
だからその度に、尾崎先生とふたりで考えた設定、尾崎名前十八歳、童顔で両親は既に他界。叔父とふたり暮らし。通信制の高校は卒業している。日中いないのは陽の光を浴びることができない病気のせいで、その療養も兼ねてここに越してきた。いまは叔父に勉強を教えてもらいながら、将来は医療に携わりたいと思っている。
そんなどこかで聞いたことのあるような設定と、嘘八百とほんのちょっとの事実を伝えて、わたしはこの町で生きていくことになった。だけど、それも何年ここにいられるかは分からない。わたしが年をとらないことを誤魔化しきれなくなったら、ここを離れなければいけないから。それに、わたしは自分ひとりが老いないことに耐えられるかも分からなかった。先生を失うことに、きっと耐えられないだろうと、思った。
そんな未来しか待ち受けていなくても、それでもわたしはいま、こうやって生きられることだけを大切にしたかった。

「ところで、名前ちゃん。その手に持ってる花はどうしたんだ?」
「あ……これは、庭の山茶花もう花が散ってしまってたんで」

勿体ないから。言って、わたしは立ち上がる。両手の中にあったから、お尻についた砂をはたけないまま波打ち際まで歩む。山茶花は椿と違って、はなびらがぽろぽろとこぼれ落ちてしまう。綺麗なものだけを拾い集めたそれを、ふわっと風に乗るように海へ撒く。赤いはなびらは広がったあと、ゆっくりと波の中に紛れた。
それを見つめてから、空になった手でお尻をはたく。振り返れば、先生もおなじように黒い水面に消えてゆく赤を見ていた。その瞳がなにを考えているのかは分からなかったけど、でも先生が今日お花を買ってきて家の中に飾っていたのは知っている。白い、百合の花。

「じゃあ、そろそろ帰りましょうか」

自然と微笑むのを思いながら、わたしは先生のもとに歩き出した。

「ああ、そうだな」

先生も、微笑んでそう言うとわたしが隣に並んでから歩き出す。

「先生、知ってますか?」
「ん?なにをだ」
「尾崎先生が、実はモグリなんじゃないかって噂」
「…………まあ、確かに診療所の場所や外観は少し似ているが……ブラックジャックとは光栄だな」
「ちゃんと普通の治療代しか請求してないのに、やっぱり場所なんでしょうか」
「どうだろうな。じゃあ、そらちゃんがピノコか」
「らしいですよ。わたし二頭身じゃないのに」

そう軽口を言いあって、ふたりで笑いながら月明かりを背に家路を歩む。帰ったらただいまとおかえりを言って、それで尾崎先生にあったかい飲み物を淹れよう。なにがいいかな。ホットミルクにココアは、どちらかというとわたし用だし。やっぱり、この間調べてつくってみたら好評だった、生姜とゆずにちょっとだけ蜂蜜を入れたホットワインがいいかな。先生が風邪ひかないように。そんなことを考えるだけでしあわせな気持ちになれることが、きっとこの星天のしたにはいっぱいあって、それが生きているということのひとつなんだろうなと思った。
今日は、十二月九日。わたしの四十九日だった。


20130427
- ナノ -