気象コントロール・センターの前で垂直着陸したモノマシン、レッドテイルから降ろしてもらったあと「ありがとう」きっちり頭を下げて言って、けれどその顔が再度見えたと思った時にはナマエはもうフェイに背を向け走り出していた。

「ちょ、ちょっと、あんた…っ」

場所、どこか分かったわけ?というフェイの問いかけも、最早届いていない様子だったが答えは明快だった。真っ直ぐに、確かなものを目指すそのうしろ姿に迷いはなかったからだ。そして、フェイは呆れた眼差しで雑踏に紛れ見えなくなった、揺れる白い羽根の残像を瞬きで消すと目的のビルへと向かった。
自分のやるべきことをするために。


アルバタワーは街の中心部にあり、走れば走るほどに人波は増え道を阻まれる。何度も人とぶつかりながら、それでもナマエは走った。
そうして、ようやく辿り着いた頃にはもう足はがくがくと震え、呼吸をするのも苦しいほどで。エレベーターに乗り込むと、ついへたり込んでしまった。自分の体力のなさが恨めしかったが、ただ上昇してゆく感覚の中息を整えることだけを努めた。
けれど、幾ら深呼吸をしても早さの衰えない鼓動があった。緊張、しているのだろうかと。ぼんやりと彼女は、雨の降りはじめた外界をうつしながら思った。結局、言いたいことなど分からないまま。どうしたいかは分かっていても、そのためにどうすればいいのかも分からないまま、ここまで来てしまった。今だって、そうだった。知らず、ぎゅっとネックレスの先にある十字架と鍵を握り締める。
その瞬間大きな爆発音が聞こえた。何事かと遠ざかりつづける地上を見下ろせば、オレンジの破片がちらちらと舞うのが見えてパレード中の巨大なジャック・オ・ランタンのバルーンが爆発したのだと悟る。そして、そこに恐らくナノマシンが仕込まれていることも、爆発させたのが自分のこころの中にいる男であることも。
到着したエレベーターから、ヴィンセントを探すために降りた先で、睛にしたものにナマエはそこから動けなくなった。彼女の目の前で、ふたりの男が戦っていた。
ひとりは見知らぬ、長身痩躯にスーツを纏った癖毛の男。もうひとりは、知っているのに知らない、ナマエが会いたくてたまらなかった男、ヴィンセントだった。彼女はスラム街で育ったおかげで、殴り合いというものはこれまでに何度も睛にしてきた。けれど、今目の前で繰り広げられるそれは、そんな生易しいものではなかった。一分の隙もなく連続で繰り出される拳や蹴りの応酬はふたりが格闘の術に秀でていることが、そしてお互いがお互いを倒すためだけの本気が伝わってきて、声をかけることすらできないほどだった。そして、その様はまるで倒れた方が死ぬことを意味しているようにナマエには思えた。思えて、ならなかった。
恐らく、ヴィンセントと対峙しているのはフェイの仲間である賞金稼ぎだろう。そして賞金稼ぎならば、犯人を殺すことはない。殺してしまえば賞金は零になるからだ。そう瞬時に過ぎっても、ナマエには一度芽生えたヴィンセントの“死”に、身体の奥底から四肢の先まで冷え切るのが分かった。ヴィンセントは何百人もの命を奪った。最初にヴィンセントを睛にした時に抱いたことがよみがえる。
きっとこの人はなにも思わずこの瞳のままわたしを殺すのだろう。
そう、きっとそのとおりにヴィンセントは、殺したのだろう。そこにはなにもなく、そしてそれはなにもないからこそ、混じり気のないただの純粋な殺人だった。大罪だった。罪の報いは死。男の低い声音が鼓膜を揺らす。こんな時に思い出したくなかった。
神経がただ目の前の相手に集中しているのだろう。ふたりがナマエの存在に気付いた様子はなかったが、その時ふっとナマエはエメラルドグリーンと合った気がした。
こんな距離があってしまえば、暗く澄んだ男の瞳の色など到底分かるはずがなかったが、確かにナマエは睛が合ったのを感じた。けれど、それも一瞬だった。次の瞬間には拳を受けて消え去っていた。

「ヴィン、セント…」

それでも、それだけでナマエの足は動いた。ゆっくりと、音もなく近付く。未だ止まない攻防はしかし、今やヴィンセントではなくもうひとりの男が優勢となっていた。連続して打撃を受けたヴィンセントは大きくバランスを崩し、そこに男が追撃をかけようとした時。突然男の身体がふらついた。
手を顔に当て、苦しそうにしている様は、負ったダメージによるものには見えなくナマエは、まさかと思う。ナノマシン。その言葉が咄嗟に浮かぶ。けれど、だとすればおかしかった。ナマエ自身はなんともなかったからだ。疑問に意識がそれている間に、ふらふらと覚束ない足取りで男が向かった先、拳銃に伸ばそうとした手が届くより速く、その銃を黒い靴が踏みつけた。
そうして、ナマエがハッと気付いた時にはヴィンセントが男の頭に銃をつきつけていた。終わり、の三文字が脳裏を過ぎる。けれどこのゲームの決着は、死だ。ナマエはただ、駄目だと思った。そう思うのに、足は動かない。
「その命が尽きる前に教えてくれ。俺はとっくにタイタンで死んでいて、この世界は蝶たちが俺に見せている夢なんじゃないのか?それとも、蝶のいる世界が現実で、俺のいた世界が夢だったのか?俺には、分からないんだ」
低い声で訥々と淀みなく語られる言葉は、まるで夢のようだった。一瞬、現実と夢のあわいが消え去ったような感覚に陥る。けれど、それを破ったのはひとつの声だった。

「ヴィンセント!」

ヴィンセントでも賞金稼ぎの男でも、自分でもない声に、ナマエはただ振り向く。そこには、銃を構えた女性がいた。
艶のある黒髪とブロンズの肌の、タイトな皮パンツにオレンジ色のジャケットを纏ったこの女性も賞金稼ぎなのだろうかと、まずナマエは思って。けれど、どこか違うと警鐘じみたものが鳴るような感覚に息が詰まる。

「今度は、逃がさないわ」

真っ直ぐに、ヴィンセントに向けられた銃の先でそのダークブラウンの瞳にあったのは、大切なものを喪う悲しみと、そして、愛おしさだった。
そう、その女性の瞳はまるで最愛を見るかのような、そう理解した瞬間すとんと呆気ないほどあっさりと、なにかが胸の奥へ落ちるのが分かった。重みなどないはずなのに確かにした音は、まるで人ひとり分の重さのように思えた。視界の隅でヴィンセントが女性に銃を向けるのが見える。

「行きましょう…一緒に」

そして、それをうつしたダークブラウンの双眸が目蓋の奥へ消え去る寸前、儚くも鮮明に煌いたものを、見てしまった。それを見て、彼女はただ、本当にこの世界は残酷だと思った。動かないとばかり思っていた足は、まるで重力を忘れたようだった。そして、だからこそ命の輝きがうつくしいのかもしれないと、ナマエは、思った。だから、呼んだ。
彼女の愛した男の名を。


名を、呼ばれたような気がした。
けれど、それは鼓膜を震わせる発砲音に掻き消された。同時に、視界が真っ白になった。一瞬蝶かと思ったそれは、違った。それは、白い羽根だった。舞い散った羽根の白が、男の睛の前で真っ赤に染まる。うつくしいほど鮮やかな赤と白の対比を、男はただ見ていた。
ふわりふわりと空中を漂う羽根が、ゆるやかに地に落ちてゆく。その先に少女が倒れていた。白金の髪に、白いワンピースから伸びる至る箇所が包帯やガーゼで覆われた手足は力なく投げ出され、左腕は肘から先が欠損している、その容姿は、ナマエだった。その胸元を染める赤い色がなんなのかくらい、男は、ヴィンセントは理解していた。そして、ヴィンセント以外の人間も皆、一様におなじ顔で倒れている少女を見ていた。
真っ先に現状を把握し動いたのは、膝をついたまま呆然としていた賞金稼ぎの男、スパイクだった。

「おいっ、」

焦った声音で、少女に駆け寄り瞬時に状態を診る。眉を顰めたのは依然白いワンピースを侵食する赤にだったが、それ以外にもあった。銃痕がひとつだということだった。そう、発砲音は確かにあった。けれど一発だ。そして、それはヴィンセントの銃ではなく、未だ睛を見開いて信じられない顔をしている女性、エレクトラの銃だった。
スパイクはヴィンセントを見る。その右手から銃が零れ落ちるのを見て、まず先に救急車を呼ぶことが先決だと判断した。そして、携帯を切ったあと「なぜ…撃たなかった」そう問いかけた。
ヴィンセントは、雨の降る音を耳にしていた。肌に纏わりつくような湿気を感じていた。薄暗く、けれどどこまでも鮮明なこの世界を睛にしていた。すべてが、この世界のすべてがはっきりと感じられた、現実だと分かった。スパイクの声も、そうだった。

「思い出したからだ……エレクトラ、俺が愛した女だ」

ヴィンセントの言葉を呆然と聞いていたエレクトラは、けれどその意味が浸透した瞬間胸に様々なものが迫りすぎて、嬉しいはずなのに涙が出そうだった。
けれど、最愛の男が自分のことを思い出してくれたことを喜ぶよりも先に、自分の撃った弾が貫いた少女の存在が重く圧し掛かる。そして、その少女にヴィンセントが、ゆっくりと近寄るのをただ見ていた。
浅い呼吸を繰り返す胸はまだ少女が生きていることを示していた。けれど、ヴィンセントの脳裏に浮かぶスカイブルーのうつくしい色は薄い目蓋に隠されたままだった。赤く染まりつづける白いワンピースと羽根。天使の装いが、やはりよく似合っていた。
けれど、知っている。天使ではない。この生き物は、ただのナマエという名の少女だ。ちいさなてのひらの右手も、欠けた左腕も、その痛ましくも儚い命でもって自分をまっすぐに愛そうとした少女だ。

「お前のおかげだ……今分かったよ。この世界から出る扉などないことを、きっとお前は最初から知っていたんだろうな。俺も、ようやく分かった」

長い夢から醒めた心地だった。まるで、昔エレクトラと一緒にいた時だけしか得られることのできなかった現実を、今確かに感じていた。記憶は、睛を瞑ったエレクトラを見た瞬間によみがえったが、この感覚は違った。血に染まる白が男の睛を開けさせた。けれど、その代償を払ったのは自分ではない。

「ナマエ」

この少女だ。なぜ自分を庇ったのか、ヴィンセントはただ静かに眠るようなおもてを見ながらそっと手を伸ばした。やわらかな髪を、梳くように撫でた。

「………っ、じめ、て…」

雨音に紛れそうなほど掠れたちいさな声だったが、ヴィンセントは確かに聞いた。そして、ゆっくりと少女の唇が動くのが分かった。

「は、じめ…て……よん、で…くれ…た…」

今度はまだ明確な声が紡ぎながら、そっと開いた目蓋を縁取る、白金の睫毛の隙間からヴィンセントの見たかった色が現れる。それは雨上がりの天のように、うつくしく澄んだ瞳だった。そして、その優しい輝きを湛えた双眸で静かにヴィンセントを見上げて。

「ヴィン…セン、ト…の……うそ、つき」

そう、言った。男には、ナマエがなにを言っているのか理解できた。自分が破った約束のことを言っているのだと、分かった。置いていかないでと言い、置いていかれた少女の抱いたものを思った。

「すまない」
「や、だ……ゆるして、あげ…ない」

そう言いながらも、嬉しそうに見えるのはどうしてだろうか。

「ゆる、して……ほし…い…?」

喋るのも辛そうだというのに、どこかトリック・オア・トリートとでも言うような、悪戯をする子どものような言い方で、しっかりとした意思の感じられる声にヴィンセントは「ああ」と頷く。なぜだか今、自分は笑っている気がした。

「じゃ、あ……やく、そく…」

そっと、動いて宙に彷徨う右手を男は握った。その手はあまりにもちいさく、そしてあたたかかった。

「なんだ?」

優しく握り締めたまま問えば、ナマエは微笑んだ。

「いきて」

そう、嬉しそうに、楽しそうに―――幸せそうに微笑んで言った。そのすべてが、綺麗でうつくしく、そして眩しかった。だから、男は、ヴィンセントは。



夢を見る。それは青い天の夢だった。
うつくしく幸福な夢だ。涙が出るほど残酷な夢だ。そこにはなにもなかった。ただ、どこまでもつづく透徹った真っ青な天には薄く白い雲がたなびいている。それをうつしながら彼女は、いつだって安寧と悲嘆に暮れた。そこでは、いつも彼女はひとりぼっちだったからだ。誰も生きていないそこは煉獄だった。そしてそこからただ青い天を、見上げるしかできなかった。右手を伸ばしても決して掴むことのできない天に、睛を瞑ろうとした時、誰かに名を呼ばれた気がした。
振り返ると、そこにひとりの男が立っていた。黒衣を纏った、長い黒髪の男。血色の悪い肌に無造作に伸びた髭。そして、前髪に隠れて見えづらい暗く澄んだ双眸が、けれどうつくしいエメラルドグリーンだというのを知っていた。彼女は知っていた。だから名を呼んで、駆け出した勢いのまま抱きついた。ぎゅっと想いのままに抱き締めた。その背に、そっと大きなてのひらが触れ、抱き締められたのが分かった。もう片方の手で、優しく髪を梳かれるのが分かった。
幸せだった。どこまでも、なによりもただ、本当に幸せだった。
幸せな、夢だった。そう、夢だ。分かっている。分かっているから、涙が出るのだろうか。分からない。
低い声に名を呼ばれ、彼女は顔を上げる。どこまでも澄明な青い天を背景に、男が笑っていた。一度だけ見た、あの優しい表情にどうしようもなく胸が締め付けられた。分かってるよ、と彼女は言った。夢はいつか醒めるもの、醒めなくてはいけない。男が睛を開けたように、自分も、もう。だから彼女は微笑んだ。エメラルドグリーンのうつくしさを心に焼き付けて。ありがとう、ヴィンセント。そう言った。さよなら、とは言いたくなかった。
そして、彼女は睛を開ける。
それでも、睛を開けたらもう会えなくなることが、切なくて、悲しかった。



白い病室の窓外を見ていた。看護婦に頼んで開けてもらったそこからは、コントロールされた天気の薄雲が漂う青い天が広がっていた。
秋声を耳に、何度睛を覚ましてもぼんやりとどこか夢現なのは痛み止めが効いているからだろう。だから、最初ガラリと開いた戸の音に看護婦が様子を見に来たのだろうと、そのまま視線を動かさないでいた。

「睛は、覚めてるみたいだな」

けれどそう話しかけてきた声は、聞き慣れない男のもので。彼女はゆっくりと首を動かしてみれば、そこには花束を抱えた、長身痩躯の男が立っていた。知らない男だったが、どこかその癖毛にラフに着たスーツの容姿は見覚えがあるような気がして。

「覚えてないか?アルバタワーで一応は会ってるはずなんだけどな」

肩を竦めながら花束を差し出すので、つい受け取ってしまう。アルバタワー?と考えはじめていたせいもあった。そうして、直ぐに思い出した。この男はあの時、ヴィンセントと戦っていた賞金稼ぎの男だと。

「俺はスパイク。スパイク・スピーゲル。知ってるかもしれないが、賞金稼ぎだ」
「……うん、知ってるよ。知ってると思うけど、わたしはナマエって言うの」
「ああ、知ってるさ。あいつが呼んでたからな」

あいつ。それが誰を指しているのかは、ナマエには分かっていた。そして、このスパイクという男が、この病室で目覚めてから看護婦に聞いた話とニュースで知った情報ではない、真実を教えてくれにきたのだろうことも。
最初に睛を覚ました時、ナマエは見慣れない天井にただ疑問を抱いた。そうして、静謐でいて薬品のにおいがするここが病院だと、病室のベッドに寝ているのだと気付いて、どうしてこんなところにいるのだろうと新たな疑問を思った。
寝る前に、なにがあったのか。そのことを思い出そうとして、知らず身動ぎをしようとした身体が動かなかった。そのことに、あれ?と思いながら、億劫な首を傾けると服の隙間から覗く自分の胸元に包帯が巻いてあるのを見つけた。こんなところに包帯を巻いた覚えがなかったと思うのも一瞬だった。
熱い痛みを、どんどん命の赤が身体から零れてゆくのを、血の気が失せていくような感覚を、そして黒を、エメラルドグリーンを、あたたかなぬくもりを。

「……ヴィ、ン…セント…」

上手く出てくれない声は、それでも紡いだ。思い出せる。忘れることなんてできない。そう、自分はあの時撃たれたのだ。男に、ヴィンセントに死んでほしくない一心で飛び出して、弾丸を身に受けたのだ。そして、死を覚悟したはずだったというのに、生きている。そのことを、なにを思うでもなくただ受け止めた。
そうして病室を訪れた看護婦に、自分が死んでいないのとおなじように終わっていない世界を思いながら、真っ先に問いかけたのはテロ事件のことだった。ただ、ヴィンセントのことを知りたかったナマエにもたらされた情報は、結局犯人が依然捕まっていないということだけだった。ニュースを遡っても、三日前のハロウィンの日、パレード中に爆発したジャック・オ・ランタンのバルーンによって一気にパニックになった街の様子とそのせいで怪我人が多数出たことが書かれているだけで、ヴィンセントのこともナノマシンのこともなにひとつ書かれていなかった。だから、ナマエはきっと無事なのだろうと思った。けれど、確証のないそれは同時に不安を抱かせた。
そして、次の日である今日、スパイクが訪れた。あの時起こったことを、自分が意識を失ったあとのことも知っているであろう人物の来訪に、ナマエはただスパイクを見上げた。

「ヴィンセントは、どうなったの…?」

ナマエの問いかけにスパイクは、その相貌を苦笑の形に崩して「生きてるさ」あっさりとそう言った。

「どうして、捕まえなかったの?」
「ヴィンセントは軍に追われてる。警察に突き出したところで、秘密裏に消されて隠蔽されることは分かりきってたからな。それじゃあ賞金も出るか怪しいし、それに……それは、あんたとの約束に反するだろ?」

最後の言葉にナマエは睛を瞠った。けれど、スカイブルーの双眸は直ぐにやわらかく細められた。そうして、うん、と静かに頷いた。

「あの人、は…?あの女の人。ヴィンセントの大切な人なんでしょ?」
「ああ、エレクトラも軍の人間だったが、今じゃヴィンセントとおなじように追われる身だからな…」
「じゃあ、ふたりで、どこかで生きてるんだね」
「……ああ、」

どこまでも静かに、やわらかな声音が返ってくることに、スパイクはひとつの疑問を口に出した。

「なあ、あんたは……あいつのことが好きだったんじゃないのか?」

スパイクには当然ヴィンセントとナマエの関係など知る由もなかったが、それでもあの短いやりとりでもふたりの間になにか、それは本当に不確かで曖昧なもののように思えたが、それでも絆と称していいものがあった気がしたからだ。そして、スパイクは知っている。ナマエが身を呈してヴィンセントを庇ったことを。そんなことができるのは、その相手が大切だからだ。だというのに、彼女は今とても安らかな顔をしている。
ナマエはスパイクの問いかけに、ただ不思議そうに睛を瞬かせた。瞬かせてから「好きだよ」そう言った。

「大好きで、愛してるよ。過去形じゃなくて、今もずっと」

ならば、なぜ。その疑問にけれどスパイクは、既に自分の中で答えが出ているのが分かった。そして、それがナマエの想いと同じことも。

「だけどね、知ってるから。あの人が、ヴィンセントの大切で愛した人だって」

肌を重ねた時に伝わってきた。愛など知らないような顔をした男が、けれど誰かを愛したことがあるということが。そして、あの時彼がそれを思い出せたことを。ヴィンセントが、喪ってしまったものをその手に掴めたことを。醒めない夢から、現実へ、この世界と繋がることができたことを。そのすべてを、ナマエは想う。
そして、ヴィンセントが今どこかで生きていることを。愛することを思い出した男は、苦しむかもしれない。何百人の命を奪い、そして奪われた命を愛した人が涙し絶望し犯人の死を願う事実に、罪の重さに。逃げつづける限り法的に罰せられない、自らの大罪に押し潰されそうになるかもしれない。報いも裁きもない生は苦しみに満ち、それはあの時最愛の手にかかって死んでいた方が余程救いがあったのかもしれないと、彼女は自分のエゴを思う。けれど、ナマエはそれ以上に思う。その隣に最愛の人がいてくれるのならば、きっとそれだけで。

「だから、ヴィンセントのことを好きなわたしは今直ぐ会いたくて、声が聞きたくて、抱き締めたくて、傍にいてほしくてたまらなくても。愛おしいって思うわたしは、大好きな人が約束を守って生きてくれてるだけで、いいの。この天が繋ぐ世界のどこかで生きてくれれば、それだけでね、いいんだ」

欲を言うと、わたしがそう思うのとおなじようにね。ヴィンセントにも天を見たらわたしがどこかで生きてるんだって、そう思ってほしいけど。どうなんだろうね。そう言って笑うナマエは、あの時彼女がヴィンセントに“いきて”と言った時とおなじ顔をしているように、スパイクの睛にはうつった。
そして、彼女がそう言うのなら、それでいいのだろう。あの時、もしもヴィンセントが撃っていればその弾道は少女の致命傷になっていただろうが、そうならなかったこととおなじように。

「ちなみに、あんたの治療代やら入院費やらはヴィンセントが勝手にあんたの口座作って、そこから支払われてる。結構な金額が入ってるみたいだぜ」

切り替わった話の、そのあまりの唐突さと驚愕の事実にナマエが「えっ」と睛を丸くする。その歳にしてはどこか達観した雰囲気があったが、そういう顔は歳相応に見えた。

「パスワードはあんたにしか分からないものに設定してあるって言ってたな。確か、ゲームの名前だったか」

ゲーム。ナマエの脳裏に綺麗な青いビー玉が浮かぶ。結構な金額と言ったが、どうやって得たものだとかそういうのはもう気にしないことにした。結局ナマエがここに運び込まれてから今日まで、誰も来なかったあの家の住人に知られないようにしなければいけないと思った。そして、ナマエは自分がどうしたいか考えた。そうして、考えて決めたそれは自分でも悪くないように思えた。

「あのね、わたし人を殺したことがあるの」

突然の告白に今度はスパイクが睛を丸くした。その物騒な内容とは異なり、その声がどこまでもあっさりとしたものだったせいもあった。

「だから、怪我が治ったら警察に自首して、でもそのお金で弁護士さん雇って自分の意思を主張して。自分でちゃんと生きていくために、使うね」

そうやって、生きていたらいつかまた会えるだろうか。分からなかった。分からなかったけど、生きていればなにが起こってもきっと不思議ではないのだ。

「ちゃんと生きていくために、か。ヴィンセントも似たようなことを、あんたに言ってたぜ」
「え…?」
「ナマエ、お前が俺を生きなおさせてくれた……ありがとう、ってな」

スパイクの優しい眼差しに、伝えられた言葉に、それは自分の台詞だよと心底からそう思ってナマエは笑った。嬉しすぎて泣けない気分だった。
礼を言ったナマエは、用件を済ませたスパイクが「じゃあな」と軽い足取りで出て行ったのを見送ってから、再び窓の外を見た。あの真っ青な天に比べれば、くすんで見える天はけれどその先にあるのはどこまでも繋がっている世界だ。
そうしてから、静かに押し寄せる穏やかな眠りの波にそっと睛を閉じた。睛を閉じてもそこにはもう、あのうつくしい青い天がないことを思ったが。それでよかった。睛を開ければそこに、見たい天は広がっている。
だから、それでよかった。


20130618







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