「ヴィンセントは、髪撫でるの好きだね」

引っ張られることもなく、ただ触れるか触れないかの指の動きを感じながらナマエは言った。神経が通っていないと分かっていても、するりと零れるその毛先から男のぬくもりが伝わってくるようだった。
ちらりと覗き見れば睛が合って、そのまま細められる。ゆっくりとした微かな表情の動きが、笑っているのだと気付いてナマエは自分の睛が静かに開くのが分かった。稀に口端だけを上げる、笑っていない笑みとは異なるそれに驚き、そして見惚れているとヴィンセントは「そうだな」とそのままの顔で言った。
なぜだかナマエは急に恥ずかしくなり、顔ごと睛をそらしてから後悔した。もっと見ておけばよかったと思ったからだ。そうして、照れ隠しのように「む、昔はね、もっと長かったんだよ」そう言った。

「ずっと伸ばしてたから、腰まであって。いつも祖母がね、梳いたり結ったりしてくれたの」

癖はあったが、光を受けて輝くやわらかな白金の髪を祖母はいつも綺麗だと言ってくれ、だからこそ長い髪は少し邪魔だと思っていても伸ばしつづけていた過去を思い出しながら言ううちに、ほのかにあった頬の火照りもなくなる。その髪も祖母が他界し、あの家に引き取られた途端に容赦なく切り取られた。この時世でも、人毛の鬘はいい値で売れるらしい。呆然と泣くこともできず、鏡にうつった自分の短くなった髪を見ていた時に耳にした言葉を言ったのは、父親だったか母親だったか。もう覚えていない。それからも、この三年間ある程度伸びると切られたせいで、彼女はすっかり今の長さに慣れてしまっていた。けれど、もうそれも終わりだ。
先日、帰宅したあの家で彼女の恐怖する事態は起こらなかった。父親の遺体が見つかったという話はけれど、引ったくりにでもやられたのだろうということで簡単に決着がついてしまった。
このスラムではそんな話もそう珍しいことではなかったせいだろう。母親はナマエがやったのではと訝しんでいたが、警察の話によると一発の銃痕以外に鈍器で殴られたような痕が多数あり、それは少女の細腕、それも片腕では到底残すことのできないものだということで。彼女が疑われることはなかった。その話を聞いた時、ナマエはただヴィンセントのことを思った。
そして警察も、その日はアルバシティの高速道路であった爆破事件の優先度が高いせいか、犯人を捜索するとは言っていたがそれどころではない様子があった。ニュースも四百人以上が亡くなった、なんらかの物質を使った原因不明のテロの話題ばかりを流す中、父親が殺された事件の記事は三行にも満たなかった。
そして次の日、葬儀が終わったままの足でナマエはこの部屋に来た。既に窓外は夕焼けの赤橙に染まり、影の濃い時間帯になっている。

「ハロウィン、もう直ぐだね」

二十八日の今日は、もうどこか来る祝祭のムードが濃くなっていた。街行く人々が、ナマエの睛にはテロのことなど、特に気にしていないように思えた。自分に直接関係がなければ、幾ら原因不明のテロとはいえ現実味が希薄だからだろう。犯人には三億ウーロンもの賞金がかけられたと聞き、賞金稼ぎが街に集まってきているらしいと来る途中小耳に挟んだ。

「ああ、パーティーはまだ序章に過ぎない」

白金の毛先を撫でながらヴィンセントが紡いだ言葉にナマエは微かな疑問を抱いたが、それが街の至る箇所を飾りつけるハロウィンの装飾といったものを指しているのだろうと、次の瞬間には思考の片隅へと消し去られる。

「ハロウィンの日は、どうするの?」
「アルバシティへ行く」

問いかければ返答がある、その事実にナマエは今日のヴィンセントはいつもより饒舌だなあと思った。

「アルバシティ…って、すっごく大きなハロウィン・パレードやってるところに?」

火星のクレーター都市であるアルバシティは、郊外であるこのテンペ地区とは異なり高層ビルの立ち並ぶ言わば都会であり、三十一日にそこで大規模なハロウィン・パレードが行われることは毎年の恒例行事だった。アルバシティでも屈指の大イベントと称してもいいくらいであり、ナマエも何度か行ったことはある。首を傾げて問えば「ああ」と短い返事があった。

「だから、あの魔法使いの帽子。ヴィンセントも仮装するんだ」

今日訪れた時に、コートと一緒にかけてあった黒い尖り帽子の違和感がようやく解けたことにナマエは満足していた。帽子だけなのでどうかと思っていたが、この男の場合黒く裾の長いコートを羽織っているいつもの姿に被るそれだけで仮装は成立するような気がした。

「ヴィンセントは魔法使いかあ……わたしは、今年もジャックかシーツ被ってゴーストかな」

あの家でもハロウィンの習慣はあったが、妖精や魔女を模した可愛らしいドレスを与えられる実子とは異なり、養子のナマエはいつも薄汚れたカボチャやツギハギのシーツに睛の穴を開けたものを自分で拵えるだけだった。そして、あの家族とではなく近所にある孤児院で行われるハロウィン・パーティにボランティアとして手伝いに行って過ごしていた。
祖母といた頃は、お気に入りの白いワンピースに羽根をつけた天使の格好が多かったことと同時に、お菓子を貰いに出掛ける自分を送り出してくれた祖母の笑顔をつい思い出してしまう。それでも、今のナマエは笑うことができた。ジャックでもゴーストでも、隣にヴィンセントがいてくれればそれだけでよかったからだ。
そう思っていると、不意にするりと男の指先が離れていった。どうしたのかと窺うと、ちょうど立ち上がったところでそのままコツコツと足音をさせ、角を曲がり消えていった。つい視線で追ってしまったまま男の姿が消えた角を見ていると、ややあってからまた戻ってきた。男は特になにも変わりない様子だったが、彼女はその手にあるものに睛を瞠った。ナマエの坐るソファへと歩んでくるヴィンセントが持っているのは、真っ白な羽根だった。ふわふわと柔らかそうな、見るからに人工物の一対の羽根は用途など分かりきったものだった。ただ、ヴィンセントがそんなものを用意してくれていたことに驚いたのだ。

「ヴィンセント…それって、」
「昨日の服に合わせればいい」

昨日の服。それは血塗れたナマエの着替えとして渡された白いワンピースだ。
差し出されるままについ受け取ってしまい、彼女は見た目とおりのやわらかな手触りを感じながらつい羽根とヴィンセントとを交互に見てしまう。男には、白いワンピースも、昔天使の仮装をしていたことも話してはいないのに、どうしてだろうとナマエは思った。どうしてこんなにも、おなじ、自分の希むものをくれるのだろうかと、そう。それでもヴィンセントが、あの白いワンピースを着てこの羽根をつけて、天使の仮装をすればいいと言っているのは十分過ぎるほどに理解できたから、ナマエはただ嬉しかった。

「ありがとう」

嬉しくて、こんなにも幸せでいいのかとすこしだけ怖くなった。


帰宅する段階になってナマエは「あ、あのね。明日と明後日は近くの孤児院のハロウィンパーティーの準備手伝ったりするから、ちょっと来れないかもしれないけど……三十一日は必ず来るから」そう言った。
できるだけヴィンセントと一緒にいたかったが、こちらのほうが先約であり破るのは忍びなかったからだ。それでも、彼女は男に抱きついて、ぎゅっとすこしだけその胸に顔を埋めてから見上げる。長身の男と小柄なナマエとでは身長差がだいぶあるため間近では、首が痛いほど見上げなければいけなかったがそんなことも今の彼女には気にならなかった。ただ、切に願いを込めて。

「置いてかないで、ね」

そう言った。ヴィンセントは抱き返すことはしなかったが、その手はやわらかく彼女の頭を撫でた。

「ああ、分かっているさ」

低く抑揚のない声にすら、どこか優しさを感じてしまうのは自分だけなのだろうか。ナマエは思いながら、名残惜しげに男から離れた。

「ばいばい、ヴィンセント。また、ハロウィンの日にね」

そうして、笑顔で手を振って彼女は扉を閉めた。手が振り返されることも、返事もなかったが、ナマエにはちゃんと扉の閉まる最後まで男が自分を見てくれていた、それだけでよかった。それだけで、本当に幸せだったのだ。
結局言葉とおりに会えないまま迎えた二日後、十月三十一日。ハロウィンの当日の朝、身支度を整え家の人間の誰にも見つからないようにはやくから家を出て、どこまでも軽く感じられる足で駆けた先。辿り着いた部屋に男がいないことなど、思ってもいなかったのだ。



風が吹きすさぶ橋の上に、コツコツと響く足音があった。
アルバシティと郊外とを繋ぐ橋の、人々が通常使用する道路ではなくその頭上に組まれた鉄骨の上をひとりの男が歩いていた。朝の白い光に照らされる魔法使いを模したシルエットは誰の睛にもとまることなく、ただ風だけがその長い黒髪やコートの裾をはためかせる。その無感情なおもてからは、なにを考えているのかは到底理解できないものだったが、その思考の片隅にはひっそりと、けれど確かに破られた約束があった。置いていかないでねと、自分を見上げてくる不安に揺れたスカイブルーの瞳があった。
予定外であり予定調和な事態が起こったせいだったが、それでも男は何事もなくこの祝祭の日を迎えていたとして、そこに、自分の横にその姿があったかどうかは定かではなかった。どちらにしろ守るつもりはなかったのではないかとすら思うほどに、そのイメージは希薄だった。
男は思う。綺麗でうつくしい、スカイブルーの瞳に白金の髪の生き物のことを。羽根のない、煉獄に囚われたあわれな天使のことを。
高層ビルの立ち並ぶ街並みが、橋の向こうに広がっている。その中でも、群を抜いて高くそびえるのは天と地を結ぶ橋だった。そこが、終着点だった。醒めない夢の終わる場所を目指して男はひとり、ただ歩いた。



その光景を見た瞬間、頭が正常に作動しなくなった。
違和感はあった、鍵のかかっていない扉がそうだった。そして、開けた瞬間漂った濃い血のにおいとおりに、狭い通路には死体があった。血塗れた見知らぬ男の死体に恐怖はなかった。そして、その傍らで手足を縛られ倒れている女性がどこか呆然と見上げてくることさえ気にはならなかった。ただ、彼女は思ったからだ。ヴィンセントは?ただ、それだけをナマエは思ったからだった。
その問いが知らず口に出ていたのだろう、女性が「あ…あんた、あいつの仲間なの…?」そう訝しげな声を発するのが聞こえて、ナマエはそこでようやく生きている女性を見た。綺麗に揃えられた黒髪に、整った容姿と身体つきからはナマエにはどういう生業をしているのかは分からなかったが、この死体を作ったのが女性を縛ったのが男の、ヴィンセントの所業だということは分かった。だから、彼女はもう一度。

「ヴィンセントは…?」

今度は正確に自分の意思で紡いだ。

「あいつなら出てったわよ」

女性はこんな状況でも酷く落ち着いた様子で、あっさりとそう答えた。どこかげんなりとした様子でもあった。
けれど、ナマエはその言葉を耳にした瞬間、急にこの世界が遠く感じられたが、愕然とする脳裏でそれでも残酷なまでに理解してしまう。置いていかれたという事実を。一緒に連れていってもらえなかったという現実を。まず彼女が思ったのはどうしてという疑問だったが、どこかそれは愚問のように感じられた。いつか抱いた思いのままに、夢のように消えてしまっただけのように感じられた。
彼女の思考は知らず諦観へと向かっていた。諦めることは楽だったからだ。けれど、彼女はぎゅっと片方だけの手を握った。スカイブルーの瞳は確かな意思を湛えた。諦めたく、なかった。

「ヴィンセントは、どこに行ったの?」

アルバシティだということは知っていた。けれど、あまりにも広大過ぎる都市のどこへ向かったのかをナマエは知らなかった。縋るようでいてはっきりとした声に、女性はペリドットの瞳で真っ直ぐにナマエを見たあと「ねえ、あんた」そう口を開いた。

「教えてもいいけど、先にこのテープどうにかしてくれない?」

交換条件に、悩む理由はなかった。ただ、女性の手足を拘束するテープを解くのは時間がかかりそうに思えた。その視線が知らず、男の死体に刺さったナイフへと向かう。膝をついて、ヴィンセントの物と思われるそれに右手を伸ばす。

「ちょ、あんた…、」

女性のどこか驚愕に満ちた声を聞きながら、ぐっと握れば埋まった刃から肉の感触が伝わってくるようで、ナマエの顔が歪む。こころの中で謝罪を口にして、一気に抜き去った。白銀を濡らす赤い血を男の服で拭ってから、女性の方に向き直す。まさか、ナマエがそんなことをするとは思っていなかったのだろう、その睛は驚きに見開かれていた。それも当然だった。今のナマエの格好は、白いワンピースに身を包みその背に一対の羽を持つ、天使だったからだ。

「あんた…なに……ほんと、あいつのなんなわけ?」

うつ伏せになった女性の身体の足元で、ナイフを使ってテープを切るナマエは問いかけにただ静かに、どこかすこしだけ困ったように微笑んで「分からない」と答えた。

「わたしはね、ナマエって言うの。お姉さんは?」
「フェイ・ヴァレンタインよ。ただの三億ウーロンがほしい賞金稼ぎ」

女性は、フェイはナマエが分からないと言ったが、その口調からは親しいように感じられた。そして、分からないのは自分の方だと言いたかった。フェイにはナマエを見ても、ヴィンセントの共犯者であり今や部屋の奥で死体となっているリー・サムソンや、目の前の死体の男とは全く違うように思えていたからだ。左腕が肘から先が欠損していることや、至る所を包帯やガーゼの病的な白で覆われているとはいえ、白金の髪もスカイブルーの双眸も相俟って天使の衣装がよく似合っていた。
そうして、その邪気の感じられないまっさらな様子と彼女の身に纏う白は、あまりにもあの男とは対極に位置しているように思えた。白と黒。交わりあうことのない、裏と表のようだというのに、フェイはナマエの口調の端々からヴィンセントに対する好意を感じ取っていた。

「……三億、ウーロン…?」

足のテープを切り終え、今度は腕に取り掛かろうとしていた手が止まる。どうしたのかとフェイが首を捻って見れば、ナマエはなにか信じられないものを見るような睛をしていた。

「三億ウーロンって、それって、まさか…」
「なによ、あんたまさか知らないって言うんじゃないでしょうね。あいつはこの一連のテロの犯人で、ナノマシンってウィルスみたいな殺戮兵器使ってこの世界を終わらせようとしてんのよ!」

盛大に眉を顰めながら言われた台詞に、ナマエは思い出していた。先日もモノレールで爆発が起こり、同時に撒き散らされたなんらかの物質によって死者が多数出たニュースを、その前に起こった四百人以上が亡くなった爆発事件のニュースを。そして、その次の日にヴィンセントが口にした言葉を。パーティはまだ序章に過ぎない。その意味を。この世界が終わると言った男は、確かに自らの手でこの世界を終わらせようとしていることを。
ナマエは、ヴィンセントが終わらせてくれるのだと思った自分を思い出していた。ただ、それは夢のように漠然とした思いだった。それが、フェイの言葉によって急に現実味が帯び、鮮やかな輪郭を取り戻すようで、頭がくらくらした。それはヴィンセントになにも聞かず、ただ幸せな夢想に縋り付こうとした自分の罪に思えた。だから、置いていかれたのではないかと罰を思った。
そして、呆然とするナマエを見てフェイは彼女が本当になにも知らなかったことを理解した。

「ちょっと、呆けてないでさっさとしてよ!」

だが、そんなことはフェイには関係なかった。いつまでもこんなところで芋虫のように転がっている場合ではなかったからだ。
その言葉に、ナマエは静かに腕のテープを切った。ようやく身軽になった身体に、フェイは立ち上がりながら凝り固まった筋肉を解すように伸びをした。そして、急いで部屋を後にしようとした。約束など破るためにあるというのが信条であり、依然どこかぼんやりとしているナマエがもし仲間であっても、賞金がかかっていないのならばなんの得にもならないからだ。けれど「ねえ、あんた」そう声をかけてしまったのは、きっとこの少女の纏う薄幸さが癇に障ったからだろうとひとり納得させた。どいつもこいつも、と思いながら俯いたままのナマエに向かって言った。

「あんたはどうしたいわけ?あいつは言ったわ、天と地を結ぶ橋にいるって」

じゃあね、約束は果たしたから。言って、フェイは立ち去ろうとして、できなかった。「待って」と儚くも鮮明な声がかかったからだ。

「お願い、わたしも連れて行って」

真っ直ぐにフェイの睛を見て言うナマエの双眸に、一瞬で面倒くさいものを感じとった。彼女の睛に込められていた意思が、決して折れないでどう扱おうがついてくると悟ったからだった。

「無理ね。言っとくけど、あたしのモノマシンはひとり乗りよ」

嘆息とともに冷たく言われても、フェイの予想とおりに「お願いします」ナマエは、そう頭を下げた。フェイは、もう一度溜息を吐いた。


「いい?しっかりしがみ付いときなさい、落ちてもあたしのせいじゃないわよ」

近くに停めてあったフェイのモノマシン、レッドテイルまでの道中でどうやら仲間と連絡を取り合っていたらしく。通話が切れたあと、フェイは「気象コントロール・センターに行くことになったわ。そこまででいいなら送ったげる」そう後ろを走っていたナマエに言い、彼女もまた頷いた。
政府の公約機関であり、この火星のクレーター内の天気をコントロールする施設、気象コントロール・センターはアルバシティにあったからだ。ナマエはモノレールを使うことも考えたが、切符代も持ち合わせていなくここから駅までは距離がある。彼女はただ、はやくヴィンセントに会いたかった。それだけだった。
レッドテイルの二本あるガンアームの片方に括り付けられ、目蓋を開けているのが困難なほどの風を一身に受けながらナマエは、自身でも片手でしっかりと機体を掴んでいた。彼女の身を気遣ってはいるのだろう、できるだけ低空飛行をしているがそれでも風は冷たく、じきに指の感覚はなくなった。
したは見なかった。見てしまえば、恐怖で足が竦みそうだったからもあるが、ナマエの見たいものはただ前にあった。天と地を結ぶ橋。それがどこを指すのかを、彼女は分からないといけなかった。
息すらし辛い強風の中、ナマエは会ってどうするのだろうと思った。なにを、自分は言いたいのだろうと思った。
置いていかれたことや、なにも聞かないでいたこと。男の、ヴィンセントのやったこと。そして、これからやろうとしていること。そのすべてを思う。そうして、考える。自分がどうしたいのかを。彼女はこの三年間ずっと自分というものを殺して生きてきた。こんな生になんの意味があると自問しても、そうしなければ生きてこれなかったからだ。あの家では、ナマエという人間の意思も感情も想いもすべて必要なかったからだ。
けれど、とそこで彼女は思う。それは、そうしなければ生きてこれなかったそれは、けれど、生きていなかったのではないかと。そんな生は死と同義なのではないのかと、そう。それは笑ってしまうくらい今更で、けれど今気付けてよかったとナマエは思った。
そうして、男のことを考えた。ヴィンセント・ボラージュという男のことを。自分の幸福な記憶と、残酷な現実を重ね合わせるように、ただ想った。
ヴィンセントのことを止めたいのだろうか。分からない。この世界を救いたいわけではなかった。自分は未だにこの世界が終わることをどこかで希んでいる。フェイから聞いたことによって、それが今この世界で生きている人間がすべて死に絶えることを意味しているのだと理解していても。きっと自分も死んでしまうことを理解していても。ただ、ヴィンセントも死ぬのかという問いの返答「あいつはカウンター・ナノマシンって、ワクチンみたいなのを身体の中に持ってるから死なないのよ」をナマエは思い出していた。
ヴィンセントが、この世界の終わりにひとり残されることを。それはまるでソリタリアのように思えた。最後に残るのは、ひとつ。けれど、そこで彼女はなにか違和感のようなものに気付く。ヴィンセントが世界を終わらせようとしているのは、きっと事実だったが、けれど、それならばなぜあんなことをしたのだろうかと。違和感は確かな疑問になる。
確実にこの世界を終わらせたいのならば、誰にも気付かれないようにひっそりとただナノマシンを使う方が余程正確であり、なんの邪魔も入らない。そう、邪魔だ。あんな風に、タンクローリーやモノレールを爆発したのは、まるでナノマシンの存在を“誰か”に知らせるような行為に思えてならなかった。それは、どこかゲームのように思えた。ヴィンセントが“誰か”に対して放った誘い。それは、相手だ。ゲームの相手。ひとりではない、ゲームのための。ソリタリアのようではない、明確に存在する相手とのゲームのための。それは、止めてほしいというのとはどこか違うようにナマエには思えた。ヴィンセントはただ、誰かとゲームを楽しみたかったのではないかとすら、ナマエには思えてならなかった。
同時に、それが自分ではないことを理解して、勝手な思い込みかもしれないと分かっていても泣きそうになった。本当に自分がヴィンセントのことを、なにも知ろうとも理解しようともしなかったことを後悔した。
そのことが、悲しい。自分にはそんな資格すらないと唾棄していても、この現状がただ、悲しかった。
だから、彼女は考える。後悔に浸るという楽な道へ逃げる卑怯さを捨てて、考える。止めたいわけではなかった。自分が生きたいわけでもなかった。死んでも構わなかった。
ただ、嫌だった。この世界とも誰とも繋がっていない男を、夢の中で生きている男を、これ以上ひとりにしたくなかった。そう、それだけだ。自分の、意思と感情と想いが、ナマエ・ミョウジのしたいことは、ただそれだけだった。
眼前にアルバシティの高いビル群が見えてくる。直ぐ乾くせいで、目蓋を開けていることは難しかったが、それでも必死で見た。そうして、ひとつのものを見た瞬間気付いた。ビルの向こうから覗くまるで天高くそびえる、この街で最も高い建造物。アルバタワーだ。複雑な構造の鉄骨で覆われたそれは、天と地を結ぶ橋という比喩にナマエの中でぴたりと当てはまった。
あそこにヴィンセントがいる。抱いたそれは確信だった。











- ナノ -