死体が転がっている。
板張りの床を赤く染めながら、血溜まりがゆるやかに膝の傍まで広がってゆくのをただ見ていた。その発生源は穴の開いた背中だった。そこだけ破れた周囲の衣服が赤くなっている。ただ、それはうつ伏せになっているからだった。銃弾は正面からその胸を貫通し、重力に従って零れ出る血もまた床に面した胸元に開いた穴からだ。だらりと下がった右腕のじんじんと痺れたようだった痛みもいつの間にかなくなっている。ただ、きっと赤く腫れ上がっているであろう頬は未だ熱く鈍い痛みを発していた。
視界の隅に赤黒く濡れた銃がうつる。血溜まりが迫ってくるのを、避けようという意思はなかった。今更のことのように思えた。ちらちらとうつり込む、自分の手も衣類も赤く染まっている。死体のしたから抜け出す時にべったりと付着した血は、拭う気にもならないほどおびただしく。そうして、今の彼女にそんな思考は存在しなかった。
ただ、ぼんやりとしていた。
やがて血が、へたり込んでいた膝にまで届く。届いて、どれくらい時間が経っただろうか。気付いた時には黒い靴の先が視界にうつっていた。
それが誰のものかは考えなくとも分かっていた。どこかへ出かけていた男が戻ってきたのだろう。戻ってきた住処で、死体と血塗れた自分をどんな睛で男が見ているのかはナマエには分からなかった。男はなにも言わずに、ただそこにいた。

「ごめ、んなさい……汚し、ちゃった」

ぼんやりとした中で、それでもまず思ったのは汚してしまったということだった。部屋を、この大切な部屋を、汚してしまった。どうしよう。ということだった。けれど、一旦脳が稼動しはじめればフラッシュバックするのは生々しい映像と音声と感覚だ。

「これね……父親、なの。あ、もちろん…ほんとの親じゃない、よ?遠いね、親戚…っていう家の、ね、わたしをいつも殴ったり蹴ったり、するひとで、ね」

そう、今目の前にある死体は父親だった。父親だったものの死体だった。

「わたしが……いつも、どこに行ってるのかって、つけてきてたみたいで」

先日の怪我があまりにも酷かったおかげで、今日は客を取らされることはなかった。確実に死の間際まで追いやっておきながら、それでも父親も母親も彼女を殺すことがなかったのは、金の卵を産むガチョウを殺すほど馬鹿ではなかったからだ。生かさず殺さず“人”としての彼女はただ飼い殺されていた。だからこそ、ナマエはその睛を盗んでこの部屋へと一時の逃避をすることができていた。けれど、それが今日崩れたのだ。
いつもとおなじように、けれど先日のことがあったからかいつもよりも足取りは軽く。嬉しさや僅かな羞恥心、そしてとくとくと知らずはやるこころから溢れるあたたかな感情。どこか面映ささえ感じてしまう、ひさしぶりの、もう二度とないと思っていた大切なそれを胸にナマエは廃屋を目指していた。眠るのに差し障るほどに傷は痛み、眼帯も未だ片目を覆っているがそれでも彼女はただ男と会えることだけを思った。
辿り着いた室内には、今日も男の姿はなかった。微かな安堵と落胆に、ソファに坐ろうと思って、やめた。イスに、いつも男が坐る方のイスにそっと腰掛けた。テーブルの上にはちゃんと終わっているゲーム。盤の中央で煌く青いビー玉は、今日も綺麗だった。手にとって、光に翳したり指の間で転がしたりしている静寂の時間すら、今の彼女にとっては幸福なものだった。ただ、そのささやかな幸福はバタンと勢いよく開いた扉の音によって遮られた。
彼女は男が戻ってきたのかと思ったが、それにしては音がおかしかった。男は、あんな大きな音を立てない。心臓が跳ねるような、まるで力任せに開いたような音はむしろ、この部屋ではなく、あの、家で耳にするものの、ような。そこで、思考は途切れた。指の間から青がすり抜けて、床に落ちる音すらどこか遠かった。入ってきたのが、予感とおり男ではなかったからではない。それが、父親だったからだ。

「すぐに、逃げようとしたけど……いつもこんな所に逃げ込んでやがったのか、って…そう、捕まって、それ、で」

一瞬で身体を支配した恐怖と嫌悪に抗おうとしたが、捕まった拍子に倒れたまま馬乗りになられてしまえばもう逃げることは不可能だった。
必死で振り上げた手を煩そうに払われる中、それでもがむしゃらだったそれは押さえつけようとしてくる腕を強く引っ掻いた。視界に赤い線が走ったと思った時には、自分を見下ろす濁った睛に憎悪が灯るのが見えた。その一瞬のあと、視界は弾けた。衝撃に、遅れて灼熱と激痛が神経を刺した。けれど、彼女は経験上理解していた。殴られたのだと。戻ってきた視界で、まず彼女がうつしたのは薄汚れた床と、その先にあるイスやテーブルの脚、そしてひとつの青いビー玉だった。それを見た瞬間、どうしてだろうと思った。
この部屋は、この部屋だけはこの狂った世界の中でたったひとつだけ安らげる場所だったはずなのに、どうしてだろう、と。
この部屋まで犯されてしまったことがどうしようもなく、悲しくて哀しくて。殺されても構わないから抵抗しようという気さえ消し去られた。大人しくなったナマエに、それが自分の暴力に屈したと勘違いしたのだろう。次に彼女の身体に触れたのは、拳ではなく開かれた手だった。吐き気を催す劣情と欲にまみれた手だった。

「思えばずっと、この人もわたしのことをそう、したかったんだろう、な……こんなとこで誰と会っていやがった、って、どうせ男を咥え込んでたんだろうこの売女って、そう、おかしなこと、ばかり言う…んだ、よ?そんな、こと…この人に、なにが、関係あるん、だろう、って……わたしを、勝手に…お金を稼ぐ道具と、して、扱っておい、て…ね、おかしい、ね」

ぶつぶつと言いながら身体を弄る手に、彼女のこころは染み付いた条件反射で閉ざされようとしていた。そうすれば頬の痛みも、口端が切れたのだろう口内に広がる鉄くささもどこか遠いものになる。そうしてしまえば、なにも感じず傷付くこともないのを彼女は知っていた。もう、ずっとずっとそうやってやり過ごしてきた。簡単なことだった。
そこではこの部屋のことすら薄れて消え去っていくようだった。ただ、四肢が汚泥の沼へとゆっくり沈んでいく感覚の中で、なにもうつしていなかった瞳に黒が入り込む。ハッと、した。求めてやまない色は、けれど男ではなかった。それは、父親の腰の辺りから覗いている銃だった。
それを見て、はっきりと認識した瞬間意識は途端にクリアーになった。色彩も五感も感じるすべてがナマエの身体とこころに戻ってきた。そして、彼女はそっと気付かれないよう右手を伸ばした。救いを求めるようにでも、縋り付くためでもなく、ただその手に掴むために。ぐっと、硬く無機質なグリップを、握り締め、そして、

「撃った、の」

銃口を胸元に押し当てて、その感触に気付いた顔が、睛がぐるりとしたを見ようとするのを、どこかスローモーションのようにうつしながら彼女は思い切り引き金を引いた。
なにか大きな破裂音が響いたと思った時には一瞬、呼吸が止まった。右腕がバネのように弾けるのを感じた。背中が床に面していなければ、その身体は後ろに下がっていただろう衝撃を感じる暇もなく、赤が散った。驚愕に見開かれた睛、濁った白目と淀んだ虹彩を、父親の睛を彼女はその時はじめて真っ直ぐに見た。
そして、その瞳のまま胸元を赤く染めながら彼女の方へ倒れてきた。咄嗟に避けようとしたが、反動で動かない右腕では不可能でありそのまま押し潰された。重かった。あまりにも重い身体に圧迫された肺が苦しい。父親は動かなかった。彼女がどうにかそのしたから抜け出す間も、もうぴくりとも動かなかったそれは人間ではなかった。それは、死体だった。自分が殺した、死体だった。

「殺しちゃった。この人、わたしが殺した、の。悪いこと、しちゃったから刑務所いきだ、ね、わたし」

訥々とぼんやりしたまま話す彼女の声音には、それまでなにも込められていなかった。ただ起こったことを無機質に話していた声に「でも、」そこで微かな乱れが生じる。

「悪いこと、なのかな。わたし、ほんとに、悪いことしちゃったの、かな、殺しちゃ駄目だった、の、かなあ…っ」

それは静謐な水面の奥底にあった、ぐちゃぐちゃでどろどろと渦巻くものが堰を切るようだった。なにもうつしていない片方だけの睛から、ぼろぼろと零れ落ちる。

「どうしよう。もうこれでほんとに、行けない。あの青い天に、わたし行けなくなっちゃった。どうしよう、どう、しよう、」

ただ俯いて空虚を捉えていた視線が上がる。反った首が痛いほど見上げた先で、ようやく希んでいたものをうつして、

「どうしよう、ヴィンセントとも、も、う会えなくなっちゃう…っ」

それは、絶望に塗れた悲痛な叫びだった。涙の膜を張ったすべての輪郭が滲む視界で、男が、ヴィンセントがどんな表情を浮かべているのか、どんな睛で自分を見ているのかがナマエには分からなかった。それでもただ、きっといつもとおなじ無表情になにもうつしていない睛をしているのだろうと思った。
彼女は、陳腐で面白みに欠けるありふれた不幸の話など、男のこころを動かすことがないのをどこかで理解していた。だって、これは夢だ。男の醒めない夢だ。ああ、それならば本当にもうどうでもいいのかもしれない。くらりと眩暈がしそうになる視界で、ヴィンセントが背を向けたのが分かった。足音が遠ざかってゆく。ナマエは手を伸ばすことも、そのうしろ姿を追うこともしなかった。ただ、これでもうこの男とは会えないだろうなと思った。それでももうよかった。地獄に堕ちるしかない身など、もうどうでもよかった。
未だ涙の止まらない睛を瞑る。明るい暗闇になにを思うでもなく、ただそうしていた。
そして、どのくらい経っただろう。次に睛を開いた時、もう溢れるものはなかった。死体と血溜まりをうつした虚ろな眼差しが、その奥に転がっている黒で静止する。そっと手を伸ばして、掴んだ。先刻とおなじように、人差し指を引き金にかけて重い鉄の塊を落とさないようちゃんと握る。そうして静かに、ただその銃口を自分のこめかみに当てた。髪の毛で滑る硬さを感じながら、人差し指に力を込める。直ぐに強い抵抗へ行き当たったが、これを力で捻じ伏せればそれで終わることを彼女は分かっていた。
銃を右手に、幸せを握りしめるように、思いきり、力を込めて、引き金を、

「     」

ずるりと、簡単に抜けていった。上に引き摺られて、手の中からなくなった。あまりにも唐突な重さの消失に、え、と思う。思ったまま見上げた先に、男がいた。黒衣に身を包んだ、長い黒髪に無造作に伸びた髭の、血色の悪い肌をした男が。ヴィンセントが、そこにいた。
そして、その右手に銃身が掴まれているのをうつして、彼女は。ナマエは、立ち上がる反動のままヴィンセントに抱きついた。
血に塗れていることも、痛みも感情もすべてを忘れてただ、その背に回すことのできる右手だけでなく、残った左腕にも想いを込めてぎゅっと抱き締めた。引き剥がされることは、なかった。受け入れられているかはナマエには分からなかったが、それでも受け止めてくれていることを思った。それだけで、よかった。
今頭を撫でられるとまた泣いてしまいそうで嫌だったが、ナマエはくしゃりと自分の短い髪を男の手が梳くのを感じた。涙が、出た。



ナマエはソファの上で膝を抱えて坐っていた。その頬は手当てされ、身に纏っているのは白いワンピースだった。血の赤などどこにもない姿は、ヴィンセントがしてくれたことだった。
どこから持ってきたのか、あのあと消毒液やガーゼといった救急の道具で手際よく自分の手当てをする男を見ながら、これを取りに行っていたのかとナマエはぼんやり思った。濡れたタオルで拭われ、そして洋服を渡されたので別室で着替えて出てくるとヴィンセントは血塗れた服を彼女の手から取り、おもむろに死体の足を掴んだ。なんの躊躇も迷いもなく、そのまま引き摺って出て行こうとするうしろ姿に、ナマエは思わず「ヴィンセント…?」声をかけていた。ヴィンセントは微かに振り返って「お前はここにいろ」それだけ言うと、扉の向こうへ消えた。
ヴィンセントがいなくなったあと、ナマエは他の部屋で見つけてきた襤褸切れで床に残った血を拭った。それをまた見つからないような箇所に隠して戻ってきても、男はまだ帰ってはいなかった。床に落としてしまった青いビー玉も盤上に戻し終えてしまえば、あとはもうすることがなかったのでただ言われたとおりにここで待った。
死体を、どうするのだろう。考えたが、答えは出なかった。それでもナマエは、男が処理をしに行ったのだろうと思った。そして、ヴィンセントにそんなことをする理由がないことも。この部屋に固執しているのは自分だけだ。ヴィンセントは他の部屋や、廃屋であっても構わないはずだ。それは死体とナマエを置いて移ればいいだけの話だったが、そうはしなかった。だから、彼女の思考はないと分かっていても必然、自分のためにという箇所へ辿り着く。もしもそうだとすれば、自分はあの男の睛にちゃんとうつっているのだろうか。自分は、少しでもあの男と繋がることができているのだろうか。そう、思っていると扉の開く音が聞こえて、無意識に顔がそちらを向く。静かな音は、確かに男のものであり、角から姿を現したのはヴィンセントだった。その横顔を見た瞬間、胸に苦しいものが広がる。それは、愛おしさだった。

「おかえり、ヴィンセント」

声をかければ、返事はなかったがヴィンセントはこちらを向き、そのまま歩んでくるとナマエの隣に坐った。
死体のことを訊こうと思って、けれど男のあまりの普段となんら変わらない様子につい言いあぐねいてしまう。あれだけ濃い死のにおいがこの部屋に漂っていたというのに、まるであれは夢だったかのような錯覚に陥るほどだった。けれど、違うとナマエは否定する。どんなにそうであればいいと願っても、あれは現実だと理解していた。だから、彼女は代わりにごめんと謝った。

「ごめんね……ありがとう、手当てとか、服とかも…全部」

先刻はまだ呆けていたため、ちゃんとした礼が言えていなかったので伝えても男はただナマエを見たままなにも言わない。音もなく右手が彼女の顔の横をとおって髪の毛に差し込まれる。指先の撫でる動きがどこかくすぐったく、ナマエは笑った。

「お前はその方がいい」

その言葉に、笑うせいで傷が痛むのも忘れた。

「罪の報いは死という言葉を知っているか?」
「え…?う、うん、知ってるよ」

聖書に記された言葉に、ナマエは頷く。祖母と過ごしていた頃に読むものといえば、殆どが聖書だったからだ。彼女は神を信じない自身のことを祖母と違いカトリック信者ではないと思っていたが、そのせいかそういう考えが根付いていることはどこか無意識下で処理されていた。

「不当な侵略による正当防衛は罪にあたりはしない。大罪を犯したのはあの人間であり、お前ではない」

大罪のひとつ、他人を傷つける行為。ヴィンセントが述べた事柄もナマエは知っていた。冷静になった頭では思い出してもいた。人殺しは大罪だったが、正しい戦争に国家の命令での死刑執行、そのふたつと並んで例外なのが正当防衛だった。そして、婦女暴行が大罪にあたることも。ただ、頭では理解していても殺人を犯した罪の意識は消えない。
それでも、この男が、ヴィンセントがまるで自分の罪を赦すと言っているように聞こえて、ナマエは重い枷が外れたような心地になった。他者に言葉にして言われるだけで、こんなにも違うのかとぼんやり思った。

「……ヴィンセントは、すごい、ね」

そっと、自分の右手を重ねて彼女は微笑んだ。顔の殆どの箇所がガーゼと包帯で覆われた顔で「わたしね」眼帯で閉ざされていない片方だけの細められたスカイブルーの睛に男だけをうつして、

「ヴィンセントが好き」

微笑んで、言った。

「こうやって、ヴィンセントといられるだけでね、幸せなんだ。もうずっと、ひとりで大丈夫だと思ってたのに、今はヴィンセントがいないと駄目になっちゃった」

彼女は、青い天をうつくしいと思うことよりも、喪ってしまった大切なものよりも、かけがえのないこの想いが幸せだと気付いてしまった。ひとりでは駄目なことがあることも、ふたりでなければ駄目なことも知っていた。ただ、もう得ることを恐れて諦めていただけで。

「だから……だから、お願い」

もしもこれが夢だとすれば。自分の、この男の、夢だとすれば。せめて、醒める時は。

「この世界が終わる時まで、一緒にいさせて?」

するりと男の指の間から髪がすり抜けるのを感じながら、そっと唇を寄せた。ヴィンセントと一緒にいたかった。それは切な願いだったが、彼女は不思議と断られてもそう悲しくはないだろうとも思った。繋ぎとめることができるとは、思っていなかった。
そうして、顔を離し目蓋を開いた先で。ナマエの言葉をただ聞いていたヴィンセントの無感情なおもてに、その睛になにか、些細ななにかを探したが、やはりそこにはなにもなかった。ただ、静かに閉じられていた口唇が開くのを見ていた。

「終わる時までなのか」
「ぇ……ん、っ」

すり抜けた手が後頭部を包んだと気付いた時には、唇が合わさっていた。触れるだけの先刻とは異なり、今度はただ深く。触れる髭がくすぐったいのか痛いのか分からなかった。低い体温とは異なり、男の口内も舌も酷く熱かった。間近で細められたエメラルドグリーンの綺麗さに、そしてその睛がどこか優しいように思えて、ナマエは睛を瞑った。


締め切られた窓に、閉じられた扉。性のにおいが満ちた室内は、まるで世界からここだけ切り取られた箱の中のようにナマエには感じられた。
けれどそんな思考も男の膝のうえで、したから貫き揺さぶられてしまえば熱の彼方へ霞んでゆく。背にまわされた手は大きく、落ちることのない安心感を彼女に与えたが、それでもナマエは必死に腕を伸ばしてその身体へとしがみついた。男との行為は、まるで自分の身体をひとつひとつ丁寧に検分し、調べられているような感覚だった。彼女の様子を見ながら性急にでも、ゆっくりでもなくただやることを決めていくような冷静さで触れられる度に、どうしようもなく感じてしまうことなどはじめてで。自分の身体がしっくりと馴染んでいくことが、ただ嬉しかった。
どこまでも濃密なようでいて、かわいた風のように、触れた身体の境界線が曖昧になってくる錯覚。交じり合って、溶けてなくなってしまいたかった。触れれば触れるほどに、確かに自分と男の間に横たわる見えない線が明確になるようだったからだ。だから、彼女は何度も男の名を呼んだ。まるでそこにいることを確かめるように、口付けを乞い願った。男がそれに応えてくれる度に、嬉しくて涙が出そうだった。情欲の希薄な手が、どこまでも優しかったせいもあった。
そうして、ナマエはどこか分かっている自分を思った。そこから伝わってくるものを思った。男の、ヴィンセントとの行為からは彼が誰かを愛したことがあるということが伝わってくることを。この世界とも誰とも繋がっていない、孤独な男の喪われてしまった過去は、それでも確かに彼の中に残っていることを。そのことが、ナマエにはどうしようもないくらい嬉しくて、淋しくて、ただ愛おしかった。
きっと、なにも、ほんとうには喪われていないのだ。
だからナマエは、大丈夫だよ、とこころの中で紡いだ。それはどこまでも、あたたかく、やわらかな感情だった。











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