“アルバ・タイムス 十月三十一日夕刊より抜粋”
本日午后二時頃、アルバシティの上空を飛行中のモノマシンが墜落。乗っていた三十二歳の男性と三十歳の女性は、頭や胸を強く打ち死亡。幼児一名が左腕を失う重症を負った。
同署によると、モノマシンは飛行中突如煙をあげながら墜落。事故現場付近の気象は快晴で無風、見通しがよく対向機体もいなかったという目撃談もあり。同署が詳しい事故原因を調べているが、機体になんらかのトラブルがあったものと思われる。


それは陳腐で面白みに欠ける、ありふれた不幸の話だった。
彼女の人生はその一枚の紙の切れはし、たった数行の文章からはじまった。一番幼い記憶を辿っても、そこに両親の顔も声もぬくもりもなかった。あるのは祖母の銀製の細い鎖に散りばめられたシトリンやエメラルドのうつくしいグラスコードに、その眼鏡の奥にあるやさしいラピスラズリの瞳だ。いつだって穏やかにゆっくりと話してくれる、やわらかな声だ。頭をそっと撫でてくれるしわくちゃで、でもあたたかな働き者の手だ。両親の顔は物心ついた頃に見た、残されたスナップで知っていたが、幸せそうに微笑む男女と、その女性の腕に抱かれた赤子を見てもなんの感慨も浮かばなかった。それが両親で、赤子が自分なのだという認識は酷く希薄だった。まだ五体満足で、この世界のことなどなにも知らないであろうやすらかな寝顔の赤子は、きっとあの事故で両親とともに青い天に行ったのだろうと思った。祖母とのふたり暮らしは、貧困した生活のおかげで彼女が義手を得ることはなかったが、それでも幸福だった。静かにゆっくりと、つつましく過ごす日々は彼女にとって幸せの象徴だ。今でも。そうして、彼女は守られていたことを思う。祖母はずっと守ってくれていたのだと、喪ってから気付いた。
スラム街に溢れる酒と暴力と薬、強盗や窃盗に強姦といった犯罪、人間の欲と性に満ちた血と死のにおい。そういったものから、今までずっと見えないあたたかな殻で守られてきていたことを彼女は思った。思ったのは、祖母の死後引き取られた遠い親戚だという家族のもとで、酔った父親に殴られ蹴られ、母親に労働と称して食事もろくに与えられず扱き使われ、その子どもに嘲笑され蔑まれ、近所の住民の憐れみに満ちた眼差しの底に潜む優越に晒されるようになったからだった。
彼女のはじまりは不幸だったが、その分の幸福もあった。けれど、幸福は決して永劫つづくわけではなかった。それとおなじようにこの不幸な時間も永劫につづくことはない。そう理解していて、けれど終わりの見えないものほど長く感じられるものはない。それは、幸福でなければ、ないほどに、まるで終わりない地獄のように彼女には感じられた。
平たかった胸が膨らみ、初潮を迎えたあとは売春を強要された。はじめての客は父親の友人だという人物だった。エフェボフィリアなど幾らでもいた。ペドフィリアが父親の周囲にいなかったことを、孕んでは面倒だからとピルだけは必ず渡されたことを幸いと思うか否かの思考は塵溜の中に捨てた。肉体的と精神的な暴力と性的な暴行に思春期の不安定な精神が選択する道など数が知れていたが、彼女が選んだのは逃避だった。現実からの逃避。この世界からの逃避。精神が崩壊を来たす前に、彼女のこころは無意識に記憶の中だけのあたたかな殻の中へ逃げ込んだ。
そうして、こんな目にあってまで死なない自分を思った。死にたいと幾度嘆いても、ちいさな金の十字架を見ればどうしても自ら命を絶つことができなかった。祖母から貰った、唯一の形見。自殺をしてしまえば、天国に行けなくなってしまう。そうすればあの青い天にいる両親とも祖母とも、もう決して会えることはないだろう。彼女はそう思い込んでいた。彼女が行きたかったのは青い天だった。こんな出来損ないで汚れきってしまった魂など天国に行けるはずがないと、この世界に救いなどないと思っていても、そう彼女は思い込みたかった。
そうすることでしか、自らを守る術を知らなかった。
現実として逃げ出すことも考えたが、この世界のどこに逃げてもなにも変わらない気がした。それでも、逃げ込める場所がひとつだけ彼女にはあった。祖母と住んでいたビルの一室。今では廃屋となった、生の気配などどこにもしない死んだ場所は、彼女が唯一こころ休まる場所だった。
彼女は夢を見る。それはいつだってうつくしく残酷な青い天の悪夢だった。見たくもない現実のリピートだった。そうして、現実は悪夢よりも残酷で醜穢で終わりがなかった。

それは陳腐で面白みに欠ける、ありふれた不幸の話だった。事実と現実として、それは本当にこの世界ではありふれたものの、酷く矮小で瑣末な事柄のひとつでしかなかった。
けれど、それは誰でもなく彼女だけの不幸だった。



「ヴィンセントは、どこから来たの?」

カツン、盤上に開いた三十三の穴の中央で、ひとつだけ青いビー玉が白い光を受けて輝くのを見ながら、ナマエは口を開いた。
ナマエはヴィンセントがゲームをしている最中に声をかけることは決してしなかった。いつだって、何度も繰り返されるとはいえ一旦の終わりを見届けてから男に声をかけた。ただ、その殆どの場合が彼女の独白となるだけなのにはもう慣れていた。ぽつりと投げかけた言葉に水面が微塵も揺らがなくとも、彼女はなにも気にしなかった。それは、言葉が拒絶され跳ね返ったわけではなく、その水の奥底に沈んでいくことを思っていたからだった。
無言の間もただの心地よい空間だったが、ナマエが、以前このゲームをやらせてもらった時には何度してもヴィンセントのように終わらせることができなかったことを思い出していた頃「この世の果てだ」低い声が聞こえた。視線を青から男へと上げれば、ヴィンセントは窓の外を見ていた。

「タイタンで、俺は三年前すべてを喪った。過去の記憶も、現在の自分もだ」

タイタン。土星の十五番目の衛星であり、この火星と同様にテラフォーミングされた数少ない星だったが、その地は木星の衛星を主体とする国家が植民地化を謀ったために内戦状態がつづいていた。
そんな、以前ニュースで耳にしたことがある情報が、ナマエの脳裏にぼんやりと浮かぶ。断片的な言葉の意味をどうにか理解しようとして、結果ナマエが思ったのはこの男は、もしかして軍人だったのだろうかということだけだった。右手の刺青も、そう考えてみればどこか軍のマークのようなものに見えてくる。けれど、そう思っただけだった。今目の前にいる男が喪ったものを聞いても、なにも浮かぶ感情はなかった。
ただ、男の睛の理由がすこしだけ分かったような気がした。そうして、自分がヴィンセントに対して抱くものがなにもないのと同時に、どうしようもなく安心してしまう理由が。それは、孤独だった。そう称していいのかもナマエには判別できないくらいに、この男は、ヴィンセントはこの世界でたったひとりなのだろう。否、その表現すら彼女には正しくないように思えた。違うと思った。きっと、きっとこの世界すら、違うのだと、そう思った。

「あの時、俺は蝶を見た。夢のような、この世で最もうつくしい蝶だ」

射し込む光に淡く照らし出された横顔は、窓の外をうつしているはずの瞳は、まるでその蝶を見ているようだった。

「だが醒めない夢は現実だ。俺には分からない。あの蝶のいた世界が現実でこの世界が俺の夢なのか、それとも俺はもうとっくにタイタンで死んでいて、この世界は蝶の見せた夢なのかすら、もうそれすら」

無感情に抑揚もなく紡がれる声は、けれどどこか唄うようだとナマエは思った。真っ直ぐにその横顔を見たまま、耳とこころを傾けていると音もなくヴィンセントが振り向く。振り向いて、

「お前には、分かるか?」

そう言った。それは、ナマエにとってはじめてのヴィンセントから問いかけだった。だから、誠実に真摯に偽りなく答えたかった。ただ、その思いは結果としてなにも残さなかった。

「ごめんね、わたしには分からない」

すこしだけ分かったような気がするだけで、それは自分の思い込みにすぎないことを彼女は十二分に理解していた。理解していて尚、この男のことを理解したいと思うのは傲慢なことなのだろうか。ただ、勝手に分かった気になるのは嫌だった。だからそう、分からないまま素直に答えた。

「分からないけど、夢なら、それはいつか醒めるものだから…………だから、きっと大丈夫だよ」

最後の言葉が、男ではなくむしろ自分に向けられたものだということも彼女は理解していた。
醒めない夢。ヴィンセントの言葉は、まるで自分のことを言われているようだったからだ。ただ、彼女はまだどうにか夢と現実の線引きができていた。それだけの差は、しかし大きかった。それは完全に似て非なるものだった。ぼんやりと白昼夢に霞む視界で、前髪がかかる男の暗く澄んだ睛が光を受けて一瞬エメラルドグリーンに輝く。瞬きの間に消え去った色に彼女はそれこそ夢かと思ったが、違うと否定した。それは、目蓋の裏にくきやかに残っている。忘れることも、夢だと思うこともできないうつくしい色だった。
そして、ナマエは思う。別の世界を見ている“よう”ではなかったことを。ヴィンセントの睛にうつるのが、その蝶の世界であることを。きっとそれは本当に、自分の青い天とおなじうつくしい世界なのだろうことを。恐らく自分には永遠に計り知れない、ヴィンセント・ボラージュという男の、不幸のことを。
ナマエのこころもまた、穏やかだった。凪いだ水面の静謐さを思う。思うのに、どうしてだろうと、彼女は不思議だった。こんなにも苦しくて切なくて悲しいのは。どうして。おかしかった。この男が、ヴィンセントがこの世界と、自分となにも繋がっていないことが、どうしようもなく淋しかった。
夢の醒め方を忘れてしまった男。夢の中で生きている男。その夢は果たして、いつか本当に醒めるのだろうか。ナマエには分からなかった。
彼女の言葉は、なにも根拠のない願望だったが、それは祈りにも似ていた。



その日ナマエが廃屋の一室を訪れた時、男の姿はなかった。
ここ数日は外出していることの方が多いように思える中、そっと扉を閉じる。バタンという外界と遮断された音に、彼女はほっとする。どこか知らず張り詰めていた糸が途切れるのが分かった瞬間、ぐっと四肢が重くなる。彼女は歩く度に痛む身体を引き摺ってようようソファに辿り着き、その身を預ける。反動で閉じた、片方だけの目蓋を開けば白い射光の中でほこりが、ちいさな虫の羽のように光を反射していた。
ぼんやりとうつしながら、泥と化した身体がソファのうえから当分動かせないであろうことを思う。今日の客は最悪だった。まるで暴力なしでは勃たないかのように、行為の最中何度も彼女に拳を振るい下卑た笑いを浮かべながらその細く白い首を絞めた。おかげで、今の彼女の容貌はまるで病院から抜け出した重症患者に間違われそうな程に、痛々しいものと化していた。服で隠れていない箇所だけでも右睛には眼帯が、額に頬、唇の端にもガーゼが貼られ、首には包帯が巻かれている。服の下も散々なものだった。あまりにも傷が多いせいで途中消毒液が切れ、盗むのに余計な体力と気力まで使ってしまった。
そうして、首の包帯を意識した途端にぐっと息苦しくなる。死にそうなくらいに、苦しかった。息ができないというだけで、ギリギリと締め上げられる度に食い込む指の痛みよりも苦しさの方に断然死を感じた。けれど、死にそうなくらいに苦しかったのに、彼女は死ななかった。それはひとえに客が他人を虐待することによって性的興奮を覚えるサディストではあったが、ネクロフィリアではなかったからだけだ。後者に行き当たっていれば、今頃自分は死体と化した身をまだ犯されていたことだろう。
この世界は無情だ。救いを求めることも祈りを捧げることも、彼女はしなかった。カトリック信者の祖母に育てられても、彼女は神を信じてはいなかった。彼女が信じたかったのは、両親と祖母の存在だ。けれど、それはもう喪われてしまった。それでも、この世界にはまだ、彼女の信じたいものがたったひとつだけあった。なにも差し伸べられることはなかったが、それは最後の救いにも思えた。
だって、と彼女は思う。だって、あの人は言った。この世界は終わると、そう。それは漠然と曖昧で壮大な意味を持っていたが、そこに確かに自分の世界も含まれることをナマエは感じていた。あの人が、終わらせてくれる。そうぼんやりと思ってから、ふとそのつづきを思いだす。男は、扉が開かれるとも言った。それは、なんの扉だろう。天国だろうか、地獄だろうか、それとも、

「…………」

他愛ない思考に、睛を瞑る。もう、なんでもよかった。今はただ、眠かった。


白い暗闇につつまれた世界で、彼女はぬくもりを感じていた。
それは酷くささやかなものだったが、心地よいものとして確かにそこにあった。それを認識してから、彼女は夢だと思った。けれど、いつもの、青い天の夢ではなかった。そのことを不思議に思ったが、この夢はそんな疑問がどうでもよくなるほどに、幸せであたたかかった。暗闇はいつしかまばゆい光に変わる。短い髪をさらりと撫でる手が気持ちいい。もっと、と思う。触れるか触れないかのやさしいぬくもりが、もっとほしかった。撫でてほしい。頭を撫でられると嬉しくて幸せな気持ちになれるから。眦から、一筋だけ涙が伝う。その熱さと冷たさを思う。思って、ナマエは気付いた。これは、夢ではないと。だって、唯一自分の頭を撫でてくれた祖母はもういない。この世界に存在しない。だとすれば、この手の持ち主は、

「…………っ、」

ガバリと勢いよく起き上がった。見開いた片方だけの睛にうつったのは黒だった。ソファに腰掛けているヴィンセントだった。いつもとなんら変わらない様子で、驚くこともせずに無表情のままナマエを見ている。どこか愕然とした思考と視界の先で、所在をなくした左手が音もなく革張りの座面に落ちるのを、ナマエは見た。見て、ほんの一瞬前まであったその手のぬくもりは、思い出す必要性すらなかった。未だ、残り香のように確かにそこにあったからだ。

「だ、め……だよ…、」

なによりも先に口を吐いたのは、そんな言葉だった。ナマエ自身なにを言っているのか自分で理解していなかった。

「汚い、から…だめ……ヴィンセントは、綺麗だから…」

わたしなんかに、さわっちゃ、だめ。
ナマエは、ヴィンセントに触れたことはなかった。その理由を自分では、そのぬくもりに対して吐き気と怖気と嫌悪を抱いてしまうことを恐怖しているからだと思っていた。ヴィンセントは違うと理解していても、もしもこの男に触れて、そうなってしまえば本当にもう自分にはなにもなくなってしまうことを恐れていた。だというのに、恐れていたものはなにもなかった。
あったのは、今直ぐこの男の前から消え去ってしまいたいという恥と畏れと悲しみだった。ヴィンセントはこんな自分のことを綺麗だと言ってくれた。それは本当に嬉しかった。ただ、それでも彼女自身がそう思えないだけだった。生きていればいるほどに、この身は穢れていくようだった。朝日が昇り、夕日が沈む。その一日を繰り返すごとに、コールタールにも似た黒い汚泥が全身にまとわりつくようだった。それは記憶の中のうつくしい祖母との思い出に生きている自分。白いワンピースに、祖母に梳いてもらうのがなにより好きだった長い髪の幼い少女とは、あまりにもかけ離れすぎていて、きっとこの不幸に終わりがきてももう二度とあんな幸福な日々がくるとは到底思えなかった。
そうして臆病さに拍車をかけるのは、この男が、ヴィンセントがもうあと数日。ハロウィンの日になってしまえば、ここからいなくなることだった。最初に聞いた時にはなにも思わなかった事実が、今ではこうも重苦しく胸を穿つ。この世界が終わるとヴィンセントは言ったが、ナマエには信じることができなかった。信じたいと思っているのに、信じきれない自分。それが一番汚らしいものだった。

「…………っ、あ…ごめ、」

ん、と。最後まで言えなかった。俯いて、きつく握られた自分の拳を見ていた視界に気配もなく男の手が現れたからだ。逃げる暇もなかった。身体が反射で動こうとした時には既に手首を掴まれていた。自分の手首を握り締める、血色の悪い肌の色。男の、ヴィンセントの手の、決して高いとはいえないが確かに伝わってくるぬくもりに息が詰まる。

「ゃ……や、だ…っ、」

けれど、直ぐに我に返り振り解こうとしても、男の手はびくともしなかった。思わず左腕も動くが、肘から先のないそれはただ垂れた平たい布が空中で無意味に揺れるだけだった。嫌だと繰り返すナマエの青い天をうつした瞳は、嫌悪ではなく恐怖に濡れていた。そして、それは男に対するものではなかった。抵抗もむなしく、震える彼女のちいさなてのひらがぬくもりに触れる。

「あ、」

今見ているものが信じられないような顔をする彼女の睛にうつるのは、ヴィンセントの頬にそえられた自分の手だった。親指の付け根に感じる髭や、薬指や小指にかかる黒い髪の毛先まで鮮明に、右手から伝わってきて。ナマエは、今自分のこころにある感情がなんなのか分からなかった。ヴィンセントは彼女の手首を掴んだまま、その頬に触れる手をどう感じているのかも定かではない、いつもの無表情で淡々と、

「俺は汚れたか?」

そう言った。その言葉に、なによりも先に滲みかけていたスカイブルーの瞳から、雨粒がひとつぽつりと落ちた。顔が歪むのが分かる。ガーゼの下で傷が痛んだ。ただ、口を開くことはなかった。ぐっと、唇を噛んで代わりに大きくかぶりを振った。
彼女は怖かった。夢のようなこの男は、夢のようにいつか醒めて自分の前から消え去ってしまう。そのことが分かっていたから、触れたくなかった。もう二度と喪うことがないと思っていたぬくもりに、もう一度触れてしまえば、あとはもう喪う恐怖に押し潰されるだけだと理解していたからだ。けれど、それももう無駄だ。そのすべてが無意味と化すほどに、彼女は思い出してしまった。祖母からもらった愛情を、そうして芽生えた自分のこころを。そうして、おなじようにこの男を愛しいと想うことを。
彼女は今、どうしようもなく幸福だった。











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