彼女は夢を見る。それは青い天の夢だった。
あの薄暗い路地裏から見上げたものよりもずっと青い色にいつも睛を細め、うつくしいと思う。幸福な夢だ。そこにはなにもなかった。ただ、どこまでもつづく透徹った真っ青な天には薄く白い雲がたなびいている。それをうつしながら彼女は、空を飛ぶより見上げることを選んだ人間の得たものと、喪ったものを思う。青い天は彼女の大切なものを奪ったが、安らかに眠る祝福された地としてのそこが象徴するのは正に天国と称していいものだった。けれど、右手を伸ばしてもその手に天は掴めない。夢の中であっても、彼女の左腕は喪われたままだった。物心ついた時にはもう無かったせいだろうか、彼女には分からなかった。ただ分かるのは残されてしまった左腕以外、つまり彼女自身のことだった。切り離された末端にも命が通っていたのだとしたら、魂の一部が欠けている出来損ないでしかない自分のことだった。そうして右とは対照的に随分と短い左腕の、その先にあったものを想う。
魂の一部はきっとあの青い天にあるのに、自分がそこに行けないことを。
睛を閉じても、もう眠れない。だから開いて、現実と混ぜた。
白い光に細めた睛には薄汚い天井がうつっている。起き上がろうとすれば酷く身体が痛んだので、やめた。視界の隅に解けた包帯が散乱している。白い中に滲む赤。こびりついた性のにおい。一瞬のあとには吐き気を催すその前の、残酷なまでのやわらかな空虚に、そっと右手を伸ばす。夢と現の線引きをどうやってするのかが、もう随分とできなくなってきていることに目蓋を閉じる。
睛を覚ましても尚、彼女は夢の中にいた。



ヴィンセントという男は、まるで生の気配がしない人間だった。
初対面で抱いた印象のとおりに幽霊のようだと、ナマエは思う。希薄なわけではなく、ただしないのだ。血が通っているとは思えない蒼白い肌は触れたら冷たく、死体が動いていると言われても信じてしまいそうな程だった。リビングデッドというよりは、この時期はあの世とこの世を繋ぐ扉が開かれ、もう一週間もすればハロウィンだからか死者の霊だと思ったのだ。ただ、彼女は男に触れたことはなかったから体温の有無も、霊体かどうかも定かではなかった。
男はナマエがこの一室を訪れた時には、いたりいなかったりだが、留守でない時は必ず青いビー玉を使ったゲームをしていた。ソリタリアというらしい。ナマエも饒舌な方ではなかったが、男は寡黙と称するよりももっとシンプルに、言語によるコミュニケーションを必要としていない風情だった。おかげで彼女の発する言葉は、大抵の場合において独白になった。
始終無表情のおもては、聞いているのか聞いていないのかすら定かではなかったが、稀に返事があることを考えると一応は前者なのだろう。ソリタリアのことを教えてくれた低い声は、いつだって思い出せる。ただ、沈黙と静寂の世界は彼女にとって心地いい空間だった。得体の知れない男とふたりきりだというのに、そこには彼女が対人との間に感じるものがなにもなく、どこまでも平和でスプーン一杯の幸福に満ちているといっても過言ではなかった。それは、男と出会う前、この一室にひとりでいた時よりも、ずっと。
ナマエの定位置は大概においてソファのうえだった。そこから白い窓や黒い男をぼんやりと見たり、眠ったりするのが常となっていた。じっと見つめていても、男は視線など意に介さない様子でカチャリ、カチャリ……左手で除外された青を弄りながら、淡々とゲームをつづけている。
ナマエは、ヴィンセントがどうやって生きているのだろうと思った。彼女が持ち込む食べ物に手をつけたこともなければ、食事している姿を見かけたこともない。ふらりと外出するのは知っているが、どこでなにをやっているのかは知らなかったし、それはナマエの範疇外であり、知らなくていいことだった。
おもむろに横になっていた身体を起こし、そっと足をつけばギシリと老朽化の激しい床板は悲鳴をあげる。壁紙も至る箇所が剥がれ、赤茶けたレンガの覗く壁には貧しくとも幸いな日々のあたたかなぬくもりなど残ってはいない。ここがもう、自分の家ではないことくらいはナマエも分かっていた。
それでもこの世界で、彼女の片方だけの手が縋りつけるのは、もうこの場所しかなかった。
テーブルを挟んだ男の向かいにあるイスへ腰掛けても、視線が盤上から外されることはない。均等に並んだ青は皓然とした輪郭も相俟って、やはり綺麗だった。カツ、カツ、と淀みないリズムでビー玉を動かす指先も綺麗だった。
ひとつ挟んでは盤上から消される青は、やがてたったひとつだけが残る。そうすれば終わりだ。ゲームだからそれは勝利を意味していたが、相手の存在しないこのゲームにおいて誰に勝ったのかは不明瞭なままだ。はじめて見た時とおなじ状態になった盤に、澄明なガラスのうつくしさを見ていると。

「なにを笑う」

珍しくヴィンセントの方から口を開いた。ぱちぱちとナマエは瞬きをしてから、笑っていたのかと思った。自覚はなかったからだ。けれど、低音で紡がれた言葉に彼女は自然、今度はちゃんと微笑んだのを自分で理解していた。

「綺麗だなって思って」

ヴィンセントではなく、盤上を見ながら言えば返事はなかった。だから、彼女はつづけた。

「この青いビー玉もだけど、ヴィンセントが」

きれい。視線を上げたら、なにも見ていない睛と合った。
どこか遠いところを見ているような眼差しは、いつだって捉えることはできない。漠然と不確かであやふやな輪郭をどうにか掴もうとしても、それはピントの合わないレンズ越しに見ているような錯覚に陥るだけだった。なにを言っているのだと笑われることも、おかしなものを見る眼差しに変わることも、やはりない。無機質で無感動のまま、けれどヴィンセントは、

「綺麗なのはお前だ」

そう言った。無言が返ってくるとばかり思っていたおかげで、ナマエは理解が遅れた。ただ、理解してもなにを言われたのか理解しなかった。綺麗。そんなことを言われたのはいつ以来だろうかと、どこか現実逃避していた。
祖母が自分の若い頃のドレスを使って作ってくれた白いワンピース、それを着て照れくささと嬉しさでいっぱいだった自分の、腰まで伸びた髪を祖母がやさしく梳きながら、微笑んで言ってくれた。私の自慢のちいさな天使さま、綺麗よナマエ。
一瞬きらきらと白金のうつくしい世界にすべてが染まる。けれど、瞬きの間にそれは黒い男のヴィジョンを取り戻した。もう二度とない日は、無駄に明日を葬るだけの生の中でどこまでもうつくしい幸福の象徴になり、どこまでも残酷な慟哭の沼へと引きずり込む。

「ありがとう」

それは本心で、こころからの微笑みだったが、それでもナマエは自分がきっとうまく笑えていないことを思った。だけど、それでよかった。ヴィンセントはもう、なにも言わなかった。ナマエも、でもやっぱりヴィンセントの方が綺麗だよ、とはこころの中で紡ぐだけで言わなかった。
代わりに「やってみてもいい?」と問いを口にした。男はやはり無言だったが、盤の中心を囲む八角形に散らばった青を穴に戻しはじめた。その様子を彼女も静かに見つめる。綺麗に埋まった青の羅列に、それぞれがおなじ光を受け異なる輝きを放つのを綺麗だと思っていると最後のひとつを埋めた指はそのまま離れ、テーブルの下へ消えた。それきり動く気配のない男に、これは、先刻の了承だと受け取っていいのだろうかと思い見上げれば、その視線は盤上ではなくナマエに向いていた。
彼女は他者の睛を見つめないようにいつも努めていた。それは一重に見たくなかったからだ。できるだけ他者をひとりの個として、人間として認識しないように、生きてきていた。見つめあうというのは、同時になにかが交わっているような気がした。大好きな祖母の微かに紫がかった濃いラピスラズリは、今でもくきやかにナマエのこころに焼きついている。けれど、それ以外の色は彼女の中に存在しなかった。見ていたかったものは、もう喪ってしまった。そう、ずっと思っていた。
だというのに、彼女はヴィンセントの睛をいつも真っ直ぐに見つめた。それは見ていたかったというよりも、彼と視線が合わさってもなにも交わらないことをどこか感じていたからだった。なにもない睛は、この綺麗なビー玉とおなじでしかなく、ガラスにうつる自分を見ているだけのようなものだったからだ。
この世界で今、確かに生きているはずなのに、男が見ているのはまるで別の世界のようであり、そこに自分は存在しないような、そんなものだった。
そこには、人間と相対している現実が酷く薄っぺらでだからこの男を見ると幽霊以外にも、黒衣は悪魔のようにも、その達観した存在は祖母を通じて知った聖人の像とも重なるようだった。そうして、ヴィンセント・ボラージュという能記は知っていても、この男の所記をナマエはなにひとつ知らなかった。今こうしてじっと見つめていても得られる情報、感情や思考に想いといったこころの在処を探ることはなにもできない。暗く澄んだ瞳はただガラスが眼窩に埋まっているだけだ、それ以下でも以上でもなかった。
だから彼女はその視線を青いビー玉へと落として、もう一度「ありがとう」と礼を口にした。盤上はヴィンセントが終わらせた状態とは正反対に、列のまんなかだけがひとつ埋まっていない。そっと右手を伸ばして、冷たいガラスを摘む。カツ、という音だけが静寂の室内に響いた。



男は夢を見る。それは砂漠と蝶の夢だった。
黒い天を埋め尽くすかのような無数の輝く蝶を、男はうつくしいと思った。それは砂の下に埋まる夥しいまでの骸、その魂を誘う黄金の福音にも思えた。しかし、その幻想的な光景は男にとっては夢などではなく現実だった。舞い踊る蝶に導かれるまま、いつしかこの世界に男はいた。そうして、すべてを喪っていた。この世界にはなにもなかった。それは世界が男を殺そうとしているのと同義だった。それならば罪を犯したものは同等の報いを受けるのが当然であり、自分がこの世界を殺すこともまた疑いのない必然だった。蝶たちのいる世界が現実で、この世界が夢なのか、それともその逆なのか男にはもう分からなかった。夢と現の境目など、三年前から存在しなかった。それ以前にあったのかどうかすら、もはや砂のように男の手からこぼれ落ちていた。
男は夢を見る。白金の天使の夢だ。
綺麗でうつくしい、スカイブルーの瞳を持つ生き物だ。ただ、その背に羽根はなかった。もがれたのか、その左腕とともに喪ったのかは定かではなかったが、そのせいでこの天使もまたこの世界という煉獄に囚われているのだろう。天国に還ることのできない、それはあわれな生き物だった。祝祭を前に出会った数奇を思う。扉が開けば、この世界は終わる。残るのは男ただひとりであり、そこはもう別の世界だ。あのうつくしい蝶の世界だ。だが、もしもあれが天国だとすれば男はひとりではない。そこでまたこの天使と出会う。ただそれだけだ。そう、この世界が夢だとすれば目覚めた世界こそが男の世界だった。
男は睛を開けたまま、もうずっと夢を見ていた。
そうして、終わらない夢を終わらせるために男はこの世界を殺す。そこにはなにもなかった。男の中になにも残っていないのとおなじように、害意も悪意も、殺意すらなかった。あるとすれば狂気だけだったが、それはただそれしか選択肢がなかっただけであり、男はそれを実行するだけ。ただそれだけだった。この世界に狂気と正気の境界線は存在しない。それはただ他者が判別するものであり、男は狂っているのが、異常なのが自分と世界のどちらなのかを知りたいだけだった。
そうして、男の狂気を内包したまま夢はつづく。











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