薄碧い澄明なガラスの天に、光を受けたモノマシンの白い機体が一瞬太陽のように輝く。秋声を耳に、路地裏の細く暗い道から見上げたそれは、例え管理された人工のまがい物だったとしても少女の睛にはいつだって眩しくうつった。
古びた建物、というよりも最早廃屋の集まりとなったこの地区に人影は殆どない。たまにカラスの羽ばたく音や、猫やネズミの気配がするだけだ。それでも少女は空ろに、何者にも自分の存在を認識されないようにただ、覚束ないものの慣れた足取りで薄汚れた道を歩きつづけた。そうして、その足取りはひとつのビルの裏口で止まる。五階建ての廃屋が他のものよりもいっそう寂れている風にうつったのは、ここでは数年前に火事がありそのまま打ち捨てられたせいだった。
建物の中に入っても、内壁は外とおなじように老朽化し外界よりいっそう音のない静けさと埃っぽいにおいだけが少女を出迎える。階段を上がる度に、少女の左袖。肘から先の薄っぺらな布が、ひらひらと蝶のように宙を舞う。ぐるぐると途中で折り返しつづく段を音もなく踏みしめて、途切れたのは四階だった。似通った扉ばかりが並ぶフロアで、それでも少女の目的地は決まっていた。
迷いなくひとつの、この時代骨董品じみた木製の扉の前まできてノブに手をかける。けれど、少女の思いとは裏腹に回したノブは途中でなにか硬いものに遮られたように動かなかった。鍵がかかっている。そのことに遅れて気付いてから、もう一度捻ってみたが結果は変わらなかった。鍵がかかっているということは、人がいるということを指している。少女はそっとノブから手を離したあと、すこしの間を空けてから扉をノックした。コンコン。硬い木が右手の甲の骨と当たって軽く澄んだ音を立てる。そうして待ってみるものの、足音はおろか扉の向こうに人の気配すら感じられなかった。
廃屋に出入りする人間など、碌な者ではないことくらいは自身も含め少女には分かっていた。特にこの辺りはスラム街であり治安の悪さは群を抜いている。誰がどんな理由でこの部屋を選んだのかは知れないが、ただ、少女にはこの一室でなければいけない理由があった。服のしたから金の鎖をひっぱり出せば、十字架と鍵が揺れあってちいさな金属音を立てる。ネックレスを外して、鍵をノブのまんなかにある鍵穴に差し込んだ。木製の扉と同様に時代錯誤の造りには、カードキーといった電気錠のシステムなど使われてはいない。クラシカルでレトロタイプな方法のままの鍵穴は、少女が鍵をまわせばガチャンと開錠の手応えがあった。引き抜いて、ネックレスを首にかけ直してから再度ノブまわすと今度はあっさりと扉が開いた。いつもの感触にどこかほっとしながら、室内に足を踏み入れる。いつもと異なるのは、すこしだけ緊張していることだった。
狭く短い通路の両隣には扉があり、その先には開けた空間が広がっている。窓から白い光が射し込むそこに辿り着いてから、少女は立ち止まって室内を見渡した。見慣れた古びたソファに、テーブルとイスしかないがらんどうの室内は特になにも変わりはなかった。人が住みはじめたにしては物が増えていない。どんな人物がということがなにも伝わってこない室内で、少女はテーブルの上に置かれた唯一増えた物に近付く。
それは銀製の盤だった。八角形の形のまま、二重に仕切られている。そして、そこには光を受けて煌く透徹った青いビー玉のようなものが幾つも置いてあった。大体がひとつ目の仕切りに数もまばらに並び、ふたつ目の仕切りの内側、中央の平たい箇所は四隅に模様が描かれ、縦に七横に三、計三十三個の穴が十字を模すように開いている。そしてその中央の穴にひとつだけ、ビー玉が埋まっていた。少女はただ、綺麗だと思った。ガラスだろうか、輪郭が白く輝く青をそっと手にとってみる。冷たく丸いすべらかな表面は、やはりガラスのようだったが、指の間に挟んで翳せばきらきらと万華鏡のように光を反射して綺麗なそれはどこか海を髣髴とさせた。
少女にはこれがなんなのかは分からなかったが、ただなにかボードゲームのようなものなのだろうかと検討をつけた。殆どのものがデジタル化したこの時代でも、こういった酷くアナログなものだって未だ残っているのだから不思議だ。ビー玉をもとの場所に戻してから、少女はソファに腰掛けた。途端に全身の疲労がぐっと迫ってくるのが分かる。忘れようと努めていた節々の痛みや、至る箇所に巻かれた包帯のしたにある新しい生傷が疼くようだった。そうして青い玉の乗った盤は、なにもなかった時よりもいっそうこの部屋を空虚で無機質なものとせしめるような、そんな印象を少女に抱かせた。
ぼんやりと白くかすむ室内をうつしながら、微睡みがゆるやかに四肢の先から浸透してくるのを感じて少女は一瞬だけ抗おうかと思って、やめた。部屋の新たな住人が戻ってくれば、どうなるかなど想像に容易かった。どうせ犯されるか殺されるかの二択だと、理解していた。ただ少女にとっては、犯されるのは嫌だったが、殺されるのならば構わなかった。未練などないのに自ら命を絶つことができないパラドックスに満ちた生は、あとはもう他者の手でしか終わることがないのを知っていたからだった。
そうして、なにより少女にはもう自分の命も含め、この世界で喪って悲しむものなどなにひとつ存在しなかった。



男はノブに触れる前からどこか違和感を感じていた。酷く些細なそれは、鍵をかけたはずの扉があっけなく開いたことによって確信へと変わる。
人通りがなくとも、住居のない人間がこういった廃屋を住処にしていることが多いのとおなじように、ここにも誰か出入りしているのだろう。ただ、部屋の選択をした時にここには人が出入りしているような気配がなかったことを思う。どこよりも空虚でがらんどうの空間は、けれど扉の中に人の気配は感じられなかった。ただ、中に人がいようがいなかろうが、男のゆったりとした足取りは変わらなかっただろう。室内は外出する前となにも変化がないように思えたが、違った。コツコツと、狭い通路の奥。開けた空間でそれを見つけても、無表情のその瞳にはなんの感情も浮かばなかった。ただ、ひとつだけのことを思った。
男の視線の先には、ソファのうえでまるで猫のように丸くなって眠るひとりの少女がいた。
まだ幼さの残る、女になりきれていない年頃だろう。短い髪はふわりとはね、窓から射し込む光によって白金に輝き。ほのかな桜色をおびた白い肌と相俟って、薄暗い室内の中どこか少女自身が光を発しているような錯覚を抱く。ただ、至る箇所に巻かれた包帯の病的な白は痛々しく、男の睛は長い袖で包まれた少女の左腕が、肘から先のないことも判別していた。それは本当に判別しただけだった。痛ましい欠損や怪我の証を見ても、男にはなにも動く感情はなかった。そもそも男には、自分の中に感情といったものがあるのかすら認識していなかった。イレギュラーな存在という現状を認識するだけだ。
男が足音を消すことすらなく近寄り、そうして取り出した銃先をそのちいさな頭に突きつけても、少女は微動だにすることなく静かに眠っていた。まるでやすらかとも言える寝顔は、やはりまだあどけない。男の手に握られた銃は当然トリガーを引けば発射された弾丸が頭を撃ち抜き、噴き出た血と肉片で白金を赤く染めあげこの少女は死ぬ。男には殺すことに対して、なんの躊躇も戸惑いも抵抗もなかった。息をするのと等しい行為でしかなかった。そうして、それは性別も年齢も正邪もなにも関係なく、どんな人間であってもおなじことだった。男にとっての死は、永遠につづく夢を見るだけの、ただそれだけのことでしかなかったからだ。
ただ、男の指は無言の静寂の中動くことはなかった。代わりに、音もなく銃が黒衣にしまわれる。少女を一瞥するのと同時に、指先で額にかかる髪をそっと撫で付ける。微かに触れた髪も肌も、やわらかくすべらかで、あたたかかった。生身の人間であるという証明は、けれど男のはじめに浮かんだ思いを明確にするだけだった。
そうして男は少女から離れ、青いビー玉のようなコマに触れると、最後にひとつだけになる相手のいないゲームをはじめた。



カチャ、カチャリ……澄んだような鈍いような音が聞こえる。目蓋を開いた睛にうつる、ぼんやりと白い世界でナマエはまず黒を見つけた。
脳が動き出し、焦点が次第に定まってくると、それがひとりの男だと分かる。イスに坐り、テーブルと向かい合った長い黒髪の男は、裾の長いコートに、そこから覗くズボンや靴も黒一色で、蒼白い肌の横顔は髪に覆われて目元は窺えないが、髭の生えたその口元からはなんの感情も読み取れない。黒い袖の先、大きな手は盤のうえで動いていたが、音の発生源はテーブルのしたの左手だった。黒と血色の悪い肌色の隙間から、ちらちらと光を反射する青が覗いている。それがあのビー玉だということを認識して、自分だったら三、四個でてのひらがいっぱいになってしまいそうだというのに、男の手にはその倍の数が落ちることなく転がって音を立てていることを、まだ夢現な思考で抱く。
それから、ようやく現状を思い出した。見慣れた室内に、見慣れない青い玉と銀の盤に黒い男、自分が寝ているソファのことを。それでもナマエは、自分が眠る前となにも変わりないことを理解していた。殺されてもいなければ、犯されてもいない現状は瞬きを数度してもおなじことだった。だから、ただナマエは男を見ていた。不思議とそこには緊張も恐れもなかった。まるで穏やかな時が流れているようでいて、一切の時間が静止してしまった世界に閉じ込められているようでもあった。男の手が動く度、カチャリカチャリと鳴る音だけがすべてだった。
ここからでは、盤上がどういう風になっているのかは定かではなかったが、それでもやはりあれがゲームなのだろうことを思っていると不意に男がこちらを向いた。ナマエは一瞬呼吸を忘れた。
無造作に伸びた前髪はやはり睛にかかる程だったが、今度はその隙間からちゃんと双眸が覗いていた。そして、その瞳は鋭くも虚ろだった。視線が合っているのに合っていないような、男が自分を見ているはずなのに見ていないような、そんな感覚にナマエは陥った。なにか既視感じみたものさえ抱くが、その答えは直ぐに出てきた。彼の持つビー玉と、重なったのだ。それは確かに表面へうつしているけれど、それだけだ。その中自体にはなにもない。男は言葉を発しなかった。ナマエはなにを言おうと思う前に、ひとつの言葉が口をついていた。

「おはよう」

射し込む光は眠る前よりも赤橙色に染まり、影は長く濃くなっている。じきに夕暮れだろうことは分かっていたが、そう言っていた。男はなにも言わなかった。

「起こさないでいてくれて、ありがとう」

礼を口に出しても男はただ遠いものをうつすような睛でこちらを見ているだけだ。その静けさに、ナマエは幽霊のような印象を抱く。

「ここね、たったひとつのわたしの居場所なの。むかし、祖母とふたりでここに住んでたから、鍵もそのまま持ってて」

ナマエにとって、初対面の年上の男にこうもこころの水面が波立つこともなく、ゆるやかに訥々と話すことができるのははじめてのことだった。彼女は“男”が苦手だった。嫌悪と恐怖すら抱いているといっても過言ではない。それでも、なら女が得意かという訳でもなかった。人間という生き物に対して、彼女は祖母の亡くなった三年前からもうなにかを希むことを諦めていた。
けれど、今こうして視線の先にいる男は齢十数年の生においても接したことのない生き物のように思えた。言葉すら、彼に届かずすべて空中で霧散し、消え去っている気がした。

「ここに、住むの?」

それでも紡いだ彼女の言葉に、微かに男の髭を蓄えた口元が開くのが分かった。そうして「いや」と否定の言葉を発していた。まるで、男と自分とのあわいにあった透明な膜の向こう側から聞こえた低い声は、けれど鮮明にナマエの鼓膜を震わせた。

「ハロウィンが終わるまでだ」

男は言った。

「そっか」

ナマエは答えた。
そこで、ようやく男と対峙してこうも自分が平静でいられる理由に気付いた。
なんの感情も込められていない無機質な視線には、おおよそ彼女が忌諱するおぞましいまでの慈愛に満ちた同情や憐れみ、吐き気を催す好奇と侮蔑に劣情、そういったものだけでなく、他の一切合財の感情といったものが、本当になにもなかったからだった。そうして、彼女にとってそんな視線を向けられるのははじめてのことであり、そんな睛で自分を見る人間と出会ったのもはじめてのことだった。ただ、その瞳にはなにもないはずなのに、それはどこか、ただ自分を愛しんでくれた祖母のあたたかな眼差しを思い出すものだった。彼女が許容できた唯一であり、もう喪ってしまった最愛。それとは全く非なる温度すら存在しない眼差しはけれど、許容できる新たな唯一になっていることをそこで彼女はようやく理解した。

きっとこの人はなにも思わずこの瞳のままわたしを殺すのだろう。

そう、なんの混じりけもなく酷く正確に惨たらしくも無情に、ただ手から離れた林檎が地に落ちるようにすとんと、理解した。
けれど、やはりそれは凪いだ水面に波紋すら立てずゆっくりと沈んでいくだけだった。そして、彼女にとって、それは唯一無二の大切なもののように思えた。だから、

「わたしを殺さないの?」

そう問いかけていた。男は睛を瞠ることも、やはりなにも感情を表すこともなく、それでもただ口の端を僅かに歪めた。ナマエは、すこし遅れてから男が笑みを浮かべているのだと気付いた。

「煉獄に囚われた天使よ。希まなくとも、じきにこの世界は終わり扉は開かれる」

ナマエには男がなにを言っているのか分からなかった。それでも、お前はただ待っていればいいと、そう言われたような気がした。

「あなたの名前はなんて言うの?わたしは、ナマエ。ナマエ・ミョウジ」

意識はもうとうの昔に明瞭だったが、彼女はようやく右手をついて身を起こしながら訊ねた。

「ヴィンセント・ボラージュだ」

男は、ヴィンセントは答え。ナマエは口の中だけで音もなく、そっとその名を紡いだ。











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