「おっと、これはこれは、寝ない子誰だ」

灯りのついた厨の暖簾をくぐれば、流しに立つ一文字の御前が振り返り鋼の色をにんまりと細めながらのたまうので「ちょっと細々していた事をやっていたら、集中してしまって……」おとなしく言い訳を告げる。
本丸内に趣味で作った小さな図書室には、自分で持ち込んだ本の他にも刀剣達が各々好みのものを買い足しているようだが、果たして一体誰がおさなごを恐怖で寝かしつける絵本をそっと紛れさせたのか。
ボンボンボンと、九時の音はとうに過ぎ去っているうえに、広義としておばけと言えばおばけのようなものばかりの“此処”で唯一人間である私の足は透けていてもおかしくないのだろう。詮無い事を思っていれば「ツマミの残りでよければ直ぐに出るぞ」楽しげに笑ったまま小鉢が寄越されたのでありがたくいただく。
つい夜更かしをしてしまった結果、空腹を訴える腹に何か少しものを入れてから寝ようと思ってやってきたが、見つかったのが一文字則宗でよかった。流しに立って洗い物をする姿は少々珍しい。グラスに皿と、酒瓶の数々を眺めて呑み会だったろうかと思っていれば「ああ、そうだ。主」変わらず弧を描く瞳は、これではおばけじゃなくてチェシャ猫のようだ。

「今ならきっと、日光の坊主の面白いものが見られるぞ」

惑わすものと相場は決まっているものの、日光、その響きは甘言にのるに足りてしまった。

本丸内をひとり歩む。外廊下をいけば夜目がきかないとはいえど、月明かりによって支障はない。灯りの漏れる部屋もあれば、寝静まった部屋もある。
どこであっても、足音を潜めていても、主の気配を察しているだろうが見逃されながら目的の部屋へと辿りついた。

「入りますよ」

襖を開ければ、明るい室内に一瞬睛が焼かれるので瞬きを繰り返す。それでも机の傍に座す影は見てとれた。

「はい、日光。お水ですよ」

傍らに腰を下ろしつつ、日光の前にコップを置いてやる。そのおもては常と変わらない涼しげな白皙を保っていてけれど、入室から今までの反応のなさが異常を物語っていた。
一文字則宗曰く、酔っ払っているとの事だったが、確かにそうなのかもしれない。ザルなのか常に適量を厳守しているのか、酔ったところなど一度も見た事がなかったので、未だ半信半疑といえど興味深く観察する。とはいえ本来ならば率先して後片付けなどを買って出る筈が、御前が片付けを、長は酔い潰れた子猫を部屋へと運びに行ったという現状の前には事実なのだろう。
明日記憶があれば切腹でもしかねないと思いつつ、少し邪魔そうにかかる前髪を横に撫でてやる。

「あ」

そうすれば、どこを見ているのか分からなかった淡い菫青が、よいようこちらを向いたのでつい声が漏れてしまった。

「日光、お水持ってきたので飲みませんか?」
「…………」

視線が合っているのに、合っていないような気がしながらも再度問いかけてみるも、反応は芳しくない。普段の無表情に近いのに、どこかぼんやりとしている様子はほんの僅かあどけないように思う。硝子を挟んでいないから余計に。卓上へ置かれた眼鏡が、綺麗に片付けられた中でぽつんと寂しげだ。
顔が良いのでいつまでも眺めていられるとはいえ、どうしたものか。思案していれば「主」不意に手が伸びた。コップではなく私に。
頬の曲線に合わせてそっと触れた大きなてのひらは、普段よりも熱をもっているような気がした。一応最近恋仲になった間柄といえども接触はそう多くないので、急に緊張してしまう。
しかしそんな身体の強張りをほぐすように、髪に埋まった指先でやわく撫でられてしまい次第に落ち着きを取り戻す。純粋に嬉しいけど、これでは誰が猫か分かったものではない。
気付けばもう片方の手も、やわやわと頬の感触を楽しんでいる。架空の咽喉がごろごろ鳴ってしまう心地に、つい瞼を閉じてしまっていた。
その瞼に影が差したと思った時には、指よりもやわい感覚。

「…………え」

離れた気配に睛を開ければ、近過ぎてぼやける白い肌。次いで額にさっきと同じやわらかさと、熱。

「……あ、あああ、あの、にっこ、」

う、と紡ぐ前に今度はつむじのあたりに落とされる。あわわわわ。あばばばば。口から出る音だけじゃなく脳内もまともな言葉が出てこない。その間にも、至るところに触れては、離れての繰り返し。
羽毛のように、花弁に触れるように、どこまでも軽やかで、ささやかで。ちいさなこどもが大切なぬいぐるみにするようなそれにあるのは、あまりにも淡く澄んだ愛だった。
おかげで恥ずかしいやら照れくさいやら面映いやらで、顔に熱が集まっている自覚はあれど劣情はいだかずに済んだのだけが幸いか。これは好きにさせるのが吉か。私は猫、私はぬいぐるみ。睛を瞑っておとなしく無心で唱えていれば、やがて満足したのか離れていった。
見れば、距離も最初に戻っている。何事もなかったように水を飲み出したので、二重の意味でほっとしていたけど、コップを空にしたと思ったらおもむろに立ち上がったのでつい視線で追う。コップ片手に私の横を抜けて、部屋を出ようとする背に慌てて立ち上がるも、酔っ払いとは思えない真っ直ぐな歩みで廊下の闇の方へと去っていってしまった。
方角的に日光の部屋のある方だからたぶん戻ったのだろうと見当をつけるも、明日の朝に記憶がない方がやっぱりたぶん幸せなんじゃないかと思いながら見送ってしまったのだった。


2024/05/27
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