※あるかもしれないし、ないかもしれない、ひとつの可能性のおはなし。



「オマエのその、罪なんて犯してませんみてえなツラが気に食わねえンだよ」

たまたまだった。
たまたまビル内でヴォックスと鉢合わせて、たまたま会話をして、どこで彼の機嫌を損ねたのかは分からなかった。何が彼の糸を爪弾き、不快な音色を奏でたのだろう。思っても答えはわたしの中には存在しない。
気付けば彼の鋭利な爪の指先で、縊るように締め上げられていた。首へ急にかかった負荷も、壁にしたたかに打ち付けた背も、苦痛を認識した頃には眼前に真っ赤な色があった。

「覚えてねえってンなら、オレが思い出させてやるよ!」

嘲笑うテレビの悪魔は、牙を剥き出しに大きく裂けた口と、見開かれた双眸で、四角い画面のうちはいっぱいになっている。左の瞳が至近距離で真っ直ぐにわたしを射抜いて、視線がそらせない。駄目だと思うのに同じように見つめてしまう。ぐるぐるぐるぐる。白光りする稲妻から、渦巻く赤と黒から逃れられない。ぐるぐるぐるぐる。同じように脳も渦巻いて、引き摺り出される。無理矢理、わたしも認識していない奥深くへと手を突っ込まれて攪拌されて、ぐるぐるぐちゃぐちゃ、赤が、赤が、真っ赤な、まるでサンタさんの服みたいに真っ赤な、赤い―――血が。

「あ……あああ゛あ゛、あ゛、っ、ア」

どこか遠く獣の唸りが聞こえる。違う、わたしの声だ。ぐるぐるぐるぐる。気持ちが悪い。気持ちが悪い。吐き気がする。握り締めた手に硬い感覚。違う。今じゃ、ない。ないけど、覚えて、いる。はっきりと、くきやかに、まざまざと、霧が、晴れてしまう。白い煙が薄れて、鮮やかな、色が、匂いが、音が、感覚が、それは確かに過去に、わたしの手に、わたしの指が、わたしの意思で、引き金を、ひい、て、それ、で、わた、わたし、が、わたしが、ころ―――、

「―――そこまでだ」

視界が真っ暗になった。暗闇に、その声だけはあまりにもするりとわたしの世界の唯一となる。いとも容易くその声以外がシャットダウンされる。
名前を呼ぼうとしたけど、声になったのかは分からなかった。



ヴォックスの背後から伸びた黒い手が、女の目元を覆っていた。
気配など感じなかった。思うテレビの悪魔はしかし、己の失せていた余裕と相手の力量に舌を打つと能力を消し、ついでに手も離してやった。
意識があるのかないのか、華奢な身体はずるずると崩れ落ちた。興醒めしながら振り返って、しかしヴォックスは僅かに驚いた。てっきり不機嫌を露わにしているだろうと思った男の、ヴァレンティノの表情はゆるい笑みで彩られていたからだ。

「ンッフフ、フ」

睛を瞠るヴォックスを他所に、ヴァレンティノは特有の甘く掠れた笑声をこぼしながら足を踏み出してくる。思わず避ければ、当然のようにへたり込む女の前を陣取りおもむろに膝を折った。しなやかな黒い指が俯いていた女の頬を包み上げさせたが、その酷く丁寧な手つきにヴォックスはおぞましさで背が粟立つようだった。

「……ぅ、あ……、っ、」

閉じきらない双眸はぼんやりと焦点が定まらないようであり、まだ意識はあるらしいが、僅かに、しかし確かに絶望に昏く濡れている。それだけでヴォックスの気分は少々良くなる。突如断線したようなものだ、脳は未だおさまらない揺れのうち、混乱の渦中であるのだろう。もう少しすれば、認識が鮮明になる筈だ。いっそ暴力的に表層へと浮上させられた記憶が、地獄への切符が、正しく鮮烈に、その手にある事を自覚する筈だ。
いつもへらへらと、まるでやましい事など何もないと言わんばかりのこの女がヴォックスは嫌いであった。当然、彼はいい“オトナ”であり、プライドの高い悪魔である。取るに足らない小娘相手に、そんな分かりやすい態度をとるような事はなかった。なかったが、ふとした瞬間に首をもたげる悪意は、果たして侮蔑か嫌悪か、それとも。憐憫がないとは言わない。“コレ”も被害者であるのだろう。そうでなければ、こんな平々凡々で普通な、悪い事など拾った小銭をラッキーと言って財布へ入れる程度の事しかしないような、欠伸が出るほど退屈で、ありきたりのつまらない人生をおくって、そうして、それで―――天国へいくような人間が、地獄へ堕ちる筈がない。
この悪党が、蛾の悪魔が一枚噛んでいる事くらいは知っている。自他共に何が気に入られたのかよく分からない、哀れな魂だとは知っている。知っていて、それでも不意にその手にない罪を自覚させたくなる衝動に駆られてやまなかった。
なみなみと注がれたコップで、保っていた表面張力が崩れたのが、たまたま今日だったというだけであった。

ヴァレンティノがどう動くか注視していれば、笑いながら女の顔をじっと眺めて、そうして何気なく取り出した錠剤を口に含むと重ねた。
瞳同様に、口唇も閉じる事は忘れ去られていた。吐息に紛れて時折意味のない音が漏れるだけのそこが塞がれてしかし「……ん、ぅ」鼻に抜ける声がする。

「ン、ぅ……ん、む……っ、ふ」

長い舌で狭い口内を満たされているだろう事は簡単に想像がついたが、ごくりと反った咽喉から大きな嚥下音が響いたと思えば、あっけなく舌は引き抜かれた。らしくない。思えども、ぬらりと濡れた真っ赤な舌の淫靡さに思わず睛が奪われる。
そうして顔を離したと思えば、また黒い手がその目元を覆う。スライドのように下がった時には、そこにはもう意識を失ったおもてだけがあった。
猫でも持ち上げるように両脇の下に手を入れて、立ち上がると同時に抱き上げると、コツ、立ち去ろうとする。その背にヴォックスは思わず「オイ、ヴァル!」引きとめていた。

「ア?なんだよ、ヴォクジー」
「なんだよじゃねえだろうが」

首だけで振り返って、つまらなさそうに言うので反射で噛みつけば、ニイ、と口端が吊り上がる。何を飲ませたのかだとか、自分にたいして何かないのかという疑問が咽喉の奥へと詰まる、嫌な予感だけを相手にいだかせる笑みだとヴォックスは思った。

「ナア?ヴォックス、俺はなあんにも見てねえぜ?」
「……ッ、」

ゆったりと甘く吐かれた言葉の意味を、瞬時に理解出来ない程ヴォックスは愚かではなかった。見逃すと言っているのだ。ヴァレンティノの“モノ”に手を出した行いを。

「ンッフフフ……まあ、二度はねえけどなあ」

クツクツと嗤って、後はもうヴォックスを見返す事はなかった。コツコツと足音がやがて姿と共に消え去るのを見送ってから「……クソ!」テレビの悪魔は一人吐き捨てた。

後日、顔を合わせた女が先日の出来事などまるで“なかった”かのように、普段通りの笑顔で軽く挨拶をしてきたのを見て、やはりヴォックスは侮蔑と嫌悪と―――より色濃くなった憐憫をいだくのだった。

2024/05/20
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