広いビルの中を迷いなく歩いて辿りついた扉の前。門番みたいに両端にいる悪魔さん達にご苦労様ですって会釈して、開いたそこに顔だけを覗かせる。

「ヴァレンティノさん、撮影の準備整いましたよー」

声をかければ、ゆったりどころかだらしなく長身を存分にソファへ預けていたシルエットが、赤い煙の中で起き上がる。
煙幕のようなそれを簡単に消して、煙管片手にコツコツこちらへ歩んでくる蛾の悪魔は時間にちゃんと余裕があるから機嫌悪くないと安心する。仕事に関してはうるさいのだ。部屋を後にするヴァレンティノさんに並んで、スタジオまでの道すがら。そういえばと思い出して口を開いた。

「ところでカメラさん昨日と変わってるんですが」

何台もあるカメラの内のひとつに最近配属された新入りの悪魔の姿が、今日はなかった事にげんなりしたのは記憶に新しい。昨日の撮影終わりに声をかけられた記憶も同様に。
横目で見上げても、愉しげに吊り上がった口角からフフフフフと笑声が落ちてくるだけ。“いつもの事”とはいえ、いい加減にしてほしいものだ。

「ヴァレンティノさんのせいで、一向に恋人できないんですけど」
「フフッ、フ、さあて、なんの事やら」

ぼやいても、堂々と嘯くのだから大概だ。
わたしに言い寄ってきたり、わたしがいいなって思った相手はこれまでもれなく全員消えてきたのだ。酷い話である。そんな事をするのはヴァレンティノさんしかいないだろうに、いつだってこうしてはぐらかすのだ。わたしがなんでヴァレンティノさんがそんな嫌がらせをするのか理解していないって分かっているからこそ、タチが悪い。
でも、そんな事をしておいて別にヴァレンティノさんに肉体関係を強用された事もないのだから仕方がないと思う。そうだったらもうちょっと話は単純だったのに。エンジェルにだってドン引きされる、よく分からないクリーンさ(ヴォックス曰くグロテスク)がわたしとヴァレンティノさんの間に謎に存在するのもまた事実だったからだ。

「じゃあ、もういっそダディって呼んだ方がいいですか?」
「ンッフフフ、ブチ犯すぞ」
「ひえ」

愛欲でも肉欲でもなければ後はと思って訊いてみれば、甘ったるい笑声のあとに、一気にドスのきいた低音まで下がる。熱帯から氷点下へと、エグい急降下ぶりを見てしまった。とはいえこれも本気かどうかと問われれば疑わしい。案の定慄くわたしを見て、ハハハアッと、また吐き出す赤い煙のような声で笑っている。

「逆にどんな相手ならいいんですか」
「エンジェルとヴォックスならイイぜ?」
「やだー!わたしをバミューダトライアングルに引きずりこむのやめてくださいよ?!」

魔の三角地帯過ぎて、そんなの四角にすらならないですよわたしじゃあと嘆けば、上手い事を言うじゃねえかと褒められた。いや、たぶん褒められてない。

「というか、二人にもいい迷惑過ぎでしょうそれ。エンジェルはまだしもヴォックスには嫌がられる気しかしませんよ」
「アア?ノーとは言わせねえさ」
「酷いパワハラだ」

かわいそう。なんでこんなのがCEOなんだろう。溜息をついているうちにスタジオへと到着したので、雑談は終了。
ちゃんとお仕事モードに切り替えないとと気持ちを別にしていれば、ドアを潜る直前にくしゃりと長い指で頭を撫でられたので、やっぱりよく分からない変な悪魔だと思ったのだった。

2024/05/13
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