あれから三年。
あの日から、私はこれまで以上にこの勉強に身を入れてきた。
悔しいことに、やはり技術は未だまだだがそれでも一通りはできるようになったのである。
それこそ、あとは慣れと経験だ、と言われる程には成長していた。
「三郎、ちょっと聞け、」
最初は毎日訪れていたのに、徐々に二日に一度、四日に一度と間を空け、ついには半月程に一度の割合でしか私のところへ来なくなっていたコーちゃんが久しぶりに私の所へ来た日だった。
会わない間に山積みにしていた質問を次から次へと投げ掛け、すっかり冷めたお茶にやっと手を付けた時だ、改まったように切り出すコーちゃんに、持っていた湯飲みを下ろした。
「お前頭良いからな、もうわかってんだろうが、ちゃんと言う。」
俺が来るのは、今日で最後だ。――
やはり。
何となく、思っていたことではあった。
一年程前から指導が厳しくなったのは、私の忍術学園への入学までに基礎を完璧にさせたかったからだろうと踏んでいたからだ。
そして私はそれに応えねば、と毎日励んだ。その結果が別れを早めることになるということを知っての上だった。
「お前はすごいよ、苦労した俺の、何倍もの早さで成長しやがった。師としては嬉しいが、一個人としては悔しい限りだ。まあ、でも誇らしいのほうが勝ってるか。喜べよ、三郎。」
「……素直に喜べるか!まだまだ、コーちゃんのが上じゃないか、」
「そらそうだ、そう簡単に越えられちゃ威厳もなんもないからな、」
「………まだ分からないことがある。」
「そりゃあ自分で試行錯誤してどうにかしろ、」
「……………じゃあ!最後に、ひとつだけ教えてくれ。」
そう言って手にとったのは、勉強を始めたあたりにコーちゃんによって文机の隅に置かれた小さな箱だった。
眺めるだけならもう三年にもなる。いいか、絶対触んなよ。と念を押されたそれを手にとっても、慌てもしないコーちゃんから、それが触れても別に問題のない物だったことがわかる。
律儀に守り続けていた約束を簡単に破らせたことが、本当にもうお別れなのだということを実感させた。
「これ、何なんだ、」
差し出したそれを目にして、す、と細まった目は、柔らかな光を映す。
「………専売特許、だ。」
そう言って彼の手で分解された箱の中からは、乾燥した草花が出てきた。
「それ…、」
「集中力を高める調合だ。」
役立ったかは知らんが、………お前のその顔からすると思い当たることがあるみたいだな。―――
思い当たらないわけがない。
別所で学ぶ勉学より、この部屋で行う勉強の方が断然覚えも理解も良かったのだから。
それは単に気の向きようなのかと思っていたが、この箱の存在を知ってしまえば納得する自分がいた。
「………なあ、もしかして、コーちゃんのにおいも――?」
「……やっぱりお前頭良いな。」
こうなったら俺の全部教えてやるよ、と彼が懐から取り出したのは小さな竹筒の束だった。
ひとつひとつ栓を抜けば、様々な花や樹木の香りが部屋中に広がった。
そんで、これだな、――
そう言って開けた最後の竹筒からは、"コーちゃんのにおい"がした。
「これが俺の専売特許。こっちはちょっとやそっとじゃ真似できるもんじゃないし、教える気もない。」
家に帰ればまだまだあるぞ。調合の仕方で、人間の中枢に入り込む事ができんだ。
すげえだろ!―――
「そうだな、もしお前がこれの魅力に気付いたなら、まず、"新野先生"に教えを乞うといい。それから"山本先生"だ。」
忍術学園は良い所だぞ、存分に学んでくるといい、――
これから離ればなれになるというのに、その笑顔は今までに見たことがないくらいの自信と誇りに満ちていた。
私を褒めるときとは桁違いの大きさである。
悔しくない筈が無かった。
学園を出て、私は師を越える。
その時に、私はそう決心したのだ。
*
己の変装に自信が持てたのは、学園に入学して四年が経った頃だった。
新野先生を尋ねろ、その言葉の通りに漸く足を向けたものの、そこには誰も、保健委員すらも居なかった。
そして、ふと、懐かしい気配に包まれた気がして振り向いた先に、彼は居たのである。
少しは近付けたのだと思っていたが、まだまだ遠い存在だったのだと知らしめられた最後の日。
いつか、同じ顔をして、貴方から貰ったあの香りを纏って会いに行くのが目標だったのに。
なあ、何故コーちゃんは"其処"にいるんだ。
私が着るには早い黒を纏って、本当には見たこともない"顔"をして。―――
目の前で、何も言わずに佇む"骨格標本"なんてモノでは、貴方に鍛えられた私の目は誤魔化せやしないでしょうに。
私にはこのまあるい窪みに貴方の柔らかな光が入っているように見えるし、白く堅い頬にも歳の割に幼い笑顔を作る肉が見えているんだ。
"私は頭が良い"から、ちゃんと覚えているんですよ。
貴方に教わったことは、全て。
あれからもちゃんと努力したんだ。
顔から骨を見極めるのも、骨から顔を作るのも、朝飯前になったんですよ。
……随分とほっそりした指ですね。見えているんでしょう、ほら、私のも貴方と変わらぬ大きさになった。
目線はまだ届かないけれど、幾分に近くなったんだ。
なあ……コーちゃん、
今の貴方に足りないモノを私は持っているんです。
覚えていますか。
――少し早いが入学祝いだ、これ、お前にやるよ、
俺が一番好きな花の香だ――、
そう言って渡されたのは、柔らかく漂うコーちゃんのにおいだった。
「……これは貴方に返します、」
あなたの専売特許、なのでしょう?
黒い装束に付いた染みがじわりと拡がるにつれ、一面を懐かしい香りが遊ぶ。
「私は、貴方を越しますよ。
私だけの唯一を、作ってみせます。」
だから今だけは、ばらまいた香油の懐かしい香りに咽ぶ私を許してください。――
それから暫く、姿を見せた新野先生は部屋に微かに残る香りとぼろぼろになった私に気付いて、どこか見たことのある笑顔を浮かべた。
「鉢屋くん、やはりあなたが、」
そうですか、
……学ぶ気はありますか――?
そう尋ねる新野先生は全て解りきっているのだろう。
やっと、ここまで来たのだ。
彼に近付く一歩を、漸く。―――
よろしくお願いします、と言葉にした私の周りにはまるで背を押してくれるかのようにやさしい香りが凪いでいた。
*
生前コーちゃん企画「晩節」様提出、
お題:花を背負う人