[2.始動]


ぼんやりと目が覚める。
視界に広がるのは天井だった。
寝起きでボンヤリした思考のまま、寝返りを打ってみる。
どこかの部屋だ。和室の。

和室?!!
驚きで飛び起きる。

「ここ……どこ?」

経緯を思い出そうとした時、ノックもなくふすまが開いた。
入ってきたのは眼鏡をかけた少年────雨竜だ。小学生の。

「かわいい!! ちっちゃい!!」

思ったことがそのまま声に出た。
雨竜はムッとする。

「何ですかあなた。
いきなり小さいだなんて。
初対面の相手に向かって失礼じゃないですか」
「ごめんごめん。
だって本当にかわいいんだもの」

雨竜はあたしの言葉が気に入らないのか、ムスーッ!としていた。
かわいい顔が仏頂面で台無しである。

「あたしは七嵐春瀬だよ。
きみの名前は?」

仏頂面のまま、雨竜はふいっと目をそらした。
名乗ることが嫌なのか、間を置いて答える。

「石田………雨竜です」
「そう、雨竜ね。
よろしく。
あたしのことも名前で呼んでちょうだい?
お姉さんって呼んでもいいわよ?」

むしろ幼い雨竜にはお姉さんと呼ばれたい!
雨竜はお姉さんと呼ぶつもりはないのか、ムスッと黙り込んでいた。
まぁ、名前で呼ぶことを拒否しなかったから良しとしよう。
雨竜はちらりと視線だけを向けた。

「昨日のこと、覚えてますか?」

問いかけられてやっと思い出す。
禍々しく輝く複数の瞳。
そして、追われていた時の吐き気のする恐怖。
身体がブルッと大きく震えた。

「大丈夫ですか?」

脳裏に鮮明に浮かんだ昨日の出来事は、雨竜の声でフッと消える。
それでも恐怖はなかなか消えなくて、心臓の鼓動は嫌に速かった。

「覚えてるんですね」
「……うん」
「もう大丈夫です。
あなたを追いかけていた化け物はもういませんから」
「きみのおじいさんが助けてくれたんでしょう?」

どうしてそれを、と言いたげに、雨竜は驚きの表情で目を丸くさせた。

「見れば分かるよ。
だってきみの服、おじいさんとおそろいじゃない」


白い服。
確か、滅却師 クインシーの伝統の衣装なんだよね。

「おじいさんはいる?」
「いいえ、ここにいるのは僕だけです。
師匠は今出かけてます」
「あ。
なんだそっかー……」

本当は直接あいさつとお礼を言いたいんだけどな。

「僕は飲み物を持ってきます。
ここにいて下さい。
絶対に安静にしてくださいね」

言うなり、雨竜は部屋を出ていってしまった。

安静にしろとは言っても……。
健康そのものだから、雨竜の言葉に困惑する。
ひとまず横になっておくか。
ごろんと転がり、寝返りを打つ。
部屋は静かで、今まで考えもしなかったことが浮かんだ。

「そういえばどうしてあたし…」

虚が見えたんだろう。
霊を見ることも、金縛りすらも体験したこともないNO霊感人間なのに。
この世界に来た影響だろうか。

そもそもどうしてトリップしたんだろう?
誰があたしをここに連れてきてくれたんだろう?
何のために?
それともただの偶然?
嬉しいけど、どこかすっきりしない。

「……考えても仕方ないか」

疑問はあるが、それよりも重要なのはここに宗弦さんが健在しているということだ。
小学生の雨竜を見るに、時間はそんなにないかもしれない。
宗弦さんが殺される日。
それはもしかしたら今日かもしれないんだ。

知ってるから何かしたかった。
だって雨竜がひとりになってしまう。
あんなに幼いのに。
あたしにできることがあるなら。

宗弦さんのそばにいたいと思った。
もし虚が現れても、あたしがいれば時間稼ぎになる。
多勢に無勢で殺されることもなくなる。

「行かないと」

布団を抜け、部屋を出る。
玄関はすぐそばにあった。
あたしの靴がきれいにそろえてある。
靴をはいて、外に出ようとした時にやっと気づいた。

「……そうだ。
どこにいるかあたし知らないんだった」

思い立ったらすぐ行動!な自分が嫌になる。
雨竜に、宗弦さんはどこにいるかを先に聞くべきだった。
靴を脱いで引き返そうとした時、廊下に雨竜が立っていた。
お茶のペットボトルとコップを持ち、目を細めて唇を結んで。
怒りのオーラをまとっているように思えた。

「どこに行くんですか?」
「すみません」

低くてゆっくりした声に、あたしは一番に謝っていた。
小学生なのに、怒らせちゃいけないと思わせる雨竜をすごいと思った。

ササッと戻る。
布団に入るまで痛い視線が刺さり続けた。
ずんずん近づいてくる。

「安静にして下さいって言いましたよね?
なのにどうしてあなたは外へ行こうとするんですか!
安静にして下さいって言いましたよね?!」

うわぁ超怒ってる……。
変に言い訳すると火に油を注ぐだろうと判断し、あたしは黙って頷いていた。
この様子じゃ、宗弦さんがどこにいるか聞けそうにない。

「何かあってからじゃ遅いんですよ!!
聞いてますか?!」
「はい聞いてます」

雨竜の剣幕にあたしはひたすら低姿勢だ。
彼の怒りを沈める方法はひとつしかない。

「ごめんね、雨竜。
雨竜に何も言わずに出ていこうとして。
布団の中で大人しくするべきだったよね。
本当にごめん」

雨竜の怒りは心配からくるものだろう。
だから心の底から謝るしかなかった。
雨竜は怒りを吐き出すように、ゆっくりとため息をこぼした。

「理解したならいいんです。
はい、まずは水分採って下さいね」

コップにお茶を注ぎ、雨竜はそれを渡してくる。
受け取って飲めば、思った以上に喉が渇いていたようだ。
スゥッと身体に染み渡る。

「家に帰らないといけないかもしれません。
ですが、今はけして外に出ないでください。
師匠が戻るまで、あなたを守るのは結界が張ってあるこの家だけなんですから」
「守る?」

体調不良に対して大袈裟な言葉に、思わず小さく吹き出した。
雨竜は呆れたようにため息を吐く。

「昨日の晩、この町のどこかで霊圧が爆発的に高まったんです。
それも二度も」
「二度?」
「虚────あなたを追っていた化け物は、霊圧の高い魂を持つ人間を狙います。
師匠が言ってました。
普通の人間が三体の虚に追われることはあり得ないって。
……僕の言いたいことが分かりますか?」

回りくどい言い方だ。
何も知らない一般人でもそう感じるだろう。

「霊圧の高い魂の持ち主があたしってことでしょ?」
「ええ、師匠はそう言ってました。
僕には今のあなたが普通の人間にしか思えませんけど」
「ハッキリ言うね」

さすが雨竜。
皮肉っぽく聞こえてしまう。

「今のあなたには霊圧を少しも感じない。
だからいまいち信じられないんです。
師匠が言ってたこと」

同感すぎて思わず吹き出してしまう。
雨竜は怪訝に思ったのか、眉間にしわを寄せまくった。

「あたしも信じられないよ。
昨日まで幽霊すら見えなかったのに」

雨竜はポカンと口を開けて言葉を失った。
理解できない出来事を目の当たりにしたように。
色んな表情を見せるなぁ、雨竜かわいいよ雨竜。

「昨日まで……ですか?」
「うん、そうだよ。
昨日、っていうか、もう朝になったから一昨日かな」

雨竜は絶句し、床に視線を落とした。
考えごとをしてるのか、何も言わずに黙り込んでいる。
時計の針が進む音しか聞こえず静かだ。
疑問が頭にフッと浮かぶ。
どうして霊感がなかったのに虚が見れるんだろう。

三体の虚に追われたのは、あたしが霊圧の高い魂を持っていたからだ。
昨日の晩、なぜか二度も霊圧が爆発的に高まったらしい。
『二度』 その言葉には嫌でも覚えがある。
思い出すだけでゾッとする心臓の痛み。
多分その時に霊圧が上がったんだ。
その痛みがまた再発したら、虚はまた襲ってくるってことだよね。
もしかしたら────嫌な考えが頭をよぎる。
宗弦さんが相手をしなければならない五体の虚は、あたしのせいで集まるのだろうか。
嫌な考えを無理矢理蹴飛ばす。
それ以上は考えたくない。頭を振って雨竜へ視線を戻した。
雨竜は同じ姿勢のままだった。
難しいこと考えてるのかな?
小さいんだからもっと子供らしくすればいいのに。
無意識に、雨竜の頭にポンと手を乗せていた。

雨竜が顔をちょっとだけ上げた。
何するんだアンタ的な険しい表情で睨んでくる。
すごい顔。子供らしくないって思える凄みがある。
なでなで、と撫でたところで、雨竜にバシッと手を叩かれた。

「……なにするんですか」

うわぁ、超怒ってる。

「少しは考えて下さいよ!
あなた自身のことなんですよ!?」
「そう怒らないでよ。
考えてるし分かってるよ」

雨竜は押し黙った。
絶対分かってないだろう的な不満そうな表情で。

「分かってるよ。
そんなの、あたしが一番……」

宗弦さんを襲う五体の虚があたしのせいだったら。
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
それは分からない。
あたしが存在する以上、この世界はあたしの知る『BLEACH』じゃないから。

嫌だ。
自分のせいで誰かが死んだら、あたしはきっと耐えられない。

雨竜がジッとあたしを見つめていた。
息もできないような苦しげな表情で。
空気は重苦しく、そうなったのはあたしのせいだ。
気まずくて困っていたら、ぐうぅ……とお腹が鳴った。
音自体は小さいけど、静かな空間では大きく聞こえた。
助かった。これで話題を変えられる。

「なんか話してたらお腹空いちゃった〜」

重苦しい空気を無かったことにしたくて明るい声を出す。
雨竜は鳩が豆鉄砲喰らったようにポカンとした。

「ご飯ある?
あたし雨竜の手作りがいい!
できればオムライス希望!」

挙手しながら伝える。
冗談とはいえ、小学生相手に無茶でひどい注文だ。
重苦しい空気を無かったことにするにはこれぐらいしないといけない。

雨竜は深い溜め息を吐いた。
酸素を全部吐き出すほど長く。

「……何か食べるもの持ってきます。
あなたはここで大人しくしてて下さいね」
「ありがとう! ありがとう〜!!」

子供とは思えない極寒の眼差しを向けてくる。
空気読めよお前、と鋭く思っているんだろうなぁ。
雨竜が部屋を出て、あたし一人になる。

「大人しく……ね」

この家には結界があって、いま自分にできることはここにいることだけ。
分かっていてもソワソワしてしまう。
何もしないのは落ち着かない。
ご飯を作る雨竜の手伝いをしようかな……と考えたけど、大人しくしろと釘を刺されたのを思い出す。
守らなければどうなるか簡単に想像できるため、ここにいるのが無難だろう。

ふわぁ、とあくびが出て、強い睡魔がやってきた。
まぶたは重みを増し、引っ張られるように布団にダイブする。

「眠い……」

思考はあっという間に黒く塗りつぶされ、意識が深い場所へと沈んで…………────


────…………夢を見た。
映像はなく、ただ声が聞こえる。
『ここじゃない、ここは違う』って。
苦しげで、辛そうで、痛々しくて、血を吐くような叫び。
ずっと声が聞こえる。
大きくなる叫びに心を締め付けられた。

胸全体に重いものがのしかかる。
圧迫感が酸素を奪っていく。
息が出来ない。苦しい。

のしかかっているものが、ほんの少しだけ軽くなる。
重いものがどんどん消えていく。
楽になったところで夢が終わった。

和室で目が覚める。
すぐそばに誰かがいて、顔を向ければ穏やかな表情で見守るおじいさん────宗弦さんがいた。

「辛かったのぅ。
もう大丈夫じゃ」

優しい声に安心した。涙が溢れた。
その涙を拭おうとしたけど、思ったように手を上げられない。
身体が重くて、動かそうとするだけで苦しかった。

「体力の消耗が激しいから無理をしてはならん」

布団のそばには銀色の筒が転がっている。数は五本。
宗弦さんの左手は血まみれだった。

「その手……!!」

慌てて宗弦さん見れば、穏やかな表情そのままの宗弦さんはハンカチで左手を隠してしまった。

「お主の霊力を銀筒に込めるにはこれしか方法がなかった。
これだけで済んだのが幸いじゃよ」
「これだけって……。
もし戦うことになったらどうするんですか!
そんな手じゃ……!」

あたしのせいだ。
涙で視界がにじみ、ぼろっと溢れた。

「ごめんなさい!
あたしのせいで……」
「わしは事態を最小限に収める方法を選んだ、それだけじゃ。
けして自分を責めてはならん。
どれ、何か飲み物を持ってこよう」

宗弦さんは腰を上げ、閉めきった扉の前に立つ。
手のひらを扉にかざせば、パキンと何かが割れた。なんの音?

「これはお主の霊圧を外に出さないための結界じゃ」

あたしの疑問に答えた後、宗弦さんは扉を開ける。
廊下には雨竜が立っていた。
強張った表情で両手を握っている。

「わしは台所に行ってくる。
雨竜はここに、そばで話をしておくれ」

雨竜は宗弦さんと入れ替わる形で部屋に入ったものの、それ以上は近づいてこない。
何かを後悔している顔で目を伏せる。
今にも泣き出しそうだった。

「雨竜?」

声をかけても、雨竜はあたしを見ようとしない。

「何があったの?」

問いかけても答えない。
寝返りを打ち、腕を使って身体を起こす。

「話して、雨竜」

お願いすれば、やっと口を開いてくれた。

「……あなたが眠り込んで、師匠が帰ってきて、あなたの様子を見に行った時でした。
昨日と同じことが起こったんです。
暴走しているんだと師匠が……。
……もし、あの場に師匠がいなかったら……抑えきれない霊力であなたは死んでいました。
僕は……僕は最低です。
あなたが苦しんでいるのに、僕は何もできなかった。
押し潰してくるような霊圧に怯え、ただ部屋の外で待つことしかできなかった」

今まで押し殺していたのか、雨竜は泣き崩れた。

「何もできなかった!
今まで師匠のそばにいたのに!!」

何かしたい、でも何もできない。
それが悔しくて悔しくて、苦しかった。
雨竜の目から涙が溢れるほどに。

「……本当に何もできない?」

“何もできない”と言って全て諦めるのは早いと思った。

「どうして何もできないって決めるの?
まだ探してもいないのに。
何もできない、なんて自分のこと否定しないでよ」

雨竜はやっとあたしを見てくれた。
涙で頬を濡らしたまま。

「探すこともしないで『何もできない』って否定する自分。
『何かできる』って一生懸命探す自分。
雨竜ならどっちの自分がいい?
どっちの自分が、胸を張って宗弦さんのそばにいれる?」

雨竜は服の袖で涙を拭い、力強い眼差しをあたしに向けた。

「僕、はっ」

ぐす、と鼻をすすり、雨竜は一呼吸おいて答える。

「できること、一生懸命探したい、です」

まっすぐ見つめる雨竜がまるで本当の弟のようで。
誇らしいと思ったし、愛しいと思った。
雨竜に両手を伸ばして抱き寄せる。

「うん、よく言った」

ポンポン、と背中を叩けば、雨竜はハッと我に返った。
ドンッとあたしを突き飛ばす。

「あれ? どうしたの雨竜?
恥ずかしがらなくていいんだよ?」
「はっ! 恥ずかしがってなんていませんッ!!」

真っ赤な顔で叫んでる。
嘘をつくのが下手なヤツだ。

コンコン、と扉をノックして、宗弦さんが部屋に入ってきた。
雨竜はビクッ!!と全身で驚く。

「雨竜や、夕食の支度を頼む」
「あ、えっと……あの、その……」

オロオロする雨竜を宗弦さんはジーッと見つめる。

「雨竜、その顔は……。
……熱でもあるのかのぅ?」
「ありません! 失礼します!!」

バタバタと部屋を飛び出し、ドタドタと廊下を走って行く。
雨竜らしくない騒々しさだ。
見送る宗弦さんがプッと笑う。

「ほっほっほっほっ!!
雨竜が年相応の顔を見せたのは久しぶりじゃのう!!」

生き生きとした嬉しそうな表情だ。
満足そうに息を吐き、宗弦さんはあたしに視線を移す。
孫を見守る優しい眼差しをあたしにも向けてくれた。

「わしは石田宗弦。
雨竜の祖父じゃ」
「あたしは七嵐春瀬です」

宗弦さんの手をチラリと盗み見る。
包帯を巻いた手は痛々しくて、罪悪感で息が詰まった。

「……手、本当に大丈夫ですか?」

手を傷つけた原因が何を言ってるんだ。
気まずいけど、それでも確かめずにはいられない。
宗弦さんは持って来たお茶をあたしに差し出し、答えた。

「わしも長年戦いに身を置いとる。
こんなちょっとした怪我、大したことないわい」

陽気な声。
あの血まみれの手が頭から消えない。
あたしは宗弦さんの言葉は信じられなかった。

「あれは……ちょっとした怪我なんかじゃないです」
「いいや、わしにとってはちょっとした、じゃ。
助けることができて良かった。わしの手でお主の心と命を救えた。それが何よりも嬉しい。
わしの言葉は信じれんか?」

優しい眼差しに心が温かくなる。
心に根付いた罪悪感を溶かしていく。
宗弦さんの言葉を聞いて、あたしは自然と頷いていた。

「はい、信じます」

宗弦さんは嬉しそうな満面の笑みを浮かべた。
不思議だ。自分のおじいちゃんのように感じてしまう。
ふと、喉の渇きを思い出し、宗弦さんからもらったお茶に口をつける。
よほど喉が渇いていたんだろう、湯飲みの中はあっという間に空っぽになった。

「ペットボトルで持ってくるべきじゃったのう」
「すみません」

宗弦さんが立ち上がった時だった。
全身が凍るような悪寒が走ったのは。

湯飲みが手から落ち、ゴトンと音を立てて転がる。
宗弦さんがそばに来てくれたけど、顔を上げることができなかった。
“何か”が────おぞましい気配が、速さを増して近づいてくる。
数は五体。
離れているけど、気配を確かに感じてゾッとした。

「七嵐さん、分かるんじゃな?」

頷くだけで精一杯だった。
宗弦さんはあたしの肩を優しくポンポンして、何も言わずに部屋を出る。
途端、キン……と澄んだ金属音がした。
室内の空気が硬直して、世界から切り離されたように感じた。
おぞましい気配が全て消える。
これは……あたしを守るための、遮断する結界だ。
布団を飛び出し、部屋を出ようと動いたけど、扉はビクとも開かない。

「宗弦さん!!」
「大丈夫じゃ。すぐ戻る」

扉越しに聞こえる声は穏やかだ。
でも、あたしは知ってる。
宗弦さんが戻らないことを。

「宗弦さん! 宗弦さん!!」

叫んでも、扉を殴っても、宗弦さんは止まらない。行ってしまった。
廊下に雨竜がいるのも分かった。

「雨竜!!
雨竜そこにいるでしょう!
ここを開けて! 宗弦さんが!!」
「出てどうするんですか?」

あたしとは正反対の冷静な声。

「師匠は言ってました。
あなたをここから出すな、と。
僕も同感です。
今のあなたは、いつ爆発するか分からない爆弾を抱えています」
「でも! だからって!!」

自分がここを出て、もし昨日や今日みたいなことが起こったら、きっと宗弦さんの足を引っ張ってしまう。
最悪の重荷になる。

「じゃあ……どうすればいいのよ……」

今日宗弦さんが死ぬ。
知ってるのに、分かっているのに、あたしは何もしないでここにいるの?

「どうして? 自分の身体なのに…。
自分の身体なのに!!」

どうしようも出来ないことが悔しかった。
悔しくて、しかたなかった。

ドクン、と心臓が強く脈打ったのを感じた。
そして気づけば。
すぐ目の前に刀が突き刺さっていた。
最初からそこに存在していたように、音もなく。

「どうして……」

どうしてここにあるのか、理解できなくて唖然とする。
突然の出来事に頭は真っ白で。
考えがまとまらなくて。
ただ目の前の刀を凝視するだけだった。
それでもあたしの手は刀へと伸びていた。
柄を握る。
たったそれだけで分かった、これが自分の力なんだって。

「お願い、雨竜。
あたしをここから出して」
「だめです!!
分からないんですか!?
あなたがここを出たら最悪な事態になるんです!!」
「起こさない、絶対。
だってこれはあたしの力だから。
出して雨竜。
今すぐ宗弦さんのところに行きたいの。行かなきゃいけない。
最悪な事態には絶対しないから」

雨竜は沈黙する。
拒絶か、困惑か、あたしには分からなかった。

「お願い、宗弦さんを独りで戦わせたくないの。
雨竜、あたしを信じて」

暴走を目撃している雨竜にそれは難しいだろう。
それでもあたしは信じてほしかった。

「無理ですよ」

雨竜の声は乾いていた。

「言いましたよね?
僕には何もできないって。
解きたくても解けないんです」

扉越しだけど、分かった。
雨竜は泣いている。

「ごめんなさい。
あなたのこと信じられるのに、ここを開けることすらできなくて」

諦めているような雨竜の声に、怒りがふつふつ湧き上がってきた。

「雨竜、そこどいて?」
「え?」
「早くどいて。
これ壊すから」

不思議と心は落ち着いていて、何でもできる自信が湧く。
弱気も恐怖も不信感も、全て焼き払う炎が心に宿ったような気がした。

「無理ですよ! だってあなたには────」
「できるよ。だってあたしは諦めてない。
離れて、雨竜」

気圧されたのか、雨竜はすぐに離れてくれた。
刀を構え、扉に切っ先を向ける。
そして刀を降り下ろす。
何も見えないけど手応えを確かに感じた。ガラスの割れる音が響く。

刀を片手に扉を開ける。
幽霊でも見るような驚愕の表情で、雨竜はあたしを凝視していた。

「どうして……!」
「今は宗弦さんの所に行くのが先だよ。
急ごう、雨竜」
「虚はたくさんいるんですよ!!
本当に戦うんですか!?」
「当たり前でしょう。
出来ることがあるのにそれをしなかったら、あたしは自分のことを許せない。
信じて、雨竜」

雨竜は手に持つ刀とあたしを見比べ、戸惑いながらも頷いてくれた。


□■□■□■


宗弦さんの気配を感じ取れて良かったと心から思う。
土地勘のある雨竜に先頭を走ってもらい、方角を指示しながら一緒に進んでいく。
宗弦さんのところまであと少しの場所で雨竜に止まってもらった。

「雨竜はここで待っていて」

頷いてくれるけど、雨竜はすごく不安そうだ。
大丈夫だって思ってほしくて、かわいい頭を優しく撫でる。
雨竜はバシッと叩いてこない。
それが嬉しくて顔がゆるんだ。

「すぐ片付けるから、その時笑って迎えてね」

雨竜のそばを離れ、全速力で走る。
場所は誰もいない工事現場。
入ればすぐ、虚に囲まれた宗弦さんがいた。
声をかけずに刀を構える。
虚の背中目掛けて地を駆け、現実離れした巨体を下から思いきり斬り上げる。
虚は呆気なく崩壊して、粉々に散った。

「七嵐さん?!」

驚く宗弦さんの背後に立ち、刀を構えて虚を睨む。

「あたしがいます。
一緒に戦いましょう!!」

宗弦さんから驚く気配が消えた。
まるで心が一つになったように、あたしと宗弦さんは同時に動く。
どれだけたくさんの虚がいても全然怖くない。
目をそらすことなく、虚一体を斬り上げる。
背後で、虚一体の気配も消えた。
あと二体。
次の虚に向かおうとした時、背中一面に何かが刺さった。
衝撃は凄まじく、突き飛ばされるように転倒する。
手の甲にも何かが────光の杭が突き刺さっていた。
直感で分かった。
これは虚の攻撃なんかじゃない、死神の仕業なんだって。

「七嵐さん!!」

目の前が真っ暗になる。
戦闘の音が激しくなる中、あたしは意識を手放して────


────ハッと意識を取り戻す。
あたしのそばにいるのは……。

「……雨竜?」

どうしてここにいるんだろう?
身体が満足に動かせない。
血の臭いが鼻をつく。
あたしは……そうだ、死神に攻撃された。
虚の気配はひとつも感じられない。

「宗弦さんは……」

雨竜の後ろだ。
ボロボロになって倒れている宗弦さんがいる。
生きている気配がしない。
息が上手くできない。
結局、戦う力を手に入れても、宗弦さんの死を阻止することができなかった。

「もっと早く……死神がここに来ていれば……」

雨竜の声は震えていて、涙が混じっていた。

「どうして……。
どうして! 師匠が何度も救援を求めていたのに!!」

死神の攻撃を雨竜は知らない。
でもいつか気づく。
真相に自力でたどり着いた時、深い憎しみが雨竜の心を塗り潰す。
それはダメだ。

「雨竜、もっとそばに。
そばに来て……」

動けないから雨竜にお願いするしかなかった。
近づく雨竜の目には大粒の涙が浮かんでいる。

「死神、許せなくてもさ……。
それだけに縛られたらダメだよ?」

目の前が暗くなる。
全身が寒い。感覚も無くなっていく。
寒くてすごく眠かった。
寝たら多分、もう起きられない。
命の灯が消えていくのを感じた。

「雨竜には、力が、あるからさ……。
宗弦さんみたいに、人を守るために、強く……なってよ」

温かさを感じて、手の感覚だけ戻る。
強く握ってくれる小さな手は雨竜のものだ。
伝わってくる手の温かさが嬉しくて、涙が込み上げて溢れてきた。

「雨竜、ありが、と……」

最期に手を握ってくれて。
 






 
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