水月の手招き
夜の冷たい風が頬を撫でる。月明かりに照らされた波の泡は水面をイルミネーションのように彩り、小さな粒となって消えていく様子を砂浜から見ていた。
日に当たらず病人のように白い脚を砂粒で飾り、割れた貝殻の破片で傷付けた足の裏を紅で彩る。この心臓の痛みと息苦しさを忘れようと、波打ち際へふらつきながらも迷いなく足を進めた。
つま先が海水に浸る。肌を突き刺すような冷たさに思わず眉を顰めてしまうが歩みは止めない。大きな波が足下を攫い、水分をたっぷりと吸ったズボンは色を変えて重さを含む。海面に映る月が沖へと誘っているようで手を伸ばすと、後ろからざぶざぶと勢いよく水を掻き分けて近づいてくる音が聞こえた。
「何をッ、して、いるんですか!!」
勢いよく腕を引かれ砂浜の方へと体を向けさせられる。夜だというのに眩しいくらいの純白の正義と写真でしか見た事がない桜のような髪が目に映った。彼の背後で星屑が地上へと線を描く。
驚いて固まっている私に、彼は自身の羽織っていた上着を被せる。そしてそのまま水飛沫で濡れた頬を拭おうともせず私を横抱きにして踵を返し、誰もいない砂浜へと早足で戻って行った。
「なんで入水しようとしていたんですか…」
そっと砂浜に下ろしてくれた青年の眉は垂れ下がっていて、まるで飼い主に見捨てられた仔犬のようだ。まろい頬を髪から滴り落ちた雫が伝って涙みたいに見える。こちらを心配してくれている彼には申し訳ないが、辺りに笑い声を響かせた。
「あっはっはっ!!」
「な、どうしたんですか!?」
「いやァ、青年の心配が嬉しくてね」
肩をびくつかせて目を丸めているその顔は無垢で可愛らしい。額に巻かれた黄緑のバンダナがよく似合っている。彼が掛けてくれたこの上着はおそらく海軍将校のものだろう。若いのに将校とは、とても素晴らしいことだ。
「別に私は死ぬつもりはないよ。ただ夕方に寝てしまったせいで夜寝れなくなってしまってね。そこで思い立って海に入ってみただけなんだ。ふふっ」
「よ、良かったァ」
安堵してその場にへたり込む青年はあの海軍の一員にしてはとても純粋で正義感が強くお人好しのようだ。進む道が夢や希望で溢れている若人が眩しくて目を細める。
いつかの私もこんなに澄んだ眼をしていたのだろうか。今はもうこんなおばさんになってしまったが。過去の若かった自分を思い出す。体を張って人助けをして、笑顔で言われるありがとうの言葉が生き甲斐だった。
「ところで青年はなぜこんな辺鄙な島に?」
「次の島へ行くために補給に来たんです。それで建物の屋上から海に入っていく影が見えて……」
「はっはっはっ!折角の買い出しだったのに、こんなびしょ濡れにしてしまってすまないね。お詫びにうちの風呂に入っていくといい!!」
「え、あれはただの勘違いだったようですし!お気持ちだけで十分です!!」
「水も滴るいい男だけど風邪引かれちゃあ困る。さ、私の家はあっちだ!!」
「え、あの、ちょっと!?」
この青年は人の善意に弱そうだ。困った顔をする青年の腕を少し強引に引き、私が営む温泉宿まで歩いていく。年季の入った建物の通りをぬけて石で舗装された道を進む。
「そういえば青年と船に乗ってきた上司は誰だい?」
「が、ガープ中将です!」
「あぁ、あのせんべいジジイか!なら問題ないね。後で私の方から連絡しよう」
「ガープ中将と知り合いなんですか!?」
「そうだよ。きっと近いうちにまた会うだろうから、その時教えてやろう。今はまだ秘密だ!!はっはっはっ!!」
また大きく口を開けて笑う。そうか、あのガープの部下だったか。通りで可愛いわけだ。
「あなたは一体……」
「私はただの話好きな女さ!お喋り放蕩女とでも呼んでくれ!!」
*
ここは海軍本部。ガープを探しに海軍の上層部が集まる建物内を歩いていたコビーは、廊下の窓からクザンと見覚えのある女性が中庭で仲良さげに話しているところを見かけた。
迷いなく海へ入っていった女性がそのまま沈んで消えてしまいそうで、街から慌てて海へと走り浜辺に連れ戻したのは数ヶ月前。あの後、船へ戻り上司へ報告したコビーはガープにも爆笑されていた。彼女は誰なのかと彼が聞くも、ガープ曰くあいつにはそのうちまた会うじゃろうからその時聞いてみィとのことだった。
本当に2人の言う通りにまたあの女性と会えたのはいいが、まさか海軍本部で会うとは思っていなかったコビーが廊下で固まっていると彼女は立ち尽くす彼に気がついた。
「やァ!!元気にしてたかね青年!!」
「お久しぶりです」
以前と変わりなく元気そうな彼女に笑顔になるコビー。軽く走って窓際まで寄ってきた彼女と、その後ろからのそのそと気だるげにクザンが歩いて近付いてきた。
「あらァ、あんたら知り合い?」
「そうさ!可愛いだろう!!海に沈みそうになっていた私を必死に引き止めて救ってくれた青年さ!!」
「ふーん」
聞いてきた割に興味なさげなクザンの腰を彼女は肘でつつく。かなり仲が良さげな関係にコビーはさらに疑問符を浮べた。温泉宿を経営していると言っていた彼女がただの民間人では無いことは確かだ。この押しの強い女性が一体どんな人なのか気になって仕方がない彼はクザンと彼女の顔を交互に見ている。
「今からどこに行くんだい?」
「ガープ中将を探してて……」
「なら私もついて行こうじゃないか!!じゃあなクザン!!ちゃんと仕事するんだぞ!!」
「はいはい気が向いたらねェ。ガープさんなら今センゴクさんとこにいるだろうよ」
「了解!!ありがとうな!!」
クザンに手を振った彼女はコビーが乗り出している窓へと手をつき建物内へと入る。廊下を歩いていた何も知らない海兵たちはぎょっとした顔で彼女を見ていた。
危なげなく飛び越えてきた彼女は身体能力はそこそこ高いのであろうとコビーはアタリをつける。しかし、余計に彼女の情報が混乱していた。
「温泉宿の女将さんで、海軍本部に自由に入れて、大将や中将の知人って一体……?」
「何をボソボソ呟いているんだ青年!!」
「僕はコビーです!」
「あぁ、知っているぞ」
唐突に顔をのぞき込まれて驚き仰け反ると、彼女はにやにやと口角を釣りあげてコビーと接触してしまいそうなほど目と鼻の先まで顔を寄せた。
「青年、君は何故海兵になったんだい」
先程とは打って変わって真剣な顔になった彼女に気圧されて廊下の壁に背をつける。彼女は距離を縮めて、コビーの顔の横に肘をつき彼を上から見下ろした。
普段ならすぐに答えることが出来る質問に、コビーは彼女の瞳に気を取られて言葉が詰まった。彼女と出会った時に浮かんでいた水面に映る月のような煌めきと、触れれば形を崩して引き摺り込まれるような深淵が見えた気がした。
少し様子がおかしいコビーに彼女は大丈夫かと声をかける。はっと意識を取り戻した彼は、女性と鼻先が触れてしまいそうな距離になっているということに気付いて顔を林檎のように赤く染めた。それを見て今度はどろりとした愉悦を目に浮かべた彼女は彼の顎下に手を添えて上を向かせる。
「ち、近いです!!」
「はっはっはっ!!青年は純粋で金剛石のように透明で大事にしまいたくなるくらい可愛いイタッ」
ゴツンと音がしたかと思うと彼女が視界から消えた。目の前にはガープ中将が立っており、彼女は頭にたんこぶを作ってしゃがみこんでいる。
「コラッ!!止めんか!!わしの部下をいじめてやるな!!」
「だからって殴らなくてもいいだろう!!こんな子がガープの部下だなんてもったいない!!青年、私のところに来なよ。毎日広い温泉に入れるし、美味いご飯も暖かい布団も用意するぞ?」
「え、いや、あの、用事思い出したので失礼します!!」
耳まで真っ赤になっているコビーはその場から逃げるように去っていった。その後ろ姿をガープと彼女は呆然と見ていた。
「あれ、ガープへの用事は良かったのだろうか?」
「なんじゃ。あやつ、わしを探しておったのか」
*
その場から脱兎のごとく逃げだした彼は走りながらも思い出す。彼女に触れられた感触とにんまりとした笑み。全身の血が沸騰してしまったように熱く、頭の中がいっぱいいっぱいで湯気が出てしまいそうなのを走っているせいにして、どきどきを発散すべく訓練場へと向かった。
そしてコビーは結局彼女に聞きたかったことも聞けず、ガープに用事があったことを思い出したのは訓練場についてからだった。
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