地獄のような締め切り明けの翌日、まだ休まらないふらふらの身体で町へ出た。理由は特に無かった、あえて言うならばなんとなく、だ。
履きならした靴で、コンクリートに埋めつくされ自然味を微塵も感じさせない、いかにも人工的な地面をひたすら蹴り続ける。しかし歩を進めるごとに頭を占めていくのは後悔で、何故自分は町へ出ようなどと思ったのか、そんな事ばかりを考えた。そんな後悔の原因は、人混みに酔った事にある。

買ったばかりの愛車による移動手段を知ってから、自分は徒歩での移動を全くしていなくて、もしかするとそれにより、徒歩がかなり苦手になっていたのかもしれない。今まで徒歩で人混みの中を歩いていても、うるさいなと思うことはあれど、気分が悪くなることなど、決して無かったから。
車では、誰かを乗せない限り一人の閉じた空間で、歩く人々だって別世界にいるんじゃないかと思う程に遠い。他人がそばに居ない、耳障りな人々の声もしない、一人の快適で素敵な空間、それを保ったままの外出。最近はずっとそんな外出方法ばかりに慣れて、それとは真逆な徒歩が苦手になったのかもしれなかった。
人の波に飲まれ、歩を進めるほどに様々な温度や匂いが入り交じり、頭痛と目眩が襲い来る。あぁ、気持ちが悪い。こんなことならば自宅で死んだように寝ていればよかった、何故町になど出たのだろう。
ぐらぐらと揺れる視界、足元の浮遊感。
気持ちが。

「何をやっているんだ、君は」

ふと、後ろから強い力で右腕を引かれ、少し遅れてそんな言葉が飛んできた。シャツ越しにもわかる程に熱い手のひら。聞き慣れた声、口調。
振り返ると、やはり思った通りの人物だった。
自分ほどでは無いが、男性にしては長い部類に入るであろう黒髪、寄せられた眉間。どうしてここに。

「……よ、吉田氏」

驚きに眼を見開いたまま言うと、眼をふせて、はぁ、と深くため息をつかれた。あぁ、今のでひとつ幸せが逃げましたよ、吉田氏。

「本当に君は何をやってるんだ」
「特にはなにも……」

そんな会話をしながらも、吉田氏は掴んだままの僕の手を引き、人々の群れを泳ぐように滑らかに横切って脇道へそれた。人通りの少ない道へ出て、なんだか少し気分がましになったような気がする。見慣れたその人物に、安心したからかもしれない。けれど何故、ここに彼が居る。
原稿はなんとか締め切りを破らず完成させ、いつものように、彼からよく出来ている、と言葉を貰った。昨日の事だ。次の原稿へ取りかかるまで、まだ少し時間はある。だから仕事の事ではないはずだ。そう考えると、どうしてここに吉田氏が居て、こうして自分を見つけて捕まえているのだろうか、ますます理由がわからない。
手を引かれたまま、今の状況がどうして出来上がったのかを、長髪の揺れる吉田氏の背中を見ながらぐるぐると考えていると、なにかの店の裏らしき所で吉田氏が立ち止まった。つられて足を止める。
視界のすみにはぼんやりと、ふたつの数字を組み合わせて出来た名前の某有名な二十四時間営業のコンビニエンスストアの看板が見えた。どうやらここはその店舗の裏らしい。僕の右手をやっと自由にしてから吉田氏が振り向く。
(くるりという擬音が聞こえたような気がするのは、職業病か)(いや、僕に限ってそんなまさか)

「全く、君は」

呆れたような怒ったような響きの声、言葉。……なんだろう、捕まえて注意をしなければならないような、怒られるような事でも自分はしでかしたのだろうか、彼がここに居るのはそれが理由なのか、何を言われるのか。
次に発せられる言葉に、不安といやな緊張を覚え、身体が硬直してしまう。けれど視線をなんとか吉田氏の顔へと移すと、その黒い双眸と眼があった。じっと見つめられ、更に緊張が増していくが、何故だか眼をそらせない。
ああ、早く次の言葉を僕にくれないだろうか、そうしてくれないとこのまま動けなくなって死んでしまいそうだ、息が詰まる。
けれども吉田氏は僕の望みを叶えてくれそうには無い、こちらを見つめたまま黙っている。何故だ、僕の返事でも待っているのか。でも身体が固まってうまく声も出せそうにない、だから今返事をするのは無理です吉田氏。心の中でそう叫ぶと、まるで僕の心を読みとったかのように吉田氏が口を開いた。

「……原稿が終わったばかりだっていうのにふらふらの身体で出掛けた、なんて君のアシスタントが言うもんだから、どうしたかと思ったじゃないか」

少し怒ったようなその言葉に、きつく閉じた眼を見開いた。気分が悪いのや緊張なんてどこかへ吹き飛んでしまった。だって、そんな言葉は予想していなかった。彼が自分を捕まえてこうしてここに居るのも、次に言われる言葉も、怒りによるものかとばかり思っていた。けれど彼は全然怒ってなどなく、自分の身を心配してわざわざ捜しに来てくれたのだ、これが驚かずにいられようか。思わず先ほどまで捕まれていた右手首を左手で触り、まだ腕に残る熱と感触を確かめる。

「……よしだし」
「なに」

素っ気ない応答、けれど冷たさは微塵も感じられない。

「……その」
「うん?」

言いたい事をうまく伝えられなくて言い淀んでしまう子供の言葉を促すように、さっきの言葉よりも優しく言って吉田氏がこちらを見る。優しく言われたのに少し驚いて、一瞬の間をあけてから口を開いた。

「うれしいです」

僕の言葉に少し眼を見開いてから、まるでコマ送りのように(職業病ではない、決して)いつもの眉間にしわをよせた仏頂面に戻ってみせた吉田氏は、本日二度目のため息をついた。
ああ、これでまたひとつ幸せが逃げましたよ、僕みたいなのの担当でただでさえ幸せが少ないのに(僕にも一応手のかかる漫画家だという自覚はある)。

「俺は君を喜ばせるために来た訳ではないんだけどな」
「す、すいません」

まったく君は。そう言う吉田氏の目がやわらかく細められていたので、言葉選びに失敗はなかったのだなと思った。いつもは失敗して怒られてばかりいるから、ほっとして息をつく。それをため息か何かと勘違いしたらしい吉田氏は、疲れたのかと僕に尋ねた。いいえ、違いますよ、疲れてはいますけど。そう返すと、なんだそれ、と言われたが、他には何も聞かれはしなかった。

「さ、帰るよ。俺は腹減ってるんでね」
「はい」

わざわざ行き先を告げなくてもわかる、帰る先は二人とも同じだ。並んで歩き出す。今日は何を作ってくれるんだろうか、僕の嫌いじゃないものならうれしい。
そうして今日も、当然のように管理されて僕は生きるのだった。

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