今日もまたどっかおかしいんだ。景色はぐらついて歪んで、視界はぼんやりと狭まっていく。心臓がばくばくうるせえなあ、誰か止めてくれよ、耳障りなんだ。あーあ頭いてえ。その場で頭を抱えてうずくまりたくなって気付く。俺はいつの間にか、横断歩道の手前に立っていた。傍らには歩行者用信号機。道路を挟んだ向かいに、対になるようにしてある信号機は、赤色に光って歩くな止まれと伝えている。横断歩道の上では車が何台も走り抜け、白と黒の線を隠してはまた見せる。そんなチラリズムいらねえよ、目が痛くなるだろ。ああほら目の奥が痛い、どうしてくれるんだよ、視界がぼやけそう。
ふいに足を動かしてその中へ進みたくなったけど、クラッシュデニムのポケットに入れた携帯が震えて、そのせいで気分を削がれたのでやめた。迷惑メールかと思って携帯を取り出して見たら、液晶ディスプレイに表示されたのは知らないアドレスでもいかがわしい件名でもなく、鬼道の名前だった。しかも電話、珍しい。明日は雨降るんじゃねえの。ぐだぐだ考えながら通話ボタンを押す。

『……もしもし、不動か?』
「俺の携帯なんだから俺に決まってるだろ」
『そうか、そうだな、すまない』

すぐに謝る鬼道は、なんだか源田みたいで変だ、らしくない。もしかして俺のおかしいのがうつったのか。それはないか。

「なに、どうしたの鬼道くん」
『いや、ただ、どうしているかと思ってな。……お前今どこに居る? 声が少し遠いぞ、騒がしいし』
「今? どこだっけ、どっかの横断歩道前」
『迷ったのか?』

ふざけて返した言葉にそう問われて周りを見回すと、知らない町並みが広がっていた。店も、住宅も、標識も、道路も、こんな横断歩道だって俺は知らなかった。あれ、どこだ、ここ。なんでこんなとこに居るんだ。分からなかったけど、迷っている現状は分かったので、そうみたいだと返す。電話の向こうで、鬼道は少し考えるように沈黙して、近くに喫茶店や落ち着ける店があるなら、入って待っていてくれないか、車通りや人混みからは離れた方がいい、すぐに居場所を調べて迎えに行く、と言った。どうやって調べるんだよ、という問いには、鬼道の名を甘くみるなよ、とだけ笑って返された。なんかむかついたので電源ボタンを押して通話を切ってやった。ざまあみろ。
携帯を元の通りポケットにしまうと、タイミングよく信号は緑になった。これを青って言うんだから日本人て変。かくいう俺も日本人に変わりはないのだけど。
白と黒の縞模様の上を渡って、反対側の信号機のもとへたどり着いた。とりあえずそこで立ち止まって、視線を左右へ向ける。どちらにも歩道が広がっていたけど、左側に、安価で有名なイタリアンファミリーレストランの看板が見えたのでそちらに進む。とりあえずはそこで大人しくしていよう、鬼道が言うとおりに。
無事に辿り着いて店内に入ると、人はあまり入っていなかった。いらっしゃいませ、と挨拶をしてやってきた店員に、喫煙されますか、と聞かれたので首を横に振る。煙草はずいぶん前にやめた、だってそのための金が勿体なかったから。それではお好きな席へどうぞと促されたので、窓際の角の席へ腰を落ち着ける。そこへ先程の店員がやって来て、メニューを卓上に並べてから、ご注文がお決まりになりましたらお呼び下さい、とマニュアル通りの言葉と一礼をして去って行った。残された俺は、広げられたメニューを見て、どうしようかと思う。頼みたいものなんてないけれど、入ってしまった以上は何かを頼まなきゃいけない。けれどがっつり食べれそうもないので、温かいスープとチョコレートケーキ、というアンバランスな組み合わせの注文をした。デザートはいつお持ちしますか、と聞かれたのでスープの後で、と答えた。塩系のものの後には甘いものが食べたくなるものだ。まあその逆も然りなわけだけど。
程なくして温かいスープが運ばれてきた。きっとこれ熱いんだろうなあ、と思いながら紙ナプキンの上に置かれたスプーンでかき混ぜる。あまり行儀のいいことではないけど、冷ますためなのだからしかたない。冷めるのを待ってもよかったけど、その間何もすることがなくて手持ち無沙汰になってしまうのがいやだった。けれどすぐに混ぜるのが面倒になって、スプーンですくったスープに息を吹きかけて冷ます。それを口に含んだ瞬間なぜだか泣きたくなって、思わずスープの皿をにらみつけた。とろりとして白いスープはもちろん何も映しださないし何もかわらない。なにやってるんだろうなあ俺は、と思いながら、右手に持ったスプーンもそのままに目を閉じて顔をうつむける。早くこいよ鬼道。でないと俺はスープの具に混ざってぐでぐでに溶けて消えたくなってしまう。誰か俺をスープにして飲み干して消化して。そうでなければ流して捨ててくれよ。どっかがおかしいまんま、俺はここでひとりで泣きたくなっている。くだらねえなあ。

「待たせたな、不動」

とん、となにかがテーブルに触れて、そう声がした。顔を上げるとテーブルを挟んだ向かいにに鬼道が立っていた。さっきの音は鬼道がテーブルに手をついた音だったらしい。しかし、相変わらず真っ黒い服を着ている。ゴーグルをしているだけでじゅうぶん怪しいのに、余計怪しいっての。でも俺は今そんなやつに頼ってしまっている。昔はそんなこと死んでもいやだと思っていたのに、時とは不思議なものだ。今ではそんな行為に嫌悪などしない。もちろん相手にもよるけれど。
あまり情けない顔を見せたくなくて、俺は少し笑った。

「おせえよ鬼道くん。……頼んだスープが冷めなくてさあ」
「熱いのか?」
「すこし」

向かいのいすを引いて腰を下ろした鬼道は、俺の持っていたスプーンをとって、乳白色のスープをすくって口にする。冷ましもしなかった。信じらんねえ。

「……ああ、これは確かにお前にはすこし熱いかもしれないな」

冷めるまでもうすこし待ったほうがいい。そう言って、俺にスプーンを返す。言われたとおりにもうすこし冷まそうと思って、返されたスプーンはスープ皿を乗せている大皿に置いた。食器同士が触れ合って、かちゃり、とすこし高い音がした。スプーンを手放してしまうと手のやり場に困った俺は、テーブルの上でこぶしを作ることで手を落ち着けた。そうしてひと息つくと、向かいからこちらを伺う気配がした。

「どうしたんだ、不動」
「いや、……なんか、落ち着かねえ」
「落ち着かない? そんなことはないはずだが。だって俺がきただろう?」

その言葉に視線を向けると、自信とやさしさを湛えて鬼道が笑っていた。普段の俺ならばまず間違いなくどついているだろう。けれど今はうるせえよ、と小さく反抗するしかできなかった。だって鬼道の言葉はまったくそのとおりだったから。泣きたくなる。でもそれはさっきと違って悲観的なものではなく、安堵からくるものだった。あーあ泣きてえな、今この状況で泣いたら鬼道くんよろこぶから泣かないけど。こうして俺が不安定になっているのも、鬼道の姿を見て安心するのも、安心したことで泣きたくなるのも、さまざまを見越した上で向かいに座る男は笑うのだ、俺がお前を知らないはずがないだろう、と。全部思い通りだなんて悔しいから、その予測通りには動いてやらない。鬼道くん、と俺は笑みを浮かべて呼びかける。

「後で俺のチョコケーキ半分やるよ」

これが今の俺にできる精一杯の意趣返しだった。俺の言葉を聞いて鬼道は少し驚いた。それからすごくうれしそうに笑った。

「ありがとう」

その言葉がどちらのものだったかといえば、きっとどちらものものだった。


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