俺を殺してくれないか、と彼はそう言った。確かにはっきりと俺の目をみてそう言ったのだ。いつもとは違い、白い首すじを晒したラフな格好をしている彼は、綺麗な緑色の双眸を虚ろに翳らせて、俺にそう言ったのだ。

「何を言っているんだよ、アッシュ」
 
嫌な汗が流れていくのを感じながら、俺は声が震えるのをどうにか抑えようと必死だった。全身の血が一気に引いていって、指先が冷たくなるような気がしていた。
ふざけるな、馬鹿な事を言うな、お前を思う周囲の人々を、自分自身を大事にしろ、第一俺が殺せるはずがないだろう、アッシュ、俺だって、お前を。
そう言って怒鳴りたかったし、痛む心を目の前にさらしてやりたかった。常の俺ならば、それを実行していたはずだ。けれども怒りや悲しみよりも、今は得体の知れない恐怖が勝ってしまって、言いたい言葉を何ひとつを言えないままでいた。視線の先にある曇ったエメラルドが、ひとつふたつと瞬きをして、さも不思議そうな顔をした。ひやりと背筋から何かが身体を侵食していく。

「だっておまえは俺が憎いんだろう」

そうだろうガイ。
やけに血色が悪く白い唇がそう囁くのを、俺はどこか遠い気持ちで見ていた、聞いていた。指先から、全身から力が抜けていく。がくりとうなだれた。ぴんと伸びて全身を支えていた膝が折れ、何もない白い床にぶつかる。床は白い、真っ白だ。けれども何も映しだしはしなかった。うなだれている俺の顔も見えない。
ここはどこなのだったか。
何も映し出さない床からのそりと頭を持ち上げて視線を周りへやる。ぐるりと見渡しても何も見えなかった。無限のように白が続くばかりである。ここにはどうやら俺と彼しか存在しないようだった。
そうだ、彼は。
視線を俺の前に立つ彼へと向ける。
膝を床に着いて立つ体勢の俺は当然見上げる形となり、下から見た彼の表情は先ほどよりも暗いものを含んでいた。俺にはなぜだかそれが恐ろしいことのように思えて、そんな自分を誤魔化したくて尋ねた。

「なあアッシュ、ここはどこだったか」
「そんなことはどうでもいいことだ」
「どうして」
「だってここにはお前と俺しかいないだろう、ガイ」

それはどうして。そう言葉をつむごうとした俺の前で、アッシュの膝がかくりと折れる。床にぶつかったはずなのに、何の音もしなかった。そうだ、さっき自分の膝が床にぶつかったときも、何も音がしなかった。ここはどこなんだ。
膝立ちになったことで、俺より身長も座高も低い彼の顔は俺の視線よりも下になった。今度はおれが見上げられる形になる。かちりと、虚ろな緑と視線がかみ合った。
無表情のまま彼が言う。

「俺を殺せ、殺してくれ」

そんなことができるはずはない、憎んでいたのなんてもう昔の話だ。言えないままに俺は首を振る。がたがたと全身の震えがとまらない。やめてくれ、ここはどこなんだアッシュ。

「そうして俺の望みを断っても、お前は俺を殺すんだ」

いやだ俺はそんな事はしない、お前を殺したいだなんて今では思っていないんだ。そう言いたいけれど歯ががちがちと音を立てるばかりで言葉になりはしない。震えがひどくなる。嫌な汗がとまらない。そのせいかなんだか寒かった。やめろよ、どうしたんだアッシュ。

「お前こそどうしたんだガイ」

噛みならすだけで言葉には出来ていないのに、アッシュは言う。ぞわりと肌が粟だっていく。なんなんだ、これは。お前は誰なんだ。

「俺はアッシュだ、お前が殺したいほど憎いと思っていたあのルークであるアッシュだ、俺を殺したいんだろう」

さあ、殺せ、殺してくれよ。
俺の両腕を、白い彼の指が捕らえて引き寄せられる。温度の無い冷たい手なのに、力はすごく強くてバランスを崩してしまう。
なんとか床に両の手の平をつけることが出来たから、身体を打ち付けることはなかったけれど、床に背を預けた彼の上に、覆い被さるような形になってしまった。この体勢では彼を見下ろすしかなく、そんな俺を彼は見上げながら言う。

「……ああ、そうか。俺には殺す価値もないのか」


景色が反転した。
いや違う、目を覚ましたんだ。見上げる先には自室の見慣れた天井があった。布団の中から手を出し、天井へと伸ばす。
ひどい悪夢を見て、嫌な汗が身体を伝っている。頭上へと向けた手の平にも、じっとりと汗をかいていた。

「アッシュ」

思わず、呟くように名前を呼んだ。早く現実の彼に会いたい。出した声はひどく乾き掠れていて、喉の粘膜が引き攣るような感覚がした。不快だった。水が欲しい。
起き上がってベッドから出ると空気はひんやりとしていて、裸足の指先からは床の冷たさが染みてくる。窓の外を見ると日はまだ昇りきっていないらしく、空は濁った絵の具のような青色だった。ああまったく、今の俺の気分にぴったりな朝だ。
それはもう、死にたくなるくらいに。


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