夢を見た。暗い海の中、もがく事もせずに沈んで行く夢だった。海の底には温かさがあって、エースは、ああ、これが死なのだと、夢の中だと気付かず悟り、ついに終わるのか、と目を閉じた。閉ざした目蓋の向こうで、誰かに呼ばれた気がした。

「何ぼけっとしてるんだよい、受け取れ」
 朝の見慣れた室内は、この声の主のものだ。そうだ、起きてからコーヒーが飲みたいのだと言ったのだった。差し出されたマグカップを受け取れば、湯気が鼻先を湿らす。
 シーツに包まったままのエースと、常通りの服に着替えたマルコでは、昨夜の余韻があるのかないのか分かりやしない。けれど、昨日初めて男と一夜を共にした事実に変わりはないのだと、エースは熱いコーヒーを飲み下して思う。
「……なぁ、マルコって男は俺が初めてか」
 不躾な質問である事は分かっていたが、聞かずにはいられなかった。
 潮風と、ペンのインクの匂いが染み付いた無骨な指先は、何度もエースの肌を撫で、エース自身ですら触れた事のない奥底までを愛撫した。痛みは殆ど感じず、むしろその逆の感覚が痛い程に全身を巡って、声を噛み殺しきれなかった。これが抱かれるという事か、と熱を持った頭でぼんやりと思いながら、この男にもらうものはいつだって心地がよい、とも思った。
「……さぁな、そんな事、もうすっかり忘れちまったよい」
 マルコは呆れた様でも惚けた様でもなく、質問の意図にも内容にも興味がなさそうに、エースと同様コーヒーを啜る。マルコはこう見えても猫舌だ、きっと熱いのだろう、眉をしかめた。歪められた眉の形がすきだな、とエースはぼんやり思う。昨夜エースに見せた表情に似ている。
「俺は男ってアンタが初めてだ」
 マルコはその言葉に漸くエースを見た。驚いた様な表情も、どうしようもなくすきだと思った。瞬間、自然と口が笑みを形作る。
「怖くなるぜ、アンタの腕の中があんまりにもあったけぇから」
 マルコ。名前を呟いたと同時に、マグカップを乱暴にベッドサイドへ置く音。おいおい割れるぜ、そう言おうとしてエースの手からもマグカップが離れて、かしゃん、と乾いた音が鼓膜を劈く。宙に浮いてから床に飛び散ったコーヒーが、スローモーションの様に見えた。
 ああ、駄目なんだ、この温度。エースは思う。何も無いのに泣きたくなってしまう、生きる意味を、この腕に見出してしまいたくなる。
「……エース、お前何言ったか分かってるか」
 泣き出して仕舞いそうなのを堪えるエースは、唇を噛み締めてしまって何も発せない。閉ざした目蓋、感覚ばかりが研ぎ澄まされていく中、喉が嗚咽を零さぬ様に締まる気配と、きつく抱きしめる、エースよりも少し低い布越しの温度。
 こんな姿を見せるのは、愛しい弟でも隊員達でも尊愛する偉大な背中の持ち主でもなく、ただ一人、マルコだけでいい、とエースは強く思う。
 選ばれる事、受け入れられる事にはいつでも恐怖と戸惑いが伴って、信じる事には己の弱さが顔を出した。お前は強く自由であれ、俺はそれを望んでる。歪めた眉のまま、宵闇の中マルコが零した言葉だ。きっと彼も恐れている。信じる事の先の、失くす未来を。
「……マルコ、アンタが呼んだんだろ、俺の名前」
 昨夜だって、そうだ。彼の、エース自身を呼ぶ声を、熱を持った頭で、耳で、全身で聴いていた。痛い程にあたたかく、冬の空気の様に澄んでいて、触れたなら砕けてしまいそうな、薄い硝子の様な声だった。その声の破片が、エースのこころの奥底に残って抜けない。けれど、それすらも愛したい、そんな事を強く思ったのだ。
 抱きしめられた背中に、裸のままの腕を押し付ける様に、抱きしめ返すと、マルコはため息になってしまわぬ様、ゆうっくりと息を吐いて、それから吸い込む。肺の動きが、触れ合った胸から伝わって、彼も一人の人間だという事を改めて認識させられる。
 そんなぬるま湯の様な腕の中で、エースは胸中だけで呟いた。守られてばかりのこの背を、何もかも包み込む腕を、俺は一体いつまで離さずに居られるのだろう。
「マルコ、俺、やっぱりアンタがすきだぜ」
 呟いた声は、どこか掠れて響く。これすら罰だというのなら、何てあたたかくて、やさしく、甘い罰なのだろう。エースは嗚咽をそっと飲み込んで、マルコの肩口に顔を埋める。くすぐってぇよい、そう不満をもらした声は、それでもあたたかさを含んでいた。
 何処まで、行けるのだろう。手を取り合ったままで。
 そんな疑問すら、後のマルコの口づけによってかき消されてしまったけれど、この温度、与えられた全てを、どうか忘れてしまわぬ様、エースは記憶の宝箱に仕舞い込んだ。
 たとえ、終焉に焦がれてしまっても。



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