眠らない夜だ。黒い波が打ち寄せ、全てを飲み込まれそうな予感。それは所詮、俺の内面的な感覚にすぎないけれど、肌やこころが、ざわざわとして落ち着かない。そんなときは決まって、寝静まったモビーの船尾に両膝を立てて座り、凪いだ海を見つめる。すると、暗く波立っていたこころが、不思議とすうっと静まっていく。昼間は青々としている海は今、闇を映したような暗い色をして、俺の全てを引き寄せる。目を逸らせないまま、深くため息をついた。
「懲りねえな、あんた」
「それはお互い様だろい」
「うるせえな」
 音も立てず、でも気配は消さずに背後に立つ男は、アルコールのにおいをこれでもか、というほど引き連れて、それでもしっかりとした口調で返す。きっと酒には溺れられないたちなのだろう。海賊などというものは、場数を踏んでいたりするので、皆総じて酒に強い。中には例外もいたりするが、それでもそこそこ飲める者ばかりだ。たまには酒に溺れてくれよ、と、この男のそんな姿を想像も出来ないくせに、俺はこころの内でもため息をついた。何を言おうと無駄だと、諦めてもいるのだ。
 今までにも散々、来るんじゃねえ、放っておけ、と怒鳴ってみたり、暴れてみたり、警戒心を剥き出しにしてみたけれど、さすが大所帯の一番隊隊長、とでも言うべきか(これは褒め言葉でもあり皮肉でもある)、眉を寄せることはあっても動じることはなく、ただ淡々とした言葉で切り返し、俺を無理矢理海から遠ざける。ここまで繰り返されると、なんかもう面白えよ、などと思いもするけれど、笑えないまんま、俺も馬鹿みたいに繰り返す。
 夜に一人、暗いだけの海を見る。
「馬鹿な真似なんてしやしねえよ」
 膝を抱え、振り向かないまんま呟けば、そんな心配はしていないとばっさり切り捨てられた。それならば何故、毎回こうして現れる。意味がわからない。
「それなら、あんたは部屋に戻って寝てりゃいい、俺は見つめられる趣味はねえ」
「俺も男を見つめる趣味はねえな」
「だったら、」
「ただ、」
 そこで一度言葉を区切ると、男はこちらへと歩を進め、俺の前で立ち止まった。房になった痛んだ金髪が、ぱさりと乾いた音を立てて揺れる。見上げた顔は、いつもの気怠そうな表情を浮かべていた。
「ただ、お前が連れて行かれたら困るからな」
 どこへ、では無く、何に、と瞬間的に思った俺は、自然と言葉の意味を理解していた。連れて行かれたら――俺が、海にさらわれるとでも言うのか、この男は。何を馬鹿なことを、と思ったけれど、冗談を言っている風でもない、いつもの淡々とした口ぶりだ。真面目にそう言っているのだろう。これまで繰り返された行動が、その証拠だ。
「そんなこと、あるはずがねえよ」
 否定をしてみても、男は表情を崩さず首をゆるく横に振った。俺がそんなに間抜けに見えるのか。苛立ちをこめて睨めば、怒るな、そうじゃねえよい、と冷静に宥められた。ではなんだと言うつもりなのだろう、この男は。
「……お前、海すきだろい」
「それがなんだよ」
「加えて能力者」
「……あんただってそうだろ」
「ああ、そうだよい、俺は能力者だ」
 だからなんだ、と紡ごうとしたけれど、それよりも早く目の前の男がしゃがみ込んだので、近付いた目線に思わず口を閉じてしまう。悔しくて舌打ちをひとつすると、目の前の男は威嚇する動物を宥めるように、ほんの少し目を細めた。
「俺もお前も、海が好きで、そのうえ能力者だ。……海はな、そういう奴を誘うんだよい、こんな夜の日に」
 それではまるでお伽話ではないか、と思ったけれど、男の目がとても静かだったので、そうか、と頭の隅で理解した。
 そうか。
「……あんたは、誘われたことがあるんだな?」
「ああ。今のお前と同じように、眠れなくて、一人で起きてた夜にな」
 過去を思い出したのか、ふと、懐かしむように男は笑った。普段は何を考えているのか分からない、人を寄せ付けない空気の中で生きているような男なのに、人好きのするような顔になるのが意外だった。意外で、怯んだ。でも何故たったそれだけのことで? 深い理由なんて分からない、むしろ逆に聞きたいくらいだ。何故俺は今怯んだのだろうか、と。
「なんだよい」
 じっと凝視してしまっていただろう俺を、不審がると言うよりは不思議そうに見て、小首を傾げて男は尋ねた。その反応にも怯んでしまった俺は、別に、と言うだけで精一杯だった、なんだか調子が狂う。
「変なやつだな」
「あんたに言われたくねェよ」
「そうかい」
 とにかく一人の海はやめておけ、と男は笑う風でもなく言う。立ち上がり、ひらりと夜風に吹かれた彩やかな色のサッシュを見て、俺は思わず口を開いていた。
「……なぁ、あんたは海に誘われて、どうした?」
 束の間、静寂が訪れて、波の音だけが鮮明に聴こえる。男はどこを見るでもなく、目を閉ざして静かに口を開いた。
「……俺は、まず、親父やこの船全員……つまりは家族の事を考えた」 
 俺は、目を開けろよ、と何故か強く願いながら、男の話に聞き入っていた。それで? 自然と零れた相槌に、男は両手をひらりと広げて、それから青く燃える翼に変えて見せた。
「それから……この能力であるこの身を呪いもしたし同時に感謝もした」
「……感謝?」
 漸く男は目を開け、俺を見て、笑った。突然の笑みに目をしばたく。
「俺は、この能力がすきだよい。海には触れられなくても、空という青に触れられるし、何よりこの能力のおかげで守れるものも多い」
 瞬間、俺は、この男いいな、と思った。この男、俺のものにらならねぇかな、そう思っていた。何故なのかは、よく分からない。俺は、何を? そう胸中で呟いた時、男が再び口を開いた。
「どうした」
「……なんでもねェよ」
「そうかい」
 それから男は黒い波を見つめながら言った。こんなにいい夜じゃねえか。
「こんな時に自分独りだと思うのを俺は否定しねえよい、その気持ちも分からないでもない。でもよい、お前の過去にも今にも、大事な人間が居るって事を忘れちまったら、終いだよい。あれに、飲まれる」
 海は黒くてらてらと光って打ち寄せては引いていく。あれ、そう男は言ったな、と俺は思っていた、男と同じ海を見ながら、きっとこの目と男の目とでは、見える世界が異なっているのだろう、そうも思いながら、二人、海を見つめた。ああ、視界がぼやけて行くのが分かる。喉が悲鳴をあげかけて、俺はそれを飲み込もうと歯を食い縛る。飲み込んだ声に、喉が締まって行く気配がする。
 なんで、こんな事で俺は。胸の内で零しながら、大切な奴らの顔を思い浮かべた。するとぼやけた視界の中、黒いだけだった海が、濃紺に映る。そうか。こんなにも単純な事か。俺は気付く、あれは、俺の闇だ。
 男は、今の俺とは違う、たった独りきりで、闇に打ち勝ったんだ、そう気付き、真実を悟る。男は、独りではない、一人だっただけだと。
 俺は、独りだと思い込む事でしか、自分を奮い立たせられなかった、この男はどうだ、大事なものを思う事で強くなったのだ、俺は自身の矮小さを思い知る。
 それから。
 俺は、再び、いいな、と思っていた。この青い炎に包まれ、大切にされたら、どんな気持ちになるのだろう、どんなに、やさしく、強く、――この男の様に、なれるのだろうか、そんな事を思った。
 視界は暗いままも、鮮明さを取り戻していた、男は俺が喉を、噛み締めた唇、歯を、開こうとしたのを見て笑った。その能力ににて、あたたかく、広大な青空を思わせる笑みだった。
「特別に、この海を空からお前に見せてやるよい」
 この世界の、ほんの一部を。
 そう言い、男はいつの間にかひとの形に戻した左手で俺の右手を掴んだ。纏う空気とは違い、熱く厚く、大きな手のひらだった。強い力に俺は目を瞬き、自然と言葉を発していた。
「なぁ、俺もその一部になれるか?」
 男は目を見開いて、それから屈託なく笑って見せた。
「とっくにその一部だろい」
 ああ、何故この笑みに意味を探すのだろう。
 分からないまま、俺は、きっとぎこちないであろう笑みを浮かべていた。




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