肉だ、と思った。 触れたそれは生ぬるくかさついていたけれど、その奥の弾力は、血を巡らせ生きる、肉の感触そのものだった。人の唇、舌。 紙巻きに水分を奪われがちなその表皮、そこに残る中毒性の高い有害物質の匂い、奥に残る苦味。そのどれもに眉を寄せたけれど、この行為、それ自体には不快さを覚えなかった。ただ、何をしているのだろうか、と遠い気持ちで思う。この男も、よけなかった自分自身も、一体何をしているのだろう。こんな、どうしようもなく二人だけの空間で、ともすれば窒息してしまいそうな事を、している。何を、馬鹿な。 閉じない目の先で、近づきすぎてぼやけた顔、その目がまぶたを開いたのを、やはりぼやけたままで眺める。それから思い出したようにひとつ瞬きをして、眼球の水分を保てば、男は笑ったのか、ゆうるりと目を細めた。存外に睫毛が長い。 そんなことはとうに知っているというのに、いつも初めて知ったような気持ちになるのは何故だろう。意識をしていないと、脳が忘れていくからだろうか。あり得そうな話だ、俺の頭はあまり出来がよくない。けれど、この男は。 「……ってえ!」 呼吸が苦しくなってきたところで、舌を噛んで拒んだ。随分と加減をしてやったというのに、口元を押さえて大げさな程に痛がっている。一々に過剰なところがあると思うのは、俺の気のせいではないはずだ。 「手加減してやったんだから、痛くねーだろ」 「いや、いてーよ、宮村に拒まれたこころが」 馬鹿だ、と思ったので、バカじゃねぇの、と悪態をつくと、声を出さずに笑う顔。その表情に怯んでしまって、思わず眉間に力が入る。この男は、無言に意味を持たせたがるのだ、たいした意味などありもしないのに。それを分かっていながら探ってしまう俺の頭は、やはり出来が悪いのだろう。馬鹿は俺だ。 「眉間にシワ」 とん、と眉間を指でかるく突かれる。それを払いのけながら、知ってる、と唸るようにつぶやけば、へえ、と嬉しそうに笑う。俺がすねてみせると、何故かいつも喜ぶのだ。意味が分からないし、なんだか腹が立つ。笑ってんじゃねーよ進藤のくせに、と頬をつねってやる。 「ちょ……宮村お前、爪がいてーよ。伸びてる」 「知るか。ていうかお前、何してくれてんだよ。俺このあと堀さんち行くんだけど」 「マジで。俺も行っていい?」 「いいわけあるか死ね」 手を離して頭突きを一発お見舞いすると、今度は額を押さえて俯いた。声も出ないらしく、無言で肩を震わせている様が泣いているように見えて、そういえば泣いている姿を見たことが無いな、という思考に達した。 弱っている姿を見せるのはいつも俺ばかりで、進藤はそれを笑い飛ばしたり、静かな顔でさとしたりして、大丈夫だと、俺の足を前へと進ませるのだ。 今までを思い返していたら、なんだか悔しくなってきた。舌打ちをしたい気持ちで目の前の男を見やれば、まだ痛みを堪えて俯いたままだ。このまま、泣けばいいのに。 「進藤泣く?」 「……泣かねー。けど、泣きそうなくらい痛い」 「そっか」 「なんで残念そうなんだよ……」 うおおいってぇ、とこぼしながら顔を上げた進藤は、涙目ではあるけれど、確かに泣いてはいなかった。なんだ、とつまらない気持ちで眺める。なんだ。 「どうしたら泣く?」 「なに、宮村は俺を泣かしたいの?」 左手で額をさすりながら、落ち着いた声で進藤が訊ねる。その言葉の意味を理解して、俺は二、三度瞬きをした。睫毛が下まぶたをはねる感覚。ああそうかと、今ようやく気付いた。俺は、この男を弱らせたいのかもしれない、肉体以外の人間らしい部分を、光よりも影をもっと、見たいのかもしれない。 「……少し」 「まじか」 うん、と返すと、進藤は額を押さえたまま沈黙した。驚いた風でも、怒っている風でもなく、何事かを考えるように、床のあたりに視線を向けている。無表情で黙っているときの進藤は、少しだけこわい。俺がそう思っている事を、きっとこの男自身は知らない、知らせてやるつもりもない。だって何だか釈だろう、この男相手に、何をおそれると言うのだ。ああ、けれど、今でも。 (きらわれるのは少しこわいな) じっと言葉を待っていると、左手を下ろしてこちらを見た進藤は、いつも俺をさとす時の表情を浮かべた。普段の騒がしさからはかけ離れた、静かな笑み。波のない海の様に穏やかなそれは、俺をいつも冷静にさせるのだ。 「いっこ、簡単な方法があるけど」 「どんな?」 「宮村が、俺と友達でいるのやめるって本気で言えば、きっと簡単に泣くぜ」 「は……、」 進藤と、友達でいるのををやめる。それはきっと、会って遊んだり話したり、殴ってみたり、メールや電話で連絡をするという全てを、やめることなのだろう。確かに簡単だ、簡単だけれど、無理な話だ。 だって進藤、それはきっと、俺も泣く。 「……出来るもんなら、とっくにやってるっつの、バカ」 「そう?」 「……そーだよ」 「……そっか」 変なこと言った、ごめんな! と明るい声を意識して、進藤が俺に抱きついてくる。それを先程と同様によけもせず、けれど悪態を吐きつつ、されるがままに受け止める。 「……しねバカ」 けれど、お前がやめたいならやめればいいよ、などと俺には言えなかった。 |