救難信号
その日は何もかもがついていなかった。
「…………くそ」
静雄は布団に着の身着のまま体を横たえた。
冷たい布団は少しもあたたかくならない。自分の体が冷えきっているせいだ。
「…………」
まず、昨日の朝の寒さときたら、ここ最近より冷たさを増したようで、布団から出るのにいつもの倍の時間を使ってしまった。結果、朝食を食べ損ね、そのまま仕事へと直行した。
その仕事も最悪だ。訪れた相手先はもぬけの殻。滞納金の額が額だけに放置するわけにもいかず、遠方までくり出すはめとなった。
行った先ではいかにも悪いことをしていますよ、反社会的集団ですよ、といった面々に歓迎を受けた。正直金を回収してさっさと帰りたいところだったが、そういった輩はことごとく自分の神経に障ってくれる。
大立ち回りを演じ、奴らの事務所を破壊し尽くしたところですでに夕日が傾いていた。
――この、化け物……ッ!!
全員を沈め、金を回収し、電車に飛び乗ろうと駅まで全速力で駆けた。
ところが寒波の影響で全線運休。近くの小汚いラブホテルに独り宿泊することとなった。
そのこと自体は、いい。たとえ部屋が埃くさかろうが、壁が薄く隣から絶えず喘ぎ声が聞こえてこようが、まだ我慢できる。
それよりも静雄を沈ませたのは、次の日に恋人と会うはずだった約束を反故にすることだった。
いつ帰れるかわからないとメールを打った。声を聞けば寂しさがより募りそうで、そのまま電源を切った。
一ヶ月ぶりに会えるはずだったのに。
結局、自宅に帰り着いたのはつい先ほど。日付があと数十分で変わろうという時刻だった。
不運はまだ終わらない。
帰宅した静雄が電灯のスイッチを押しても反応がなかった。最初はブレーカーが落ちたのかと思ったが、すぐに原因に行き着いた。
払い込みを忘れるという、なんともお粗末な事態だ。
ガスも同様で暖房はおろか、食事もままならない。
金はある。けれど、もはや気力がない。
かくして静雄は独り、自宅にいるにも関わらず、まるで雪山の遭難者のような状況にいた。
「寒い……」
それはそうだろう。外では深々と雪が降っている。暖房のきかない部屋では屋根と壁があるだけまし、といった程度の気休めだ。
布団を頭までかぶる。それでも体は冷えたままだが、疲れからか眠気は僅かに感じる。
目を閉じる前、ふいに静雄は携帯を取り出した。
「…………」
短い文章を打って送信する。ただの気休めだ。愚痴を洩らさずにはやっていられない。
携帯を放り出して、さらに深く布団に潜る。
無理矢理にでも寝てやろうと目をつむっていると、やがて睡魔が訪れた。
「……ちゃん」
まどろみの中、酷くあたたかな声が聞こえた。その心地よさにこわばっていた体の力が抜けるのがわかる。
散々な日々の終わりにしては上出来な夢だ。
「シズちゃん」
しかし、徐々に意識は覚醒を促される。そして声はより鮮明になっていく。
「…………」
夢じゃないのか。そんな考えに至った途端、視界が開けた。
「シズちゃん、起きて」
半分ほど開いた瞼の向こうには、会えなかったはずの恋人がいる。
「…………臨、也……?」
「何その顔」
茫然と呟けば、臨也はこらえきれずに吹き出した。よほど間抜けな顔をしていたらしい。
「…………」
吐く息も白い室内で、暗さも気にならないほど近くに彼がいた。
「な、んで」
「こんなメール送って……俺が気にしないとでも思った? ――何なんだよ『遭難した』って」
携帯を差し出された。ディスプレイには自分が送った文面が煌々と照らし出されている。
「いや、その」
まさか来るとは思っていなかっただけに、馬鹿なことをしたと今さら恥ずかしくなる。
「おおかた光熱費の振込み、忘れたってとこでしょ」
「…………」
「やっぱり」
沈黙の肯定を受け取って、臨也は呆れたように息をついた。
ふいに静雄は自分の散々な二日間を思い出した。
(こんなの……)
こんなの、ちっとも本意じゃない。もっと早く会いたかったし、もっと快適な空間にいたかった。
この歳になっていちいち暴れるのも嫌だった。悪罵に傷つくことも、好意を寄せる相手の一挙一動に過敏に反応することも。
何もかも、思いどおりじゃない。
「……何しに来たんだよ」
(違う)
そんなことが言いたいんじゃない。
そう思っても口は勝手に動いていた。
後悔を滲ませるよりも前に臨也の手が伸びる。布団に入って横になっている自分の頭を、その指が優しく撫でた。
「何しにって……救助に決まってるだろ」
SOSをもらったからね。そう言って可笑しそうに笑う声が耳をくすぐった。
「シズちゃん専用だけどね」
「…………」
救助ってなんだ。ちょっと拗ねてただけだ。
そうぶつぶつと文句を言っていると、優しい指が頭を強く撫でた。犬を撫でるような手つきだった。
「…………」
気持ちいい。でも、なんだか恥ずかしい。でも、嬉しい。
全部、心うちは知られている。
優しい指先に、いつの間にかあやされていた。