St. Valentine's Day
口の中の塊を静雄の口に押し込んで、そこでとかしていく。
舌を絡めて、ゆっくりと。
彼が目を開ける気配がした。かまわず知らないふりをして、抵抗を許さないとでもいうように、頭をかき抱いた。
互いの体温で見る見る固体は液体に変わり、そして静雄の喉に流れていく。たまらず、自分も少し呑み込んだ。甘い。
「…………」
「…………ん」
水音を立てながら、唇を離した。ようやく目を開ける。
するとそこには茫然と目を見開いて固まっている静雄の姿があった。
(気持ちはわかる、けどね)
「…………」
「…………ちょっと、何か言ってよ」
まばたきすらしない彼を笑う。気恥ずかしさは自分にだってある。
声をかけてようやく、静雄は反応した。
「……………………え?」
理解が追いついていないのか、焦点が定まっていないように見える。動揺は理解できるが、いつまでもこのままでも困る。
「おーい、ねえちょっと、大丈夫?」
「う……あ?」
頬を指でゆるく叩くと、わけのわからない呻き声が洩れた。
(――やれやれ)
「おい、頼むから正気になって。気持ちわかるけど、俺のほうがよっぽど心臓に悪いことされたんだから。ねえ」
膝立ちになって同じ高さで視線を合わせる。
揺れる瞳に優しく笑いかけた。すると見る見るうちに静雄の顔が赤に染まる。
「な、なん」
震える唇が必死で音を紡いでいる。せかすことはしなかった。
「なんで……」
小さな声だ。けれど、それで充分だった。
「一日遅れだけど……バレンタイン」
少し、羞恥を滲ませながら告げる。
やはり言葉にするとつらいものがある。しかもこれを行動だけとはいえ、先に静雄にされているのだからたまったものではない。
(まあ、もうどうでもいいけどね……恥ずかしいとか悔しいとか、そういうのは)
吹っきれた、という言葉が一番しっくりくるかもしれない。
「な…………」
茫然とした彼は徐々に顔をゆがめていく。泣き出す寸前の表情に見えた。
混乱によってもう何も考えたくないというのが本心なのだろう。けれど、それでは困るのだ。
すべてを預けるのは、すべてをさらけ出してからにしてもらわないと。
「――シズちゃんはどういう時にキスするの?」
「…………」
なぜ、という静雄の問いに答える代わりに問いを返す。すると彼は驚いたように目を見張った。
想像すらしていなかった展開にほとほと弱い。それは、まあ、お互い様ではあるが。
「昨日は容赦なくしゃぶってくれちゃってさあ」
「……っ」
昨夜のことを掘り返すと自分でしたことのわりに、聞きたくないと首を振る。
静雄もまた、一晩たって冷静になったのかもしれない。
(俺たちってほんと馬鹿だな……)
苦笑が洩れる。一日で何が変わることもないと思っていた考えは改める。
ずっとわだかまっていたものが噴出してしまうことぐらいは、ある。身をもって知った。
(だから……いいのかもね)
視線を彷徨わせる静雄の頬にふれて、口を開いた。
「怒ってないよ」
「え……?」
その不安が杞憂だと笑って告げると、静雄は視線を恐る恐る上げる。
「不快にも、思ってない」
そこに自身の視線を絡めて、穏やかに囁いた。
「ただ、ちょっと……不満なだけ」
「……?」
紅潮する彼の頬に指でふれた。すべらかで、心地いい。
「――キス、してくれなかった」
本音を、零す。それは不安と恐怖と、そして快感をともなった。
「大事なことを、言ってくれなかった」
くすぐったさを覚えながら、いつものように嘘で塗り固めた言葉は捨てて、殻のない不安定な中身だけを手渡す感覚だった。
「寂しかったよ」
「――ッ」
言った瞬間、静雄はもとより、自分だって泣きそうになった。
彼はよくわからない表情で、ただ小さく呻いていた。
お互いの動揺が収まるのを待ってから、再び口を開く。
「俺も、シズちゃんのことは言えないんだけどね」
「な、にが」
混乱の中で、さすがに静雄も今の状況を理解しだしてはいるのだろう。先ほどから顔は真っ赤で、瞳は潤んでいる。
今、自分が彼に何を言っているのか。それをちゃんとわかっている。
「俺たち色々と順番を間違ってる気がするんだよ」
指で顎をくすぐると、静雄は目を細めた。その隙を突いて唇を寄せる。
「チョコもフェラもキスも……なんでだって話だよね」
唇にふれて、そして頬に自身のそれを滑らせる。なめらかなほおにふれたまま、囁いた。
「全部全部言いわけだ。直接的なことはできるのに、肝心なことを言わずにいる」
少し横にずれて、彼の耳朶をはんだ。やわらかな感触に甘く歯を立てる。
「どうして、俺にあんなことをしたくなったの?」
「…………」
吐息とともに疑問を投げかけて、ようやく顔を離す。
(……目の毒だな)
静雄は必死で震えを押し殺している。泣きたいだろうに、それも必死にこらえている。
そこに滲むのは決して悲観的な色ではなくて、羞恥と歓喜と戸惑いと。そういった甘くやわらかな色だった。
「ちなみに俺はね、シズちゃんが好きだからなんだけど」
決定打をくれてやるつもりで、最後の言葉を吐き出した。
「――ッ!」
いつもは怒りに染まったその目から、綺麗な雫が零れ落ちた。それは、きっと甘い。
「シズちゃんは?」
「あ……」
涙を舌でぬぐう。あたたかな感触に夢中になった。
「ねえ、言ってよ」
頭をかき抱くようにしてふれながら、彼を促す。言葉なんて薄っぺらくて、あてにならないと思っていたけれど、今は違う。
言葉がたりない自分たちは、もっと語らなければならないことがあるのだ。きっと。
寡黙な静雄はもとより、自分だってそうだ。心からの言葉というものを言ったことは少ない。
だから、と思う。
「言ってくれたら……バレンタインの続きをしよう」
――今日から、始めよう。
一緒に、始めよう。もう互いに勝手に空回る必要はない。
その事実を静雄の前に提示する。
「――――」
彼は真っ赤な顔で、真っ赤な目で、自分を見返した。
「…………す」
唇がわなないた。
それはまるで雛が孵化する瞬間にも似て、愛らしく感じられた。
彼の震える手がその頬に寄せた自分の手に重ねられる。力がこめられた。
僅かな痛みが、喜びとともに自分の体を支配する。そして――。
「す、きだ……」
消え入るような声が、確かにそう言った。
「すきだ」
小さな自身の声に彼も驚いたのだろう。慌ててもう一度、同じ言葉を紡ぐ。けれどそれもやはり、蚊の啼くような声でしかない。
思いどおりにならない自分の声に焦りながら、彼は何度もくり返す。その必死な様がいじらしい。
「好き――」
「俺も、大好き」
何度目かの彼の告白にかぶせて、もう一度自分の気持ちを伝えた。
「……っ」
「……ね」
隠し持っていたものを取り出した。
「甘いの、好きだろう? もっと食べない? 一緒に」
唇に黒い塊を押しつけると、静雄は驚いたように目を見張って、やがて薄く唇を開いた。
「これ……」
「まだいっぱいあるよ。薬は入ってないけどね」
必要ないだろう、と告げると恥らうように静雄は震え、そして小さく頷いた。
「…………好きだ」
「チョコが?」
唇を重ねながら吐息とともに洩らされた言葉をからかうように告げると、不満げな唸り声が聞こえた。
「大丈夫。ちゃんとわかってるよ――」
機嫌を取るように甘い塊をまた一つ、口に含んだ。
あといくつ残っていただろう。そんなことを考えながら、むせ返るような甘さと香りの中、熱い口内をむさぼった。