図書室の片隅で


日が傾いた図書室の一角、臨也は目の前のノートを見て溜め息をついた。

「なーんでここまで間違えるかなぁ。公式なんてほとんど使わないのに」
「……うっせえな」

制服姿の二人だが、目の前にあるのは片や英語の経済雑誌、片や普段授業で使っている教科書とさらにそれを優しく解説した参考書。傍目にもあまりに不釣り合いな学力の差に、一方的な授業になっていることは明らかだった。
勉強を教えると安請け合いしてしまった臨也は思っていた以上の難敵に苦戦していた。手元の雑誌を読む余裕もなく、静雄の一問一答に目を光らせていなければならない。

「まぁ、ちょっとはマシになってるけどね」

赤いチェックを入れつつ、一応、飴も与えておく。
実際、教え始めよりは格段に成長していた。最初が酷すぎたと言えなくもないが、なんにしても呑み込みは絶望的なほどではない。

「……悪かったな」
「ん?」

ふいに静雄が低い声で呟いた。顔を上げれば苦虫を噛み潰したような表情で彼がこちらを睨んでいる。

「こんなことに時間使わせて」

小さな声だが、静まり返ったこの部屋では確かに臨也の耳に届く。まるで世界に二人だけ、取り残されたような感覚はいつだって心地いい。そんなことを彼は知っているだろうか。
苦笑を洩らしつつ、手元の携帯に目を向ける。時刻はすでに夕方を回って、グラウンドのナイター設備が明かりをともしていた。

「……まあ、確かに時間は貴重だけど」

素直に認めると、静雄は自分で言ったくせに泣きそうな顔をした。

「やりたいこととか……あったんだろ」
「そうだねぇ」

肯定するとますます彼の顔が歪む。日々、喧嘩に明け暮れているくせに。どこまでも純な男だと小さく笑う。

(まったく――)

そして、自分はそんな男がどこまでも好きだった。自惚れていいのなら、彼も、また。
若さに任せた勢いだと、言われても仕方がないのかもしれない。しかし臨也にはどれだけの年月が経過しても、自分たちはこうして傍にいるのだという確信があった。
臆病な彼はかたくなだった。そんなことを知ったのもつい最近だ。
けれど、いつか同じような境地に至ればいいと思う。
たった十七年しか生きていないというのに、もう半身に出会えてしまった。そんな気分だった。それはあまりにも唐突で、予想だにしないことで。

(……僥倖ってやつかなぁ)

自分の人生設計は大きく変わってしまった。本当なら今頃は若さに任せて自分の欲求を満たすためにあらゆる手を尽くし、青春を謳歌しているはずだったのに。それがどうしたことか、たった一人の人間に心を奪われてしまっている。
さらに困ったことに、そんな予想外の現実が、酷く心地いい。

「…………」

鼻歌でも歌い出しそうな気分でペンを滑らせた。

(何を浮かれてんだ、俺は)

ずいぶん感傷的な考えができるようになったものだと、感慨深く溜め息をつく。苦笑が洩れた。

「――でも」

頭をゆるく振って、甘美な想像を打ち消した。今は、目の前の問題の解法を彼の頭に詰め込まなければ。

「シズちゃんと一緒にご飯食べたり、シズちゃんと一緒に遊んだり、シズちゃんと一緒にヤラシイことしたり――」

赤いペンをすばやく走らせて訂正を入れる。口を動かしていてもその手のスピードは変化しない。

「ま、第一希望はそんなとこだから、勉強は第二希望ってとこかな。意識がこっちにかかりっきりなのは不満だけど、一緒にいられるなら――妥協してもいいかと思ってね」
「…………」

満足げに説明を終えると、なんとも言えない表情の静雄がそこにはいた。怒っているような恥ずかしがっているような。それでいて不安に揺れる瞳には確かな期待と喜びがあった。

「シズちゃん?」
「…………」
「…………」
(――可愛い反応するよなぁ)

ころころと変わる表情が面白い。きっと、何を言うべきかを迷っているのだろう。
言わなくてもわかる。不満も怒りも羞恥も、結局のところ――。

(好き、の裏返しだもんね)

手をとめて頬杖をつく。しばらく百面相を続ける静雄を見守った。





無言の時間が少しばかりすぎて、ようやく臨也は口を開いた。

「ね、いいこと思いついた」

小さな声にも関わらず、静雄は大仰に肩を震わせる。

「何……」

警戒しつつも耳を傾ける素直さを笑う。そして、名案を口にする。
ペンを置いて隣に座る静雄の耳元に、まるで秘め事を打ち明けるように囁いた。

「――次から、一問正解するたびにキス一回ってどう?」
「ッ」

静雄は息を呑んだ。
喉からは引きつったような音が洩れている。それには頓着せず、指を彼の手にそっと重ねた。普段から高いその体温がさらに熱を持っているようだった。

「それならお互い身が入るだろ? 教えるのも勉強するのも」

諭すように告げれば、低い呻き声が耳朶を打つ。

「……一問につき?」

確かめる声にもしっかりと頷いた。そして、ゆるやかに笑う。震える睫は期待の表れだ。

「小問、一個一個ね」

どうやら静雄にとって重要なのはキスの頻度らしい。それはまるで子供がより多くを求めるように、浅はかで愛らしい権謀だった。

「じ、時間、かかるだろ……いちいちそんなことしてたら」
「早くすませても頭に入らなきゃ意味ないだろう? 多少手間がかかっても覚えられるほうが効率いいと思わない?」
「……で、でも、ここ学校――」

もっともらしいことを言いながらも、視線は宙を泳いでる。自身の言葉に説得力がないことを知っているからだ。

「嫌?」

言いわけを重ねる彼の退路を断つ。
重ねた手の温度は上がり続けている。

「…………」

静雄は見事に沈黙した。
そして――。

「…………やる」

最初から決まりきっていた答えを、ようやく口にする。
真っ赤な顔が可愛らしくなって、思わず、

「いい子だね」

その素直さを褒めて唇をかすめた。

「ッ!」
「――と、まあ、こういうのを正解のたびにするわけだけど」

不意打ちに静雄は目を見開いた。柔らかな感触を味わうのはあとの楽しみに取っておくとして、今は軽く触れるだけにとどめておく。
しかし、静雄が問題に正解すればそのたびにキスをしなければならない。そういう約束だ。
何度も互いの唇に触れ、体温を感じ、熱を分け合って――そんなこと繰り返して、果たして自分は正気いられるだろうか。
それでも胸中の不安はおくびにも出さない。代わりに自分よりもさらに余裕のない男の頬を指先でなぞる。

「シズちゃんが問題を全部とき終わるのと、お互い色々我慢できなくなるのと――さて、どっちが先かな?」

そう告げた瞬間、静雄の手に握られたペンが音を立ててぽきりと折れた。






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