スウィート・エンゲージ
「……ん?」
水を呑みにキッチンを訪れた時だった。流し台に光るものを見つけたのは。
(アイツのか)
呑み干したコップをシンクに置いて、それを手に取った。
銀の、もしくはプラチナか。なんにしても自分には縁のない代物だ。指先でつまんでかざしてみる。光を反射して少し眩しい。
それは臨也が普段からはめている指輪だった。
あのしなやかな指にいつも光っている、金属の輪。そう思うと微妙な感慨が湧く。綺麗な指に綺麗な装飾品。
自分には無縁すぎるものばかりだ。
「……細ぇ指しやがって」
手の中で転がしながら、なんとはなしに人差し指から順にはめてみた。
(入るわけ……)
やはり節でとまってしまう。小指なら入るだろうが、そうすると今度は輪のほうが大きくなるだろう。
そんなことを考えながら、中指からリングを抜いた。
そして――。
「あ」
思わず声が零れてしまった。
薬指にぴたりとおさまった指輪に目が釘づけになる。
「入った……」
まさか入るとは。思ってもみなかった事態に静雄は新鮮な気分を味わった。なんだか自分の手じゃないみたいだ、と。
臨也の指とは違う。けれど臨也の指輪だ。彼のよりも無骨で荒い自分の指に光る銀は、どこか不思議に見える。
「…………」
どことなく、品がよく見える。なんら変わらないはずの自分の手が。それが可笑しかった。
しばらく手を握ったり開いたりかざしたりと指を眺めていたが、ふいに扉の向こうから足音が聞こえてきた。
「ッ」
扉が開くと同時に慌てて指を隠す。
「あ、シズちゃん」
「!」
声をかけられて思わず体が固まった。
臨也はキッチンにやってくると、静雄の傍で何かを探している。
(指輪――)
すぐにそれが何かは思い至ったが、知らないふりを貫いた。
「な、なんだ、どうした」
さっさと抜いてどこか適当なところに置いてしまおう。そう思い、うしろ手に指輪を抜こうとしたのだが。
(!?)
どっと汗が出る。
(ぬ、抜けねぇ……!)
まさかそんな。心中で舌打ちした。
(おいおい――)
強く引いてもまったく抜ける気配がない。あまり力を入れすぎると指輪自体を破壊しかねない。
(あんなにあっさり入っただろーが……なんで抜けねえんだよ……!)
「……っ」
「いやー、さっき洗いものした時に指輪外してさぁ。確かこの辺に置いたと思うんだけど……」
「…………」
手をうしろに隠しながら臨也との距離を取る。なんとか抜こうとするのだが、やはり抜けない。
「おっかしーなぁ、シンクに落とし……」
呟きながら床を見ていた臨也の視線が上がる。
そしてその表情は、部屋の端に逃げていた自分を見て、不審そうにしかめられる。
「…………」
まずい。そう思っても抜けないものは抜けない。間抜けな姿を見せるのが嫌で、なんとか最後の足掻きを続けるのだが。
「……シズちゃん」
「な、んだ」
「何やってんの?」
「……何も」
「ふーん……」
こちらににじり寄る臨也は首をひねりつつ、顔を凝視してきた。嘘をつけばすぐにばれる。
彼の表情に気を取られた刹那――。
「ッ!」
「あ」
左腕を取られた。二人の間に指輪をはめた自分の手が掲げられる。
「――俺の、指輪」
「…………」
見つかってしまった。なんとなく、こうなる予感はあったが――やはり、恥ずかしい。
「何やってんの」
「……はずれねぇんだよ」
呆れた声に返す言葉は弱々しくなってしまった。
(何をしてる、って)
そんなこと、自分が聞きたい。
勝手に指輪をはめて抜けなくなって、しかも隠していたという自分の迂闊さを呪う。羞恥心に顔が赤くなって、臨也から視線をそらした。
ただ、腕は掴まれたままで、いまだに抜けない指が居たたまれない。
「ねえ」
「……なんだ」
かけられた声に目を合わせずに答えた。臨也はなぜか笑っている。まるで鈴を転がすような涼やか声が耳朶を打つ。
「はずれないんじゃない?」
「――は?」
言われた言葉に眉を寄せる。何を、と視線を彼に向けた。
「一生」
「……っ」
ゆっくりと、しなやかな指が薬指を撫でた。左手の、薬指。
(一生って……)
「――ッ」
臨也の言わんとしていることに気づいて、羞恥心は臨界点を超えた。
「むくみを取って洗剤かオイルを使えばたぶん抜けるよ」
「……抜けねぇんじゃなかったのかよ」
結局、リビングに移動してソファに座りながら臨也の好きにさせていた。臨也は自分の手を楽しそうにいじっている。まるで新しい玩具を与えられた子供のようだ。
「これ、そこまで高くはないんだよね」
「?」
溜め息とともに吐き出された言葉に首をひねる。それならむしろ好都合ではないか。最悪、壊してしまうという選択肢もある。
そんなことを考える静雄の前で、臨也は小さく呟いた。
「やっぱり結婚指輪は給料三ヶ月分かなぁ、と思ってさ」
「……ッ?!」
この程度じゃあね、などと零す男の顔を信じられないとばかりに見つめれば、そこには本気の表情しかなく、さらに困った。
やめてほしい。心臓が悲鳴を上げているのだ。これ以上は、もう――。
こちらの胸中を知ってか知らずか、臨也は鼻先が触れるほど近くに顔を寄せた。
そして、祈りのように指輪のはまった自分な指と彼自身の指を絡め、囁いた。
「ま、抜けないなら抜けないで、これはエンゲージリングってことで」
眼前に端整な顔が広がった。
「マリッジリングをはめる時に壊してね」
唇をはまれ、言葉を発することはできなかった。けれど臨也は最初から答えを知っているかのように、うっとりとした声音で呟いた。
「……嬉しい」
純白のドレスに身を包んで最高の幸せに浸る花嫁にも劣らない美しい笑みに、たまらず自分から唇を寄せる。
指輪を交換してのキスはまるで誓いの口づけのようだと、やわらかであたたかな感触に酔った。