フロム・アクアリウム


自分には縁のない高級マンションのエントランスを抜けて、エレベーターを使わずに非常階段を駆け上がる。
そして、重厚な扉を苦もなく開け放った。金属の砕ける音がした。もしかしたら鍵を破壊してしまったかもしれない。しかし今の静雄はそんなことに頓着していられるほどの余裕もない。
リビングの扉を開ける。部屋には目当ての人物が独りでソファに座っていた。

「…………何、いきなり」

息せき切って飛び込んだはいいが、当然目の前の男は呆然と目を見開いて固まった。
しかし自分のとんでもない言動には慣れきっているのか、臨也はすぐに平常に戻る。彼は大きく息をつくとこちらに歩を進めた。

「…………」
「俺、最近はシズちゃんの琴線に触れるようなこと、してないと思うんだけど」

どこか諦めたような彼の表情はまたいつもの喧嘩の始まりだと思っているようだった。
そうじゃない。違うと言いたい。けれど――。

「…………あ、う」
(どうしよう、どうしよう)

何を、言えばいい。
言葉がうまく出てこない。

「……め」
「め?」

腕を伸ばせば届く距離に臨也がいる。
静雄は息を呑んだ。そして呼吸を落ち着けて、低く唸るような声で告げる。

「目ぇ、つむれ」

こちらの言葉に臨也は呆れたように笑った。

「……おとなしく殴られろって?」
「いいから、つむれ」

彼の言葉を聞き入れずに繰り返すと、臨也の体に力が入るのが見て取れた。おそらく喧嘩に発展した際の被害を想像して、抵抗か許諾かの二択を選ぼうとしているのだろう。
そして彼が出した答えは。

「……お手柔らかにね」

どうやら多少は痛い目にあってもかまわないということらしい。おとなしく殴られて、そして事態を収拾させようという心積もりだろうか。
臨也は静かに目を閉じた。長い睫が震え、影を落とす。
綺麗な顔だ。まるで美術品のように完成された美しさは、どこか冷たささえ感じさせる。
けれど、静雄はそこに確かなあたたかさがあることを知っていた。もうずっと、昔から。
一歩、距離を詰める。眼前に端整な顔が広がった。
そして――。

「…………え」
「……ッ」

驚きに染まった彼の瞳が目の前にあって、思わず体を離す。

「な、に」

しかし、自分よりも明らかに臨也のほうがうろたえていた。目を見開き、震える指で唇をなぞる。自分が、触れた場所だ。
彼の唇は酷く柔らかく、そして甘かった。

「――……て」

かすれる声にもどかしくなる。声だけでなく、体も可笑しいくらいに震えていた。

「待たせて、ごめん……」
「…………」

必死で紡いだ言葉に、臨也は声を失っていた。
いきなりこんな行動を取った理由を説明しようと思っても、口も頭もろくに働かない。考える前に行動を起こすのは自分の悪い癖だった。

「イルカ、今日、届い、て……それで、でも、わ、忘れてたわけ、じゃ、なくて」

意味を成さない言葉の羅列に、しかし臨也は何かを感じ取ったようだった。

「シズちゃん……」

ゆっくりと、今度は彼が距離を詰める。

「お、まえに、何を言えばいいか、いつもわかんなく、て」
「シズちゃん」
「でも、おまえは……ずっと、ずっと待って――」

それ以上は、言わせてもらえなかった。

「――ッ」
「……」

自分が行ったものとは違い、彼の口づけは酷く優しく、そして深い。
触れて、すぐに離れて。けれど僅かな距離だけ。すぐにまた唇が重ねられる。それを何度も繰り返して、徐々に互いの唇が開かれていく。
性急すぎない動きは慣れない自分を気遣ってのことだろうか。

「ッ」

熱いものが唇に触れた。それが臨也の舌だと気づいた時には、すでに口内で自分のそれと絡み合っていた。

「ン……」
「……」

不思議と恐怖はなかった。
むしろ好奇心と期待と情欲と、そんなものが胸に溢れている。
さらに深く――そう思った矢先、ゆっくりと彼の唇が離れた。

「あ……」

名残惜しさに、つい声が洩れた。恥ずかしさに慌てて口を閉じる。
誤魔化すように臨也の顔を見れば、酷く頼りない表情で自分を見つめていた。

「……待ってた」

赤く染まった彼の目元は酷く扇情的だった。
息を乱しながら臨也が呟いた言葉は切々とした響きに満ちている。
呼吸も忘れて、ただ、彼を見つめ続けた。

「――――」
「待ってたよ……」

その時の臨也の表情は笑いたいのか泣きたいのか、よくわからないものだった。触れれば簡単に砕けてしまいそうな脆さが見える。まるで今まで彼を覆っていた殻が剥がれ落ちてしまったように、頼りなく立ち竦む美しい青年の姿がそこにはあった。
泣かせたい。けれど、泣かせたくない。
不思議な感情を胸にいだきながら、静雄はそっと手を伸ばした。
臨也はされるがままになっている。

「ずいぶん、思いきったことができるようになったね」
「……おまえが、きっかけ、を」

彼の頬を撫でながら、弁明した。自分独りではきっと動けなかった。過去の記憶が、彼の存在が、あの夢のような時間が――色んなものが背中を押して、ようやく自分は走り出した。

「いいや」

けれど、そうではないと、彼は首を振る。

「きっかけは所詮きっかけだよ。シズちゃんが今こうしているなら、結局いつかはこうなった」
「でも、おまえが」
「ねえ」

喰い下がると、臨也はそれ以上を言わせまいと声をかぶせてきた。
不服そうに睨みつけると彼の頬に添えた手に、彼の手が重ねられる。臨也はゆっくりと目を閉じた。

「ほんとはあの時……俺、怖かったんだ」
「……え?」

秘めやかな告白は、静雄にとって意外なものだった。まじまじとその端整な顔を見やる。そこには少しばかりの羞恥と後悔が滲んでいる。
掌にすべらかな肌触りを感じながら、静雄は瞠目した。

「シズちゃんに偉そうなことを言って、自分はなんともないふりをしてたけど……本当は怖くて仕方なかったよ」
「…………」

いまだに閉じられている瞼が震えた。臨也はまるで恥じ入るように、小さく震える声で言葉を重ねる。
その姿に見惚れているのか、それともその言葉の内容に気を取られているからか。それは定かではないが、ただ呆然と彼を見つめることしかできなかった。
まるで猫のように、臨也は静雄の手に頬をすりつける。

「若かったからかな、変化が怖かった。もう、いつもみたいに戻れないかもしれない――そんなことを考えて、あの頃のシズちゃんにはできないことがわかってて、わざとあんなことを言った」
「…………い、ざ」

震える彼の唇に指が触れる。慰めるようにあたたかなそこを撫でた。後悔なんて必要ないのに。そう、伝えてやりたかった。
ゆるゆると、彼の瞼が上がる。臨也は揺れる瞳でこちらを見つめていた。普段からは想像もつかないほどに濡れて、熱を孕んだ瞳だ。
これを見ることができるのはきっと自分だけだ。自惚れでも願望でもなく、本能とでも言うべき感覚がそう告げていた。

「臨也……」
「ぬいぐるみだって、あんな、わざとらしい……俺はきっかけばかりを作って、いつも君が動くのを待ってた」

まるで宝石のような瞳がこちらを射抜く。そして赤く濡れた唇は吐息混じりの囁きを零すのだ。震える体は美しさと脆さを感じさせた。
理性がじりじりと焼かれている。静雄は眩暈を覚えて、一度強く目をつむった。
再び目を開けると、そこには今にも泣き出しそうな臨也がいて――。

「ごめんね……」

囁きが耳に届いた瞬間、何かが焼き切れる音を聞いた。






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