甘い、あまい
口の中に広がる甘味に、しかめられていた表情が僅かに和らぐ。疲れている時分に糖分を取ると心なしか癒された気になるのが不思議だ。
臨也はパソコンの電源を消して、デスクチェアの背に深くもたれ、首をそらせた。同じ姿勢で長時間いたせいか、体中が凝り固まっているような気がする。
「終わったのか?」
ふいにかけられた声に椅子を回転させれば、こちらの様子を窺う視線とかち合った。
「うん。――放置してごめんね」
「別にいいけどよ」
静雄はどうでもよさそうな口ぶりで臨也の謝罪を流した。視線もそらされる。
(……拗ねてる?)
せっかく自宅に呼んだというのに突発的な仕事に半日を費やしてしまった。相手はさして不機嫌そうでもないが、億劫そうな口調は不満の表れかもしれない。
「シズちゃん」
機嫌を伺うように名前を呼ぶと彼がソファから腰を上げた。一瞬、帰ってしまうのではと慌てたが、すぐに杞憂だと知る。
こちらに歩み寄った静雄は不躾に顔を覗き込んできた。
「何喰ってんだ?」
「ん?」
頬を軽く指先で押される。
「――ああ、飴だよ」
「ふーん」
「何、欲しいの?」
「欲しい」
なら、と机の上の小瓶に手を伸ばす。しかしそれに指が触れる前に、静雄の手が絡まった。
「違う」
「……?」
椅子の背もたれにもう片方の手をかけて、彼は言った。
「これが、いい」
「…………」
口内で僅かに小さくなった欠片が歯に当たり、音を立てた。
「――おいで」
手を引いてソファに彼を座らせた。静雄は文句を言うでもなく、されるがままになっている。
(拗ねてはいないけど――)
不満なのは本当なのだろう。そもそも短気な彼が辛抱強く待っていたことも、こちらに気を遣っていたことも、他人が見れば信じられないに違いない。あの平和島静雄が、と。
臨也は零れそうになる笑いを噛み殺した。湧き上がる感情は優越感のようでも気恥ずかしさのようでもあった。
時間を潰すためにテレビやオーディオをつけないのはこちらの仕事を邪魔しないため。けれど邪魔をしないだけなら別室に移動すればベッドもテレビも、時間を潰せるものがあるはずで。
(つまり――)
傍にいたい。そんないじましい感情によって従順な犬のように控えていたのだろうか。
「甘えたいんだ?」
彼の膝に乗り上げて顔を覗き込むと、まるで餌を与えられる前のペットのような表情をしていた。
「……悪いか?」
からかうような自身の言葉を否定することもなく、むしろ不服そうに静雄は鼻を鳴らした。催促するように彼の指が首筋を這う。
「まさか」
愚問だと答えると、その顔に満足そうな笑みが彩られる。
「おとなしく待ってただろ?」
「そうだね、偉い偉い」
ご褒美、と囁いて唇を重ね合わせた。
口内の飴を彼の口へと移してから顔を離す。
「――美味しい?」
「……甘い」
静雄は舌先でそれを転がしていたが、おもむろに顔を寄せた。眼前にある精悍な顔が赤く色づく様は何度見ても飽きない。
吐息の触れ合う距離で目を細めた。
「なあに、俺にもくれるの?」
「……やっても、いい」
悪戯をするように舌先で彼の唇をノックすれば、まるで歓迎するようにゆるく口が開かれる。
「じゃあ、ちょうだい……」
「……っ」
唇を合わせ、互いの熱を分け合った。今度はこちらへと甘い欠片が移る。
それを追うように静雄の舌が口内をかき乱した。技巧などあるはずもなく、ただただ必死なだけの舌使いは微笑ましいだけのはずなのに、どうしてか自分はいつもこのキスに理性をとかされる。
(あまい)
ずいぶんと小さくなった飴に歯を立てる。するとまるで脆い薄氷のように簡単に砕けてしまった。散り散りになった欠片は互いの口の中ですぐにとけて消える。
けれど、唇は離れない。
「……ぁ」
「なくなっちゃったね」
「……ッ」
吐息さえ奪うように、僅かの息継ぎさえ惜しんで熱い彼の口内をむさぼった。濡れた唇が、熱に揺れる瞳が、震える体躯が――。
彼の全身が自分を誘うのだ。抗えるわけがなかった。
「ン――」
静雄は震える腕を臨也の背に回す。苦しいだろうに、その手は離れるように促すわけでなく、より強く自分の体をかき抱いた。
――もっと。
そう言われているようだった。
流れる涙の感触にようやく唇を離す。息が上がっているのはお互い様だ。
「……」
「……」
しかし、そんな状態にも関わらず、静雄の瞳はいまだに不満そうだった。
涙に頬を濡らしているくせに。
からかうようにその頬を指先でぬぐうと、彼は恥ずかしそうに目を伏せた。赤らんだ目元に唇を寄せるとくすぐったそうに身をよじる。
「……まだ」
ふわふわとした気分は酩酊感にも似ている。熱に浮かされた声はかすれてしまった。飴一つでここまで酔えるものだろうか。
そもそも、甘いものはそこまで好きではなかったはずなのに。
「まだ、あるよ。――食べたい?」
気づけばそんなことを口走っていた。しかし、口の中に残る甘ったるい後味に悪い気がしていないのも事実だ。
「…………喰う」
素直な呟きに声を立てて笑えば、額を指で小突かれた。
本当に甘いのは別のものだと、とうに知っている。自分だけじゃない。彼もまたそうだと、そんなことも知っている。
「――誰のご褒美なんだろうね?」
恋人との逢瀬に降って湧いた仕事に泣き言一つ言わず専念した自分か、あるいはそんな自分の傍で静かに待ち続けた彼か。それとも――。
「知るかよ」
思考にふけっていると、耳に心地いい笑い声が聞こえた。それと同時に唇を塞がれて、それ以上頭を働かせることはあっさりと放棄する。
瞼を閉じる際に見えた小瓶の中。色とりどりの欠片たちが、まるで二人を冷やかすように輝いていた。