スリーピング・ロスト


広い浴槽の中であたたかな水に体を浸していると意識が勝手に浮遊した。瞼を下ろしてしまいそうになる。

(ん――)

まずいなと、ぼんやりとした思考で身じろぐ。こんなところで眠ったらのぼせてしまう。
それでも心地よさになかなか出ようという気になれず、無意味に水を跳ねさせていると腕の中におとなしく納まっていた男が唐突に呟いた。

「うん」
「?」

背後から抱きこむようにしているため、白いうなじがやたらと目に入る。そこに散らされた赤のあまりの数に顔が熱くなった。
そんな静雄の胸中など知るよしもなく、何やら独り納得している臨也が首を伸ばして振り返った。

「やっぱりマット買おう。毎回これじゃ体が痛い」

散々にやることをやり尽くしたあとの彼の結論はそれだったらしい。けだる気な口調だ。それもそのはずで痣が増えた体は洗われていたが、疲労の色が濃い。
お互い獣のようにさかった自覚はある。
浴室は音が大きく反響して数時間前に初めて体がじかに触れ合った性行為とはまた違った恥ずかしさがあった。床に崩れ落ちたまま、うしろからのしかかられて腰を打たれた。抽挿の最中に何度も床に倒れこみそうになった。
熱に浮かされた体はあっさりと達してしまい、そして欲深くすぐに次を求めた。
もう何度目かもわからなかった。体勢を変え浴槽へと移り、気づいた時には向かい合って互いの唇を必死になってかぶりついていたように思う。
喉は嗄れて、体の節々が痛い。
そのせいで、あまりにあたりまえのように告げられた言葉に反応が遅れた。

「……ま、いかい?」
「あいにくと若いもんで」

我慢できる保証がどこにもない。理由もない。
そう言って口の端にキスをされた。

(それって――)

毎回、情事後にはこうなるということだろうか。
唇に指を這わせた。彼が触れた箇所が熱い。

「…………」

先のことを想像してしまい、顔が赤らんだ。
しかし、それよりも大事なことに気づく。

(毎回って……)

毎回と言うほどこんなことを繰り返すのだろうか、自分たちは。
そんな思いで臨也をまじまじと見つめた。すると、気後れするほどまっすぐな視線とかちあった。何やら怒っているように見える。

「……っ?」

責めるような目に思わず顎を引いた。
しかし、彼の指に簡単に捕まった。

「これっきりとか言ったら、首括って死んでやる」
「え?あ……いや、その……!」

心を読まれたのかと思った。
物騒な彼の言葉に、しどろもどろな返答しか出てこない。困った顔をそのままに視線を向けると、濡れた指で頬を優しく撫でられた。
水滴が顎を伝う。
当の臨也は呪詛のような台詞を吐いたわりに、明るい顔をしていた。仕方がないとでも言うかのように、笑っている。

「そんな酷いこと、俺の可愛い恋人は言わないよね?」
「か……っ」

とても自分に向けられたとは思えない単語に、硬直する。
口を開けては閉め開けては閉めてと、まるで金魚のように間抜けな顔になっていたはずだ。おかしそうに笑う臨也の声が耳朶を打つ。
揺れる水面を凝視した。なんとか気持ちを落ち着けたかった。

「ね」

甘い囁きが脳をくすぐる。たいして働いてもいないくせに、この声にはまるで忠犬のように賢しく反応するのはどうしたものか。
喉が鳴った。
諦めたように天井を見上げる。湯気が立ち上って、換気扇に吸いこまれていた。

「…………ああ」

肯定は敗北宣言と同義だと思っていたが、言ったあとに残るのは悔しさよりも幸福感だった。
零れた言葉に臨也は嬉しそうに微笑んで、体の向きを反転させた。
首に腕が回される。その動作でできた波が頬に弾けた。しかしそんな些末なことを気にかけてはいられない。目の前には近すぎる距離で綺麗な男の顔が自分を熱っぽく見つめている。

「いい子だね」
「……うるせえ」

濡れた唇はとろけるほど甘い。





「ところでさ、どうして呑まなかったの?」

ふやけてほてった体を拭いてようやく浴室をあとにした頃には日づけをまたいでいて、思い出したように腹が鳴った。
正直何をするのも億劫だったが、このまま寝ても空腹で目を覚ますと結論づけた二人はだるい体のままダイニングへと移動した。とはいっても特に何をするでもない静雄は手際よく調理する臨也の姿を眺めるだけだ。エプロンを着けている彼の姿はずいぶんと久しぶりだった。
一定のリズムを刻む包丁の音、出汁の煮える匂い、炊飯器の蒸気。それらすべてが幸せの象徴のように思えた。

「あ?」
「コーヒーの話。――まだ食べるの? ゆっくり噛んでよ。味、ちゃんとわかってる?」

臨也があり合わせと称して作ってくれた食事を前に、静雄は三度目のおかわりを要求しつつ彼の疑問に答えた。

「わかってるっつーの。……おまえがどうするつもりなのか、興味あった」

素直にあの時の自分を思い返した。最初はただの好奇心だった。それがこういう結果になるとは、本当に何がきっかけになるのかわかったものではない。
言われたとおりにゆっくりと咀嚼して、呑みこむ。どちらかといえば薄い味つけだが、静雄が今まで食べてきた中で一番美味いといえるものはこの男が作ったものばかりだ。

「なるほど。……あ、でもそもそもなんで催眠剤が入ってるってわかったんだよ」
「匂いがしたから」

そそがれたほうじ茶に口をつける。口の中を熱い液体が満たして喉を通り落ちた。胃の中はようやく満足したのか、腹の虫は沈黙している。

「…………一応言っておくけどバルビタールは無臭のはずなんだけど」
「ばる……?」

自身はとっくに食事を終えた男が向かいの席で頬杖をつきながら訝しげに告げた。
聞き慣れない単語に眉を寄せる。

「催眠剤のもとみたいなもの。まあ、それはいいや。……匂いなんてあるわけないんだけどなあ」
「それ、新羅にも言われた」
「…………」

そんなこともあったなと過去のできごとを言えば、彼はなんとも言えない表情で押し黙った。
人間離れした自分の身体能力は今さらだ。
相手もそれはわかっているだろうが、そうやってあからさまに態度に出されると思わず拗ねたような声が出てしまう。

「なんだよ……悪かったな、化け物で」

最後の一口を呑みこんで、まだ熱い茶で一気に流しこんだ。腹が熱くなる。
臨也は苦笑するとかぶりを振った。

「……きっとさ」

卓上で伸ばされた手が静雄の手を握りこんだ。
互いに疲弊し、満腹の体は次の要求として睡眠を求めていた。どちらの指先も子供のように熱い。

「シズちゃんがそれだけ進化しちゃったのは俺を好きになったせいだよ」

楽しげに彼は笑った。
そんなわけないだろうと言おうにも、彼の得意の理論武装で返り討ちにあうのは目に見えている。それほど自信に溢れた声だった。
じんわりと熱が手から腕を伝い、頬を上気させる。
そんな、幸せな理論があるだろうか。都合がよすぎる。
そう思って少し強く臨也の手を握った。調子のいいことを言うなと咎めたつもりだった。
けれど彼は痛みに顔をしかめるどころか、さらに強い力で静雄の手を握り返した。

「凄いよね、細胞単位で愛されるって、もう究極的じゃない?」

うっとりとした声音がくすぐったい。
どうしてそんな考え方ができるのか、やはりこの男は自分の理解を超えている。
呆れているはずなのに、心臓の鼓動はどんどん早まっていた。手は汗をかきだした。
今日は本当に体がせわしない。

「でもね俺も同じくらい好きなんだよ? 身体能力が普通だからって愛を軽く見ないでね」
「っ」

腕を引かれ、指先に口づけられた。
同じ、という言葉に体が跳ねた。本当にわかっているのだろうか。自分の臨也への想いはとても綺麗なものではない。
重くてどろどろとした沈殿物だ。本当にそんなものと同じだと言うのだろうか。
とても信じられずにその目を見返すと、強い視線が静雄を諌めた。

「言葉と行動でしか表せないけど、頑張るから」

切実な目だ。自分はこの目に弱い。
何もかもを無条件で受け入れてしまう。だからこの男はずるい。
結局頷くしかないのだ。それ以外にできることはない。意地になって粘るのも馬鹿らしい。

「……もう充分伝わってる」

小さく呟いた声は震えていた。
握られた手は相変わらず放してもらえない。
せっかく素直に告げたというのに、臨也は小馬鹿にしたような笑いで応えた。この腹の立つ態度は昔からだ。
全部知っていると、その目が言う。

「いやいや、甘いね。この程度で満足しないでよ。ていうかシズちゃんはどうも俺の気持ちに対して懐疑的だし、しかも自分に自信がなさすぎるきらいがあるよね」
「悪かったな」
「悪いよ」
「…………」

図星をつかれて悪態をつくと、間髪入れずに切り返された。
静雄は小さく呻いて口をつぐむ。何を言っても墓穴を掘りそうだ。
臨也は苛立たしいほど爽やかな笑みを浮かべて、そんな静雄の姿を見つめていた。

(楽しいのか。……楽しいんだろうな)

些細な言葉の応酬が。恥ずかしい姿が。初々しい反応が。穏やかな空間が。言葉がなくても伝わる思いが。
自分だって何もかもが幸せだ。

「……あんまよぉ」

溜め息を一つついて口を開く。

「俺のこと甘やかすなよ」

彼の顔を直視できない。盗み見るようにその表情を窺った。

「自覚はあるんだ」
「馬鹿にしてんのか」

空いた手で額を小突くと、臨也は「痛い!」と非難の声を上げた。少しだけ胸がすいた。自分ばかりがいいようにされるのは癪だ。
本当はそれすら心地いいのだと、知っていたとしても。

「どうして甘やかしちゃ駄目なのかな?」
「……ッ」

仕返しとばかりに臨也は静雄の指を噛んだ。
熱い口内の感触に背中が震える。
彼の問いに答えずにいると、さらに強く噛まれた。それでもたいした痛みではないのだが、その痕を今度は舌が優しく舐める。
その繰り返しに、たまらず泣き言のような言葉が洩れた。

「……だ、だめに、なるから」
「どこが?」

臨也は許してくれなかった。指先を吸われ、明らかに性的な刺激を加えられると糸の切れた人形のように体の力が抜ける。

「ぜ、んぶ」

絞り出した声にようやく指を解放される。濡れたあとを赤い舌が丹念にぬぐった。
あまりの卑猥さに視線をそらす。すると臨也は何を思ったのか突然身を乗り出した。

「?」

呆気に取られて彼を見上げると、真剣な表情がそこにはあった。

「なればいいよ。――なってよ」

言葉のあとは、まるで決まりごとのように今日何度目かもわからないキスをされた。
その合間に馬鹿みたいに頷いている自分がいた。
全部好きにしてほしい。
赤裸々な言葉をたくさん言った。
一度願望が叶うとその先は果てしない。次から次へと望みが湧き出てくる。
それを浅ましいと自責するよりも先に願いが叶えられてしまうのだから、これはどんな幸せな夢だろうと何度も現実を確かめた。
同時に、同じだけの幸福をこの男に与えているのが自分だという自負が唐突に胸に湧いた。
その瞬間、僅かなりとも自分という存在が色を持った。それは子供の落書きのようにつたないもので、それでいて何ものにも囚われることのない鮮やかなものだった。
あんなに嫌いだった自分が、少しだけ誇らしい。
こんなにも幸せになれる。この美しい恋人を誰よりも幸せにできる。
もう夢でいいとは言えなかった。
これが確かなものだと、何度でも確かめたい。
静雄は覚えたての舌使いで臨也の求めに応えると、ゆっくりと目を閉じた。






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