ウィンター・ベル


「……寒い」
「寒くねえよ」

シズちゃんは俺より薄着だっていうのに、小刻みに震えるこっちを気にするでもなくセルティに借りたらしい漫画を読んでいる。どうでもいいけど、それ、少女漫画だよね。中を覗き見ればきらびやかな画面に二次元の美少女がなぜか服をはだけて美少年と戯れていた。
そんなわけで俺はせっかく恋人の家に来たというのに、茶の一杯も出されることなく放置されている。

「暖房入れようよ」
「電気代がもったいない」
「払うから! 即金で!」
「駄目」

にべもない返事に途方に暮れた。何か機嫌を損ねるようなことをしただろうか。よくよく考えてみるが、まったく心あたりがない。
困った。しかし、寒い。

「…………」

あまりの寒さに空調のリモコンを探す。家主の意見など知ったこっちゃない。
俺の視線は部屋中を彷徨った。
しかし。

(…………この野郎)

見つけるには見つけたが、それはしっかりとシズちゃんの手元にあった。
床に薄いクッションを並べて寝そべりながら、だらだらとしたその様子に段々腹が立ってきた。
嫌味の一つでも言って踏んでやろうか。俺は立ち上がって、こちらを無視し続ける薄情な恋人の傍らに立つ。
その背中を見下ろしている時だった。

(――あ)

なんとなく、理由がわかった気がしたのは。

「…………シズちゃん」
「なんだよ」

踏むのはやめて、俺は膝をついた。

「寒いなあ」
「つけねえからな」
「わかってるよ」

リモコンを隠す子供っぽさに笑ってしまう。

「それは諦めるから……代わりにどうにかしてくれない?」
「どうにかって?」
「電気を使わずに、この部屋にあるもので効率的にあっためてほしいなってこと」
「…………」

するとシズちゃんは少し体をずらした。
空いたスペースに俺は体を滑り込ませる。猫が暖を取るように、そのままシズちゃんにすり寄った。

「まだ寒い」
「……仕方ねえなぁ」

声が嬉しさをちっとも隠せていない。俺は自分の想像が当たっていることを確信した。実にわかりやすい。

「抱っこして」
「抱っこて、おまえ」
「じゃあ……ぎゅってして」
「……いい歳したオッサンが何言ってんだ」
「まだ三十だよ」
「サバ読むな。同い年が」
「……三十五」

素直に言うと頭を撫でられた。それこそ三十路もすぎた男にすることじゃないだろう。

「さーむーいー」
「はいはい」

本を手放したシズちゃんはきつく俺をホールドする。足と腕でしっかりと拘束されて、一瞬、関節技でも決められるのかと思った。
しかしそんなはずもなく、シズちゃんの心臓の音と高い体温が俺を包んでいる。
そのままお互いに無言だった。しばらくの間、俺はこのあたたかさを甘受した。

「……なんかだかさあ」
「あ?」
「んー……言ったら怒るからやっぱいいや」
「なんだそれ」

他愛ない会話に小さく笑うとつられたシズちゃんの笑いが耳に落ちてきた。ふわふわとした感覚はあたたかさのせいだけではない。ずいぶん大人になった俺はそんなこともちゃんと知っている。もちろんシズちゃんもだ。
昔から甘えることが下手だったシズちゃんは、俺にだけわかるような甘え方ばかりを覚えた。それだけじゃない。キスもセックスも、俺が教えて俺だけしか知らない。
片や俺はというと、シズちゃんほど清純でなかった彼と出会う前の過去はともかく、つき合うようになってからはもう他の人間に対してそういった意味での興味ははもちろんのこと、人類愛を叫んでいた昔が嘘のように好奇心もほとんど消え失せてしまった。六十億人以上に向けられるはずだった俺の愛はたった一人に集約されたのだ。

「…………」

体温を分けてくれるお礼にそっとシズちゃんの髪を撫でた。
するとシズちゃんは俺の首筋に顔をうずめるようにして、さらに力をこめて抱きついてきた。
無言の催促に俺は微笑んで、ゆっくりと頭や背中に回した手で自分よりも大きな体を撫でた。
時折嬉しそうに体を震わせる様は、大型犬が尻尾を振っているように感じる。

「もっと?」
「もっと」

笑いながら訊ねると素直な答えが返ってきた。
これを可愛いと言わずしてなんと言うのだろう。光源氏やヒギンズ教授はこんな気分だったんだろうなあ。俺はずいぶんと平和ボケした脳内でそんなことを考えていた。
自分でも、それこそシズちゃんの言葉を借りるなら、三十五のオッサンを可愛いと思う日がくるとは想像すらしていなかった。
しかし、そう思ってしまうのだから仕方がない。

「――そういえば、シズちゃんさっきココア呑んでたよね」
「? ああ」
「俺も甘いの欲しいな」
「…………」

ほら、ちゃんと俺の言ってることの意味だってわかってる。
シズちゃんは目元を染めてそっと顔を近づけた。

「……」
「……」

まるで小鳥が啄ばむようなキスはもうずっと同じだった。違うのは唇が震えないことぐらいだろうか。
何度目かに唇が触れた瞬間、ノックをするように舌で突いてみた。
するとシズちゃんは俺の口にかぶりつくようにして唇を深く重ね合わせる。小鳥が犬になった。こらえきれない笑いはシズちゃんの口に吸い込まれる。
キスに夢中になりながら、俺はどこか冷静な頭でタイミングを計っていた。

「……シズちゃん」
「……なんだよ」

唇が離れて互いに荒い息をついた。
その機をのがさず、ポケットに入れていたものを取り出す。
このために今日はわざわざ仕事も雑事もすっぽかしてやってきたのだ。初めはすげない扱いにむくれもしたが、可愛い天邪鬼っぷりにそんなことはすっかりどうでもよくなっていた。
ちなみに。
このあと泣いているんだか恥ずかしがっているんだか喜んでいるんだか怒っているんだか、よくわからないシズちゃんをなだめるのに苦労することになるとは、まだこの時の俺は知らない。

「左手の薬指、出して」






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