スリーピング・ロスト


静雄は自分という存在が嫌いで仕方がなかった。
コントロールできない力や起伏の激しい感情にも嫌気がさしていたが、それ以上にこの人間離れした体を嫌悪していた。
気持ちが、悪い。
汚い。
穢い。
そんな思いが湧いたのはいつからだったか。壊れては再生する体が、そしてより丈夫になる体が疎ましかった。決して傍目にはどうということはないと理解していても、静雄には自身の体がこれ以上ないほどに醜く思えてしまうのだ。
酷い妄想だと、わりきることはできなかった。そしてこんな被害妄想のような自己嫌悪が誰の理解も得ないこともわかっている。
理解されるはずがなかった。だから今でさえ、ひたすらに鬱屈した思いを内に内にと仕舞いこむことしかできないでいる。
とうに自分の拙い心の許容範囲は超えていた。いずれ溢れてしまうのが先か、自分が変容してしまうのが先か。どちらにしても明るい未来を想像することはできそうにない。
いっそ、消えてなくなることができたら。
そんなことを考えないではない。しかしそれを実行に移すことが難くないこともわかっていた。
物理的にこの体の機能をとめることができるのかも定かではないが、何より周りの人間のことを思わないわけにはいかない。ただでさえこんな自分に負い目があるというのに、これ以上近しい人に迷惑をかけるような真似はできない。
そんなふうに何一つ決断できない自分も嫌いだった。
結局のところ自分の目を覆ってしまうことしかできないと、静雄はとっくに諦めていた。嫌いなもの、煩わしいもの。嫌悪も憎悪も何より大きかったがそれが当たり前になりすぎて、もう自分は正常な感覚ではないのだろうなと自嘲する。原因も理由も、数えだしたらきりがない。
高く伸びた体が嫌だ。長い四肢が嫌だ。節くれだった手が嫌だ。無骨な指先が嫌だ。柔らかくも硬くもないそれでいてナイフ一つ受けつけない体が嫌だ。常人離れした脚力を出せる足が嫌だ。どれだけの重荷にも耐えられる腕が嫌だ。すぐに怒りに染まる顔が嫌だ。人外の域まで能力が発達した目が嫌だ。耳が嫌だ。鼻が嫌だ。拙い言葉しか発せられない口が嫌だ。壊れない骨が、筋肉が、臓器が――
全身のありとあらゆる箇所が憎悪の対象だった。
それでいて何をするでもなく静雄は淡々と日常をすごしている。自傷することも誰に言うこともない。歪んだ自己嫌悪は胸の内でどろどろとした不純物になって蓄積されていた。
一番嫌いなのはそうやって自分を貶めて傷ついて何もかもを諦めてしまっている自分自身なのだと、痛いほどにわかっていた。





しかしどんな偶然か悪戯か、人生には千載一遇の機会というものがある。
そんな、静雄に奇跡的とも言える事態が待っていたのはほんの一年ほど前のことだった。
ありえないと思っていた、そんなことは。
普通の人間が普通に体験して繰り返す柔らかであたたかなものはあまりに遠く、想像すらできなかった。憧れることもしなかった。最初からないものを期待するだけの強さは持ち合わせていなかったから、何かの間違いだと思おうと必死になった。夢を見てそれが覚めてしまうことがどれだけつらいか、静雄にはよくわかっていた。
それでも、夢は覚めない。
現在もなお。自分には無縁だと諦めていたことが実際に起こってしまったのだ。
初めて。
生まれて初めて、恋をした。
自分を好きになれない分際で他人を好きになるだなんて、それがどんなに矛盾したことか静雄は正しく理解できた。自覚した瞬間に絶望とあまりの滑稽さに笑いをこらえきれなかった。
しかし、それでも現実は揺るがない。
嘘のような出来事だったが、何度思い返してもこれは恋だと帰結する。まるでずっと以前からそう決まっていたかのように。
これが恋でないのなら、もう何が恋なのかわからない。そう思えるほどに人を好きになった。
とうてい信じられることではなかったが、嬉しくないと言えば嘘になる。
たとえ男で、長年殺したいほど憎んでいた相手だとしても。
そんなことはなんの意味もなくなってしまうほどに彼にこがれ、苦しかった。だから言わずにはいられなかった。秘めておくことなどできるわけがないとわかっていたから、どんな悪罵を想像しても躊躇いは起きなかった。
まさかその先でまったく想像もしていない言葉を告げられるとは、夢にも思っていなかったのだ。

――俺も、好きだよ

彼、折原臨也はそう言ってそれまでに見たことのないような顔で笑った。
その顔を、声を、吐息を。僅かな齟齬も美化もなく、あの瞬間そのままに静雄は思い起こすことができる。
心臓がとまって、息ができなかった。
目は確かに開いているのに臨也以外が見えなかった。耳は必要のない音を拾うことをやめてしまった。
もし、自分の中にある汚いものが溢れ出てしまっても。そんな、それまで確かにあった不安や恐怖というものが雪どけのようにすっかりと消え去った。
この瞬間だけを思って、生きていけるような気がしたのだ。





静雄は幾度となくその時の情景を思い出す。臨也の一挙一動、まばたきの回数に至るまでのすべてを詳細に。
嬉しさよりも何よりも、理解を超えた現状に酷く狼狽した覚えがある。臨也の言葉を何度も反芻しては不明瞭な呻き声を洩らした。
覚めてほしくない夢とすら思えなかった。こんなに都合のいい夢は見たことがない。
苦笑した臨也が近寄る動きをぼんやりと見つめていた。
その手が伸びる。
そこにはナイフが握られていて惚けた静雄を一閃して「嘘だよ」と言うものだと信じて疑わなかった。そうでなければおかしい。今だってそう思う。
しかし実際は臨也の手には何も握られておらず、伸ばされた手は静雄の頬に触れたのだ。
優しく指が肌をなぞると表現しがたい感覚が背筋を突き抜けた。

――俺たちは恋人になるべきだね

互いに好きならそれが当然なのだと臨也は言った。
恋人なんて、そんなものは縁遠いどころかありえないものだったから。だから静雄はどうしていいのかわからなかった。思いつく限りの罵詈雑言には心の準備もあったのに、こんな展開はまったくの予想外だった。

――ね、そうしよう?

怯える自分の手を臨也が握った。その時初めて静雄は臨也の温度を知ったのだ。冷たく思えていた彼の手は存外にあたたかく、人間味に溢れていた。
静雄にとっては何もかもが新鮮で怖すぎるくらいだった。
今までずっと喧嘩ばかりだったのに。それがどうしてこんなことになったのだろう。
胸中にあるのは不安と疑問と困惑がない交ぜになったような感情だった。しかし、それをはるかに凌ぐ喜びが静雄の背中を押した。
声はかすれて出なかったから、必死に頷いた。一秒、コンマ一秒でも遅ければ臨也の気が変わってしまうのではないかという馬鹿馬鹿しい不安のせいで、とんでもなく情けない姿だったように思う。
はにかんだような臨也の笑みがいつまでの静雄の脳裏に張りついていた。





驚きと喜びと不安が入り乱れた衝撃に、しばらくの間静雄は自分への嫌悪や劣等感を忘れることができた。それがよかったのかどうか今となってはわからない。とにかく当時の自分は浮かれていた。
分不相応だという思いはあったが、どこかで自分も幸せになってもいいのではないかという思いもあった。
幸せになりたくないはずがない。ただ、求めることに疲れただけで。
具体的なことはまったく想像がつかなかったが、恋人というその響きの一つを取っても静雄にはまばゆく感じられた。恋とは綺麗なものだと信じていた。だからこそ、そんな綺麗な感情が自分の中に芽生えたことが嬉しかった。
臨也が自分に対して敵意以外の感情を持っている事実が何よりも嬉しかった。
酷い男だと知っているのに、その嗜虐性や酷薄ささえも好きになった。もっと酷い男になって孤立してしまえばいいとすら思った。
そんな妄執が美しいわけがないのに、静雄は自身の願望に気づかないでいた。
知らずにいることが幸せだと今なら確かに理解できる。
綺麗な恋だと、信じていたかった。






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