秋霖
夜半過ぎ、チャイムが鳴った。
シャワーを浴びていた臨也は慌ててコックを捻り、浴室を飛び出した。濡れた体をろくに拭かなかったせいで、廊下には水が点在している。
臨也自身はズボンに足を通しシャツを羽織っただけという、まるで火事場のような格好だった。濡れた髪が頬に張りついて水滴が顎先からしたたり落ちる。
それに頓着せずに勢いよく扉を開けると、予想通りの人物が所在なさげに立っていた。
「やあ、シズちゃん」
「…………風呂、入ってたのか」
挨拶がまるで噛み合わない。
臨也の姿に静雄は驚いているようだった。
(慌てて飛び出しました、って丸判りだもんね。…………かっこ悪)
羞恥が頭をもたげたが、臨也は気にしないことにした。言い繕えば余計に墓穴を掘ってしまいそうだった。そして何より、そういった体裁を気にする言動が無駄な相手でもあった。
「突っ立ってないで入りなよ。廊下、濡れてるから気をつけてね」
「…………」
静雄は言われるがまま、玄関に足を踏み入れた。足取りは普段より億劫そうだ。
彼の様子がおかしいことに、臨也は言及しなかった。
「…………美味しい?」
「……ああ」
リビングでコーヒーをすする静雄を横目に見ながら、臨也は自分の髪を拭いている。
臨也の何気ない問いかけに、静雄の返答は短い。それはいつものことだが、彼の気がそぞろであると、臨也は声で判った。
しかし、その原因までは判らない。
思えば虫の知らせだったのかもしれない。浴室ではほとんど聞こえないチャイムの音を耳が拾ったのも、普段なら無視する深夜の訪問をなぜだか彼だと確信して疑いもなく飛び出したことも。
臨也自身、不思議にすら思う。
「……あのさ」
「風呂」
「え?」
据わりが悪くなり、臨也が声をかけた矢先。
静雄は視線をカップに落としたまま、ぽつりと呟いた。
「……入らなくていいのか」
「あ、ああ、別にいいよ。洗った後だったし……ていうか、シズちゃん放って入るつもりもないし」
「……そうか」
「…………」
(何この緊張感)
ここにきて臨也は静雄が緊張していることに気がついた。やけに張り詰めた空気を纏っていて、普段のようにおいそれと軽口を叩く気にもなれない。
(湯冷めしそう……)
夏も終わりの気配を見せ、夜から朝方にかけては冷える。濡れた髪や体をおざなりに拭いただけの臨也は、背筋に走った悪寒にまずいと思いつつも、静雄と自身の体調を天秤にかけ、結局風邪を引く覚悟を決めた。
「シズちゃん、あのさ」
「…………」
沈黙が鬱陶しい。
まるで静雄の緊張がぴりぴりと肌に刺さるようだった。
「えーと、別にいいんだけどね、とりあえず何で来たのか理由くらい聞かせてくれないかな?いや、来るのが駄目って言ってるんじゃないよ?でもほら、こんな時間に約束も連絡もなしに来るなんて初めてじゃない?気になるなー、って……」
静雄が臨也の家に来ることは珍しくない。むしろ、恋人という関係になってからは週末のほとんどはどちらかの家ですごしている。
臨也の家にも静雄の私物が増えた。
(つき合いたてのカップルみたいだ。……いや、その通りなんだけど)
自分たちが恋人の手順を地道に踏んでいることに気づいて複雑な心境になったことは、臨也の胸に仕舞われている。
今さら、恋だとか愛だとか。
そんなものにいちいちうろたえる自分を認めたくなかった。認めたくはなかったが、こうして静雄を前にすると羞恥心やプライドは彼方に飛んでいってしまうのだから始末におえない。
「どうせ明日は金曜だろ?なのわざわざ今日来たのは……何で?」
「……週末以外に来ちゃ悪いか?」
「いや……悪くはない、けど」
「迷惑なら帰る」
腰を上げようとする静雄に、臨也は焦った声を上げた。
「ちょ、ちょっと!待ってよ!」
思わず彼のシャツを引く。その反動で静雄が手に持っていたカップからコーヒーが零れた。
静雄のシャツに黒い染みが広がったが、臨也はそんなことに構ってはいられなかった。
「もー……誰もそんなこと言ってないだろ?さっきから言ってるけど、駄目じゃないけど理由が気になるって言ってんの、俺は。何でシズちゃんは今夜俺の所に来ようと思ったわけ?それとこの張り詰めた空気は何?」
「…………」
「黙っててもいいけど、言うまで放さないからね」
臨也の言葉に、静雄の肩が小さく震えた。
向けられた視線は可哀想なほど揺れていたが、臨也は妥協するつもりはないと、彼の腕を掴む手に力をこめた。
こっちだって必死なのだ。
「…………」
「…………」
先に視線をそらしたのは、静雄だった。
うなだれた彼の表情を見ることはできなかった。辛抱強く、臨也は静雄の口が開くのを待つ。
やがて零れたのは、消え入りそうな声だった。
「…………く、ない」
「何?」
しかし、とても拾える声量ではなく、慌てて臨也は聞き返す。
静雄が、特にこんなふうに沈んだ様子の彼がすぐに口を噤むことは経験で知っていた。
放さないと言ったはいいが、臨也が力で彼に敵うはずもないことは互いに判っている。居たたまれなくなって出て行かれることだけは避けたかった。
「シズちゃん」
できるだけ優しく声をかける。掴んだ腕も、優しく握りなおした。
すると、静雄の頭が上がった。
緩慢な動作に焦れる内心を、臨也は無理矢理押しこめた。
「……シズちゃん?」
正面に静雄の顔を見ると、思わず訝しげな声が臨也の口から洩れた。
酷く、情けない顔だった。
「………………別れたく、ない」
「…………………………………………は?」