ふと、思考を中断する柔らかな感触が唇にあった。噛みしめていた唇に臨也の指が触れていた。

「…………」

血の痕をなぞるように指を動かされると、思わず力が緩んだ。
臨也は静雄の唇に乗せた指を真横にそっと引いて、名残惜しげにその手を下ろす。

「天敵である君を観察するため。……そんなふうに、油断してたら……ざまぁないよね。君がこれへの興味を徐々に失うのと反比例して、俺は気になって仕方がなかったよ」
「……え」

自嘲的な声音に、思わず臨也の顔を凝視した。相変わらず顔は下を向いていて、表情は読めない。静雄は無意識に手をきつく握りしめていた。
その細い顎を力任せに掴んで、こちらを向かせたい衝動に襲われる。
なんとか理性でもって本能的なそれを抑えた。けれど、いつまでも平静を装っていられる自信はまったくといっていいほどない。

「い、ざ」
「毒のままで置いておけば、この関係がずっと続くんじゃないかっていう、安心感と」

静雄の胸中を読んだように、ふいにその顔が上げられた。

「ッ」

あまりに突然だったので、あんなに強く思っていたにも関わらず、静雄は驚きに息を飲んだ。
自分を見つめるその目の真摯さが、あまりに臨也らしくなかった。

「……ごっこ遊びのままでいたくない、本心と」

臨也の声が僅かに震えていることを、静雄の耳は確かに聞き取っていた。

「何……」

何を言っているのだろうと、理解できないままに口から言葉が零れる。臨也に負けず劣らず、静雄の声も震えていた。

「だって」

臨也の泣き笑いの表情にも似たその顔に、目の奥が熱くなる。

「どんなに君に触れても、一緒にいても、俺が最初に決めたルールに縛られたままだ。シズちゃんを好きなフリをする俺と、そんな俺でいいって、妥協してる君と」
「…………」
(……それで、)

それで、いいじゃないか。
それはどちらにとっても、益のある提案だったはずだ。
静雄は喉の渇きからか、無意識のうちに唇を舐めた。
臨也の言葉を先ほどから理解できないでいる。
臨也が好きな静雄と、静雄が嫌いな臨也。この嘘ばかりの恋人ごっこは、双方の欲望を満たす最善の方法だ信じて疑わなかった。

(おまえは……おまえはそうは思わなかったのか?)

臨也の、臨也本人ですら予想しえなかった感情が、この均衡を壊したというのか。
臨也は狼狽する静雄を見据え、言い切る。

「薄い膜を隔てて、シズちゃんに触れられないような……そんな気がしてた」

彼の声は、もう震えていなかった。





「……何で、蓋を開けたんだ」

開けなければ、永遠にこのままだったのに。そんな錯覚すら静雄は覚えていた。
俺たちは永遠に平行線でいいだろう。それ以上、何を望めというんだ。
責めるように静雄が問うと、対して臨也は笑う。それは何かを諦めたようで、それでいてすっきりとした笑顔だった。

「…………シズちゃんに」


「触れたくて、仕方なかったから」


泣きそうな臨也の顔は今までに見たことがないくらい、綺麗だった。





「…………」
「他の何が嘘でもいい。……でも、シズちゃんに触れるのは……全部本当でないと嫌なんだ」
「…………」
「俺を好きだって、泣きそうな顔で君が言った日」

臨也が静雄の体を引き寄せる。
華奢な体にどれほどの力があるのか、そう思いたくなるほど強い力だった。

「君を帰した後、ああ、君を殺さなきゃ、って。そう思ったんだ」

抵抗もできず、静雄の体は臨也の腕に抱きとめられる。
動けない。自分が、だ。そんなことは、あるはずがないのに。

「だって、苦しくて死んでしまいそうだったんだ。不安で苦しくて、怖かった。俺はそんな中で死にたくない。だから、シズちゃんを殺して、終わらせようって」

自分に縋りつくように、背中に臨也の爪が立てられた。
痛みはなかったが、その感触は静雄にえもいえぬ感情を抱かせた。

「でも、次の日に君を見たら、殺せないって知った。理由は判らなかったけど、でも、俺は一生君を殺せないって知っちゃった。……それが、すごく、悔しくて」

肩口に顔をうずめ、臨也は澱みなく語る。
その吐息が酷く熱い。耳朶を打つ声は艶やかで、何もかもがずるい男だと静雄は腹が立った。
意趣返しに腕を臨也の腰に回すと、彼が小さく笑った気がした。
そして、その顔が眼前に向けられる。

「あんまり悔しいから、こんなくだらない遊びを提案したんだよ」

臨也はそう言って、今度はその顔を顰めて見せた。
痛みを堪えるようなその表情に、静雄は思わず腰の手に力をこめた。

「言っておくけど、俺は謝らない。謝るもんか。だって、俺は自分の世界を君に壊されたんだから。それがどれだけ酷いことかなんて、きっとシズちゃんには一生判らないよ。だから、俺のたった一つの小さな嘘くらい、許されてしかるべきだ」

捲くし立てられた言葉はどれも子供の癇癪のようで、静雄は初めて見る臨也の様子に唖然とするしかできなかった。

しばらくして、ようやくできたのは僅かばかりの反論程度で。

「……何が、小さな嘘だ。嘘ばっかじゃねえか」
「そっちこそ何言ってんの」

馬鹿にしたような口調に静雄が眉を顰めると、臨也は幼い子供のような視線を向けた。
それは純粋そのもので、静雄は自分が悪いような気分になる。相手は臨也だと、自分を何とか踏みとどまらせるのには苦労した。
しかし騙されるものかと静雄が口を開くより先に、あっけらかんとした臨也の言葉が二人の間に落ちた。


「俺がついた嘘は、これでいつかシズちゃんを殺すっていう、ただそれだけだよ」


それ以外は全部、本当。


「…………」





全部、全部って?

臨也の言葉を理解するのに、どれだけの時間がかかったのか。
寝室の時計の秒針が、ゆうに二回は廻ったことだけは確かだ。
ぼんやりと、臨也の背に隠れるようにある置き時計がやけに目についた。

――全部、本当

「あ……」

臨也の言葉が脳内で反響して、静雄の脳裏に死を覚悟しても浮かばなかったこの半年の情景が、堰を切ったように溢れだした。

じゃあ、何か?

自分に触れたその手も。
落とされた唇も。
囁かれた言葉も。
全部、全部?

ぜんぶ、本当だったっていうのか。


「……ッ」


瞬間、今までのことを思い出して、静雄は顔から火が出るほどに赤くなった。

「お、ま……ず、ずるい!」
「ずるくない」
「ッ」

羞恥心と怒りから臨也を殴ろうと思った。
しかし実際は、静雄の体はぴくりとも動かなかった。代わりに素早く動いたのは臨也の方だった。
勢いに任せて、子供のようなキスをされた。キスというよりは、唇をぶつけられただけにも思えるような。
それは一瞬の出来事だった。
あまりのあっけなさに、すぐに離れた唇を追うように静雄が顔を近づけると、互いの吐息が触れる距離で臨也は囁いた。

「死んでもいいって、シズちゃんが言った時……もう駄目だって思った」

今度はゆっくりと、それでも触れるだけのキスだった。
二度目に触れた唇も、やはりすぐに離れる。

「君じゃないと駄目なんだって。君以外はありえない。それはたとえこの先何があっても変わらない事実で、俺はそれが怖くて仕方がないんだ」

三度目、四度目は間を空けなかった。
少しだけ深くなったそれに、静雄はさらに顔が熱くなったが、もう気にすることをやめた。
ただ、会話の合間にキスするというよりは、キスの合間に会話をしているような気がした。

「だって、そんな……もう俺は、君なしじゃ生きていけないんだ。きっと、息すらできない」
「臨也」
「どうしようもなく怖いよ……シズちゃん」
「いざや」

もう何度目か判らない口づけは、静雄からだった。
子供のような臨也を慰めるように舌を絡ませると、その拙さをからかわれるようにその何倍もの深さで翻弄された。

「……は」
「……っ」

離れた唇を惜しむように、臨也は乱れた息のまま静雄の頬に自身の頬を寄せた。
そして、柔らかな髪の間から覗く真っ赤に染まった耳に囁いた。

「……君が俺を好きだなんて、幸せすぎて怖い」
「…………そ、」
「こんな幸せなんて、知らない。俺は自分で自分を幸せにするつもりだったのに。今までそうやって生きてきたのに……誰かに与えられる幸せなんて、どうしていいか判らない」
「……そんな、の」
「どうしたらいいの?これは、どうやったらずっと与えてもらえるの?対価が必要?それとも他に何か、必要なものがあるのかな?ねえ、怖いんだ。……もし、これを失うことになったらって、考えただけで」
「……ッそんなの、そんなのなぁ」

俺だって、怖い。

堪らず静雄がそう呟けば、ついに堪え切れなくなったのか、臨也の綺麗な瞳から雫が零れた。
しかしそれを笑う余裕は静雄にはない。静雄の視界はとうにぼやけていた。

「大人の男が、二人して、何、やってんだ、ろうね」
「……知ら、ねえ」

涙を拭うようにすべらかな頬に唇を寄せると、臨也はくすぐったそうに鼻を鳴らした。






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