毒
「それで?」
臨也はどこか不満そうに、自分より背の高い静雄を見上げながら、再び問いを投げかけてきた。
「……?」
続けられた言葉を理解できず、静雄は首を傾げる。
そんな静雄の様子を見つめていた臨也は、眉を顰め、視線をそらした。
「言ったじゃないか。好きなように、って」
「…………」
「言葉通りだよ。他に、どうしたい?」
言え、と有無を言わせぬ強い口調で告げられた。
けれど、静雄はますます困惑を深めるだけで、臨也が望むようなことを口にはできなかった。
「何、言ってんだ……餞別のつもりか?」
訝しげに訊ねると、ぴくりと臨也の肩が揺れた。
くだらない遊びの代償として独りで死んでいく哀れな男に、僅かなりとも情が湧いたのだろうか。
(……んなわけねえ)
すぐにそんな考えは打ち消した。
この男にそんな情緒があるとは思えない。ましてや自分相手に。いくら最期とはいえ、そんな優しさはこの男には似合わない。
「だいたい、俺がおまえを殺したいって言ったらどうすんだよ。大人しく殺されてくれるとでも――」
精一杯の皮肉のつもりだった。静雄は自分が臨也を殺せないことくらい、とっくの昔に知っていた。
軽々しく、好きにしろなんて言うなよ。おまえが思っているよりずっと、俺はおまえが好きなんだ。
そんな思いを、そっと言葉に滲ませた。
だというのに。
「そうだよ」
返答は早かった。かぶせるように返された声は、普段の臨也の声量よりも大きいように感じられた。
「……………は?」
馬鹿にしたように笑っていた静雄の顔がひきつる。
臨也はそれに気づいているのかいないのか、追い打ちをかけるように、口を開く。
「シズちゃんが、そうしたいなら……それでも、いいよ」
臨也は穏やかな表情をしていた。言葉とは裏腹に、そこには嘘だらけの日常で何度も見た優しい視線があった。
「…………」
けれど。
嘘ばかりの男が、どうしてだか本当にそう思っているのだと、常々臨也には馬鹿にされている静雄の本能とも言うべき場所が警鐘を鳴らす。
「…………」
(こいつ、何言って……)
眩暈がした。
口の中が乾いて、気持ち悪い。理解できない現状に、もとよりそうできた方ではない頭が悲鳴を上げている。
何を言ってるんだこの男は。
静雄は眉間の皺を濃くし、相手を睨んだ。以前のような殺意を滲ませたものとは眼光の鋭さが天と地ほどにも違っていたが、相手の真意を探る視線は揺るがなかった。
「…………」
何か、自信があるのだろうか。
静雄がそれを望まないという、絶対的な自信が。もしくは、彼を手にかける前にこちらが死ぬという確信が。
「……やれやれ、まるで手負いの獣だね」
猜疑心を露わにする静雄に、臨也は大げさに肩をすくめて見せた。
「今さら、俺が何かを企んでるわけ……仮に企んでたとしてもさ、もう関係ないだろう?だから、そんなに難しく考えないでよ」
もっともらしいことを言うくせに、臨也は自然さを装って再び視線をそらした。
「…………」
伏し目がちな臨也の顔をぼんやりと見つめる。相変わらず綺麗な男だと、現実逃避にも似た思考が頭を占めた。
「何か、言いなよ。何でも叶えてあげるよ?」
緩慢な動作で、臨也の顔が上げられた。艶やかな髪が一房、頬にかかったままだ。
「ねえ」
望みを言ってほしいのだと、彼のそれが切々とした声に聞こえるのは毒が回ってきたからだろうか。
静雄はらしくない男の瞳に自分が映っていることを確認して、小さく息を吐いた。
「おまえが、いいようにすればいい」
臨也の応えは、呆れを隠さない大きな溜め息だった。
「……君って奴は……こんな時でもやっぱり臆病なんだねぇ」
「…………」
静雄が何と言えばいいのか判らず途方に暮れていると、臨也はまるで子供を窘めるように言い含めた。
「ねえ、この際俺の意思も感情も関係ないよ。今まで溜めに溜めた鬱屈した感情ってもんがあるだろう。それを俺にぶつければいいんだよ」
望むことを、望むようにすればいい。
そう、臨也が優しく諭すと、戸惑いながらも静雄は頷いた。
それを見てどこか安堵したように息を吐く臨也に、けれど、と静雄は返す。
「あのな、上手く言えねえけど、今の俺は何をどう捻くり返して考えても……おまえが望むようにしたいんだよ」
空気が、張り詰めた。
「……何、それ」
穏やかな表情を張り付かせたまま、臨也は低い声を絞り出した。
「…………」
困ったな。
それが静雄の正直な感想だった。そんな顔をさせたいわけではないのに。
だいたい自分は口が回る方ではないのだ。言葉で何かを正確に伝えられた試しなどない。
それでも伝えたい。その一心で、静雄は拙い語彙を懸命に手繰る。
「……おまえの、一生の傷になりたいと思ったこともあったけどな。でも、そういうのは……何か、違う」
「違うの?」
か細い声で臨也が静雄の言葉を繰り返す。饒舌な彼らしからぬ問いかけだった。
「忘れられたくないのは本当だけど、おまえがつらいのは嫌だ」
「…………」
静雄は自分の割に上手く言えた気がして、矢継ぎ早に言葉を発した。
自身がなめらかに喋ることも稀だが、臨也が言葉少なに静雄の話を聞くこともまた稀なのだ。
「だから、どうしていいか判らない……おまえと違って、俺はおまえの考えてることが、あんま、判んねえから」
だから、言ってくれたら。
言ってくれたら、何でもしてやるのに。残された時間はいくらもないだろう。けれど、せめてその中で何か、好きな男の偽りでない喜びを感じてみたかった。
(俺が死んだら喜ぶんだろうが……それじゃ、俺には判んねえしなぁ)
「……じゃあ」
「ん?」
小さな声だった。
静雄がどこかずれた思考から浮かび上がって相手を見ると、彼は呆れたように笑っていた。
「……じゃあ、何をされても嫌じゃないって言ったらどうするの?」
殴られても殺されても、たとえばその真逆の行為でも。
そう言って自嘲的な笑みを浮かべた臨也に、静雄は何も言えなかった。
そんな静雄の様子に苦笑して、なおも臨也は続ける。彼の口調はいつもの流れるようなそれではなく、言葉に迷っているようだった。
「何をしてもいいから、少しはわがままになりなよ。……俺は何も嫌じゃないし、つらくないから」
「…………」
嘘だ、と思った。
静雄の脳裏には否定の言葉しか浮かんでこない。
そんなこと、ありえない。臨也は自分を嫌いで憎くて、殺したいはずだ。
この恋人の真似事自体が、臨也には耐え難い苦痛だろう。なのにどうしてそんなことを言うのか、静雄には到底理解できなかった。
まだ、ごっこ遊びは続いているのだろうか。だとしたら、何て律儀な男だこいつは。
呆れてしまう。直情型の静雄には判りえない思考だ。
けれど、どこかでそれを喜んでいる自分を、静雄は知っていた。
ただ、どうすればいいのか、判らないだけで。
(おまえは、俺にどうしてほしいんだよ……)
自分が物事を深く考えることが苦手だと、臨也だって知っているくせに。
(おまえの嘘に踊らされて、絶望する姿が見たいのか。それならそうと言ってくれ。判らないんだ俺は。言ってくれないと。言って――)
「怖く、ないから」
「っ」
思考を遮るように降ってきた声に、静雄は瞠目した。
「…………」
「怖がらなくていいよ。何をしたって、君を否定したりしない。だって、俺は」
「――君の、恋人だろう?」
嘘つき。
「…………」
そう思ったけれど、泣きたいような気持ちにもなった。嘘でもいいと決めたのは他ならぬ自分自身だったことを、静雄は思い出した。
「……でも、」
「忘れたの?」
ずっと、言ってきたじゃないか。
責めるような言葉の後に続けられたのは、嘘で塗り固められた愛を囁く甘い言葉だった。
その言葉に、静雄は考えることをやめた。